プロローグ
息抜きに。
悲鳴が。
怒声が。
苦悶の声が。
断末魔の声が。
絶え間なく響く銃声と砲声の合間に聞こえてきます。
そして、時折腹響いてくる重たい音。
私はどうしてこのような場所にいるのでしょうか?
「おのれ! 味方は何をしている! 魔法士はどうした! 敵を決してここへ近づけるな!」
いつも優しく私に笑いかけてくれる側仕えの爺が、鬼のような形相で周囲に怒鳴り散らしている。
また銃声。
近い。
激しさを増す銃撃戦の音に、私は恐ろしさで思わず身をすくめてしまいました。
その私を庇うようにして、爺が抱き締めてくれる。
「くっ、ご心配召されるな! 御身は我が身命を賭して守ってご覧に入れまする! ええいっ! 味方は何をしているか! 何としてもここで敵を食い止めよ! これ以上の進撃を許すな!」
しかし、轟々と激しく燃え盛る紅蓮の炎は黒い煙を上げて、着々と私たちがいる方へと近づいてきています。
「閣下! ここは我らが防ぎます! どうかこの場から撤退を!」
「くっ……やむを得んか」
兵士の一人の進言に悔しげに呟いた爺は、私の手を握り締めるとわずかの兵士を連れて走り出しました。
追跡を少しでも遅らせる為なのでしょう。乱雑に木々の生い茂る獣道に飛び込むと、草木をかき分けて強引に突き進んでいきます。まだ子どもの私の足では、時折小石や枝に足を引っ掛けて転びそうになってしまいましたが、その都度爺は決して私の手を離さず、身を支えてくれました。
小さな枝や草による引っかき傷が、むき出しの手や足に幾つもできます。
だけど、沸き上がってくる恐怖と焦りに、私は痛みなどまるで感じませんでした。
どうしてこんなことになってしまったのでしょうか?
ここは戦場。
戦場だけど私は安全な後方で、大勢の兵士たちに護衛されていました。
そこで、戦場に向かう兵士たちへ笑顔を配り、彼らを気遣い、士気を鼓舞する。
それがお父様から与えられた、まだ戦うことのできない私の役割です。
私が声を掛けた兵士たちの多くが、戦いで傷つき、そして命を落としていく。兵士たちを死地に向かわせるために、彼らの士気を鼓舞するという役割を持ちながらも、それまでの私はその事をよく理解していませんでした。
それがいま、私のいる場所へ銃弾が、砲弾が、そして破壊の魔法が近づいてきて、私は初めて死と直面している兵士たちの心情を理解できました。
怖い。
死にたくない。
足が震える。
私は大きな勘違いをしていました。
戦場に、絶対安全な場所などなかったのです。
耳を済ませば、背後から大勢の声が聞こえてきます。
どうやら、突破されてしまったようです。
「くっ、もはやこれまでか……! 申し訳ありません。爺が共に行けるのはここまでのようです。ここで我らが少しでも時間を稼ぐべく、敵を食い止めます。ここより後方へ真っ直ぐに走れば、まだ無事なお味方が大勢いるでしょう。この先は我らを置いて、御身だけでお逃げくだされ」
(待って、嫌! 私を一人にしないで! 一緒に逃げて!)
だけど私の心の叫びは、声になる事はありませんでした。
小銃を手にした爺が――そして共に落ち延びて来た兵士たちが私に最後に見せた笑顔。
その笑顔を見た時、私の口からは何一つ言える言葉が無かったのです。
私はただ頷いて、走り出すことしかできませんでした。
振り返りたいのを我慢して、唇を強く噛み締めて走る。
彼らの思いをムダにしないためにも、そうすることしか私にはできなかったのです。
茂みをかき分け、枝に引っかかりながらも、懸命になって走りました。
転びそうになっても、今度は誰も助けの手を差し伸べてくれません。
涙がとめどなく溢れてきます。
やがて、激しく響いていた銃声が聞こえなくなりました。
(……爺)
爺たちと別れてどのくらいの時間が過ぎたのか。
それはほんの数分程度の時間だったのかもしれません。
やがて、遠くから聞こえる人の声、葉擦れの音。
それらの音に気を張り詰めながら、必死の思いで足を運びますが、所詮は子どもである私の足では、逃げ切れるはずもなく、どんどんそれらの音が近づいてくるのがわかりました。
その時。
「うわっ!」
「きゃっ!」
突然、横の茂みから飛び出してきた人とぶつかり、私は尻もちをつきました。
「びっくりした。何だ? 何でこんな所に子どもがいるんだ?」
見上げれば困惑したような目で私を見下ろす、リムディア王国軍の軍服を着た男の人がいました。
味方の兵士さんです。
「どうしたんですかぁ? 隊長ぉ」
「ああ、子どもがいたんだ。ぶつかって、転ばしてしまった」
もう一人、兵士さんが駆けつけてきました。
女性の兵士さんです。
ただ、男の兵士さんよりも背の高い女の人で――あれ? この男の人の背が小さい?
