第2話(the heads)前編
01
朝7:00。何故か「月光」で起こされた。
何でオレ、リビングのソファにもたれて寝てたんだ?
ピアノを弾いていたのはティアス。オレを起こしに来たのは柚乃だった。
「テッちゃん、今日は走んないの?大体、いつ寝たのよ、こんな所で。真冬なのよ?風邪ひくわよ?」
布団になるものが何もなかったからか、オレはティアスの着ていたコートにくるまっていた。
昨夜、結局ティアスとオレはずっと話をしていた。
一応客間も用意したし、風呂にも入った。だけど、リビングに戻って、ピアノの前で話をしていたら、いつの間にかここで寝てた。
清々しいほど、やましいことは何もない。
そして、オレはうっかり寝てしまったというのに、俺と一緒に話していたはずのティアスは、朝からピアノを弾く程度には元気だった。
「いや、もう、走ってる時間とかないし。……眠いし。今日休もうかな」
「私は止めないけど、パパは今日、帰ってくるわよ?」
「……顏、洗ってくる」
「朝食の準備、手伝うよ」
ティアスは柚乃のあとについてキッチンに向かう。何でそんなにタフなんだ。
なんか、すっげーくだらないこと話してた気がする。いつ寝たのかも覚えてないし。
『良いよ、今くらいの声なら。それより、続き、歌って。聞きたい』
あの時から、オレは確実におかしくなってる。
何であんなこと言ったんだか。
顔を洗って、制服に着替えてから、リビングに戻る。
そう言えば、最近朝は練習曲ばかり弾いてた気がする。
彼女が昨夜歌った、モーツァルトの子守歌の楽譜を探す。たしか昔、弾いたことがある。
彼女の歌を思い出しながら、指を動かす。
「朝から子守歌で寝かしつけてどうすんのよ?ご飯出来たよ?」
リビングまで呼びに来てくれた柚乃の後ろで、ティアスが微笑んでいた。
彼女の微笑みが、少しだけ照れくさい。
「なんか、すごく優しい。沢田くんのピアノ」
「つまんなかった?」
「ううん。すごく良かったよ。私はああいう、感情的なのが好きだな。すごく丁寧だし」
優しい?感情的?丁寧?
ホントは、今のオレは、指が動いただけでも驚いていたのに。
「ティアス、今日はどうするの?家に戻るの?」
「ううん。芸大に行って、賢木先生の所に顏出して、受験の話をしようと思って」
「受験?」
箸と茶碗を持ったまま、オレの顔を見る柚乃。
そういや、そんな話、オレもすっかり忘れてたし。
「試験を受けるとかって新島から聞いたけど。学校とか行ってんの?」
「ううん。でも、高卒認定は持ってるから。来年の入試を普通に受けるよ。推薦枠があるって、賢木先生は言ってくれたけど、あの大学、ただでさえ人数少ないし」
「そだな。声楽なんか、たぶん5人くらいしか入れないはずだしな」
昨日、芸大に行って、ちょっと考えが変わったって感じだな。
「受験しないかもしれないし。なんか、大学に入らなくても良いかなって思って」
「なんで?てか、お前、何しに日本に来たの?兄ちゃんがベルギーで探してんだろ?」
「あ、それはね……」
呼び鈴が鳴る。多分、御浜だ。
たまにこうして呼びに来るけど、今日は絶対来ると思ってた。
「オレ、出るわ」
もう食べ終わっていたので、片づけを任せて玄関に向かう。
やましいことは何もないけど、心苦しかったので、というのもある……。
「ティアスとちゃんと仲良くしてた?」
「お前はお母さんか!別に、フツーだよ、フツー。柚乃とキッチンで飯食ってるよ」
フツーフツーと言いながら、必死にフツーに取り繕う自分は、もういっぱいいっぱいだ。
「今朝、ピアノ弾いてたね」
「……月光は、ティアスだよ?」
