それは永遠の誓いにも似た
闇をそのまま固めたかのような漆黒のその刀は、一人の男の恨みを浴び、一人の少女の悲しみを帯びてこの世界に、その村に生まれ落ちた。
ゆえに、その刀は闇を啜る。
水無鬼に宿る、「呪い」という名の深い闇を……。
その刀はこの時代、黒玉の剣と呼ばれていた。
××××
うなじの辺りで無造作に束ねた長い髪を風に靡かせて、少女は柄に程近い漆黒の刃を握り締めた。
掌からどくどくと流れ伝わるのは少女の血。その刀は持ち主である少女の血を啜っていた。
「行くよ……」
誰に聞かせるまでも無く告げられた言葉は、少女が自分に告げたものにも、その刀に告げたものにも思えた。
身も凍るような夜闇の中、少女の漆黒の髪が空を舞う。
吐く息は白いのに、不思議なほど寒さは感じてはいなかった。
体の中が、血の一滴までもが沸騰しているようだ。まるで、常に自分を戦いの場に置いておくためのような。
「これで、お仕舞い……」
一瞬の空白。そして何の感情も見せず、少女は簡単に瘴気を滅ぼした。
月の光を受けて輝く深紅の瞳は、ただ、出来事をあるがままに映しだすだけ。
「……花守」
自分を呼ぶ名前に、少女は気だるげに顔を上げた。
全てに疲れきっているのか、少女は自分で傷つけた手で刀を握りながら、力なく腕をたらしていた。
「疲れただろう……それに、手の怪我も治さないと」
「……」
花守、と呼ばれた少女は青年の言葉に何の反応も返さず、人形のようにその場に立ち尽くしていた。
「もう終わった……帰ろう」
「……ない」
「花守?」
深く呟いた花守の言葉に、青年は困惑気に花守の顔を覗き込んだ。
「……治療なんて必要ない」
「花守……」
「私にかまうな、緋央」
心配する緋央をよそに、花守は緋央を見向きもせずに屋敷へと足を向けた。
背後にはもう、何の興味も示さずに。
「君がいた頃には想像がつかないほど、彼女は変わってしまったよ……深月」
溜息と共に漆黒の空に零された緋央の言葉は、誰に届くことなくその場に落ちて消えた。
××××
目を閉じると、その場所に映るのはただ一面の漆黒の闇。
それでも外から入る松明や星々の僅かな光量さえ煩わしく感じることが多くなり、花守は光が一切届かない塗籠の中に身を置いていた。
そうして花守は、罰したかったのかもしれない。何もできなかった自分自身、その、罪を。
いつからか「黒玉の剣」と呼ばれるようになった漆黒の刀だけは、いつでも手に届く範囲に置いて。
失うことを恐れ、花守が護ろうとしたものは花守の目の前で、手の届かない場所で簡単に失われていった。
花守にとって何よりも大切だったものは、もう全て失くしてしまった。
それでも自ら命を絶つことだけはできなくて、せめてもと思い彼女が愛したこの村を護ろうと刀を手にした。
生きることは辛すぎる。それでも、死ぬことは選べない。
だから、少しだけこの村で生きて、彼女の愛したこの村と、この村に住む人を護ろうと決めた。
たとえ二度と会えなくても、彼女に、家族に誇れる自分でありたかった。せめて……。
狂った心は蝕まれる。
何よりも狂っているはずなのに、花守の心は蝕まれなかった。
だから花守はその刀を持ち続けることを許された。
彼女の愛した村を護るために。
彼女の愛した人を護るために。
瘴気と対峙する戦場か、溶け込みそうな闇の中だけに身を置いて。
血に飢えた刃を手に持って、瘴気が活発に動く闇夜の中で、ただ、舞うように戦う。
護れなかった、失ってしまった大切な人たちを思いながら。
不意に空気が動き、音が響いた。
早朝――明け方に程近い刻限にもかかわらず、人為的に立てられた音に花守は閉じていた目をゆっくりと開いた。
感覚はすでに開いて、物音を立てた人物の気配を探っている。
