〈1〉小粒いちごのショートケーキ
目を開けると満天の星空が広がっていた。
閉じると星は消えて夜空だけが残った。
まぶたがあるからだ。
そんな当たり前のことが、なぜかとても新鮮に思える。
『おーい、起きなさーい』
男性の間延びした声がどこからともなく聞こえてきた。
わたしはその声に従わなければならない気がして立ち上がった。長くて白っぽい髪が視界の両脇で揺れる。両足が柔らかな地面を感じたが、床はよく磨かれたガラスのように透明なのか目に見えない。
驚きは小さい。わたしは『使者』の身分に恥じず冷静に、自分をつくった神様の声に耳を傾けた。
『我はドえらい存在なので、おまえの素朴な魂をひっろいひっろい宇宙のすみっこから見つけ出して、新しい体をあげました。ゆえに我の創造物であるおまえは我のつもりで使命を果たさなければならないのだよ、分かった?』
「まぁ……はい、なんとなく」
『よろしい。今、ひとつの世界がイケナイ悪だくみのせいで二つに裂けようとしている。おまえがその世界を一つに束ねなおしなさい。この使命を果たすために我の力のかけらを授けよう。これを持って』
頭上から星の一つが降りてきて、陶器のスープ皿に形を変えた。温かみのある重みが両手にのしかかる。
『今、我が創造物であるおまえに捧げられている信仰心はこれくらい。少ない! なんて思ってはいけないからな。これだけの元手があれば家くらいは建つのだから。そんなことをして見せたら定命はおまえこそ神だと思うかもしれないぞ。ハッハッハ! では、さっそく何かつくってみるがいい』
やり方を教えられたことはないのに、わたしは『つくり方』を分かっていた。
自分の内側に手に持っているのと同じお皿が存在するのだ。中身は真珠色の液体で、とろみのある光沢を持っていて美しい。それが自分の全てだけど、同じ色の雫がどこからともなくぽたぽたと皿へ落ちてきているから、わたしは常に膨らみ続けている。
これが力だ。わたしは雫を一滴つかって手の中のお皿に小さな三角形の物質をつくり出した。
『どれどれ。砂糖、卵、乳脂、小麦粉……食べ物か。ふーむ、約三百キロカロリー、脂質がやたら高いな。これは何だ?』
「ショートケーキです」
頭の中にふと記憶がよみがえった。
まぶしいほどの白い照明を浴びせられている陳列棚。そこにぽつんと取り残されていた、透明な硬い膜に守られたショートケーキ。真っ白なクリームに載っている苺はとても小さかった。
でも、わたしはそれを手にとって……。
『それが食べたかったのか?』
「たぶん……」
『ハッハッハ! 飽食の世界が生んだ迷い子め! ケーキを願うにしてもなぜ円型を願わなかったのやら。でも我はそんなおまえだからこそ選んだのだよ。さーて、そろそろ行ってもらおうか。定命は生き死にが忙しないからな』
神様は腕を振ったようだった。神の力の一部を手に入れたおかげで僅かながら神を感じ取れるようになったのだ。
けれどその一振りでわたしはどんどん夜空から遠ざかっていった。心地よく落下していく。上下の決まりがない空間を、髪を乱すこともなければお皿のショートケーキを落っことすこともなく、真っ逆さまに光の方へ――
さわさわと雑草をかき分ける音がする。
目を開けると、木立の真っ只中だ。
気持ちのいい暖かな昼。木々の足元で、小さな少女が地面にしゃがみこんでいた。
こっちに背を向けているけど、動きで地面から何かを拾っては食べていると分かった。でも周囲に実をつけている木は一本もない。
「何を食べてるの?」
声をかけると、少女は小動物のように飛び跳ねて体ごと振り返った。薄ピンク色のワンピースがくるりとひるがえる。