「でも、子守歌はテツだろ?珍しいね、朝、練習曲じゃないのを弾くのって」
「たまたま楽譜があったからだよ」
ティアスの顔を見に来たであろう彼を、彼女の元へ案内する。
「今日、鉄城さんは?」
「出張だって。……柚乃はいたぞ」
「別に何も言ってないのに……」
……なんか、墓穴を掘った気がするな。
余計なこと言わんどこ。でも、誤解されても嫌だしな。
「急な出張だったんだね。いつもは前日かその前には判るのに」
「そういえば、そうだな。まあ、親父が何してるか、俺もよく判ってないし」
そう言えば、御浜が家に来る時って、大抵親父がいないときだな。まあ、フツーは家に親とかいたら気い使っちゃうから、嫌かもしれないけど。ティアスも、親父がいない方が気を遣わなくて良いって言ってたし。なんか親とかにいちいち説明すんの、めんどくさいし。
御浜って、そう言うタイプじゃないけどね。
「ティアス、今日は何か用事がある?」
キッチンにつくなり、朝食をとるティアスに声を掛ける。ほとんど変わらない、柚乃の微妙な表情の変化に、オレは背筋が凍る思いだ。うちの妹は本気で、怖い。
「あ、ごめん。御浜のメール、今朝見たばっかなんだ。今日は大学に行くつもりだから……」
「あ、いいよ。そんなの気にしないで。また、連絡する。昨日みたいなことあったらまた呼んでよ」
「うん。ありがと」
御浜のためには、こいつらを二人にしてやった方がいいのか?
「テツ、今日はバス?バスなら、そこまで一緒に……」
「……いや、今日は愛里の試験が近くてレッスンないから、原付で行く。バスだと時間かかるし」
朝の通学時間ですら、巡回バスしかないんだぞ?一時間に二本だぞ?私立みたいにスクールバスくらい出せっての。
「そっか。じゃあ、ティアスにはバスの路線はオレが教えるよ。新島くんと連絡付かないんだろ?」
「ありがと。今まで移動は灯路に頼りっぱなしだったから、どうやって移動して良いかわかんなかったんだ。助かるよ」
こいつら二人を見てる方が、よっぽど恥ずかしいっつーの。
なんというか、不愉快だな。
人の幸せって、妬ましいっつーか……。
「じゃ、バスの時間あるから、オレ行くね。ティアスも、バス停まで案内するよ」
そう言って、二人は慌ただしく出ていった。
「テッちゃん……気を遣ったんでしょ?あの二人にって言うか、御浜さんに」
「何を?」
「一緒にバス停まで行けばいいじゃない。芸大なら、テッちゃんの学校の方向じゃない。何も、二人で一緒に行かなくても」
「いや、でも、ティアスだって、こっちに来たのが先週だって言ってたから、御浜が案内してやんのは別に良いんでない?」
「それが余計な気遣いだって言うのよ」
「なるようにしかなんないって」
「うわー、テッちゃんのくせに、なんかヨユーの発言。知ったかぶった発言。嫌な感じ。そんな、なるようにしかなんないような経験ないくせに」
何その、妹のくせに、人をバカにしたような発言は。
しかし、御浜がいなくなった途端、嫉妬に狂いまくってるな。
「お前、ティアスのこと嫌いなの?」
「全然?嫌いじゃないわよ?借りてきた猫みたいで」
嫌味たっぷりじゃねえか、お前は。
「ねえ、何で、ティアス?」
「何が?」
柚乃の質問の意図がよく判らなかった。
02
御浜の登校時間とずらしてさっさと学校に行くつもりが、結局遅刻する羽目になってしまった。
学校からほど近い公園の駐輪場に原付を隠し、そこから歩いて登校。とっくに始業ベルは鳴っていた。
まあ良いか、なんて思いつつ、メールの着信を確認。
『昨夜はお世話になりました。ありがとう(*^_^*)』
ティアスからのメールだった。
えっと……昨夜、教えたんだっけ?