その人物に心当たりがあるのか、花守は訝しげに眉を寄せると黒玉の剣を手に取り立ち上がった。
物音を立てずにゆっくりと遠ざかっている気配の人物を追うために。
××××
水無鬼を治める央雅一族の敷地は広大であり、屋敷も広い。
長の一族以外にも央雅の姫を護る八人の守人や次代の守人候補、その家族や「予見師」と呼ばれるものたちが住んでいるからだ。
滅多にあることでは無いが、“外”の人間が潜り込んできた時に長や央雅の姫たちに辿りつかないように部屋数を多く作ってあるとも言われている。
とにかく、その広大な土地の一角には、水無鬼の最奥――最も穢れているとされている場所に繋がる道があった。
明らかに人の手が入っていると思われるが、元々が天然の土壁で出来ていたのだろう長い横穴を抜けると、その場所にたどり着く。
―漆黒の祭壇
その場所はそう呼ばれていた。
乱雑に種を蒔いただけ――いや、何処からか勝手に飛んできて根付いただけなのかもしれない。
それほどその場所は様々な花が咲き乱れている場所だった。暖かな時期であれば。
現在その漆黒の祭壇に咲いているのは、暗闇の中でこそその存在を主張する真っ白な花だけだった。
一体いつから水無鬼にこの場所があるのかは誰も知らない。
ただこの場所は災姫――禍妃と呼ばれる「カレン」に程近く、「カレン」の力の源でもある「虚無湖」に続く「黄泉の牢」への入り口だった。
「……こんな時間、こんな場所に人目を忍んでくるなんて……何があるというのですか、若狭の次期当主候補様?」
皮肉を交じらせた台詞と慇懃無礼な態度で、花守は僅かに微笑みながら頭から外套を被っている人物の背に声を掛けた。
いくら外套で隠そうと、その背格好と歩く時の足音の癖までは誤魔化せない。
先ほど立てた僅かな音と、音を立てた直後から一定の距離でその人物を追っていた花守は相手を見抜いていた。
「……別に何も、といっても君は信じないのだろうね」
月明かりを背に苦笑しながら振り返ったのは、花守が想像したとおりの人物。
「そこまで理解されているのなら、下らない作り話などで無駄な時間を使わせたりしないでくださいね、月渉様」
「……これは手厳しいね、花守殿」
「あまりおふざけにならない方が御身のためかと存じますが」
切り付けるような花守の視線や言葉を物ともせず、月渉はにこやかに微笑みながら会話を続ける。
そのどこか余裕のあるその反応に、花守の声音は自然と低くなっていった。
「私が何も知らないと……感知すら出来ていないと思っておいでではないですか、月渉様」
「いいや……君ほど優秀な存在はいないと思っているよ。特例中の特例、央雅の姫以外で瘴気を滅ぼす太刀を所有することを許された唯一の存在それが――」
「その私が、貴方から感じる微かな瘴気の残り香に」
月渉の言葉を遮るようにして告げられた言葉に、月渉は軽く息を吐き出すと花守を見つめた。
「……“あの時”から、私は何よりも「瘴気」やそれに関わるものに対しての感覚が鋭敏になった。だから見落とすはずが無いのです。どんなに微かでも……たとえ一滴のかけらとて、私は感知できる」
「……そうじゃないかと、思っていたよ」
驚愕ではなく静かに肯定した月渉の言葉に、花守こそただ驚愕した。“あの時”から表情を変えることがなくなった花守は、幸か不幸か実際に表情を動かすことはなかったけれど。
「解かっていたならば、なぜ……」
驚愕に襲われながらも、動揺を相手に悟らせてはならないことを理解していた花守は、硬い表情のまま、先ほどとは変わらぬ声音で問いかけた。
「解かっていたと言うより、きみが“そう”であることを望んでいたから、知っていたというだけだよ。きみの落ち度ではない」
