〈2〉鍋いっぱいのクリームシチュー
「あ、殿下……」
アラインさんが焦ったように呟く。ポン、と音がしそうな勢いでマリュスの顔が赤くなった。
「申し訳ありません、すぐに食事の用意をします」
「いいよ、もう食べるものは残り少ないんだから。それとももう鶏を潰してしまうつもりか?」
「それもいいでしょう。全て平らげて白旗を挙げるのも一つの手段です」
「アライン……」
二人はわたしのことなどお構いなしに話し合っている。かなり余裕がないみたいだ。
それにマリュスの途方に暮れた表情を見るのはなんだか辛い。部外者だけど口を差し挟まずにはいられなかった。
「マリュス、さっき食べてたものはご飯にならないの?」
「えっ、なんのこと?」
すごく焦られた。不都合なことを言っちゃったみたい。
聞き逃さなかったアラインさんが慌ててマリュスの肩に飛びつく。
「私に知らせずに何か食べたんですか? 毒見が先だと言っているのに!」
「大丈夫、食べたうちにも入らないよ! ただの……ヘビイチゴだから」
「ヘ……」
ヘビイチゴを生で!?
という顔でアラインさんは固まってしまった。肩をつかまれたままのマリュスが助けを求めるようにこっちを見てくる。
助けを求める心は信仰心のかけらだ。内側のスープ皿に雫が落ちて波紋を作る。使者であるわたしはそのさざなみを無視できないようにつくられていた。
「わたしが何かつくりましょうか?」
「なんだと?」
声をかけると、我に返った視線が突き刺さってきた。緊張と警戒だ。でも一番強いのは疑問だった。
「食材がなくてもご飯はつくれます。そのケーキみたいに」
マリュスのそばにはちゃんとケーキが入ったスープ皿が置いてある。
アラインさんはますます顔をしかめた。
「貴方は先程から一体何を言っているんだ?」
「わたしは神様に新しい体と力のかけらをもらった使者だから、物をつくり出すことができるってことです。マリュス、何が食べたい?」
「こら、勝手に話を……」
マリュスがアラインさんを一瞥して抑えてくれる。アラインさんには悪いけど、マリュスのことが心配なのはわたしも同じだ。だって、いくら大人びていても子どもは子どもだ。子どもはたくさん食べて、たっぷり寝なければいけない。
マリュスは少し悩んでいた。何を頼むかという子どもらしいものではなく、わたしの正体を見定めるためにはどうすべきか、という知的な計算をしているようだった。
「あたたかいスープみたいなものが食べたいです」
「分かった。アラインさん、お鍋はありますか?」
「……ああ」
するとアラインさんは居間と続いているキッチンから巨大な寸胴鍋を抱えて持ってきた。子ども一人が入れそうな大きさだ。それをドレス姿で軽々と、しかし重々しい音を立ててテーブルに置く。
鍋のせいで見えなくなった向かい側からマリュスが言う。
「こんなものどこにあったんだ?」
「納戸にありました。いつか殿下を隠してお運びするのに役立つかもしれないと思い洗っておきました」
マリュスは絶句してしまったようだった。アラインさんがこっちへ顔を向ける。
「ミチル、といったな。話は聞いていただろう。私たちは今、非常に困窮している。貴方が何のために神に遣わされたのかは知らないが、目の前の飢えた者を捨て置けないというなら、この鍋を満たしてみせてくれ」
試す意味もあるのだろうが本当に食べる物がなくて困っているのだろう。
「分かりました」
早速わたしは両手を鍋の側面にかざして目を閉じた。
内側のスープ皿にはあふれそうなほど神通力が満ちている。真珠色のそれを大さじ一杯分ほど使う様子をイメージする。
つくりたいのは、ほかほか湯気が立っているスープ。満足してほしいから、野菜とお肉がごろごろ入っているといい。ということは――あれだ。
「えい」
鍋の中がきらりと光ってあたたかな湯気が立ちのぼり始めた。
二人はすぐに鍋を覗き込んだ。マリュスは椅子の上に立たなければ届かなかった。
わたしも確認のために立ち上がる。できあがったものを見て、ホッとした。
想像通り、クリームシチューがなみなみと入っている。にんじん、じゃがいも、玉ねぎは食べごたえのある大きさに。鶏肉は柔らかく。ブロッコリーも入っていて彩りもいい。
「どうかな? 嫌いなものがないといいんだけど」
「……奇跡だ」
マリュスはそう呟くとアラインさんへ詰め寄った。
「やっぱりミチルは神子様なんだよ。僕のところに神子様が来たんだ! やっぱり僕は……」
「待ってください。まだ毒見が終わっていません」
今の奇跡をアラインさんは驚くどころか恐れてさえいるようだった。わたしの力をどう思うかは人によって違うみたいだ。マリュスはすっかりわたしを信用していた。
「毒なんて入れる隙はなかったじゃないか!」
「食物を作り出せるなら毒を作り出せてもおかしくはありません。神子の名を騙る魔女という可能性もあります」
「この大真面目! もういい、これは僕のものだ!」
高らかに宣言したマリュスは、ワンピースの裾のポケットから銀色のスプーンを取り出すとシチューに突っ込んでじゃがいもを食べた。
「殿下!」
アラインさんの静止は間に合わなかった。もぐもぐする様子を見ながら大きな拳を握りしめてわななく。
「私がひもじい思いさえさせなければこんなことには……っ」
侍従って大変そうだ。
一方、マリュスは口の中のものを飲み込むとマイスプーンを下ろし、ぽろりと涙をこぼした。
「熱い」
「殿下……!」
「美味しい」
子どもは泣きながら笑った。