なんか、すっげえもり上がったのも覚えてる。オレは始終笑ったり怒ったりしてた。
でも、彼女のこの行為に抵抗はなかった。特に驚くことでもないし。
『新島にツケとくから気にするな。バス乗れた?』
『今バス停で待ってます。本数少ないよ〜』
『乗るバス、間違えんなよ?』
「……テッちゃん。何にやにやしながらメールしてんの、気持ち悪い……」
「どわっ!?真!!何でお前?いつの間に?」
遅刻してるというのに、(してるからこそ)堂々と裏にある非常口から教室に入ろうとしていたら、隣に真がいた。コイツもどうやら遅刻らしい。
「……お前、遅刻だろ?」
「まあ良いじゃない。どうせ明後日には冬休みだし。今日も来るか迷ったくらいで」
「どうゆう理屈だ。だいたい、バス通じゃねえのかよ?お前」
始業ベルにちょうど間に合う時間のバスは2本しかない。この時間に遅刻してくるヤツは、家が近い自転車通学の連中だが、真もオレも路線は違えどバス通だった。
「寝坊したから紗良に送ってもらったんだよ。天気予報で雨降るとか言ってたし。もうすぐ1限目始まるよ?扉の前にいると邪魔」
「悪かったよ……」
「何、いやに素直。気持ち悪い」
「どうすりゃ良いんだよ、オレは!」
メール打つのに必死になってて、扉の前で立ちつくしてたから、悪いと思って謝っただけじゃん!なんだよもう。
ホームルームの終わりを見計らって、1限目の先生が来る前にこっそり教室に入る。
「なんだよ。泉も沢田も今ごろ来たのかよ、めずらし。バス遅れてた?」
席に着いた途端、後ろを向いて話しかけてきたのは相原だった。
「いや、今日はバスじゃないから」
「ふうん。じゃあ、今日はあの美人のピアノの先生とは会わないの?顔見に行こうと思ってたのに」
「お前な、何しに来るんだよ。毎回毎回」
「目の保養だって。佐藤さん、気の強いところがあれだけど、タイプだなー」
美人見たらすぐそれ言うじゃねえか。どういうのがタイプ何だか……。
「相原、今日は新島どうしたよ?いないの?」
真が相原の隣の席を指さした。
「なんか、病欠って親から連絡あったらしいよ。風邪でもひいたんじゃね?」
いや、違うと思うな……。確実に女といるぞ、アイツ。泊まりだし。
しかし、親から連絡って。親もグル?!
「ティアちゃんに引っ張り回されてんじゃないの?アイツ、保護者じゃん」
「いや、違うって。ティアスは今朝、一人で芸大に行ったし。御浜が朝来てバスの路線教えてた」
「あ、そーなの?怪しいねー、新島のヤツ」
どうやら、真も同じコトを考えたらしい。
「何?誰、ティアスって。新島の女?」
「いや、違う。新島の従姉妹だよ」
「でもあの二人、怪しくない?ティアちゃんて、超可愛いし」
「違うってさ」
ここで新島に彼女がいることを言っていいものか、一瞬ためらった。
普段なら気にすることもない会話なんだけど、今回の新島の態度は何だか違っていたし、何よりティアスがすごく気を遣っていたから。
「てか、何でその超可愛い女の動向を沢田が知ってんの?」
相原め……顔が良いって聞いたら、何にでも食いつくな。
「関係ないっつの、前向けって」
先生が教室に入り、号令をかける。1限目はオレの苦手な英語だった。予習も何もしてない。
愛里が、後々のことを考えたら、英語は力を入れておいた方がいいって言ってたけど、どうも身が入らない。
受験でも必須だし、仮に音大に入ることになったら……。
なんか、何も考えたくねえな。
今日、愛里に会わないですむのはよいかもしれない。
彼女のことを考えれば考えただけ、気持ちが重くなってくる。
指も、重くなる……。
なんで、オレはピアノを弾けたり弾けなかったりするんだろう。
一人で弾いてると?
愛里のレッスンや、御浜やティアスの前では弾けたんだ。
誰かがいれば弾けるってのか?そんなおかしな話あるのか。それって、自己顕示欲が強すぎて、みっともなくないか?要するに、人が見てるから、努力しますよってコトか?自分……。
『すごく良かったよ。私はああいう、感情的なのが好きだな。すごく丁寧だし』
つまらなさそうに弾いてるって言われたり、丁寧だって言われたり……。どっちなんだよ。
でも、昨日はピアノを弾きたかったんだ。彼女の歌のようなのを。
オレは彼女を羨ましがっているのか?