まるで断りを入れるかのようにそれだけを告げると、月渉は花守に背を向けて螺旋階段に続く入り口に視線を向けた。
「死ぬことを、願った。その相手は、きみがいいと思った。ただ、それだけのこと」
予想できていたのだろうか、軽く唇をかみ締めた花守は、何かを告げようとして口を開こうとしたが、言葉にすることなく口を閉ざした。
そんな花守の様子を知っているのか知らないのか、月渉は花守に背を向けたまま続けた。
「弟の許婚として出会ったのだけれど、私は深月を愛してしまった……最もこの想いを伝えることなど出来なかったけれど」
「……」
「弟と深月の婚儀が迫るにつれて、その愛情は緩やかに義妹に向けるものに変わっていった。彼女と弟が幸せならば、と思えるようにさえなっていた」
ゆっくりと、物語を語るかのように言葉を紡ぎながら、月渉は螺旋階段の入り口に背を向けて花守の方に向き直り、花守との距離を縮めた。
「それなのに彼女は婚儀の直前に瘴気に殺され、虚無湖に取り込まれかけた……おかしいと思わないか、なぜ彼女が殺されなければならない? それも、妄執としかいえないような「カレン」の復活のために」
「……」
「君もそう思ったから、彼女のような人をもう一人でも生み出したくないから、父君が作り上げその命を奪った刀を持ち、名を変えて存在しているのだろう――葉月」
視線を視線で射抜かれながら告げられた名前に、花守は――葉月はピクリと体を竦ませて刀を持つ手に力をこめた。
「そ、れは……」
「業、かな」
囁くように呟かれた言葉に、葉月は怯えたような、驚いたような表情で月渉を見据えた。
「それでもこの村を見守っていたのは、深月がこの村を愛していたからだ」
「っ」
微かに反応を返した葉月に、月渉はどこか哀しげに微笑んだ。
「狂った想いは蝕まれる……きみが同じ想いでその刃を取ったのなら、村人達を護りたいのなら、きみは、その刃でこの心臓を突き破るしかないのだよ」
「……私に、貴方の自殺の手伝いをしろ、と」
葉月の言葉に、月渉は困ったような、それでいて安心したような微笑を浮かべた。
「そう、かな……そうでなければ、きっと止まらない。この想いを共有することのできるきみでなければ、多分、もう間に合わない」
月渉の言葉に、葉月は体を硬直させて月渉を見つめた。理解してしまったのだ。想いが、自然と同調する。
月渉のその姿は、葉月が選ばなかったもう一つの形だった。
狂気にも似たその想いは、葉月には痛いほどよく理解することが出来た。
父の遺した「黒玉の剣」が無ければ、葉月も月渉と同じ道を選んでいたことは、容易に想像が付く。
――彼は……
「……貴方は、もう一人の私。なのね」
誰にとも無く問いかけると、葉月は黒玉の剣の刃に掌を滑らせた。
葉月の血が伝わる漆黒の刃を視界に入れ、両手を広げながら月渉は幸福そうに微笑んだ。
「さようなら、葉月」
朝の光を浴びる、真っ白な花が咲きほこる漆黒の祭壇で、深紅の雫が空を飛ぶ。
立ち込めるのは花の香りと、濃い血の香り――
「私も……後から行く……から……」
耳元で囁くように告げられる葉月の言葉に、月渉は驚いて目を見張った。
「待っていて……――」
深い悲しみを帯びていた葉月の言葉を聞いて、月渉は泣き出しそうな表情で薄く微笑んだ。
「……待って、いるよ」
崩れ落ちる月渉の体を視界の端に捕らえながら、葉月は静かに涙を流した。
「おやすみ、なさい……」
夜と朝が交じり合うその刻限に起こった出来事と、二人が交わした約束を聞いていたのは、そこに咲き続ける白い花だけ……。
『後から行くから待っていて……地獄の底で』
その言葉は、まるで永遠の誓いにも似た……。
誰も侵すことのできない、違えることのない、魂に刻まれた誓いの言葉だった。