「こんなに美味しいもの久しぶりだ」
「うっ」
アラインさんは胸を押さえて呻いた。今まで食事を用意していたのはアラインさんだったみたいだから、我が子に「お母さんの料理より美味しい」と言われたようにショックなのかもしれない。
けど、マリュスが本格的に声を上げて泣き出してしまうと立ち直ってその身を支えた。
「ごめん、アライン。一番大変なのはおまえなのに、僕は……」
「殿下……」
マリュスは悲しそうに、悔しそうに泣いた。
わたしは思いついてタオルハンカチをつくって侍従のアラインさんに差し出した。急いでいたせいで柄はない。
「どうぞ」
「……ありがとう」
二人は歳の離れた姉妹……いや兄弟みたいに身を寄せ合っていた。
『殿下』のマリュスと『侍従』のアラインさん。前世の知識があるので二人がやんごとない方々だということは既に察しがついている。
そんな二人のもとにやってきた『伝説の神子』というわたしには彼らにとって何か大きな意味があるみたいだけど、ややこしい話でもありそうだ。
わたしから突っ込んで聞くのはやめておこう。
とにかく、今からお昼ご飯だ。
「わたし、お皿取ってきていいですか?」
実質保護者のアラインさんに尋ねると逡巡ののちに頷いた。
「ああ。頼む」
「はい」
ひとまず暗殺容疑のことは保留みたいだ。
ほっとして微笑むと、アラインさんもわずかに表情を緩めてくれた。
その後、シチューと一緒に食べるバタールみたいなものも用意して、三人で満足するまで食べた。つくり出す物の品質はわたしのイメージに依るみたいなので、本当にちゃんとしたバタールができていたかは分からないが、マリュスもアラインさんも美味しいと言ってくれた。
使者であるわたしもある程度は普通に生活しなければいけないみたいで、食べ物を前にしたら思い出したように空腹を感じたので食事に参加した。
マリュスとアラインさんは本当にお腹が空いていたらしくたくさん食べてくれた。わたしは二人のために炊き出しの人みたいに二、三回おかわりをよそってあげた。
食後には紅茶をつくった。二人の家はお茶を切らして久しいらしい。
「ミチル、さっき前世の話をしていたよね。前世って生まれる前のことでしょう? 記憶があるのってどんな感じなの?」
ご飯を食べて大分落ち着いたのかマリュスは年相応の子らしくなってきた。アラインさんがお許しを出したショートケーキを食べながら尋ねてくる。
「うーん、前世の記憶があるというか、転生したばっかりだからまだ新しい存在だっていう実感が薄いの。でも前世の記憶はもう古いものだっていう自覚もあるし。体が違うから、何もかもがすごく新鮮な感じはするけどね。……よく分からないよね」
「うん」
わたしは困ってしまって笑った。
神様は転生がどういうものか説明しなかったから、今の状況はわたしにもちょっとよく分からないことなのだ。転生は望んだことではないし、そんなものがあると知っていたわけでもないと思う。そういうのはお話の世界にしかないはずだった。
「前世はどんな人だったの?」
「普通の人だったよ。毎日忙しく働いてた」
前世のわたしは一人暮らしの平凡な女だった。何の仕事をしていたか細かいことは忘れたけど、社会人らしい日々を送っていた。
電車に乗って陰鬱な気持ちで職場に行って、無理な仕事を抱えながらコンビニで買ったご飯を食べ、くたくたになった体を引きずるように狭い部屋へ帰る日々……。
我ながら苦笑してしまう。
「あんまりいい人生じゃなかったのかも。最後に思ったことが『美味しいもの食べたい、ふかふかのおふとんで寝たい』なんだもの」
暗さが伝播してしまったのかアラインさんは気落ちした様子だった。だがマリュスは小さく拳を握る。
「それも大切なことだけど……美味しいものを食べて、ふかふかの布団で寝られるなら、それだけでいい人生でしょうか?」
「それは……難しい話だね」
そんなことを考える子なんだ。
マリュスのことを子どもとしか見てなかったのでびっくりしてしまった。一体どんなことがあったら子どもがこんなことを悩まなきゃいけなくなるんだろう。
テーブルのわきに寄せられた寸胴鍋をふと見る。
古くてちょっとくすんでいる銀色の側面に自分が細く映っている。わたしの髪は今や真珠色をしている。視界に入り込んでいるから今更おどろかないけど、銀髪というにはまろやかな光沢のある髪はまさに神のつくったものだなと思う。髪だけに。
前世では正反対の色をしていたからまだちょっと慣れないけど、美しくつくってくれて嬉しい。
そう、わたしはもう前世の心配をしなくてもいいんだ。前向きになっていいんだ。
「でも、マリュスには素朴な願いがもっと必要だと思うよ。わたしは神様がくれた力でその願いをいくらでも叶えられるんだから、食べたいものがあったら何でも言ってね」
使命のことは忘れていないけど、目の前に悩んでいる人がいるなら見逃しちゃいけないのが今のわたしの立場だと思う。
笑って見せると、マリュスは複雑そうに微笑んだ。
「ありがとう」
目を伏せたのを見てアラインさんが声をかける。
「少しお部屋で休まれてはいかがですか?」
「うん。そうする」
アラインさんはマリュスを部屋の外まで見送った後、テーブルの上を片付けにかかった。
「手伝います」
「ああ、助かるよ」
アラインさんが途方に暮れたようにまだほぼ満杯の鍋を見る。
「こいつを保存しなければいけないからな……」
「あぁ……」
つくった後のことは考えてませんでした。
わたしも一緒に途方に暮れた。