〈3〉十日分のろうそく
シチューは結局二、三日分だけ冷蔵保存することにして、他の鍋やお皿に小分けにした。だが寸胴鍋にはまだまだ大量に残っている。
「残りはどうするんですか?」
「一応あてがある。怪しまれるだろうが引き取らせるよ」
「なんかすみません。色々考えたけどどうしても冷凍する方法が分からなくって」
冷凍すれば長持ちするから、前世の世界にあった冷凍庫みたいなものがつくれたらいいなと思ったのだが、科学も化学もよく分かってないわたしには再現不可能だった。それにつくっても電力がまかなえなかっただろう。わたしに解るのはレモン電池くらいだ。
アラインさんは首を横に振った。
「貴方が謝ることはない。こちらこそ、先程はいきなり怖い目に遭わせてすまなかった。貴方のお陰で久しぶりに人心地がついたよ、ありがとう」
「どういたしまして」
ありがとう、と言われるたびに大なり小なり真珠色の雫がわたしに溜まっていく。
神様はこれを信仰心だと言っていた。わたしは信仰心を力にして奇跡を起こすことができる存在だということだ。
「さっきマリュスに言ったことはアラインさんも同じですからね。欲しい物があったら遠慮なく言ってください」
「もし欲しい物があれば、そうしよう」
長い黒髪の陰から微笑むと、寸胴鍋をちょっと重めの荷物といった感じで抱えて外へ出ていった。
クールだなぁ。
アラインさんは荷台に載せた鍋をどこか遠くへ持っていくと、数十分後に鍋を空にして帰ってきた。外の水場で鍋を洗いながら尋ねてくる。
「今日はどうするつもりなんだ?」
何のことだろう、と桶の水で鍋を洗い流す手伝いの手を止めてちょっと考える。ああそうか、今日どこに泊まるのかという話だ。
「なんにも考えてませんでした」
素直にそう言うと「そのようだな」と呆れたように微笑された。
「うちに空き部屋があるからそこに泊まるといい」
「でもお邪魔じゃないですか? お二人だけなんでしょう?」
「構わないよ。そもそも他の家は全く手入れされていないから住めたものではないのだ。男ばかりでむさくるしいが、うちにいるのが一番いいと思う」
「そうなんですか。それなら、わたしこそ遠慮させてしまうかもしれませんがお邪魔します」
昼下がりの村を見回してみる。やっぱり他に人はいない。村の外を望んでみても平原や木々ばかりで人工物は見えない。
アラインさんはどこにシチューをおすそ分けしに行ったんだろう。
鍋をキッチンに戻してから空き部屋へ案内してもらった。ちょっと軋む階段を上って廊下を進んだ先にある、家の裏側に面する部屋だ。
十二畳くらいはありそうな広さだが家具がほとんどなくて、いかにも持て余している様子だ。椅子はあるけど机はないし、ベッドもない。
「何もない上に眺めも良くなくてすまないが、事情があって眺めのいい表側の部屋は使わないようにしているのだ。代わりに好きな物を好きなだけ置いてくれて構わない。ミチルならできるだろう?」
「はい、きっと。それにしてもすごく広いですね」
比較対象が前世の部屋なので広さも天井の高さも感動的なほど開放感がある。眺めなんて気にならない。外が見たかったら外に出ればいいのだから。
部屋の真ん中で見回していたらちょっと笑っているアラインさんを見つけてしまった。
「お部屋をありがとうございます。身の振り方が決まるまでお邪魔させていただきます」
「あぁ、そのことなのだが……私から一つ頼みがあるのだ」
アラインさんは声を少し低めた。
二階の表側の部屋からは村の全体と池が眺められる。牧歌的な風景が絵画みたいに広がっている。
アラインさんは話をするためにこの部屋にわたしを連れてきたが、まず窓の鎧戸を開けて景色を見せたのだった。
「初めに説明しておくと、この村はあるお方が景色を楽しむために数年前にお作りになったはりぼてで、景観を良くするための舞台装置のようなものなのだ」
「はりぼて? この村すべてが?」
いきなりスケールの大きい話になり驚く。
「そうだ。以前は庭師や兵士が実際に住んで家や畑を美しく保っていたのだが、今はもう誰もいない。人が住まないと家は痛むというが、そもそもどの家も住むために建てられてはいないから、かなりガタが来ている始末だ」
「じゃあ、あの水車が動かないのは……」
「元からだ」
川辺の家も張りぼてだった。情緒がある家なだけに結構がっかりする。
アラインさんは池の向こうをおもむろに指差した。
「見えづらいが、あの木々の向こう側には小さな離宮が建っている。もう誰も使っていないらしいが、近づかない方がいい」
「離宮……分かりました」
目を凝らすとたしかに枝葉の間に建物があるようだ。でもうまく隠れていてどんな建物かは全く分からなかった。まるでこちらから見えないように隠れているようだ。
隠れているといえば、その離宮とやらから見える位置にある表側の部屋を閉ざしているアラインさんたちもこそこそしている印象がある。
お互いに姿が見えると都合が悪いのかな?
