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第4話(the heads)後編

「どうしたのよ、こんな所で、きょろきょろしちゃって。学校は?」


 愛里は、ついさっきまでオレの隣にいたティアスには気付かなかったようだ。オレの行動を不審がりながら、簡単にオレの腕に触れる。

  辺りにティアスはいなくなっていた。と言うより、人が多すぎて、どこを見て良いか判らなかった。


「大雪警報で……」

「ああ、そうよね。おかげでこんな所で足止め食らっちゃったんだった。テツは一人?」


 戸惑っていたのは、おそらく5秒くらいだったと思うけれど。だけどその時間が、オレには酷く、重く長く感じられた。


「いや……ツレとはぐれたんだけど」

「そうなの。あんまりテッキに心配かけさせないようにね。最近、あんたが出歩くことが多いって、ぼやいてたから」


 愛里の口からオヤジの話を聞くことが、どんなにオレを苦しめるか。彼女は気づきもしない。一番見せたくない顔を、彼女に見せてしまいそうになる。


「どうしたの?」


 何でティアスはオレの隣にいない?

  愛里の訝しげな表情が、オレを追い込む。この手持ちぶさたで不安定な左手を、今、ティアスに握っていて欲しいのに。

 愛里の存在が、オレを追い込み、突き落とす。胸が苦しくなるその感覚を、思い出すことすら嫌なはずなのに、時々それのせいで、うめき声すら上げている。それを愛里が知ることはないと思うと、その事実がさらにオレを追いつめる。


「何でもない」


 ティアスが横にいたら、彼女の手を握っていたら。

  そうしたら、この傷みは少しでも楽になるのだろうか。楽になるような気がしているのは、期待のしすぎだろうか。


「オヤジ、いつぼやいてたんだよ、そんなこと。オレ、そんなに出歩いてないぞ?」

「そう?あんまり練習もしてないみたいだって。進路の話もしてないでしょ?来週の月曜から、またレッスン始めるからね」


 そういえば、課題曲はほとんど弾けていない。だって、一人だと指が動かないから仕方ないし。

  それにしても、愛里もオヤジもこそこそ連絡とりやがって。愛里はオレのこと、ホントにどう思ってるんだろう。


「じゃ、あんまりふらふらしてるんじゃないわよ?テッキが心配するから」


 ハンドバッグから携帯を取り出しながら、彼女はそそくさとオレの前から立ち去る。申し訳ないといった素振りなど一つも見せないまま。いや、オレの存在がその程度だってことくらい、判ってるんだけど。

  悔しいけど、それでもオレは、あの女の心に引っかかりたい。彼女にオレを見てもらいたい。どんなに振り回されても、どんなに余所を向かれていても、それでも。


「あっち、人がいないよ?」


 ティアスはオレの左手を握り、親指の腹でオレの手の甲を滑るように撫でた。その指は、オレの涙腺も一緒に触ってしまったらしい。

  彼女はオレの顔を見ないように、ぎゅっと左手を握ったまま引っ張って、人混みの中を歩き出した。

 一番見られてはいけないヤツに、泣き顔を見られてしまった気がする。しかも、愛里のことでなんて。


「……人、いるし」


 もう、涙は止まっていたけれど。こんな赤い目でうろうろしたくないし。


「さっきの所よりは少ないでしょ?」


 彼女が連れてきたのは、先ほどまでいたテラスの南端だった。所狭しと置かれた点灯前のイルミネーションが壁になって、確かにさっきの場所よりは人が少ないけれども。日陰には未だ溶けていない雪が固まって凍っていて、滑ってしまいそうだ。


「大体、お前はなんでいなくなったんだ?」

「邪魔かと思って。それに私、あの人に嫌われてるみたいだし」

「だからって、お前がいなくなる理由になるか?」


 左手に力を込めた。彼女が痛がったから少しだけ力を緩めたけれど、離すつもりはなかった。


「だって……テツは、佐藤さんのこと」


 そう言うくせに。オレも彼女も、どうしてこんなに矛盾だらけだ?

