第3話(the heads)前編
01
『オレは、お前らが気にするから……』
確かにオレの目の前にいるこの男は、そう言った。
そんなにストレートにそんなこと言われても……しかもこの状況で。もっと違う状況なら、判りやすくて良かったかも知れないけれど。
「……えっと、オレ、用事思い出し……」
「逃げんなって」
新島は、がしっ、と音がしそうなほど、力強くオレの首根っこを掴んだ。
「それはいくらなんだってずるいだろ?オレ、そう言うのどうかと思うし」
「いや、どうかとって言われても……。オレにはオレの事情があるよ。お前はそう考えるかもしれんけど、同じような状況になったら……」
「逃げたって、なにも解決しないって。どっちかっつーと、状況はどんどん自分の意志とは関係ない方へ向かう。一応言っておくよ、経験上」
経験上、経験上って……新島も真も、大人ぶっちゃって、むかつくな、おい。
そんなにオレの行為はお子さまか?
「意外とさ、沢田って壁にぶつかっていったことないんだな。壁があっても、避けてきたっぽいんだ。そんな風に見えないからさ、意外だな」
「……待てよ。その言い方は……」
「あ、悪い。失言だった」
「失言どころの騒ぎじゃねえと思うけど」
「だから、意外っつったじゃん。そんな風に見えないって」
「それが余分だっつーの!」
だから、図星刺されてっから、さらに腹がたつんだって!
つーか、図星って判る自分も不愉快だ!
ちくしょう……オレ、絶対今、相当嫌な顔してる。
「灯路、なにしてんのよ?」
しかも、よりにもよってこんな時に首を突っ込んでくるか?ティアスは。
「行くわよ?」
「お前、何でそんなに偉そうなんだよ」
文句を言いながらも、新島は嫌な顔をしてなかった。
新島の背を押しながら、肩越しに彼女はオレの顔を見つめた。
『そんくらいには、お前のことティアスも見てる』
どうしたらいい?
ホントに新島の言うとおりなのか?!
だとしたら、……だとしたら、今までの彼女の行動に簡単に理由が付けれてしまう。彼女からのメールも、あの日の行動も。今日のこの行為ですら。
どうしたらいい?
新島はそう言うけれど、彼女はそう思っているかも知れないけど、彼女とあんなに楽しそうに話す、御浜はどうなる?
……よりにもよって、御浜は1人で座ってオレを待っていた。
周りの席にはカップルやら家族連れやらばかりで、連中の姿は見えなかった。
「他の連中はどうしたんだよ?」
「何か、座っててって言われて。テツのこと待ってるように言われたから。並んでるよ」
御浜の指さす先には、話しながら売店に並ぶ新島達の姿があった。……真と柚乃がいねえけど。
「座れば?今日、何か変だよ?もしかして調子悪かった?」
「寒いから疲れただけだ」
……なんでだ?今朝まで普通に話をしてたのに、なんで今は顔を見ることすら出来ないんだ?
どこに座ればいい?なるべく視界に入らないようにしたいんだけど……。
仕方なく、円形のテーブルを囲む椅子から、御浜の向かいも隣も避け、一つ分椅子を挟んで座る。
「ふうん。テツって結構、判りやすいからさ」
「お前ほどじゃないぞ。大体、オレがこう言うの苦手だって、知ってるじゃん、お前」
「オレもそんなに得意じゃないよ?」
「……企画したのお前だし……」
「いや、最初はグループで攻めた方がいいって、真が……」
入れ知恵してんじゃねえか、あの男は!いかにも御浜が考えたみたいに言いやがって。なに考えてんだ。
「真はオレの味方だけど」
「だけど?」
?突然、何なんだ?思わず御浜の顔を見てしまったが、いつも通りだった。
「だけど、テツの味方じゃないんだよね、残念ながら。いや、普段はテツの味方でもあるんだけど。オレとテツなら、オレを選ぶんだな、これが」
「お前、結構すごいことを、さらっと言ってるぞ……?」
力抜けるなあ、もう……。事実だけど、判ってるけど、判りきってるけど。だからこそオレは新島に釘を差したんだし。
「あいつの好き嫌いがはっきりしてるのは充分判ってるって。だからいったい何なんだよ」
「うん。オレも何なんだろうって思ってる」
「聞いたのはオレなんだけど」
「真がそう言う態度に出てるのだけは、判るんだよ。何でだと思う?」
……何ででしょう……。
真っ正面から見るの、やめてもらえませんか。
御浜は、ホントは何でも知ってる。何もかもお見通し。
そう言うところがあるんだよ。
なのに、どうしてそう言う問いかけを、オレにしてくるかな?
お前、本当はどこまで、『何もかも』知ってる?
「さあ、オレにはよく判んないけど。何か勘違いしてんじゃねえ?」
「勘違い?」
「誤解とか?」
余計なことを言ってしまった気がする。
「誤解ね……何を誤解してんのか、オレにはよく判らないけれど」
ほら。
御浜は、しっかり突っ込んでくる。オレの今の台詞は、完全に失言だ。
「そんなに、一体何を気にしてるの?テツは」
「……別に、何も?」
「そう。気にしてるわけじゃないなら良いけど。テツは、自分が思ってるよりいろんなことを気にしすぎだし、空回りするから」
「……お前には、お見通しって?」
「さあ、どうだろ。そう思ってるなら、そうなんじゃない?」
「何?二人して」
いつの間にか、真がオレと御浜の間に座っていた。
「何でもない」
「何でも無くないでしょ?釘でも刺された?つーか、刺した?」
ストレートに、当たり前のように、でも茶化しながら、真はオレと御浜を交互に指さした。
「刺されてはいないみたいだけど……刺したつもりだよ」
「お、怖いね、相変わらず」
真はその御浜の台詞に大喜びするが、オレは背筋が凍る思いだった。
『つき合ってるわけじゃねえんだし。確かに、気まずいかもしれんけど。何をそんなに白神のこと怖がってるかな?』
怖がってないし、怖がる理由はない。ただ、気を使ってるだけ。
オレは彼と同じ土俵に立ちたくはない。ただそれだけ。
彼女のことなんか、どうだって良い。
02
「柚乃はどうしたんだよ?あいつらと一緒にはいないみたいだけど?」
オレは話を変えるつもりで、売店に並ぶティアス達を指さしながら、真に聞いた。
「さあ?電話鳴ってたから。どこかにいるんじゃない?すぐ戻ってくるでしょ?」
「ああ、そう」
目的を果たし、ほっとした途端、オレの携帯が鳴り響く。
相手は……愛里だった。どうして?