オレは彼女をねたんだいるのか?
どうしてなのか。この羨望と嫉妬に似た感情は何なのか、オレには判らない。
それでも、昨日一晩彼女と話して、判ったことはある。
オレは彼女を嫌いじゃないし、どちらかというと興味を持っている。
それは、御浜が興味を持った女だから、というのももちろんあるし、何より彼女の歌と、その姿勢に惹かれた。
オレにはない、彼女の強い意志と力。
歌を聴いたあとで、彼女の話を聞いた。だからこそ、その力を感じた。
御浜はもしかしたら、オレが一晩話して(ぼんやりとだけど)やっと気付いた彼女の姿に、一目で気付いていたのかもしれない。そして、彼のことだから、それ以上に彼女の何かを感じ取っているのかもしれない。
でも、御浜って、ホントにティアスの何がいいんだろうな。あんなに熱心に口説いちゃって。あの勢いだと、親父がいないって判ってたら、うちに一緒に泊まってただろうし…。
御浜があんなに興味を持つような女か……。ホントは彼女って、どんな女なのかな?オレが知ってるのなんて、きっとほんの一部分に過ぎないんだろうな。
ちょっと気が強くて、でも怒られるとすぐ弱くなる。
言葉が足らなくて誤解を生みやすくて、でも悪いと思ったら謝れる。
あと、不器用だ。一人で暮らしていけなさそうだもんな。オレがしてやらないとダメだったし。なんか新島が保護者みたいになってるのも判る気がする。ちょっと危なっかしいとこあるし。
確かに、最初の印象は悪かったし、愛里はティアスが嫌いだけど、オレは嫌いじゃない。
少なくとも、あの女の歌は、スキかもしれない。
「さーわーだー?なあ泉、この人なんかおかしいよ?顔にやけてるし。オレ、沢田って古風でお堅い硬派な男のイメージがあったけどな。今どき珍しい、天然記念物みたいな」
「いや、意外と影でやるこたやってたらしいよ?オレ、テッちゃんに中学の時とは言え彼女が2人もいたことにショックを受けたね」
「マジで!?この年寄りみたく枯れた男に人並みの性欲が!?……あ、でもどーせ、顔目当てでよってこられたはいいけど、すぐに飽きられて振られたりするパターン?その場しのぎは得意そうだけど」
「それ、昨日オレも言った」
「やっぱねー。……って、ホントに沢田おかしくない?」
「テッちゃーん!授業終わったよーん。ノートは?」
なんか好き勝手言われてなかったか?オレ。真がオレの頬を引っ張る痛みで気が付いた。
「いてえよ!ノートがなんだって?」
「いや、オレ途中で寝ちったから。相原も寝てるし。なんか、期末に出るとか言ってたのしか覚えてなくて、とってないかなーって思ったんだけど……」
真が人の手元をじっと見つめながら、ため息を付く。ノートなんか取ってねえつうの。
「何これ、怖!沢田寝ぼけてた?何このノートにある無数の点は!」
相原に言われ、初めて気付いたが、シャーペンの先で、ノートを何度も弾いたような痕が残っていた。
「いや、なんか考えごとしてたからさ。授業とか全然覚えてないし。てか、オレもう英語捨ててるし」
「威張って言うことか。もーいいや、誰かノートとってねえかな?聞いてくるわ」
……あ、オレも焦んないといけないんだった。
ホントに、何もかもどうでも良いな。どうでも良いってのはヤバイか。ただでさえ英語苦手なのに。
オレの気分を察したかのように、空はどんどん曇ってくる。原付で来たのに、勘弁してくれ。
「やっべ、今日は雨じゃなくて雪だって!雨だと思ったから送ってもらったのにな」
携帯で天気を確認しているらしい真は、画面と空を交互に見上げた。
「いいじゃんよ、オレなんか原付だぞ?……あ、降ってきた」
小粒の雨だったが、みぞれが所々混じっていた。道理で寒いはずだ。
「道が凍ったら危ないだろうが」
「ああ、南さんがね……」
その気遣いを他のヤツにもしてくれっての。メールを打ってたけど、相手はきっと南さんだな。他に彼女いるくせに。
ついでに自分の携帯を確認したら、メールが入ってた。ティアスだった。
『どうしよう、迷っちゃった!(>_<)大学に着かないよー。周りに畑しかない……』
「はあ〜?!」
突然立ち上がったオレに、びっくりした真。目をむいてた。
オレは真と画面と空模様を交互に眺めた。
あの女は、ホントに一人じゃ何も出来ねえっつーか、お騒がせっつーか……。
「早退する。あと頼むわ」
「テッちゃん、なんか昨日から変だね。……御浜がさぁ」
真が何か言いたそうだったが、オレはコートとバッグを抱え、こっそり教室をあとにした。
03
原付をのメットインの中に学ランだけ押し込んで、コートを着たあと、一瞬我に返った。
オレ、どうするつもりなんだ?