  関係ないと言えないオレも。何も言わないオレと寝た彼女も。


「そんなこと……」

「何度も言ったでしょ?知ってるって。否定しなくて良いよ」

「だけど、関係ない」


 手は離さない。オレが愛里を好きなことは確かだけど。オレ自身、バカだとは思うけど。あの女のことをどうしても、心の中から振りきれないけど。

  だけど、ティアスのこととは関係ない。

 気が多いだけかもしれない。だけど、この手を離したくない程度には、ティアスのことを好きだと思う。

 多分、昨夜より、今朝より、こうして手を引いてくれた今の方が、ずっと彼女を愛しく思える。


「イルミネーションが点くまで、どこかで時間潰そうか?私の用事はもっと夜遅いし」


 彼女の提案に、オレは黙って頷いた。彼女が愛里のことを、あれ以上何も言わなかったことに、自分が甘えているのもよく判ってる。だけど、さっきまでのように、一緒にいられる時間が決まったことを純粋に喜べはしなかった。

  彼女と一緒の時間は楽しいし、ちゃんとオレの心は浮き立つけれど。だけど何かが引っかかったままだ。その何かは、多分一つじゃないんだろう。それはオレのせいでもあるし、彼女のせいでもある。


 少しだけ変わったような、何も変わらないような、妙な距離感を保ったまま、オレは彼女と時間を過ごす。つないだ手を離す気もなかったし、違和感はあっても、突き放す気はなかった。

  そうしながら、彼女の用事というヤツを聞いた。今夜、あの音無悠佳がライブをするらしい。そこに佐伯さんと一緒に行く約束をしていたのだという。

 そんなところにオレが着いていって良いのか?と聞いたら、彼女は一緒に来て欲しいと返した。それがオレの心を少しだけ軽くする。不安定だけど、彼女にとって必要だと判る言葉が、オレの存在を明確にする。


 ライブの話から、やっと自然に音無悠佳の話を聞くことが出来た。彼女は、彼を追いかけてこっちへ来たらしい。それくらい彼女にとって、音楽をする上で、彼の存在は大きいようだ。佐伯さんも、賢木先生も、その支援のために力を貸してくれているのだという。もちろん、その礼というのはおかしいが、賢木先生にも、佐伯さんにも、それなりのことをしているとは言っていたけれど。


 音無さんは、活動の拠点を急に日本に戻し、しかもこの名古屋近辺ばかりに出没するようになったらしい。オヤジも賢木先生も、神出鬼没だとは言っていたけれど、出没するなんて言われ方もどうなのか。

  連絡を取っているのにちっとも会えない、だから会いに行くのだと彼女は言っていた。元々、佐伯さんも音無さんとは知り合いらしいけど、それでもなかなかつなげないらしい。オヤジとは普通に連絡を取っていたみたいだから、妙な話もあるモンだと思った。

 佐伯さんの話が出たときに、オレに何か言いたそうにしているのが少しだけ気になった。未だ何か、言い出せないことでもあるんだろうか。オレにまた、少しだけ距離を感じさせていると、彼女は判っているのだろうか。

 オレの悪い癖だとは思うけれど、いやなことをイメージしてしまう。家に帰ったらまた御浜と秀二がいて、それは普通のことなんだけど、うっかりティアスの話になんかなったりして、御浜の口からまたオレの知らない情報やら、オレが知ったばかりのことが出てきたりするんだ。それが、思った以上に辛い。


 オレの持つ違和感の正体は、こんなにも明確だ。思っていた以上に簡単に彼女の体は手に入ったのに、彼女との距離が縮まった気はしない。むしろオレだけが、どんどん深みにはまっていく。間抜けな話だ。

  素直に、彼女もオレのことを好きなんじゃないかと、オレはどうして思えないんだろう。それならば二人で、全てから隠し通せばいいんじゃないか?そうできたら、オレにとって一番良いんじゃないのか?


 あちこち歩き回って疲れたのと、小腹が空いたからと、百貨店の2階にあるカフェに入る。賑わっている店内だったが、窓際の席に案内された。雲の隙間から夕陽が差し込んでいるのが、窓から見えた。また雪が降ってきそうな、不穏な空模様だ。けれど、平日と言うこともあるし、昼間は比較的穏やかな天気だったせいか、人通りは結構多い。

  明らかに、カップルにしか見えないんだろうな、オレ達は。窓際の席はペアシートになっていて、二人で横並びに座ることになった。普段もそうしてるけど、改めてそう見えているのだと思うと、少しだけ戸惑う。彼女がオレの左側にいることは、なんの違和感もないのに、不思議な感じだ。


「……実はね」


 彼女は真剣な眼差しでメニューを見つめながら、重い口調で呟く。


「何だよ……その……」

「私、あんまり甘いものって好きじゃないのよね。女子なのに」

「……心臓に悪い。お前、出されたもんは食うけど、相当偏食だよな。あと、味覚がおっさん」

「何よ、テツだって偏食じゃない。味覚がおっさんなのはお互い様だし。でも、たまにはこういう可愛い店も入ってみたいのよ。テツ達みたいに」


 その「達」にはオレと愛里が含まれるわけ?