だがアラインさんはその辺は何も言わず、次は平原の先にあるこんもりした森の方を指した。
「森の向こうには宮殿がある。このアストレアの中心で、王がいらっしゃる場所だ」
今度はほんの少し屋根の尖った部分が見えた。
……ちょっと事態が分かってきた気がする。
「マリュスのことを殿下って呼んでるのは、王子様だからですか?」
「そうだ」
慎重に頷いてアラインさんは続けた。
「……三ヶ月前、マリュス様は止むに止まれぬ事情により、たったひとりで宮殿からここへと住まいを移された。私はそれを追ってここへ来たが、持ってこれた物資はほんの僅かだった。なのに宮殿の他の者はマリュス様を無視して支援しようとせず、それどころか宮殿を捨てたのだと悪評を立てているのだ。マリュス様があのような格好までして身分に頼らず暮らすことを表明しなさったのは、他ならぬ宮殿の者たちのためだというのに」
拳を握り、切れ長の目が剣呑な鋭さで宮殿の方を睨む。
だが一旦まぶたを伏せた後にこちらへ向いた若葉色の瞳はある程度穏やかさを取り戻していた。
「貴方はそういう時に現れたのだ。この混乱の時期にな」
「わたし……という神子、ですね」
「伝説の神子とは、アストレアに言い伝えられる救世主のことだ。神子は国に危機が迫った時に現れ、神通力を使って国を救うといわれている。平和を取り戻した国を治めるべき王を選ぶともな」
「…………」
まだまだ曖昧だが、わたしの使命が見えてきたようだ。
国に迫っている危機とは、『殿下』、つまり王子のマリュスに何か関わりがありそうだ。
そして『王を選ぶ』……わたしはマリュスと他の誰かを比べて王を選出しなければいけないのかもしれない。
わたしが神通力を使ったことで神子だと分かった時、マリュスは『僕のところに神子様が来た』と言っていた。わたしに選ばれたと思ったのかも。
そりゃあ、いざとなったらマリュスを選ぶかもしれないけど……。今のところは、マリュスのことは守るべき子どもとしか思えない。
わたしと同じようなことを考えているのか、アラインさんは苦渋の表情を浮かべる。
「マリュス様は今、複雑な立場にいらっしゃるが、宮殿に戻ることを諦めてしまわれたわけではない。だから神子の可能性が高い貴方を信じているのだ」
「あ、まだ可能性の段階なんですね」
「私もできることなら信じたいが、悔しいことに事はそう簡単ではなくてな……。だが、貴方がマリュス様の励みになることは間違いない。だから、何も言わずにしばらくこの家にいてくれないか」
そう言って頭まで下げる。背中まである長い黒髪が広い肩幅からさらさらと流れた。わたしは慌てて口を開く。
「頭を上げて下さい! こんなに綺麗なところに住めるなんて願ったり叶ったりですよ。夢みたいです」
「そんなにか……?」
「そうですよ。こういうところで生まれ育ったらもっと違う人生もあっただろうなーって前世で考えたことがあるくらいには憧れてました。スローライフって感じですよね! ……あ、すみません、うるさくして」
「いや」
安心したのかアラインさんがおかしそうにふっと笑った。男性とも女性ともつかない表情がやっぱり蠱惑的だ。
「他にもここにいたい理由はありますよ。自分のやるべきことを果たすには宮殿に行かなきゃいけないんじゃないかって思ってたんです。でも、どんな事情があるにせよマリュスみたいな素直な子を悪く言う人たちがいる場所には、わたしは多分いられません」
「私も同じだ。女装は好きではないが、な」
思わず笑うと、アラインさんも口元を上げてくれた。
見つめられて恥ずかしがっていたくせに、強がる人らしい。今も好きではないと言いながらむしろ背筋を伸ばしている。横から見たらちょっと体厚めのクールビューティだ。
「結構似合ってると思いますよ」
「妙なことを言わないでくれ。日が落ちてきたから変身はそろそろお終いだ」
「えぇ、やめちゃうんですか?」
「この姿は昼間の目をごまかすためだからな」
監視がついているということだろうか。
アラインさんは鎧戸を閉めるとわたしを部屋から追い立てるように出した。
家の中はちょっと日が傾くとすぐ薄暗くなるようだ。一階に降りてアラインさんと一緒に居間の天井から吊られているランタンや各所のろうそくに火を入れていった。前世なら暗いと思った瞬間に電気を点ければいいけれど、ここでは暗くなる前に明かりを点けておかなければ手元も見えなくなるだろう。
「ミチル。そういえば欲しい物があった」
「なんですか?」
「ろうそくだ。持ってきた分がそろそろ底をついてしまうところなんだ」
「いいですよ。……はいっ」
使われている太いろうそくと似たものをテーブルの上に二十本以上立たせた。
ちょっと張り切っちゃったかもしれない。てっきりアラインさん自身の欲しい物を頼まれるのかと思ってたから。まあ喜ばれたけど。
「すごいな、何もないところから……十日分はありそうだ。何から何まですまないな。ありがとう」
「いえ。居候になるんだからこれくらいしないと」
「そうなの?」
廊下の方から聞こえてきた声に振り返ると、マリュスがいつの間にか降りてきていた。シャツとズボン姿、普通の男の子の格好だ。断然そっちの方が似合っているんだけど、なんか物足りない気がしてしまった。
「お目覚めでしたか、殿下。今お呼びしようとしていたところでした」
「だって二人が気になって、あまり寝られなかったんだ。ミチル、ここに住むの?」
アラインさんが目配せをしてくる。わたしは頷いた。
「マリュスが許してくれるなら、しばらくここにいるよ」
「……いいの? 僕のところにいて」
「うん」
「そっか。ありがとう……」
マリュスははにかみながらもじもじした。どうすべきか分からないのだろう。しゃがんで腕を伸ばすとやっと駆け寄ってきたが、握手するように手を握った。
なんとか威厳を保とうと頑張っているのだろう。けどわたしはこの大変な境遇の子を子ども扱いするつもり満々だ。
「マリュス、頭なでていい?」
「……い、いいよ」
お許しが出たので金髪をたくさん撫で回した。
子どもは懐かしそうな、切なそうな顔でされるがままになった。何があったのかはまだ分からないけど、わたしの前でくらいは素直になれるように仲良くなりたいな。