少女は十歳くらいで、とっても可愛かった。ちょっとだけ大人びている顔立ちを内側に巻いているみごとな淡い金髪が甘く縁取っている。驚きで丸くなっている瞳は力強くもうるわしい黄金色だ。一度見たら忘れられないだろう。
少女はこちらを呆然と見上げていたが、はっとして今まで拾っていた何かを後ろ手に隠してしまった。
その緊張にはただならぬ危機感があった。よく見ると、少女はどこかやつれていた。顔立ちが大人びて見えたのは頬が痩せているせいもあるかもしれない。目の下にはうっすら隈がありさえする。
わたしは持っているお皿のことを思い出して手元を見た。小粒いちごのショートケーキ。たしかに、どうしてホールケーキをつくらなかったのだろう。
「これ、あげる」
スープ皿を差し出すと、少女は半歩後ずさりながらもケーキを見て目をまたたいた。ためらいと疑問からわたしの顔と交互に見ていたけど、やがて後ろ手に持っていたものを払い落としてお皿を受け取る。
「ありがとう」
「ううん」
少女は陶器のスープ皿をちょっと危うげに片手で支えて、まず苺をそっとつまみ上げると小さな口を開け……なかった。
金色の目が素早くわたしの方を見る。
「よせ、アライン」
「え?」
妙に威厳のある命令が飛んだ先を振り返る。
そこには逆手に握られた短剣が光っていた。
持ち主の長い黒髪の女性は、立て襟に長袖のきっちりしたドレスにも関わらず風のように素早くわたしの背後へ滑り込み、首元に切っ先を突きつけてきた。
その無駄のない動きに感動すらしていると低い声がわたしを無視して言う。
「殿下、それを捨てて手を拭いてください。毒かもしれない」
少女は渋々という様子で苺を皿に戻す。だがアラインと呼ばれた男性は髪を揺らして首を横に振った。……あれ?
「皿ごと捨ててください。何が仕込まれているか分かったものではありません」
「心配し過ぎだよ、アライン。もしこの人に僕を殺すつもりがあるなら、こんないかにも怪しまれる方法は選ばないと思うよ」
「でも貴方なら食べたでしょうね」
……殺す!?
ケーキをあげただけで危ない人だと思われてる? いや、でもお菓子を持って子どもに話しかけたら少なくとも不審者ではあるか……。
殿下と呼ばれた少女は頬を仄かに染めてムッとした。
「し、仕方ないだろう。菓子なんて久しぶりに見たんだから。とにかく危ないものはしまえ。話を聞かなきゃいけない」
「では連行しましょう」
まるで逮捕するかのような口ぶりだ。初犯です。
短剣が首から離れたので、わたしはやっと口を開く勇気が出た。
「あの、そのお皿は捨てないで。お願い」
「許可なく口を利くな」
地を這うような声で注意される。黒髪ロングのドレス女性はやっぱり男性のようだ。
改めて見てみれば、まず身長がわたしより頭一つ分も大きいし、首も太いし、肩幅もあるし体も丸くないし……もう何もかもが間違いなく成人男性だ。
でも、顔の輪郭は滑らかで顔立ちもきれいだから頭だけ見ると女装がけっこう似合っている。若葉色の切れ長の目で睨みつけながら頬を染める姿がなんだか妙に色っぽい。
「じろじろ見るな」
あ、凄まれてるんだ、これ。
わたしは顔をそっと『殿下』の方へ反らした。
「何も捨てませんよ。だから僕たちと一緒に家に来て、お話してくれますか?」
「う、うん。行く」
「ありがとう。アライン、僕が先に歩く」
「……分かりました」
男性は長い首飾りのように下げている細い鞘に短剣を収めた。
わたしは『殿下』のあとについて歩いた。男性はわたしのすぐ後ろをついてきた。
緑豊かな木立をぞろぞろ並んで歩くこと一分ほど。ひらけた視界に、思わず「わぁ」と感嘆がもれた。
広い青空の下に美しい小さな村があったのだ。五、六軒しかない家はみんな漆喰の壁と茅葺屋根でできていて、それぞれの庭は畑になっていたり鶏が放されたりしている。村には池へ流れ込む川が通っており、川辺の家は水車をそなえていた。今は動いていないが村の穏やかな生活がうかがえる。