大体、『迷っちゃった』だけで、オレに助けを求めたわけじゃないし、もしかしたら御浜や新島にもメールしてるかもしれないし。
なんか、勢いだけで出て来ちゃったし、何で自分がこんなコトしてんのかよく判んないけど……。
昨日の新島とティアスの様子を見るからに、こう言うときに御浜に連絡するとは考えにくいんだよな……。仲はよいけど、頼ってないって言うか。ちょっとまだ、一線引いてるとこがあるって言うか。
それにしたって、オレの所にこんなメールを……。
とりあえず、新島に電話してみよう。連絡もらってるかもしれないし。
…………。
電源切ってやがんのか、あの男!相手はどんな女だ!言って見ろ!
しかたない。なんかものすっごく気が進まないけど、御浜にメールだ。
『あの後、ティアスからなんか連絡あった?』
たかが一文打つのに、こんなに気を遣ったことはないっつーくらい、気合いを入れたぞ。なんて当たり障りのない、完璧なメール。
『バス停で別れたきりだけど?どうかした?』
『何でもない。うまく引っかけたのかと思って』
よし、やっぱり完璧だ。妙な誤解も生まないし(多分)。さりげないぞ。
……って、何で御浜に連絡すんのにこんなに気を遣ってんだ、オレは。何もないんだから堂々としてりゃ良いんだけど、変な誤解を生んでもやだなあとは思うわけで……。
友達の彼女って、結構めんどくさいもんなわけね。
まあ、まだ彼女ってわけじゃないけど。
それにしても、予想通りというか……彼女は御浜には連絡してなかったか。多分、新島にはしただろうけど。(でも気を遣ってしなかったかも)
オレよりは、御浜の方が助けてくれる気がするけど、何でだ?
雨が強くなってきた。霙が顔に当たって痛い。コートの上から合羽を着込んで(意外と暖かくて良いんだ、これが)木陰に避難する。
「ティアス?お前、何してんだよ?どこにいるんだ?」
『ご……ごめん……。なんか、迷っちゃって、どこにいるか判んないの』
いきなり怒鳴ったからか、ちょっと声が小さくなっていた。子供かお前は。
「周りに何がある?畑だけ?道は?大通りある?」
『えっと、民家と……、遠くの木の陰に、大きな運送会社の看板が見える。トラックがたくさん走ってるけど、そんなに大きな道じゃない。工事してるみたい』
「バス停はどこで降りたんだよ?」
バス停と、彼女の見た景色で大体の場所は判った。確かに何も目印のないところだから、初めて歩いたら迷うかもしれないけど……そもそも何でバスを間違えるかな?天然ぼけか?
