吸血鬼の目に映る過去の情景 〜紅の夜〜
女吸血鬼の不定期日記の前日譚
赤く燃える世界の中をあたしは走っていた。髪の毛の先端がチリチリと音を立てて焦げていた。大気は真冬にも関わらず灼熱の業火によって熱されて悲鳴をあげていた。いや、違う。悲鳴をあげていたのはこの街全てだった。焼かれ軋みをあげて崩壊していく木造家屋と住人たちの声だった。
辺りには轟音が散発的に響き渡っている。耳はとうに使い物にならなくなり、ぐわんぐわん、という反響音が頭に鳴り響くばかりだ。落とされてきた爆弾が爆発したのが近くなのか、或いは遠くなのかは分からなかった。
辺りは混乱の極みにあった。裸になって走っている老若男女。爆発のせいか、猛火のせいか、大きな腹が裂けて胎児を外に零れ落ちさせて死んでいる女。喉を押さえて死んでいる男。墨のように黒く焼け焦げた死体ばかりが地面に転がっている。脱力したように地面に座り込んでいる者たちも居た。何の救いもない。ここはまるで地獄だ。
先ほど裂けた喉からはずっと血が滴っている。吸った空気もほとんど漏れているみたいで喉元からボコボコと血の泡が膨らんでは割れていく。何か悪いもので切ってしまったのか傷は一向に塞がる気配ない。喉の痛みが酷い。頭は大金槌で殴られたみたいに酷く痛んだ。
そんなことはどうでも良い。あたしは焼けて崩れた家屋の間を縫って街を駆けていく。昔主人に買って貰った牡丹の柄の入った和服の右袖口が燃え上がったが、肩から先を引き裂いて走り続けた。履いていたはずの草鞋はいつの間にか無くなっていた。きっと何処かで燃え尽きてしまったのだろう。粉々になった窓硝子を踏み砕きながら、今日という日を、一緒に過ごす約束をした青年を探した。
紅色の世界の先、烈火の中で火だるまになった人に布をかけて火を消している線の細い青年の姿が目に入った。十造だ。
十造に出会ったのはもう十年近くも前、彼がまだ童子といっていいくらいの歳のときだ。
あの時、あたしは特別警備隊に追われていた。拳銃に短剣を手に追いかけてくる若い警備隊員達からあたしは逃げていた。
あの若造どもは最近突然現れた。厳めしいパリッとした制服を着て横柄な態度で喋っているのが気に食わなかったが、これまであたしが絡まれることもなかったから気にしないでいた。でも、今日はどうも事情が違った。
理由は些細なことだった。街中で言いがかりをつけられたから偉そうな隊員を軽く突飛ばしたのだ。地面に転がった隊員が顔を真赤にして睨み返してきたから、ざまあない、と言ってやった。そうしたら誰かが甲高く警笛を鳴らしたものだから、わらわら出てきた隊員から逃げ惑う羽目になってしまったのだった。若造どもは血気盛んで、町娘に反抗されたことに逆上しているようでいつまでも追ってきた。そしてあたしはうっかりと袋小路に追い詰められていた。
思えば外国から黒船が来てから日本はずいぶん変わったと思う。昔の江戸の町は東京という名前に変わり、ここ六十年ほどの間で様変わりしていた。その変化は怒涛のようで道も街並みも旅の途中に立ち寄る度、全く様子を変えていた。一昨年前まで道だった場所に家が建ったり、家だった場所に道ができたり。そのせいか、あたしは気が付かぬ間に周囲を高い塀で囲まれた袋小路に迷い込んでしまっていた。
背後からは警笛と若造どもの怒声が聞こえた。今は夜だけど、捕まって日の光にでも当てられたら大変だ。何としても逃げなければならない。しかし、あたしはそのとき少なからず弱っていた。逃げる際に拳銃で脇腹を打ち抜かれていたのだ。人間は自らの矜持を保つためには食べもしないのに他者に平気で牙をむく。全く持っておかしな生き物だ。
とはいえそういう事情であたしには血が足りなかった。塀を跳び越す力はもう残っていなかった。
ザッ、ザッ、ザッと砂利を蹴散らしながら近づいてくる足音が大きくなってきたときにはもうだめかもしれないと静かに思った。走馬灯は見えてこなかった。