「……テッちゃん、どこ行くのさ?」
真の声を無視して、オレは彼らから距離をとり、電話に出た。
「どうしたんだよ」
『テツ、今どこにいるの?港にすぐ来れる?』
「……港?港のどこだよ?」
『観覧車のあるところ。今日、花火やるのよ。でも、迎えに来て』
「……迎えにって……意味わかんねえし」
『良いから来てよ。すぐね』
電話切りやがった。あのわがまま女。
迎えにったって……お前を送り迎えしてる連中見たく、オレには足がないだろうが。高校生だぞ?!判ってんのか?
「テッちゃん、何?またお父さん?それとも愛里ちゃん?」
真のその台詞に、一瞬、御浜がオレを見たが、すぐにいつも通りの表情に戻った。
「……愛里」
オヤジだと言ったら、きっと御浜は嫌な顔をする。その理由はよく判らないけれど。愛里だと言っても、あまりいい顔はしないけど。
「オレ、帰るわ」
「つーか、なに言ってんの、テッちゃん!?ちょ……御浜も何とか言ってよ」
「え?うーんと、寒いから気をつけて」
「何それ!?意味判んないし!!」
そう言うヤツだって、御浜は。
重荷にも、抑制力にも、推進力にもならないし、なろうとはしない。
しないけれど、釘はきちんと刺すし、何かあったら隣にいる。
オレにとって、必要な存在だって、痛いほど判ってる。こういう何気ない時にこそ、それを痛感する。
だからこそ、オレが彼の邪魔にはなりたくない。
『何をそんなに白神のこと怖がってるかな?』
だけど何で?何で、あの新島の言葉が、頭を離れない?
「沢田くん、どこに行くの?」
新島と一緒に売店の列に並んでいたはずのティアスが、オレを追いかけてきた。
「……なんだよ」
「なんだよ、じゃないわよ。……どこに行くのかと思って」
少しだけはにかんだように、オレの機嫌を伺うような聞き方をする。
その彼女の様子に、再び新島の言葉を思い出す。
そうだと思えば思うほど、どうして良いか判らない。
「別に……用があるから、帰るだけ」
「そう。寂しいね」
「え?」
直球!直球過ぎるよ。しかもちょっと可愛いし。そう言うとこ、ずるいよな。
ちくしょう、悪い気はしないし。
オレは別に、御浜のこと以外は気にしてないけど……でも、嫌いじゃない。多分、それだけ。
「冗談よ」
「あ、そ。そう言うこと言わなくてもいいんじゃねえか?」
「お互い様。私、こんなに酷くないけどな」
「酷い?お前、本人を目の前にして酷いってなあ……。つーか、何でお前の話になるんだ」
「だってトージが、君と私が似てる、なんてこと言うんだもん。失礼よね。私、こんなにぶしつけじゃないし、偉そうじゃないし、口も悪くないし」
「そっくりそのまま返してやるよ」
……あれ?てことは、やっぱ似てるのか?
「強がってるくせに、弱っちいとこもそっくり、なんて言ってた」
「オレは違うけど、お前はそうかもね」
彼女のメールも、電話も、回数を重ねれば重ねるほど、それを感じていた。
言葉が足らない彼女の心が、少しずつオレにも見えてくる。
そんな感覚を覚えていた。
だから、何度もやめようと思ってた。
これ以上、深みにはまる前に、やめたかった。
彼女の歌を聴いて以来。
彼女がオレの家に泊まって以来。
彼女と一緒に出かけて以来。
彼女と連絡を取るようになって以来。
ずっと、思ってた。
思ってたのに、やめられなかった。
こう言うの、なんて言うんだっけ?
「冗談でしょ?それは、君だよ?自覚してる?」
「失礼だよ、お前。オレは弱っちくなんかないって」
「弱いって言うのは語弊があるかも知れないけど……なんて言うか、何か、常に怖がってるって言うか」
「怖がってる?誰が、何を?」
「判んないけど……そう見えるよ。何か、自分みたいで、判るんだ」
メールでも電話でも、そんなことは言わなかったくせに。
「うるせえよ、お前。オレは急いでんだ。もう行く」
「そう。寒いし、人も多いから……気をつけてね」
そう言ってくれたティアスの顔を、オレは見ることが出来なかった。
どうして彼女はそうなんだろう。
まるで御浜のようなことをさらっと言う。
なのに、まるで愛里のように振る舞うときもある。
でも、何より、彼女はオレに似ている。
だからだ。だからこんなに、彼女のことが引っかかるんだ。
オレは別に、それ以上の意味で気にしてるわけじゃない。
御浜も怖くない、彼女のことも気にしてない。あれは新島の勘違いだ。
だってオレは、こんなに急いで愛里の元へ向かおうとしてるのに。
まだオレは、悲しいくらい、オレに振り向かないあの女を思っている。
03
愛里に言われるまま、港にある遊園地に来たのが良いが、入れず、入口で彼女を待つ羽目になった。
ここに来るまでに、結構時間がかかってしまったせいか、空はすっかりオレンジがかっていた。
「あ、テツ!遅い!!もう、何で入ってこないのよ?」
「知らねえよ。何か、花火やるから入場整理券がいるとか言われて……だれ?」
オレに駈け寄る愛里の後ろから、1人の男が追いかけてくる。何か、愛里の好きそうな顔ですけど?何か、てかてかの黒いジャケット着てますけど?