ホントに、誰かいないと生きてけないのに、無茶ばっかしやがって。
「どっか雨宿りできる所ある?雨が強くなってきたから」
『あるけど……。どうしたらいいの?私。道を教えて?場所判ったんでしょ?』
「うん、でも、お前、絶対また迷うから」
『あ、酷い……』
ちょっとむっとした声になった。なぜだか、彼女の表情が手に取るように判る。
昨夜話していて判ったけど、本当によく表情が変わる女だった。
「迎えに行ってやるから、待ってろ。近付いたら連絡する」
『え!?』
彼女が驚くのを無視して、オレは電話を切った。
雨と霙の中、原付を走らせた。
あの女は仕方がねえなあ、なんて思いながら。
ティアスは思ったより早く見つかった。彼女は随分歩いたらしく、かなり町中から離れた(といっても、芸大方面行きのバス自体が町中から離れたところも通るけど)所に来ていたので、他に何もなく、人がいそうな所が限られていたからだ。
彼女の目の前にオレが立ったときには、雨はやんでいた。
でも、空気はますます冷たくなっていた。
「世話かけさせんな!」
「沢田くん!ホントに来てくれたの?……あの、あり……」
「大体だな、お前一人じゃ何も出来ねえんだし、土地勘ないんだから、何で言われたとおりにしないんだよ。どうせ乗り換えのときにバスを間違えて、大学方面にいくヤツに乗ったつもりが、全然関係ないルートのヤツに乗ったんだろ?それか、うっかり乗り過ごして芸大通りで降りるつもりが、前熊あたりで降りたとかだろ。で、芸大に向かってたつもりが、逆方向に歩ってたってとこだな、この位置からすると。漫画かお前は!」
「不愉快だけど的確に人のミスを付いてくるわね……。せっかくお礼言おうとしてんのに、そんなに文句言わなくたっていいじゃない!」
顔を真っ赤にして怒るティアス。そんなに怒んなくても良いじゃん。
「一応、怒ることは怒っておかないと。良いから後ろに乗れ、雨がやんでるうちに移動するぞ」
「え?」
「迎えにきてやったんだから、当たり前だろうが。大学までならすぐだから」
彼女がオレの後ろに座ったとき、愛里のことが頭をよぎった。多分、オレがこの女と一緒にいたら、彼女は怒る。嫉妬なんかしてはくれないけど、オレは彼女の所有物の一つだ。
できれば、鉢合わせはしたくない。
「あの……ホントにありがと、沢田くん。ごめんね、来てくれたのに文句言っちゃって。授業中でしょ?今……」
「いいよ。どうせ、勉強する気なんかなかったし。明日は終業式だってのに、授業なんかする方がおかしいだろ」
「そうかしら?」
なんでだ?この女が『ありがとう』なんて言うたびに、ちょっと動揺してるぞ、自分。
彼女の手が、オレの腰に回る。そっと力を込めたのが伝わってくる。
彼女の手からまとわりついてくる何かを振り払うように、エンジンを掛け、走り出した。
「さっきまで、学校で何の授業してたの?」
「英語。まあ、元々苦手だし、良いって」
風の音と、カブのエンジン音に負けないように、声を張り上げて会話をする。
雨のやんだ田舎道は、他に人もいなくてのどかなもんだった。
なんか、こういうシーン、映画で見たことあるな……。
港町だったか、のどかな風景の中を、初々しい高校生カップルが、こうやって原付2ケツで走ってんだよな。最終的には悲恋なわけだけど、幸せな風景として。
まあ、それはないか。カップルでもないし、おしゃれスクーターでもないし。別に幸せな風景でも何でもない。
「良くないよ。私、英語なら得意だから。一応喋れるし」
「あー、そういや、向こうに住んでたっけ?でも、ベルギーって、英語?」
「ううん。場所によって違うけど……オランダ語かフランス語かな。私がいたところはオランダ語だったけど。でも、その前は英語圏の国にいたから、日本の高校英語くらいなら教えられるよ?」
そ、それはなんか……魅力的な話?
いやいや、試験勉強で良いんだから、別にそんなに真面目にやる必要はないって。ちょっと出そうなところだけ、やっときゃ良いんだし……。
「忙しそうにしてるけど、お前にそんな時間あるわけ?オレが勉強するのって、練習したあとだよ?」
「じゃあ、その時間で良いじゃない。今日のお礼に教える。何かさせてよ」
「良いよ、それであんたの気が済むんならね」
って、何オッケーしちゃってるかな、オレは。
それに、何でこの女も、オレに教えることをそんなに喜んでるわけ?