「……ねえ! こっち」
その時、幼い呼び声が聞こえた。幻聴かと思ったけど、振り返った先の塀には小さな扉が開いていた。暗がりの先から伸びてきた細く小さな白い手があたしを招いている。果たして、妖怪か物の怪の類であろうか? 疑心が一瞬沸いたが、そうであるならあたしも同類だ。怖気ることはない、と狭いすき間に飛び込んで扉を閉めた。
転がり込んだ屋敷の裏口、顔をあげた先には幼い顔立ちをした童子が立っていた。訊くと名を十蔵といった。十造は色白で見るからに病弱な童子だった。歳は十だという。
あたしが入ってきた裏口の前には大きな蔵があった。見渡しても辺りには十造以外の人間はいない。ひとまず危機は去ったのだと分かり、あたしは脱力して塀に背をもたれた。
「追われてたんでしょ? 大丈夫だった?」
「うん、大丈夫……っ!」無邪気な笑顔で訊く童子に笑いかけて答えようとしたとき安心したせいか撃ち抜かれた腹が痛んだ。
「ああ! 大変だ、怪我してる! お姉ちゃんちょっとまってて、救急箱取ってくるから!」
家の人間を呼ばれたら不味いと思って制止しようと思ったときには十造は走り去っていた。少しして十造は一抱えもある(童子の一抱えだが)木箱を持ってきた。
「これ、おじいちゃんが十年前の地震の後に買ったやつなんだ。今、みんな何処かに出かけちゃってるけど……僕、ちゃんとできるんだよ! えっとねぇ、まずこの黄色いのを付けて……」
あたしはなんだか必死になって救急箱をかき回しながら傷口に色々な薬をつけていく十造を見て思わず笑ってしまった。顔をあげた十造が不思議そうな顔をした。どうしたの? という言葉が幼い顔に張り付いて見えた。
「ふふ、なに、別に大したことじゃないんだけど、頑張ってるなーって」
「うん! ちゃんと治してあげるからまかせてよ! ……えっと、えっとお姉さん、名前は何ていうの?」
「え? ああ、名前……名前かー……」
名前なんて久しく名乗っていなかった。主人に拾われて以来、風來の旅の中で生きてきたから名乗る必要もなかったのだ。それに一緒に旅をしていたとき、主人には本当の名前は誰にも教えてはいけないと言われていた。そう言った主人はもういないけど、なんとなくその決まりを守る癖が抜けなかった。しかし、興味津々な顔であたしの顔を見てくる十造に教えない、というわけにもいかず、仕方なくあたしは「月子」と名乗った。
「月子かー。良い名前だね!」
「えっ? そ、そう? ありがとう、十造」
良い名前だね、その言葉が奇しくも主人と最初に出会ったときの言葉を彷彿とさせて、あたしはたじろいだ。初冬の、紅葉の綺麗な時期で、辺りには色とりどりの木の葉が舞っていた。澄んだ夜風が緩やかに吹く十六夜だった。
それ以来、あたしは十造の屋敷の、今は使われなくなった裏口前の蔵に住み着くようになった。特に旅を続ける理由もなかったし、幼く無邪気な童子と喋るのが楽しかったのだ。昼間は十造と過ごし、夜はたまに散歩に出かける、そんな静かな生活を始めた。
「だって月子、住む場所ないんでしょ? うちに住めばいいよ! そうしたらいつでも一緒に遊べるよ?」
「十造……、あたしは血を吸う妖怪なんだよ? ちゃんと分かっているの?」
「分かってるよー。でも月子は優しいから僕を殺したりはしないでしょ?」
どこを見て優しいと思ったのか分からないがにこにこの十造のことをなんとなく裏切れず、まあそうね、とお茶を濁して蔵に住まうことにしたのだった。十造は人間とは違う妖怪の類であるあたしを怖がらなかった。単なる怖いもの知らずなのか、或いは単に話し相手が欲しかっただけのかは分からない。
十造は屋敷の外には遊びに行かず、結構頻繁に体調を崩して寝込むばかりの生活をしていた。生まれつき身体が弱いようだった。元気なときはあたしの住まう蔵に来て旅の話をしたり書物を読んだりして過ごした。