「ああ、気にしないで」
彼を見もしないで、そう言い放つと、オレに体を預けながら、オレの右手を両手でがっちりと組んだ。
「じゃあね、この人と約束あるから。ばいばい」
追いかけてきた髪のセットに1時間くらいかけてそうな男に手を振りながら、彼女はますますオレにすり寄ってくる。
あんまり接近されると……ちょっとどきどきしますけど。
愛里からは、甘い匂いと一緒に……
「……酒くせえよ!愛里!!」
「良いじゃない。良いから、行きましょ?」
腕を組んだまま、オレを駅の方へ誘導する。
「オレ来たばかりだし、あの人は……」
「待てよ、愛里!なんだよその男は!まだガキじゃねえか、どう見たって」
……不愉快な。老け顔って言われるのもそれはそれで不愉快だけど、ガキって言うのもどうかと思うぞ。何だ、この敵意むき出しの男は!!
「彼氏」
そう言いながら、彼女はオレの頬にすり寄ってきた。顔と頭が火照って、判断力が鈍る……。
「何だよ。じゃあ、オレはなんだったんだよ」
「別に?誘われたからつき合っただけ。クリスマスだもの、夜は彼と過ごすの、ね?」
甘い言葉と甘い表情。思わずその気になってしまうところだったが、彼女の脅すような目つきに、少しだけ正気を取り戻した自分。
よ……要するにだ。つき合ってこんな所に来てみたモノの、愛里はこの男が単純に気に入らなかったんだ。でも、それだけならさっきみたいにはっきりそう言えばいいだけの問題な気がするけど……。
「ふざけんな!男がいるなんて、一言も言ってなかったじゃねえか!」
掴みかかろうとした、てかてかジャケット男の手を逃れ、愛里はさっとオレの後ろに隠れた。代わりにオレは胸ぐらを捕まれる。
「……暴力反対……」
疲れる男だな……。どうしてよりにもよって、こういうダメな男を引っかけるんだよ。オヤジだけ追っかけてろっつーの。(それはそれでいやだけど)
何か、もう、どうして良いかわかんねえなあ。胃が痛くなってきた。
「このガキ!てめえの女に、オレがいくら使ったか判ってんのか?」
「うわー、最低ね。あんた、別れ際に女に慰謝料と使ったお金を請求するタイプでしょ?」
まあ、確かに最低だが、オレの後ろでそれを言うなよ。
「しかも、思い通りにならないと暴力で相手を屈服させようとするタイプ。どうしようもないわね」
お前……途中でそれに気付いて、オレを呼びつけたな?つーか、この状況で煽るな、そう言うバカな男を。
「どけ、このクソがき!その女に思い知らせてや……!!」
あ。思わず、脛にローキック食らわせちゃった。声を詰まらせて蹲っていた。
「じ……地味に卑怯なコトしやがって……」
「……別に卑怯じゃないって」
「もう、そう言うときは『オレの女に手を出すんじゃねえ!』とか声高に宣言するものでしょ?ホント、根が暗いわね、あんたは。行くわよ?」
「助けてもらっといて、根が暗いとか言うか、お前は!?」
オレの反論を無視して、腕を組んだまま彼女は走り出す。
途中、ヒールで走ることになった彼女を庇うように、彼女を支え、抱きかかえながら走る。少しだけ……いや、少しどころじゃなく、意識もしてるし、下心もあった。
だって、何かこう言うのって……この後、恋とか生まれるっぽくない?
なし崩し的に、うまく行かないか?オレと愛里で。
「あー、久しぶりに走ったわ。どうしようもないわね、あの男」
公園のベンチに2人で座った途端、彼女は深呼吸と共に悪態をついた。
しかも、足をぶらぶらさせながら、オレに何かを要求する。
「テツ、靴を脱がせて。痛いのよ」
おいおい……それは何だかエロくて良いけど、どうなんだ。
でも、言うとおりにしてしまう自分が悲しい。だってこんなものすごい、下から嘗めるような角度で見上げられるなんて。
「はやく」
オレは黙って頷くしかない。彼女の足下に跪いて、両手で靴を脱がせる。
ちらっと、彼女を見上げる。スカートから見える足もぎりぎりだし、けだるそうな彼女の表情が、オレの心をさらに高鳴らせる。
「ついでだから、足を揉んでよ。あの男、人をこんな所に連れだして、この格好で歩かせるんだもん。バカじゃないの?足、痛くなっちゃったじゃないの」
その男についてったのはお前だろ?何でこう、軽いっつーか、何というか。
でも、素直に揉んでしまう。オレ、マゾっ気あるんかな?ホントに。
「ついて行かなきゃいいじゃん。バカだって判ってんなら」
「あら、スペックは良いのよ?ああ見えても」
「……ださいし。何、あのてかてかジャケット」
「そうなのよね。今日会ってみたら、あれだったのよね。この間はもうちょっとマシだったんだけど。あれでも、N大の理学部、お父さんが建築会社を経営してるの」
「それ、今は金持ってるかも知れないけど、親の後は継げねえし!てか、オヤジの大学だし!」
「鉄城の大学とか、そんなのは関係ないでしょ?まあ、確かにあの大学に行ったときに会ったんだけど」
やっぱり。
ホントに、オヤジも、愛里もウソがうまいんだ。そうやって、2人でこそこそ会ったりしてるんだ。
でも、ホントの所、どうなんだろ。
「どうしたの?テツ?暗い顔して」
「いや……」
「そう言えば、テツって、こんな日によく迎えに来れたわよね。世の中こんなに浮かれてる日はないわよ?せっかく自由な身分なんだから、今のうちに楽しんでおかなくちゃ損よ?」
「自由な身分?」
「働いてちゃ、こんな平日の夕方に、遊びになんて行けないわよ。いくらイブだからって」
ああ、そう。それで学生の男を相手にしてたってことか?