……まあ、いいか。別にやって損があるもんでもないし。
「ついたぞ」
話してるうちに、いつの間にか大学の中を走っていた。音楽学部棟の前で彼女を降ろす。
「ありがと。帰りは大丈夫だから……。また、連絡するね」
棟の中に入っていく彼女を見送る。思わず頷いちゃったけど……これで良いのか?
「まあ、いっか……」
オレ自身を納得させるために、そう呟いてみた。
空から雪がちらついてきた。天気予報通りだ。
ここに来るまで、雨に降られないで良かった。ホントにそう思った。
とりあえず、誰か知り合いに見つかる前に帰るかな……。なんか、妙に人がいないのが気になるけど。
「沢田くん……」
「何やってんだよ?ついさっき入ってったばっかじゃねえか。賢木先生は?」
「もー、あの人信じられない!昨日電話したときは、明日学校にこいって言ったくせに、教員室にも研究室にもいない上に、休みだって言われたの!しかも 、大学も今日から冬休みだって!」
……うーん……。相変わらず適当だな、あのおっさんは。
それにしても、今日から休みだったのか。それで、愛里のヤツ、他の場所に行ったのかな?
「ティアス、とりあえず、戻る?ここにいても仕方ないし。学生がいないのに、部外者がいるのもな」
「戻るって、どこに?学校?」
「いや……今さら戻ってもな。早退って言って来ちゃったし。せっかくだし、どっか出かける?こっちの方、あんまり知らないんだろ?」
「うん。灯路んちの実家って子供のころに来て以来だから。でも大丈夫?まだ学校の時間なのに。私は一緒に行きたいけど」
「……いいって。どうせうちの学校だって、週末には休みに入るんだから。一日二日早くたって大丈夫だって」
「そう言う問題?いいけどね」
ん?これって、オレがティアスを誘ったってコトにならない?でも、ティアスも行きたいって言ったし。
04
彼女を後ろに乗せ、いったん家に戻る。さすがに制服のままふらふらするわけにはいかないので、着替えるためだ。
二人で家を出るとき、ちょうど雪がちらつきはじめた。
一緒にバス停まで歩き、二人で並んでバスに乗る。会話は今までのことを思うと少なかったけど、彼女が隣にいるのはなぜだか心地よかった。
地下鉄に乗って栄まで出て、オレも上ったことのないテレビ塔に行った。二人でご飯を食べたあと、雪の降る町を歩いていたらいつの間にか暗くなってきた。
平日だったのでほとんど客のいない観覧車に乗った。向かい合わせではなく、隣同士で。
……完全にデートじゃん、これ……!
いや、観覧車の個室で、隣同士に座りながら後悔してる場合じゃないけど。
でも、御浜になんて言うかな……。こんなコトになってることを。
流れに任せてたらこうなってました、とか。
誘ってみたらついてきたのでなし崩し的に、とか。
自分でもよく判らないままこの状況に、とか。
うん。我ながらわけが判らん。てか、そんな理由でどこの誰が納得する?
大体、何でオレはこの女を連れて歩いてんだ。
何で……一緒にいようと思ったんだ?
愛里のこと……は?オレ、忘れてないし、こんなにも心の奥底に引っかかってる。
彼女の顔を、こんなにも簡単に思い描ける。
残念ながら、どうしようもないくらい、自分でもバカだと思うけれど、彼女が好きだ。あの、酷い女を。
じゃあ、ティアスは?
「なんか、デートみたいだよね」
……言わないようにしてたのに。あっさり口に出すか、この女は。
「よかろ?オレとデートできるの」
「自信過剰よねー。顔が良いからって、うぬぼれてんじゃないわよ」
笑いながらばっさり切るな。
もしかしたらこの状況を気にしてるのはオレだけか?
御浜の存在、引っかかったままの愛里、そしてティアス自身の思い。
どれもこれも、オレが思っているだけのことだ。もしかしたらそれぞれの人たちは、そんなことすら気にしてないのかもしれない。
御浜は、別にオレがティアスとどこに行こうが気にしないかもしれない。オレがどうとかではなく、ティアスが彼に答えてくれることの方が大事なはずだし。……多分。
愛里はオレのことなんか、親父に近付くためのダシと、自分が育てた生徒って言う程度の感情しかない。だから、彼女はオレに対してどこまでも残酷だ。それすらも彼女は何も気にせず行っているかもしれないのに、振り回されるのはオレの心のせいなのだ。
ティアスは……。
「なに?何かおかしい?私」
ティアスが少しだけ顔を赤らめる。オレは彼女の言葉を気にせず、ただまじまじと彼女を見つめた。
何でこんなコトになってんだ?オレとティアスって、一体何?