  そういやティアスとは大抵、外でそのまま会うか、夜遅いからファミレスとか、クラブとかだったからな。昨日は愛里がいなかったから、二人でスタバにいることになったけど。


「別に、一緒に行けばいいだろうが。レッスン無くても、オレはあの場所にいるし」


 彼女は黙って微笑む。彼女の膝の上で手を握ると、握り返してくる。何もなかったように、オレは再びメニューを見るよう彼女に促す。


「ティアス。オレ達、これから……」


 答えが欲しい。確証が欲しい。

  この握っている手の、この温もりに、何も考えずただ甘えたい。

 彼女がオレと同じ思いなら、オレ達うまく行くんじゃないのか?


「これから……?」


 彼女がオレを握る手に、力を込める。

  一瞬目を伏せ、照れたようにも見えたけれど。彼女は上目遣いでオレを見つめた。


「これから……」


 こんな台詞、自分で吐いたことなんて無いから、なんて言って良いか判らないけど。

  どうしても、彼女の手を強く握ってしまうけど。


「ティアちゃん、ここにいた。背中向けてるんだもの、わかんなかった」


 彼女の肩を、佐伯さんが軽く叩く。オレと二人でいることを当たり前のように扱う彼女の態度に、オレも彼女も手を離さなかったけれど、オレの台詞は完全に止まってしまった。


 むしろ彼女の登場にほっとしてしまったオレは、やっぱりただずるいのかもしれない。





 オレはどうかしている。冷静に考えて見ろ。何一つ、オレの心を蝕むモノは、無くなっていないのに。

 蓮野の件も、彼女自身の心の件も、愛里の件も、何より御浜の件も。にも関わらずうまく行くわけがないのに。


「邪魔しちゃったみたいね。もうちょっと後で来ればよかったかな」

「少しだけね。でも、もう時間でしょ?早く行きたい」


 どっちだ、それは。ホントに一緒にいたかったのか、オレへのたんなる気遣いか。


「そんなに楽しみ?ライブ」

「ええ。あいつに挑戦状をたたきつけてやれるかと思うとね」

「……おいおい。何しに行く気だ」


 何か、「憧れて」とか「好きで」と言うのとは、ちょっと違う気がするな。何だ、挑戦状って。


 サエキさんに誘導されて連れられたライブハウスは、思ったより小さなハコだった。入口の前で新島が待っていたのが妙に照れくさかった。彼を連れ立って4人で中に入ると、思った以上に人がいた。何とか壁際を陣取り、そこで落ち着く。


「沢田くんは、音無さんのライブって見たことある?お父さんのお友達だって聞いてるけど」

「面識はありますけど……彼が歌っているのも弾いてるのも聞いたことがないです。CDでなら。会ったのも、子供のころですし。父は連絡を取ってるようですけど」

「気まぐれなんでしょ?あの人」

「みたいですね」

「日本に拠点を置いたくらいから、気まぐれ度が上がってるのよねえ。いいかげん、いい年なんだから、落ち着いたかと思ったのに。彼のマネージャーも嘆いてたのよね」


 気まぐれ度て……。まあ、人間関係が適当な印象は拭えないよな。そのわりには、蓮野の件ではすぐに動いていたみたいだし、オヤジが電話して、会えないにしても捕まらないことはないし。


「落ち着いたんじゃない?一カ所に留まるなんてこと、今まで無かったし。しかも、自分から出ていった日本によ?」


 音無さんに会えるからか、ティアスは少しだけ興奮気味に吠えていた。……オレと寝た後だって、そんな風にはしなかったじゃねえか。むかつくな。


「そうね。そうかもね」

「何か、腑に落ちないって顔よね」


 ティアスの言うとおり、彼女は納得がいかないようだった。


「元々、勝手な人だったけど。だけど最近、酷い気がするのよね」


 彼女を見つめるティアスの顔を、思わず見てしまった。


「何?どうかした?」

「いや。お前はそうは思わないんだと思って」

「カナみたいに、音無のことを知ってるわけではないもの。あのね、テツ……その……」


 ティアスがオレに手を伸ばし、触れた。その様子を見て、新島が意図不明な笑みを見せたのを確認したとき、照明が落ちた。ステージがライトアップされ、音無さんが現れた。

 オレは、ステージを見ることが出来なかった。ステージからの強い光が、ティアスを時折照らす。その瞬間を、オレは食い入るように見つめる。音無さんのピアノは、まるでオレの鼓動のようにリズムを紡ぎだし、ステージを揺らす。彼女を押さえるように、オレに触れたままの彼女の手を取り、握りしめる。