「別に。暇だったから」
「そう。よかった。でも、もったいないわね、ホントに彼女もいないんだ。いい男に育ってきたのに」
彼女はオレの頬を撫でる。その手の冷たさに、やっぱりオレは誤解しそうになる。いや、もう、とっくに誤解してるのかも知れない。どうしてオレが呼ばれたんだろう。どうしてオレは、こんな所で、彼女に跪いているのか?
彼女は、オレのこと、少しでも思ってくれてるから?
誤解するだけの条件が揃ってる。期待し過ぎちゃダメだと判ってるのに、オレはどうしても期待してしまう。自分の弱さに負けそうになる。
「あのさ、愛里」
「あ、……鉄城!」
彼女は笑顔で顔を上げ、ヒールも履かず、痛いと言っていた足で立ち上がり、公園を素足で走った。その先には、オヤジがいた。コートに身を包み、明らかに彼女を捜していたといった顔で、公園の中に入ってくる。
「何でテツが?……テツ?」
オヤジの声を最後まで聞くことなく、オレは走っていた。
逃げるつもりなんか無かったのに、必要もないのに、ただ走ってた。
04
最低だ。オレってヤツは。何でまたしてもこんな所にいるのか。つーか、彷徨っているのか!!
気付いたら、地元の地下鉄の駅前を、またしても、……またしても、うろついていた。無駄にコンビニに入って雑誌を読んだりしながら、空が暗くなっていくのを眺めていた。いいかげん、する事もなくてコンビニを出る。この間彷徨っていたころのことを思えば、制服じゃないだけマシだろう。
しかし……オレってヤツは、どうしようもないな。何かいやなことがある度に、こうやって行くあてもなく、しかも自宅の近所をふらふらと彷徨うのか?いくら家に帰りたくないとはいえ。人と話をしたくないとはいえ。
もう、寂しいんだか、苦しいんだか、よく判らなくなってきた。ただ、心が重い。
「沢田くん、1人?」
オレは、何故か、彼女が歌っていた、このクラブの前に来ていた。彼女がいると知っていたわけでもないし、来るつもりもなかったのに。
「何してるんだよ。出かけてただろうが、お前は」
「夜は用があるから帰るって言ったでしょ?沢田くんこそ、途中でいきなり帰ったくせに、どうしたのよ?御浜が心配してたよ?」
この間の夜と同じように、ステージ用の衣装に身を包み、濃い化粧をしたティアスが、クラブの入口でオレに声をかけた。用って言うのは、ここで歌うことらしい。
「だーかーらー!あいつはオレの保護者かっつうの!!あいつの方が、よっぽど危ういくせに。お前、今日は1人なの?こないだはいただろ?佐伯佳奈子」
新島と彼女の話は、ティアスからも電話で聞いていた。ちゃんと会って、しかも2人きりで話すのは久しぶりだけど、彼女との間に壁は感じなかった。
「うん。今日もいるけど、中で準備してる。そうだ、こんや時間ある?」
「え?まあ、夜は」
むしろ暇ですが。帰りたくもないし。
「だったら、おいでよ。灯路もいるし」
「え、いや、まあ……」
彼女はオレの手を取り、引っ張った。乾燥した彼女の手は、思ってた以上に気持ちよかった。御浜の顔を思い出さなかったわけじゃないけれど、黙って彼女の手を握り返し、後ろについて扉をくぐった。
愛里に逆撫でられた心を、少しだけ撫でられたような、そんな感じだった。
多分、誰でもよかったのかも知れない。彼女が作った穴を埋めてくれるなら。
「終わったら、灯路と一緒に待っててね。部屋においでよ」
「うん。……て!?」
笑顔で言った彼女に、思わず笑顔で返してしまったが。何げにとんでもない発言してませんか、大胆だな。
「もちろん、部屋にはみんなで、ですよ?ちょっと期待するようなこと言ったからって、エライ態度が豹変してますな?」
後ろから、新島がわざとらしく肩を叩く。彼は1人で壁際に立っていた。
「豹変なんかしとらん」
「そう?にやけちゃって、変質者っぽかったけど?満更でもないんじゃん、やっぱ」
「無いって、オレには……」
愛里が……いるって言うのは語弊があるな。大体、あの女、オレのことを振り回したあげく、足まで揉ませといて、よりにもよって、オヤジと約束してたっつーのが……へこむ。
たまたまだよ。たまたま、オレの目の前に現れたのがティアスだった。それだけ。どうしてここに来てしまったのかは、オレにも判らないけれど。
「何だよ、にやけたり、暗くなったり、忙しいヤツだな。どこ行ってたか知らないけど、ティアスもああ言ってるから、待っててやれよ?」
「2人きりでもないくせに。大体、みんなって、誰よ」
「だから、オレと、ティアスと、彼女」
「カモフラージュ要員か、オレは!」
「ご明答。よくできました」
彼は悪びれない笑顔を見せる。要するに、新島と、その彼女である女優、佐伯佳奈子が一緒にいるのを誤魔化すための、賑やかし、というわけだ。確かに、年齢だけなら親子くらい離れてるし、彼女はいろいろめんどくさそうな芸能人だし、気を使ってるんだろうけど。
「何だよ、そのつもりかよ。自分のために人を振り回すんじゃねえよ」
そんなのは、愛里だけでたくさんだ。
「それをどう捉えるかは、お前しだいなんじゃね?無理強いはしないけど」
「結局どっちなんだよ」
「何が?」
「何がって、お前が」
ティアスが、オレに気があるようなことを言ったくせに。
「どうだろ。言ったのはオレだけど、ティアスはお前に何も言ってないし。気にしてるんなら確かめてみれば?そんな人生に疲れた顔してないで」
「疲れてないっつの」
「途中でさっさと帰ったお前を気にしてたのは確かだよ?着信履歴、残ってない?」
そう言われて、オレは港を出て以来初めて、携帯を手に取った。鳴ってるのは知ってたけど、見たくもなかった。
新島の言ったとおり、ティアスから着信があった。18時3分。このくらいの時間だと、もう御浜達とは別れて、この店で準備を始めているころだろう。携帯に残る彼女の名前を見ただけで、心が随分軽くなっているのを感じた。