だって、この女とはつい一昨日会ったばかりで、昨日はうちに泊めて話し込んで、今朝は彼女を迎えに飛び出して……。
……わからん!
てか、考えたくもない!
「あ、ついたみたいだよ」
ビルの3階にある乗降場についた途端、彼女は焦って立ち上がる。
「……沢田くん、出ないと」
オレのコートの袖を軽く引っ張った。
それに引きずられるように、ゴンドラから降りた。少しだけバランスを崩して、彼女に一歩近付く。
「沢田くん?」
オレとティアスって、一体何?
オレは一体何に引っかかってる?御浜?愛里?ティアス?……それとも、オレ自身?
「沢田くん、ここだと邪魔になるから、行くよ?」
近付いたままのオレを意識することなく、彼女はオレの背中に手をまわし、ぽん、と軽く叩いた。
彼女は、誰に対してもこうなんじゃないのか?
ビルとの間に設けられたステップを渡る彼女を追いかけ、肩を抱いた。
肩から、彼女の腰に掛けて、ゆっくりとなでる。
「さ……沢田くん!?」
彼女の動揺を見て、オレの心は少しだけ満たされる。
つい昨日の出来事と同じだ。
彼女の動揺を、彼女の心が僅かでもオレに傾くことを、オレは悦んでる。
僅かだけれど、心が満たされる。
その、満たしてくれる何かが、昨日よりも大きくなっている。それだけ。
それはオレにとって何も脅威ではない。
オレは何をこんなに不安に思っているんだろう。
考えることがありすぎて、もう何もかもを捨てたくなる。
だけど彼女の動揺が、オレを満たしている。
オレを襲う脅威を、不安を、薄めてくれることはないけれど。
正体が、判らないからか?
「連絡、あった?新島から」
彼女の右手を、彼女の背中越しに右手で掴む。手を絡ませる。
「え?だけど……」
こんなコトされたら、動揺して当然だ。
そう言う意味で、彼女のこの反応は予想通りだし、期待通りだ。
それがオレの心を僅かだけれど満たす。
この心は、残酷なんだろうか?オレはどうして満たされるのか?
「邪魔されるのは、いやかな。いやじゃない?」
「……いやだ」
彼女と右手を絡めたまま、オレの左手は、コートのポケットの中にある携帯へと伸びていた。彼女に気付かれないように、手探りで電源を落とす。
まるで彼女の言葉に導かれるように。
「そう、良かった。一緒だね、私と」
邪魔されたくない。一緒にいたい。その思いがオレにも彼女にもあると。
「沢田くんちって、門限あるの?今夜、沢田先生帰ってくるんでしょ?」
「うーん……連絡すればうるさくは言わないけど……柚乃にはうるさいかな、さすがに。なんで?」
「何時まで一緒にいられるのかなって思って」
そう言いながら、彼女はオレが絡ませた手をはずした。
「終電までだろ?でも、地下鉄の終電だぞ?その時間はもうバスないし。お前が帰れるのか?どこら辺なんだよ、住んでるマンションって」
「ん?言ってなかったっけ?星ヶ丘だよ。終電の止まる駅だって」
一歩ずつ、オレから距離をとりながら、言葉でオレとの距離を縮めてくる。
オレとティアスって、一体何?
「じゃあ、遅くなったらお前んちに押し掛けよっかな?」
「明るい時間ならね」
彼女の顔に、動揺はなかった。笑顔のまま、オレとの距離は保ったまま。
「おなか空いたね、何食べる?なんか辛いもの食べたいなー」
方向を変え、一人でエスカレーターへ向かう。
その後ろ姿を、オレは黙って追いかけた。
ティアスにとって、オレって一体何?