十造は幼い見た目に反して博識であり、色々なことを知っていた。西洋の偉人のこと、科学のこと、歴史のこと……色々だ。例えばソクラテスという日本から随分離れた遠い異国の哲学者ははるか昔に「無知の知」という言葉を残したらしい。ずいぶん長いこと旅をして、なんでも知っているような気になっていたあたしはその話を聞いて、人知れず己の無知を反省したものだ。あたしの数分の一しか生きていないはずの十造の頭にはあたしの旅してきた世界よりも広い世界が広がっているようだった。
数ある十造の知識の中でも彼は特に医学に興味があるようであった。身体が弱いことに関係しているのかもしれないが、よく分からなかった。
家の者には蔵で勉学に励んでいると伝えてあるらしかった。カンテラと本を持って行っては日がな一日蔵にこもりっきりになる十造を不審がったりしないのだろうかと思ったが、心配に反して十造以外の人間が蔵に来ることはほとんどなかった。
十造は頼みもしないのにたまにあたしに血をくれた。童子の美味しかったが、ただでさえ身体の弱い十造が倒れないか心配だったから、いつもひと舐め程度にとどめて、「もう十分だ」と押し返した。ともあれ、「えへへ、美味しかった?」と聞いてくる十造はなんとも献身的で可愛らしかった。
春夏秋冬が五回回った頃には十造の背はあたしよりも大きくなっていた。相変わらず筋肉はなくひょろひょろで、寒暖の差が激しいときにはすぐに風邪を引くほどの病弱さは童子の頃と変わりなかったが、顔は段々大人びてきた。少年と青年の間くらいだ。人の成長は早いものである。
その間にあたしは文字を読むことを身に着けた。書を読めないあたしに十造が教えてくれたのだ。喋っている言葉が紙の上に落ちていると言うのはなんとも不思議な感覚である。喋るたびに口から文字が出て行っているような錯覚を覚えた。
疫病と凶作で寂れた農村で主人に拾われて以来、流浪の旅をしていたあたしにとって、勉強というものは初めてのことだったが、なかなかに面白かった。夜、街に出て様々なところにある文字が読めるようになると世界が随分と分かりやすくなった様な気がした。
「月子、僕と結婚してほしい」
十八歳の誕生日を迎えた上弦の月の綺麗な夜、十造に告白された。緊張した、赤い面持ちの十造を片目で捉えた。嬉しくなかったと言えば嘘になる。しかし、人間である十造と妖かしであるあたしとでは生きる時間の長さが違いすぎる。
「あたしは妖かしなんだよ? それにこう見えても二百歳以上の婆なんだ。十造はそれでも――」
十造の顔を見ないようにそっぽを向いて俯き加減で答えようとしたとき、鼻元で彼の香りがして、気がついたときにはあたしは奪われるように接吻されていた。溺れるような息苦しさの後には恍惚とした余韻が残った。それから何度もまぐわい、気がつけば朝が出ていてあたしは少し火傷した。
勿論、日の下に出れないあたしと結婚することは出来ないのだけど、それでもあたしと十造は愛し合うようになった。誰に認められることがなくとも、幸せだった。
直に大東亜戦争が始まった。徴兵では若い男どもが次々と連れて行かれていったが十造は病弱故に免れた。そのことにあたしはホッとしたものだが、十蔵は少し浮かない顔をしていた。男として見栄を張りたいのだろう。
「ダメだよ、十造、戦争なんて行っちゃ。見栄とか勇気とか、戦場じゃなんにもならないんだから。あたしはお侍たちが戦をしていたときから生きているけど、戦じゃあみんなすごく怖がって死んでいく。鉄砲はもっと酷いよ。当たったら痛いし、あっという間に人間が死んでいくんだから。十造は死んじゃだめだ」
「でも……、みんな行っているんだよ。僕だけ行かないなんて変だよ。まるで役立たずみたいじゃないか」