 挑戦状だなんて、ただの彼女の照れ隠しでしかない。彼女はこんなにも、彼に、彼のピアノに焦がれている。オレと一緒に歌ったあの姿は、なんて冷静で、なんて他のものに振り回されていたのか。

 悔しいけれど。だけど、オレもまた、彼の音楽に振り回される。だけど純粋に感動なんて出来なかった。オレにない、何かを動かす力を彼は持っている。比べることすら烏滸がましいのかもしれないけれど。


「すげえな。ピアノだけなのに。何か、オレはこういうのよく判んないけど……」


 曲の合間に言葉を探す新島に、佐伯さんは笑顔で応えていた。それに新島もほっとした顔を彼女に見せる。二人が見つめ合っている隙に、オレは黙ってティアスの手を離す。再び、曲が始まり、彼らの意識がステージに向かうと同時に彼女の手を取った。

 彼女の手が熱を帯び、汗ばんでくるのが伝わる。オレはその部分だけ、妙に冷静な気がしていた。理由は判ってる。『悔しい』だなんて、ホントは思いたくもない。世界が違いすぎるのに。

 プログラム通りに6曲を終え、彼は引っ込んだ。アンコールの声に応える気はなかったようだ。客もそれを判っているのか、声が挙がったのはひとときで、今はやんでいたが、熱気は収まらなかった。


「バックヤード行こうか?アポとってあるのよ。ティアちゃんのことも、聞いてるって言ってたから」


 佐伯さんの誘導で、彼女と一緒に彼を訪ねることになってしまった。良いのか?こんな簡単に。

 オレの不安などお構いなしに、彼女たちはオレを引っ張る。新島に助けを求めたが、彼は彼で自分のことでいっぱいのようだった。


「音無さん。この間、話してた子を連れてきたけど……」


 順に入った、狭いハコの狭い楽屋には音無さんと一緒に、オヤジと和喜さんがいた。オレは和喜さんに会うのは久しぶりだったけれど、オヤジとはよく連絡を取り合っているみたいだし、音無さんとも共通の友人みたいだから、一緒にいるのは判るけど……。


「オヤジ、何でここに?!」

「それはこっちの台詞だ。こんな日に、何でこんな所をうろついてる?」

「大雪警報で休みだし……」


 と、新島と佐伯さんに助けを求めてみたが、オレが制服を着てる理由にはならなかった。


「ごめんなさいね。こんな雪の日に息子さんを連れまわしてしまって」

「あなたは……?」


 不審そうに佐伯さんを見るオヤジに、後ろから音無さんが耳打ちをした。どうやら彼女の説明をしたようだ。でかい声で言えばいいのに。


「どこかで見たことがあると思ったら。プロデューサーをされてるんですね。音無が、今日あなたとアポがあったと」

「ええ。こんな所で鉄人くんのお父様と会えるなんて、奇遇ですね。でも、ホントによく似てらっしゃる」


 さりげなく、自分のせいにしてくれた佐伯さんには、もう頭が上がらないかも。ホントはティアスと泊まりだったとは、いくら家がそれなりにオープンな家庭とはいえ、言えないぞ。


「……鉄城の子供、こんなにでかかったっけ?嫌だな、年感じるなあ……。なあ、悠佳?」


 和喜さんの問いに、音無さんは不思議そうな顔でオレを見るだけだった。音無さんはともかく、和喜さんとは少なくとも高校入ってから会ってるはずだが。


「コイツ、最近物忘れが激しいんだ。音無、オレの息子の鉄人だ。今年17になる。……何でこのメンツで来たかは知らないが……」

「彼女、デビュー前に、音無さんともう一度話がしたいって。何度か私からも、彼女からも連絡していたと思うけど」


 ……でびゅー?デビューて、何?聞いてないし。どういうこと?