「意外と判りやすいのな、沢田って。顔赤いし」
「うるせえな。赤くねえって!」
「いいけど」
彼は特に気を悪くしたような顔もせず、笑顔を浮かべていた。真と違って、新島は普段、常に笑顔を浮かべてるようなタイプじゃないから、ホントに機嫌がいいのか、この程度のことは気にならない程度に寛大なのか。
あとは、御浜から1件、オヤジから2件。多分、オレが港から地下鉄に乗るくらいの時間だった。
御浜は判る。ああいうとき、彼は心配している。その態度を見せるときと見せないとき、きちんと使い分けるのが、彼の優しさであり気遣いだ。十分承知してる。でも、こうしてティアスの傍にいることになった今は、ちょっとだけ後ろめたい。
オヤジは……。
「沢田、始まるぞ?今日はこの1曲だけだから」
「……ああ」
オレは相当暗い顔をしていたのだろう。新島はあえてそれを避けるように、ぎこちない笑顔でステージを指差した。その動きとともに、ホール全体の照明が落ちた。
ステージには、ピンスポを浴びるティアス。その後ろにはスポットを避けるようにピアノを弾く佐伯佳奈子。この間のようなバンド形式ではなかったせいか、佐伯佳奈子は余計に目立っていた。しかも、間の悪いことに、このクラブという場に似合わないスローテンポのクラシック。まだ、以前のようなロックなら良かったかもしれない。
ティアスか、佐伯佳奈子か、どちらの意図かはわからないけれど、勝負したかったのかもしれないけれど、選曲も相まって、ホールではティアスの後ろで弾く「女優」の話題で持ちきりだった。
聞こえてくる、心無い声を新島がどんな思いで聴いていたかは判らなかったけれど、彼が不愉快そうな顔をしているのが暗闇の中でも確認できた。でもオレは、逆に安心して、ティアスの歌を聴くことが出来た。
彼女の歌は十分すぎるほど、オレを惹きつけていた。それを、はっきりと自覚する。一瞬だけど、愛里のことを忘れられる程度には力を持っていた。だけど、この状況で歌うのは、彼女が可哀想にも思えた。
オレだけが、彼女を見て、彼女の歌を聴いてるような錯覚すら覚えたから。
「ありがとうございました」
ざわめきのなか、二人は袖に引っ込んだ。
「沢田、出ようか。外で待ち合わせてるからさ」
「そうだな」
不愉快そうな顔で、彼はそういうと、オレの顔を見ることなく、外へ向かった。
「カナさんはティアスを推して行きたいんだよ。少しずつバックを減らして、彼女が目立つように、彼女が好きなように出来るように。なのに」
オレに話しかけたのか、それとも独り言なのか。判断に困るほど小さな声で、彼は呟いた。オレは妙に安心して歌を聞いてしまっていたけれど、彼女だけを見てしまっていたけれど、それは、彼や彼の大事な女の意図とは、ずいぶん離れたところにあったようだ。
「カナさんが……」
普段の新島からは想像できないような、そんな真剣な面持ちで、彼は呟く。少しだけ、その様が切なかった。
オレはこんな風に、誰かのために思えるんだろうか。悲しめるんだろうか。
例えば、愛里のために。
05
「おいでよ」と彼女が言うので、卑怯だと思いながら黙ったまま、彼女の後についていった。そこで、オレは初めて佐伯佳奈子と話をした。
雑誌やテレビでしか知らない人間と話をするのは、何だかくすぐったい気分だった。御浜ぐらいにはこのことを話してやろうと思ったけど、ティアスのことを話すのが面倒で、やめようなんて考えながら、彼女の話を聞いていた。
帰りのタクシーの運転手に、オレ達のことを「教え子達なの」なんて、当たり障りのない話をしている彼女を、新島が複雑な表情で黙って見ているのを目の当たりにしてしまった。
『理由考えるより、これからどうしようかなって考える方が楽しくない?』
『……新島って、そうやって彼女とつき合ったんだ』
『そうやって、つき合ってるんだよ』
この状況で、こんな扱われ方で、どうしようかな?なんて考えられるんだろうか。
重いな……。
重く、しかし当たり障りのない会話をしながら、10分ほどでタクシーは止まった。オレが思っていたより、ずっと彼女たちの家は近かった。駅から近いのに喧噪からは離れている、N市内でもいくつかある、高級住宅街に分類される場所だった。すぐ傍にある女子大も有名なお嬢様学校だ。(どんな女が通ってるかなんて知らないけど)
「……誰のうちに、金があるって?」
オートロックキーを開け、ホテルのロビーと見まごうばかりのエントランスを抜けたとき、思わずそう、新島に文句を付けてしまった。
「だって、ここはカナさんの買ったマンションだし。でも、さすがにグランドピアノは置いてないぞ?」
だって、このやたら広い共有スペースは一体なんだ?部屋はどんだけ広いんだよ。
「それは、別宅だからだろうが」
ヒトのことをお坊ちゃんだの何だの言ったくせに。オレんちなんか、大したこと無いじゃないか。
普段、ティアスはこんな所に1人でいるってこと?彼女は、オレんちに来てどう思ったんだろう。思わず、佐伯さんと2人で先に歩いていくティアスを、オレは睨み付けるように見つめていた。
「ティアスんちは、フツーだよ。どっちかつうと。親いないから遺産と義兄ちゃんの稼ぎだけで食ってるし。あそこんちの義兄ちゃんは、生活に困らない以上に何とかしようとするヒトじゃないし」
「……いや、別に……」
「顔に書いてあるぞ?別に、自分で稼いでるわけじゃないんだから、そんなこと気にしてどうするんだよ。お前んち、充分だって」
「だから、気にしてねえって」
小声で言い訳して、彼女たちを追いかける。彼女には聞かれたくなかった。やたら広いエレベーターで4人、沈黙が流れる。
そう言えば、愛里の家もマンションだけど、でかいんだよな。まあ、でもそれは、母さんの実家だから、気にはしてなかったんだけど。オヤジと一緒に挨拶に行くと、やたら『困ってない?』なんて聞かれるんだよな。