「大丈夫ぅ? 怪我はないぃ? ちょっと、隊長ぉ! 気をつけてくださいよぉ!」
「悪かった。ああ、ええっと……怪我はないか?」
二人は私の目線にしゃがみ込んで心配してくれます。
どうやら私の顔を知らないようでした。
「何でこんなところに子どもがいるんだ? 地元の子……じゃないよな、格好からして。どこぞの変態貴族が愛妾として連れ込んだのか?」
「愛妾ってぇ……まだこの子ぉ、十歳くらいですよぉ?」
「そういうのがいいっていう変態がいるんだよ」
「うわあ……隊長ぉ、変態じゃないですかぁ」
「俺がじゃねええええ!」
お二人は、何だか大変失礼な事を想像しているようでしたが、そうしている間にも背後から近づく足音が大きくなっています。
「早く……早く逃げないと……早く……!」
「逃げる? だけどあっちは本営がある方だろ? いったい何があったんだ?」
我ながら無様と思われる姿でしたが、尻もちをついていた私は必死に立ち上がって、お二人にそう訴えました。
その私の焦った様子に何事かと兵士さんが尋ねてきましたが、私にはその問いに答える時間すらももどかしく感じられます。
爺が兵士の皆が、命をかけて私を逃がそうとしてくれたのです。
敵に捕まるわけにはいきません。
何としてもこの場から一刻も早く離れねばなりません。
私は共に逃げようとその兵士の袖を掴み――。
「『壁よ、阻め! 土の壁』」
不意に男の兵士さんが私の腕を強く引っ張って彼の後ろに引っ張り込むと、力ある声で鋭く叫びました。
と、同時に鳴り響く銃声。
「きゃっ……」
私は思わず小さな悲鳴を漏らすと、咄嗟にその場にしゃがみ込んでしまいました。
ですが、身体のどこにも痛みを感じません。
銃弾は当たらなかったのでしょうか?
恐る恐る顔を上げた私の目に飛び込んできたのは、先程までは無かった視界一面に広がった土の壁。そしてその壁に向けて兵士さんが右手を前に掲げています。
これは……。
「ま、魔法……?」
「ち、ちょっとぉ!? 撃たれたぁ! 撃たれてますよぁ! 隊長ぉ!」
「言われんでもわかるわ!」
「隊長ぉ、隊長ぉ! 敵ですぅ! 敵が来ていますぅ!」
「他に誰が撃ってくるって言うんだ! だから、少し落ち着け!」
私と同じようにパッと身を屈めた女兵士さんと目が合うと、彼女は少しバツが悪そうに笑みを浮かべました。それから手に持っていた小銃の弾薬を確かめています。
「撃ち返しますかぁ?」
「牽制程度でいい! ちくしょう! あっちは本営があった場所だろう? 本営側から敵が来るなんて、ありえねえだろ! 本当に本営は敵の手に落ちたのか?」
女の兵士さんが撃ち返す横で、魔法を使ってみせた男の兵士さんが、土壁に身を潜めつつ小声で呟いています。
「おい、君。本営から逃げてきたのか?」
本営とは私がいた場所の事だと思います。
私は頷きを返しました。
「マジか……。本営に後退しようと思っていたのに、まさかその本営が落とされるとか。って、これってうちらの負けじゃないか? いや、今はそんなこと言っている場合じゃないな」
土壁の向こう側を覗き見ようとした男の兵士さんが、途端に響く銃声に慌てて頭を下げました。
「危ないですよぉ、隊長ぉ。どうせ射撃が下手なんですからぁ、隊長は頭を引っ込めていてくださいぃ」
「牽制くらいにはなる」
「それなら隊長が弾薬を装填して私に小銃を渡してくれたほうがぁ、まだマシな牽制ができますぅ――ってぇ、ちょっと隊長ぉ! 多いぃ! 敵が多いぃ! どんどん敵が増えちゃってますよぉ! どうするんですかぁ!?」
今のところ、銃弾は土壁が全て防いでくれていますが、銃撃に効果が無いとわかれば回り込もうとしてくるでしょう。
「おい、君。名前は?」
「え、あ、アディ」
「そうか、アディか。じゃあ、アディ。これからちょっと危ない目に合わせるかもしれないけど、俺の傍から離れるなよ?」
その時、一筋の風が私の頬を優しく撫でていきました。
不思議と心地よさを感じる風。
「その子ぉ、連れて逃げるんですかぉ!?」
「放っておくわけにもいかないだろうが!」
「一応、聞いてみただけですよぉ! 隊長ならそういうと思ってましたよぉ!」
「なら、黙っとけよ! お前の間延びした声を聞いてると、緊迫感が薄れるんだ!」
「ひどぉ!」
何なんでしょう、このお二人。
激しく言い争いながらも、女兵士さんは巧みに小銃で追手を牽制し、男の兵士さんはまた魔法でしょうか、何かぶつぶつと呟いています。
「うん、こっちへ行けば抜けられそうだ」
「早くしてくださいよぉ、隊長ぉ」
「うるさい! 今、脱出ルートを確認したところだ。よし、なら行こうか! アディ!」
「は、はい」
男の兵士さんが私の手を握ります。
これから飛び交う銃弾をかわし、追手の追撃を撒かねばならないという難事が待ち受けているというのに、驚いたことにいつのまにか私の心は恐怖を感じていませんでした。
先程の風で、恐怖に凝り固まっていた私の心が解きほぐされ、兵士さんに握られた手から、熱い何かが私に注がれているように感じたのです。
そういえば、お二人のお名前をお伺いしていません。
この時の私はそのことばかりを考えていました。
ちゃんと無事に帰ることができたら、お二人のお名前を教えてもらおう――と。