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逃げるという選択肢はなかった。
クノスは、予定されていたタスクをすべて破棄し、シナリオを転換した。
侵入が察知されるところから、身柄の拘束、或いは、地球外人類であることの発覚まで、状況に応じたシナリオは用意されていた。
それでも、この展開はそれなりに想定外であり、クノスを大いに動揺させた。
言うまでもなく、表には出していない。
身体は凛然とした振る舞いを誇示している。
だが、意識は時間感覚が歪むまでに深く速く試算を繰り返した。
クノスは導かれるままに、同じ制服を着た少女の背を追いかけ、やがて辿り着いたのは、一つの円卓だった。
どう歩いたかは、視えていたし、記憶していた。
だが、そこに意識を充てるリソースはなかった。
結果として、クノスは気づけばそこに立っていたかのような錯覚に襲われた。
クノスの正面には、一人の男性が腰掛けていた。
若者らしい瑞々しさはないが、一方で、大人らしい諦観や威厳もない。
黒い髪と黒い瞳と黒いシャツと黒いスラックス。袖口や首元から覗く白い肌はどこか病的だが、一方で、表情は柔らかく悲壮感は感じさせない。
そんな青年がいた。
左手には、クノスに声をかけた少女が座っていた。
リムスベルト帝国の臣民は基本的に美形であり、それは遺伝子操作によって生み出されるデザイナーズチルドレンであることが一因である。
そんな美形を見慣れたクノスの感覚からしても、少女は魅力的に映った。
ふわりと揺れる美しい金色の髪。
柔らかく穏やかな表情。
その在り方は、否応なく庇護欲をかき立てる。
だが一方で、その瞳は、時折、深く鋭い輝きを覗かせ、その光と闇はクノスをより警戒させた。
少女は、クノスに着席を促し、それを見届けてから席についた。
それから、ウェイトレスを呼ぶと、悩むことなく注文を行った。
間もなく、少女とクノスの前には紅茶が、そして、テーブルの中央に宝石のような洋菓子が並べられた三段のケーキスタンドを運ばれてきた。
結論として、現在、クノスは喫茶店のテラス席に座り、地球の紅茶に初めて口をつけようとしていた。