子供のころのことは覚えてないけど、もしかしたら、昔の方が酷かったのかも知れない。オヤジがこんなに出世する前の話なわけだから。伯母さんにしたら、単純に甥や姪が心配なだけなんだろうけど。
愛里の言葉が、彼女の考え方が、オレの中に染み付いて、オレを振り回しているのを自覚させられる。自覚してるのに、判ってるのに、振り回され続ける自分が滑稽で笑ってしまう。それでもやめられないんだから、オレは相当重症だ。
「あ、そういえば、何も買ってなかった」
カードキーを差し込みながらティアスが思い出したように佐伯さんに声をかける。
「何もって?」
「お茶すら出せないけど」
「先々週来た時も、そんなこと言ってなかった?ちゃんと暮らしてる??」
「……一応。ご飯は食べてます」
どうやって食べてんだか。生活力皆無だな。珈琲一杯満足にいれられなかったし。
「灯路、ティアちゃんのこと、もうちょっとかまってあげてよ」
「えー。これ以上かよ。ただでさえ、保護者かよ、って言われてんのに」
そう言いながら、オレの腕を引っ張り、佐伯さんにオレのことを指し示す。隣のティアスが、少しだけ不愉快そうな顔をした。
「大体こいつ、不器用すぎるんだって」
「そこまで酷くないわよ。今日はたまたま!ちょっと買い物に行かなかったら、朝、食べるものが無かっただけだもん」
「バイトしてるわけでもないのに、行かなかったって状況があるか!」
「もう、煩いわね。そんなこと、ここで言わないでよ!いいから、なにか買ってくるから、先に入ってて」
むっとした顔でエレベーターに戻ろうとするティアスを、新島が引き止める。
「いいって。もう遅いから、オレが行く。カナさん達と待ってろ」
「灯路!」
「ティアちゃん、いいから入りましょ。沢田くんも、つき合わせちゃって悪いわね。お家はいいの?」
何と言うか、生活感の無い人だった。笑顔が作り物みたいに綺麗で、少しだけ戸惑った。二人に言われ、部屋に入る。
「いえ、もともと、今夜はうちに帰る予定ではなかったので。大丈夫です」
「そうなの?」
あ、急に「同級生のお母さん」みたいな顔しやがったな。
「……実は、今夜は父の客が来てるので、せっかくなので気を使って、友人宅に泊まりに行くと言って出てきてたのですが、その友人と連絡が取れなくなってしまったところに、彼女たちに声をかけられたものですから」
「そう」
『ついさっき、東京出張が決まって、戻りは明日の朝だな、早くて。明朝、直帰して良いか?』
そう言ってたはずのオヤジが、愛里を迎えに現れた。
『彼』は東京に行かず、地元にいる。彼女も。
『彼』と彼女が一緒にいるにしろいないにしろ、彼は家に戻ってくるだろう。
「……すぐに、連絡が取れると思いますから。うち、放任主義なんですよ。父子家庭ですし、父は今、大学が忙しいみたいで。それより、新島の家の方が大変じゃないです?」
彼女は、黙って微笑むだけだった。
持ち主同様、まるで雑誌に載ってるような生活感のない、30畳くらいはありそうなリビングに通され、ソファに腰かけた。
「ティアちゃん、もう1ヶ月くらいこの部屋にいるわよね。ずいぶん綺麗にしてるじゃない」
「使ってないから」
佐伯さんに答えながら、ティアスはオレと一人分の間を空けて、同じソファに座った。
微妙な距離感に、彼女の方を向くことが出来なかった。
「どうして?」
「だって、寝室だけで十分じゃない。あと、キッチン」
「キッチンも、あんまり使ってる感じがしないけど」
「そこは突っ込まないでよ」
チラッと、彼女が隣に座るオレを見たのが判った。
もしかして、オレに対してかっこつけてるってこと?気にしてるってこと?
「お前に生活感がないのは知ってるよ」
「失礼ね。ちゃんと暮らしてるわよ」
「リビングとか使ってないの?」
「だって、広すぎて落ち着かないじゃない。ピアノを弾くくらいよ」
彼女の台詞に、思わず顔が綻ぶ。指差した先に、アップライトピアノがあった。彼女がグランドピアノの話をした理由も判った気がした。茶化してるわけではなく、うらやましかったんだ。
「飲み物も食べ物もあるじゃない。ほら。沢田くん、どう?」
佐伯さんは、これまたやたら広いアイランドキッチンに入り、業務用並にでかい冷蔵庫を開け、缶ビールを出した。指さした先には、乾きモノが並ぶ。
「あのねえ。私も沢田くんも未成年なの。大体、私は飲めないし。カナは、ここに来るたびにそんなモノばっかり買ってきて」
「あ、オレはいただきます」
こんな日は、飲まなきゃやっとれん。立ち上がり、キッチンへ向かい、佐伯さんからビールを受け取る。
ティアスのこの態度に、浮かれてる自分がいるのも自覚してる。だって、最初の印象が悪かったから気付かない振りをしてたけど、やっぱり彼女は好みのタイプだし(愛里と似てる、と思う程度には)メールも電話も、苦になるどころか楽しいし。
もしかしなくても、オレはこの女のこと、けっこう好きなのかも知れない。
でも、そう思うと、余計に辛くなる。彼女のことを、御浜が好きだし、オレはどうしても、あの酷い女を心の中から捨てきることが出来ないし、ティアスをその代わりにしているような気がしてたまらない。
ティアスとのやりとりで、自尊心を守っているような。でもそれは、ティアスにも、御浜にも失礼な気がするし。
「ねえティアちゃん。沢田くんって、いつもこんな感じ?」
『え?』
佐伯さんの思わぬ言葉に、思わずティアスと返事がかぶってしまった。
「……ちがうよ」
「そうよねえ。聞いてた話と違う感じ」
缶ビール片手にオレに人の悪そうな笑顔を見せた。
しかし、かなりいい年のはずなんだが、感じさせんな……。中学生の娘がいるはずなんだが。思わず誤解しそうなくらい、表情がエロイし。
「ねえ、そこにピアノがあるから、何か弾いてよ?ティアちゃんから聞いてるの。弾けるんでしょ?」
「……いま?ここで?」
佐伯佳奈子の前で?!