「それでもダメだ、十造。それに十造は長男なんでしょう? 十造が果たすべき役割は、別にあるんじゃないの?」
頑なに戦場を目指す十造にあたしはそう言って釘を差す。二十歳になった十造の顔には以前には出来なかったであろう神妙な表情が浮かんでいる。その顔を抱き寄せて短い接吻をして、夜の散歩の約束をした。その日は曇り空の寒い日で、月は見えない日だった。
大東亜戦争が始まってから東京の街の活気が喪われていって、夜にはほとんど誰も出歩かなくなった。若者も居なくなった。たまに見る新聞には華々しい日本軍の快進撃の文字が踊っていたが、東京の状況を見るにとてもそうは思えなかった。あたしは負け戦の匂いを感じていた。十造にはそんな戦に行って死んでほしくはなかった。
約束の場所には国民服ではなくお気に入りの牡丹の柄の和服で行くことにした。戦争が始まってからというもの、華やかな衣服を着ると目立ってしまうから着ないでいたが、今日くらいは良いだろう。別に人前に出るわけではないのだ。ただ、十造と静かに散歩するだけなのだ。
約束の場所は十造の家から少しはなれた国民学校の近くの空地にした。家から一緒に出ては家人に気づかれてしまうかもしれないからだ。素早く動けるあたしは日が落ちてから蔵を抜け出して先に待ち合わせ場所に着いた。
約束時間の少し前、突然鳴り響いた空襲警報の響きは不吉な予感を伴っていた。直ぐに低空飛行で飛んでくる爆撃機の音が聴こえてきた。そして最初の爆発音が東京の街に響き渡ったときにはあたしは十造の家に向かって走り出していた。
次の瞬間、十造が背にしていた大きな屋敷全体が一瞬で火炎に包まれた。焼夷弾が着弾したのだ。あっという間もなく、十造は爆風で倒れてきた燃える塀に押しつぶされた。
「……!」名前を呼ぼうとした喉から虚しく泡が漏れた。
急いで駆け寄って崩れた塀の縁を掴む。石でできた塀は燃えていた。ツーンとする何かの臭がした。何かの燃料が石に着いて燃えているのだ。必死になって炎を纏う重い塀を払い除けたときにはあたしの両手は半ば炭化していた。
焼け石となった塀の下から引きずり出した十造を仰向けにさせて、その姿を見てあたしは呆然となった。成人しても笑顔が幼かった十造の顔は塀に触れていた左半分が黒くなっていた。残りの半分も火傷で水ぶくれになっていて綺麗な茶色だった目は白く濁っていた。
あたしは声を出せない代わりに強く揺さぶると十造の喉が小さく震えた。
「……月……子?」
爆弾の炸裂する轟音の中、十造の言葉だけがはっきりと聴こえた。十造は右手を弱々しく宙に彷徨わせた。あたしを探しているのだ。感覚のない両手でその右手を掴んだ。
「あ、あ……やっぱり、月子……居たんだぁ……。ご、めんな……待ち合わせ、場所に……」
「……! ……」どんなに思いを込めても声はやはり出ない。
「……月子、僕、……ご、五人も助けたんだよ……少しはさ、役に……立て……」途切れ気味に言った十造の声は、最後まで言葉を紡ぐこと無く灼熱の大気に消えた。
あたしは泣いた。声は出なかった。首を振って強く十造の手を握りしめた。
あたしはずっとそこでうずくまっていた。そこら中に焼夷弾が落ちては爆発し、そのたびに悲鳴が聞こえた。もう死んでもよかった。そう思っていたけど、そんなあたしの上には爆弾は降ってこなかった。酸欠も吸血鬼の生命を奪うことはできなかった。
絶望に脱力していたあたしは空爆が終わって朝日が昇る前に隠れることも出来なかったけど、朝には分厚い雲が出てきていて、加えて大量に舞い上がった灰によって、日の光があたしの身体を焼くことはなかった。
あの夜、あたしは声を失った。裂けた喉からの出血は止まっていたが、どうにも傷はいつものように治らなかった。どうやら爆発で飛ばされてきた銀か何かの破片で切ってしまったようだった。そのことは別に悲しくはなかったけど、喉の傷は時々疼いてあの紅の夜をあたしに思い出させた。