でも不思議なことに人っ子一人いない。
きょろきょろしている間にわたしは一番大きな家に案内されていた。
「ここが僕たちの家です」
その家は二階建ての素敵な家……だったのだろうが、経年劣化が進んでいるのか全体的に歪んでいた。漆喰も剥がれかけているし、よくよく見たら壁の木組みは描かれているだけのようだ。
それでも窓辺には鉢植えの花が飾られていて人がちゃんと住んでいる様子がある。
『殿下』がドアを開けてくれたので「おじゃまします」と一応言ってから中へ足を踏み入れた。
通された居間は素敵に整えられている。木目が見えるテーブル、曲線を描く背もたれを持つ椅子、暖炉のそばのクッションたっぷりのソファ、暖かい色合いのラグ。どれも意匠が細かな美しいものながら居心地が良さそうだ。
とはいえ、今は取り調べの時間。わたしはテーブルに『殿下』と向かい合って座らされた。
「両手はテーブルに置け」
「はい」
横から監視する男性の指示に従い両手を出す。
そういえば、わたしは白くて長いシンプルなドレスを着ている。布地は二重になっていて、内側は体にぴったりしており、外側は少し薄い生地が輪郭をぼかしながらちょっとした動きでも揺れるようになっている。
手は薄く、細くて、肌は抜けるように白い。爪も整っているから、まるでパーツモデルの手が袖にくっついているみたいだ。
「自己紹介をしていいですか?」
「あ、はい」
ぼーっとしていた顔を上げる。『殿下』はもしかしたらわたしよりも大人びていた。
「僕はマリュスといいます。訳あって数ヶ月前からここでこのような格好で暮らしています。そちらは僕の侍従をしてくれているアラインです。本当はここにいるべきではないのですが、僕と同じ境遇に身を置いてくれています」
「訳あって……ってことは、マリュスは男の子なの?」
「はい。僕もれっきとした男です」
胸にリボンがついてるワンピースが似合いすぎて頭が混乱しそうだ。
「趣味じゃないなら、なんで二人とも女装してるの?」
「余計な世話だ。次は侵入者である貴方が自分のことを話すべきだ」
「侵入者?」
わけが分からなくて横のアラインさんを見上げたが、ひと睨みされただけだった。
二人ともピリピリしっぱなしだ。わたしがのんきなのかな?
「わたしは、……えーと、あ、そう。ミチルといいます。満たすという意味があって、満ち足りた人生を送れるようにという願いを込めて父と母がつけてくれました。よろしくお願いします」
「その父と母はどこに?」
「え?」
そんなの決まっている。実家に……。
あれ?
「あ、そうだった。その話は前世のことで、今のわたしは神様の使者です。新しい名前はないから前世の名前をそのまま使っています。よろしくお願いします」
わたしが今の存在へと転生して移り変わったのは神様に呼び出されたついさっきのことだ。それまでは宇宙のどこかをさまよっていたらしいが意識はなかった。だから残っている前世の記憶はまだ新しい。
そんなわけで、転生した自分自身への実感がまだ薄いのだ。
自己紹介の怪しさをごまかすため笑みを浮かべると、アラインさんは奇妙なものを見る目を向けてきた。
一方、マリュスは。
「つまり、ミチルは……伝説の神子様なんですか?」
黄金色の瞳を期待に輝かせている。
子どもの期待を裏切るのは無理だった。
「多分そうかも」
わたしは満更でもないので胸を張った。
でも、喜ばれるだろうという予想に反してマリュスは笑顔をひっこめてまた緊張の面持ちになってしまったし、アラインさんも押し黙ってしまった。
「あの、何か」
問題でも? と続けようとした時。
ぐぅぅ、とマリュスからお腹が鳴る音が聞こえた。