06
『冗談だろ?!また、指が動かなかったらどうするんだよ!』
……とはさすがに言えない。
仮に、佐伯佳奈子だけだったら、プロ相手だし、なんか遠い人なわけだし、『悩み相談』みたいな感じで、逆に楽だったかもしれない。『こんなことってあるんですか?』みたいな感じで……。
しかし彼女はプロであって、別にカウンセラーというわけではないから、困るかもしれないけど。
いや、それ以前に、時々弾けなくなることとか、ティアスに知られたくないし。そもそも、彼女の前では弾けなかったことがないから、彼女はそのことすら知らないし。知ったとしたら……なんていうだろう。心配してくれるだろうか。いや、彼女はそれを御浜に話すかもしれないし。
絶対言えないし……。でも、弾けなかったらどうするんだよ。そもそも、オレはこんなプロの前で弾ける様な腕じゃないし!
「別に採点しようってわけじゃないの。だからそんなに難くならないで。ティアちゃんが、君のピアノが好きだって言うから、聴いてみたかったのよ」
「カナ!」
少しだけ照れた表情で、彼女は叫ぶ。オレのこと、そんな風に話してるんだな、って思うとなんだかとても嬉しかった。
「ホントに、何でそんなに自信なさ気なの?話してみたときにはそんな風には見えなかったのに」
「……カナ。もう、人の話を聞いてよ!」
わりと、似たもの同士?この二人。マイペースだな。
「もう、夜中だから……やめとこ、ね?カナ??」
「大丈夫でしょ?ちゃんと防音設備のあるとこ選んでるんだから。私が何で食ってると思ってんの?商売道具よ?」
「男と会うための隠れ家の癖に……」
「いいじゃない。たまには役に立つんだから。ね?」
ね?って、オレに同意を求められても困りますが。さすが別宅、そして儲けてるだけはある。
「適当に買ってきたけど……?お前ら、何やってんの?」
ピアノを眺めながら微妙な空気の中にいたオレたちに突っ込んだのは外に出ていた新島だった。正直、助かった……のか?
「カナ、座ったら?」
「そうね。そうするわ」
エロく、人の悪い笑みを彼女は浮かべる。何か言いたそうに彼女を下から上まで舐めるように見つめた。
「なんか、そういうとこも可愛いわ、ティアちゃん」
「何でカナさん、そんなにティアスのこと好きかなあ?」
リビングのローテーブルの上に、コンビニの袋を広げ、並べながら彼は彼女に突っ込む。よく見たら、佐伯さんとオレが飲んでいるビールと同じものを、彼は買ってきていた。
「だって、かわいいじゃない」
「度が過ぎるんだよ」
そして、ティアスにはミネラルウォーターを買ってきていた。恐らく、いつもこうしてるんだろう。彼らの中の、妙な連帯感のようなモノを感じて、オレは少しだけ退いてしまった。
それを判ってるのかどうか、ティアスが一歩だけ、オレに近付いた。ソファに並んで座るオレ達を、新島がちらっと眺めたのが、妙に恥ずかしかった。
「ティアちゃんの後ろで、沢田くんがピアノを弾いたら、絵になると思わない?2人とも綺麗で」
ビール片手の酔っぱらいのくせに、いや、それだからこそ、佐伯さんはゆっくりと新島の後ろに歩み寄り、座り込んでいる彼の背中を、屈んで撫でた。触れるかどうかと言うくらいのさりげなさだったけど。
「沢田と?まあ、コイツ、顔だけは良いからな」
「そんなこと無いわよ。ティアちゃんが誉めるんだもの。聞いてみたら、良いかも」
もしかして、そう言うつもりで、オレにピアノを弾かせようとしてたのかな、この人。
「……誉めてたっけ?」
「誉めてません」
意地悪くティアスに聞いてみたけど、案の定、彼女は照れた表情をしてそっぽを向いてしまった。その様子が妙に可愛い。
彼女は、オレには誉め言葉を聞かせてない。ただし、否定もしてないのも、いまは判ってる。彼女はあの時、まるでオレの心を見透かしたように『楽しくしてあげる』と言っただけなのだから。
「見栄えは、合格点。あの、年齢相応の汚れてない色気が良いじゃない?」
「わからん。……それって、顔が老けててエロイってこと?」
「もう、そう言うとこ、子供よね。とりあえず、見栄え上、ティアちゃんと並んでたら、かなり目を惹くと思わない?って言ってんのよ」
そう言う話は、本人の目の前でしない方がいいと思うけど。気にしてないな?
