弱い愛され者と、強い憎まれ者
彼女が死んだらしい。
それを聞いたのは、1週間前だった。
中途半端な醜さと優しさを兼ね揃えていた可憐な少女。
自分勝手な事をしながらも、罪悪感に苛まれながら生きていたあの子を、私は憎めなかった。
彼女は弱かった。否、私が強かっただけなのかもしれない。
運命という名の呪いにかかり、苦しみながら足掻いていたヒロイン。
私は彼女を愛していた。
彼女が持つ弱さと強さを誰よりも知っていた自負が私にはあった。
私だけが知っている。
彼女の過去を。生い立ちを。罪を。壊れてしまった心を。
だからこそ、私は彼女を殺すしかなかったのだ。
その世界では、『他の世界への転生』というものが絶えず行われていた。
ある人は勇者と魔王が存在する世界へ。
ある人は小説の世界へ。
ある人はその世界とそっくりの世界へ。
その中でも、一番盛んに行われていた転生が、『乙女ゲー転生』だった。
そのゲームを知っている人を、ヒロイン、攻略対象、悪役など、様々な立場へと生まれ変えらせ、様々な行動を取らすというもの。
姉が気に入っていたゲームの攻略対象になった少年や、親に愛されず、自殺した結果ヒロインに生まれ変わった少女など、様々な事情を持った人達がそれぞれの世界を変えていった。
その内の1つに、とある乙女ゲームが含まれていたことに、神というものは気づいていたのだろうか。
ヒロインと悪役、両方に凄惨な過去がある、転生してしまった人にとって、地獄にしかならないであろう世界。
その世界に、生まれ変わった少女が2人いた
。
1人は親に虐待され、拷問のような日々を過ごした過去を持つヒロインへと。
もう1人は、高い地位を持ちながらも、出来損ないとして辛い扱いをされ、何度も死にかけるまでにいたった過去を持つ悪役令嬢へと。
その2人は似ていながらも、正反対だった。
ヒロインに生まれ変わった少女は、殴られ、襲われかけ、首を絞められ、死にかける環境に耐えられる程強くはなかった。
最初の1年、少女は耐えた。
これは現実だという意思を持ちながら、この世界で生きていく為に、努力をしていった。
次の1年、彼女は家の外に出された所、柄の悪い男達に襲われかけた。
その場を通りかかった親切な人に助けられた彼女は、他人に恐怖を抱いた。
その次の2年、彼女は壊れ始めた。
大きくなるにつれ、痛みが感じやすくなり、耐えきれなくなっていったのだ。
最後の1年が過ぎ、ゲームと同じ様に哀れんだ、子供がいない貴族に引き取られた時、彼女はもう完全に壊れきってしまっていた。
最初、これは現実だという思いを抱えていた少女は、痛みに耐える為、この世界はゲームなのだと自分に言い聞かせ始めていたのだ。
これはゲームだから、現実ではないのだと。
この身を裂くような痛みも苦しみも、全て気の所為なのだと。
そして、苦しみから逃れる為、ここはゲームの世界なのだと、自分に思い込ませた彼女はそこに意味を持たせた。
ヒロインの自分は、攻略対象に愛され、幸せに暮らすのだ。
これがゲームだと思い込む為に、彼女は行動した。
地獄に耐えられず、現実を拒み、ゲームという言葉で絶望を誤魔化した少女
それが、あの子だった。
悪役に生まれ変わったもう1人の少女は、親に出来損ないだと罵られ、碌に食べさせてもらえない環境を耐え切れる程に強かった。
実の親に殴られ、使用人達に笑われ、ヒロインと同じ様な地獄を何年も耐えながらも、最後までゲームという言葉に逃げず、現実と認識し続けた。
ヒロインの倍の10年が経ち、その家の闇を知った従兄弟に助けられ、その家に引き取られた時、彼女は絶望しかけながらも、前を向いていた。
何度も死の狭間を行き来し、長い間苦しみ続けながらも、決して心は折れず、ゲームを否定した少女。
それが私だった。
そのゲームがどんな物だったかとか、私達の詳しい立ち位置だとか、そんな物は説明する必要はないだろう。
大切なのは、彼女は悪役(私)を引き摺り下ろすヒロインで、私はヒロイン(彼女)の幸せを邪魔する悪役だった事。
ただ、それだけでいいのだ。
彼女と始めて顔を合わせたのは、ゲームが始まった1週間後の事だった。
『ーーーさんですよね?』
偶然人がいない廊下で出会い、急に響いた可愛らしい声に戸惑う私に、彼女はただ、壊れた笑みを浮かべていた。
『ええ。そうよ。』
『やっぱり。私、貴方に会ってみたかったんです。
ーだって、これはゲーム(虚構)だもの。』
『違うわ。これは決してゲームなんかじゃない。現実よ。』
『現実なら、どうしてこんな体になったんですか?』
傷だらけの腕を摩りながらそういう彼女に、私はただ、何も言い返せなかった。
分かってしまったのだ。この子はあの苦しみに耐えられず、歪んでしまったのだと。
私はただ、運が良かっただけなのだと。
前世の自分がたまたま心が強く、壊れる事を免れたのだと。
『ー意味が分からないと思いますが、先に謝っておきます。ごめんなさい。』
『ーええ、私も先に謝っておくわ。ごめんなさいね。』
虚ろな目と、しっかりとした意思を感じる目が合い、私達は微笑みあった。
それは、お互いに対する宣戦布告であり、謝罪であり、親愛の証だった。
その短い会話だけで、お互いに理解し合ったのだ。
彼女は壊れ、私は壊れなかったという事を。
そして、自分を守る為に、これからする行動を。
そしてーきっと相手を、憎む事は出来ないであろう事を。
ゲームでは数行で流されたお互いの事情が、どのような物だったかを思い出した私達が、相手を哀れみ、親近感を湧いてしまうのは当然の事だった。
同じ様な苦しみを味わった相手は、自分の絶望を理解してくれる。
助けてくれた人でさえ知らない、自分の心を認め、愛してくれる。
ただそれだけの事。
けれどー私達にとっては、それだけですまない事。
苦しかった。悲しかった。辛かった。
実の親に初めて殴られた時、悲しかった。
知らない男にやらしい目で、触れられた時、辛かった。
首を絞められ、気絶したとき、苦しかった。
私達だけが知っている。ヒロインと悪役の闇を。嘆きを。地獄を。
私達は同じような環境に生まれ、最初は同じ様な意思を持っていながらも、最終的に行き着く先は、違ってしまった。
私は現実に生き、彼女はゲームにしか生きられないのだ。
全く正反対な2人だからこそ、一緒にはなれない。
相手を苦しませる事しか出来ない。
だからこそ、謝ったのだ。『ごめんなさい』と。
ーそして結局、自らの幸せをかけた私達の戦いは、私が勝ってしまったのだ。
あの日、言葉を交わしてから、彼女は少しずつ、攻略を始めていった。
それと並行して同性にも声をかけ、逆ハーレムを築く自分に悪意が向けられることのないよう、静かに自分という存在を、浸透させていった。
そして、攻略対象に愛を囁かれ、周りからも羨まれながらも、敵意を抱かれなかった彼女は、締めにかかった。
悪役である私を追い落とし、ゲームだと実感させる為に、断罪を始めたのだ。
彼女は、本当に賢かった。
少しずつ事実を交えながら、私の悪評を流し、言い始めたのが自分だと分からないようにした後、自作自演のいじめを始めていった。
最初は、文房具がないと、小さくつぶやく程度。
それをどんどん大きくしていき、次第には教科書を破く事すらやってみせた。
必ず私が1人である時に行い、時には私に変装し、噂を流していった。
そしてあの日、私は断罪された。
彼女は本当に完璧だった。
証拠として出された物も、信憑性がとても高く、誰から見ても私が犯人だと思えるようにしてあった。
けれども、私の方が一枚上手だった。
人間、何か後ろめたい事をする時、本人にどんな思いがあっても、焦りや罪悪感などで、ほんの少しだけ、詰めが甘くなってしまう。
私はその隙に付け入り、裏で彼女の話が嘘だという証拠を、集めていたのだ。
私を断罪する時、彼女は一瞬泣きそうな顔をしていた。
その表情の本当の意味に、気づいたのは恐らく私だけだっただろう。
彼女は本当に、中途半端に優しかった。
わざわざ私に声をかけ、謝り、嵌めようとする相手に警戒させ、挙句に罪悪感に押し潰されそうになる。
その結果、私は勝ち、彼女は負けた。
自分勝手で、弱い彼女は幽閉される事に決まったと、伝えられた時、私は何を思っていたのか、とうとう自分でも分からない。
彼女が侍らせていた人達も同じように、勘当されたり追放されたりしたらしいが、別にどうでもよく、彼女の行く先だけが気になった。
現実に耐えきれず、幻想に逃げ、その結果自由の身をなくしたあの人。
少なくても、昔のように彼女を傷つけられる人は、いないという事だけが、救いだった。
そしてそんな彼女も、もういない。
あの断罪から、私は1度も彼女と会えていなかった。
結局、彼女と話したのは、出会ったあの時だけになってしまった。
もっと話をしたかった。
どんな思いで生きてきたのか、前世はどんな物だったのか。
もう1人の自分は、どのような物が好きで、どのように生きたかったのか。
私は彼女を愛していた。もっと理解したかった。一緒にいたかった。
彼女は弱かった。私は強かった。
彼女は最終的に愛され、死んでいった。
私は最終的に愛される事も、憎まれる事もなく、生きていく事になった。
私と彼女、どちらが幸せだったのか。
私は静かに彼女を想い、目を閉じた。