「ステージではね、ティアちゃんの綺麗さを出したいわけよ。普段はこんなに可愛いのに、がらっと変わるところが魅力よね」
隣で、ティアスが照れて俯いていた。しかし、佐伯さんって、ホントにティアスのこと好きだな。でも、ステージ上の彼女は、確かに綺麗だけど。
嫌いじゃない。
「でも、それなら白神の方が似合ってるかもね。ステージに2人で並んでたら、作り物みたいで、綺麗って言葉にはぴったりだ。沢田は……」
「言いたいことがあるなら、はっきり言え、はっきりと。でも、まあ、その意見にはおおむね賛成だけど」
「誰?友達?」
また、彼女は新島を撫でる。今度は、右の耳を左手で。そしてやっぱり、触れるかどうかの距離で。髪を弄ぶような手つきで、彼から手を離していく。エロイな、しかし。隣にティアスが座ってることと相まって、見てるこっちが、妙な気分になってくる。新島は何食わぬ顔してるけど。
それにしても、ティアスは、オレのことは佐伯さんに話してたくせに、御浜のことは話してないってこと?
「御浜のことよ。沢田くんのお隣さん。ほら、この人」
……へえ。御浜に関しては、写メとかあるんですか。へえ……。しかも、話したことがあるっぽい口振りだし。余計な期待したじゃねえか。
ティアスは佐伯さんの元に移動し、自分の携帯を見せた。
「……息を飲むくらい綺麗な子ね。中身も外見も。今どきこんな子いるのね。モデルか何か?」
「いや、王子様系一般人」
「なに、その分類?」
新島の適当発言について、佐伯さんがオレに聞いた。
「いや、まあ。間違ってないと思います。近所のおばさまがたにも、見かけ込みで『息子にしたいくらい良い子』と大人気なので」
「御浜は、良い子だと思うよ?」
「そう?ティアちゃんまでそう言うなら、そうかもね。でも、確かに、お似合いって感じ。ティアちゃんもこの子も、汚れてない感じがして」
ええと。オレは汚れてるってことでしょうか。汚れてない色気は、ピュアさに完敗☆ってことでしょうか?だから、何でそう言う他人の評価を人前でするのか、この人達は!!
「……でも、私は沢田くんのピアノが好きだけど」
ちらっとオレを見た後、目をそらし、俯きながら彼女はそう言った。もしかしたら、オレが不機嫌な顔をしていたのに気付いたのかも知れない。
携帯を閉じ、黙ったまま、オレの隣に戻ってきた。
期待が確信に変わっていく。
ダメだって。もう、完全に彼女のことを見ることが出来ない。
ダメだって。彼女の横にいちゃいけない。逃げなくちゃ。
オレは、この女のこと好きになんてならない。好みだけど、嫌いじゃないけど。それだけだって。
でも、どこに逃げればいい?家には帰りたくないし、寄りつきたくもないから御浜の家も秀二の家もダメだ。新島は……ここにいるし。
「す……すみません、ちょっと、電話が……」
上擦ってしまった声を隠すように、急いで携帯片手に席を立ち、奥に向かって廊下を進む。
広いけど、部屋数自体は少なく、寝室が一つと、ゲストルームらしき部屋があるだけだった。まあ、男と会うためっつーか、その男は新島なわけだけど、隠れ家に使ってたんならこんなモンかとも思った。
それより、電話。携帯のメモリを出しながら、他に泊めてくれそうなヤツを探す。でも、こんな時間だし、難しいかも。もういつの間にか11時だ。そろそろ地下鉄もなくなる。ここ、確か終電の最終駅だし。
「あ、相原?お前、今夜さ……」
『悪い。いま、ちょっと無理。クリスマスに女に振られ……』
聞かなかったことにしよう。そんな不幸な現場(オレも似たような目に遭ったからこそ)に居合わせた男と一晩過ごして、傷を嘗めあいたくはない。とりあえず、愚痴をこぼす相原の声を遠ざけるように携帯を耳から離しつつ、他に誰かいないか考えることにした。
したけど……オレ、友達少ねえなあ……。真の家とか無理だし。
「沢田くん。何してるの?携帯かけてるんじゃないの?」
つけっぱなしの携帯を腕を伸ばして自分から離す姿は、確かに奇妙だったかも。不思議そうな顔を見せるティアスの気持ちもわからんでもない。
『え?沢田、もしかして女といるの!!酷!!裏切り者!!』
相原が電話の向こうで何か叫んでいたが、思わず電話を切ってしまった。
「いや、まあ……その。何だよ?」
「もしかして、今日、帰りたくないんじゃないの?沢田先生のお客さんだなんて言って。沢田先生、そんなこと一言も言ってなかったよ?」
そう言えば動物園を出てから、オヤジの伝言を思い出して、ティアスに親父へ連絡するようにメール入れといたんだっけ。連絡したんだな……。
「泊まるとこ、探してた?こないだ、灯路の家に泊まった話も聞いたけど?」
「別に、なんでもいいだろうが。……新島の家に泊めてもらおうかな?」
「灯路は、カナを送りに出てったよ?」
「は?なんで?」
「さっき、急に仕事の電話が入って、タクシーで事務所に戻るって」
「送るって……どこまで?ここの外?」
「ううん。ついていった」
首を横に振り、あっさりそう言った。
「だから、帰りたくないならここに泊まってけば?以前、泊めてもらった借りもあるし」
ダメだって。お前からも逃げたいのに。
「嫌いじゃない」、それだけだったはずなのに。愛里がいるから、御浜がいるから、好きになったら面倒くさいから……。必死で押さえていたのに、隠してたのに。電話もメールも、彼女と過ごす時間も、それ以上のことを考えないようにしていたのに。
判っていたから、見ないフリをしていたのに。
期待が確信に変わって、確信がオレ自身の心を刺激して、押さえつけていたモノを、全て壊す。
「……ホントに、良いのか?」
「?うん。別に、良いけど」
ダメだって言うことはよく判ってる。だけど、もうどうしようもなかった。
御浜に申し訳ないと思いながら、彼に嫉妬していた自分が、何を言っても仕方がなかった。