「オレからも、賢木からも連絡したな、そう言えば」


 オヤジがちらっと音無さんを見るが、彼は黙ったまま。この人、何か不思議な人だな。


「なんで?なんで何も言わないのよ。ベルギーにいたときは、もうライブはしないって言ってたのに、日本で始めてるし。リョウにもそう言ったくせに、嘘ばっかりじゃない」

「覚えてないって言ってるぞ」


 あくまで、オヤジにしか聞こえないくらいの小声で喋る彼に、彼女は苛立ちを隠せないようだった。オレが、彼女の口から出てきた男の名に、同じように思っているとも知らずに。


「覚えてないって?!」

「まあまあ、ティアちゃん。そんな喧嘩腰に話してたら、相手がびっくりしちゃうでしょ?」

「喧嘩腰じゃないよ」


 喧嘩腰だよ。だから一体何があったんだ。


「お前、ホントに物忘れ酷いのな。オレは覚えてるけど。こんな可愛いのに」


 苦笑いしながら彼女のフォローをする和喜さんに対しても、彼は黙って首を振るばかりだった。何か子供みたいな人だと思うのはおかしいだろうか。オヤジよりも年上なのに。


「お前、この子のプロデューサーをするように、随分前に言われてたろ?途中まで乗り気で、蓮野弟ともこの子とも連絡とって、偉そうにピアノ弾いたり歌って見せたりしてたろうが」

「私も随分、連絡させてもらいましたけどね。日本でのコーディネートも引き受けるって、マネージャーさんとは話が付いてましたし……」


 オレが思ってる以上に、でかい話になってないか?それに、蓮野遼平の名前も出てきてるな。ずっと元カレだと思ってたけど、さっき言ってた「デビュー」がらみの存在ってことか?いやいや、それはきっかけでしかなくて、そのままつき合ってたなんて話はいくらでもあるし。


「そういや、遼平もコーディネーターみたいな仕事をしてると聞いてたけど。それで賢木が、この子を大学で教えようとしてたってことか。間に合わなかったみたいだけど。……お前、何でここにいるんだ?」


 オヤジのしつこい疑問はごもっとも。


「……成り行き?」


 オレにもよく判らないけど。


「違うもん!見てなさいよ?私は、別にあんたの助けなんかいらないんだから。テツと一緒に舞台に立って、歌うもの!」


 オレの腕を引っ張り、高らかに宣言をする。


「聞いてないぞ、オレは……」


 この場で怒鳴らなかったオレは、ホントに大人だと思った。



「悠佳、車の用意、出来たから。さっさと準備して」


 小声で良いから、冷静に釘を差しておかなければと思って、彼女を睨み付けたとき、楽屋に一人の女性が入ってきた。確かオヤジの友達の「久方みず木」さんだ。もしかして音無さんのマネージャーって、この人?


「佐伯さん、申し訳ないんですが……」


 久方さんに声をかけられた佐伯さんは、ちらっとオレと彼女を見てから


「ええ。ごめんなさい、また日を改めますわ。私に直接でも、マネージャーを通してもらっても結構ですから、是非また。しばらくこの辺りを廻るんですよね?」

「ええ。でも、明日は関西方面へ。思ったより外に人が多いので、騒ぎにならないうちに出たいので。本当に申し訳ありません」


 深々と頭を下げる久方さんは、やっとオレに気付いたらしく、目を丸くしながらオレに近付き、まじまじと顔を見つめてきた。


「……鉄城の子?大きくなったわね?何で?連れてきたの?」

「違う違う。佐伯さんについてきたんだ。一昨年、会わせなかったか?」

「だって、こんなに大きくなかったよ。かわいそうに、鉄城なんかに似ちゃって。鉄人くんだっけ?鉄城はこの子と一緒に帰るの?車用意してあるけど」

「いや、そっちについてくよ。珍しく全員揃うしな。それより……ティアス、蓮野の兄が遺品を持って日本に戻ってきてるけど、来るか?」


 そう言えば、蓮野の兄とオヤジ達は仲が良いんだっけな。おそらく、彼も海外にいたのだろう。オレは面識がない。弟に似てるんだろうか。


「……いい。ありがとう。私より、孝多に連絡してもらっても良いですか?」

「ああ、遼平のことを伝えてくれた子か。それは構わないが。しかし、火葬にしてもらって、お骨も持って帰ってきてるそうだが、良いのか?」


 彼女は黙って首を振った。

 その姿に、何故だか燻っていた怒りの火が、強くなったような気がしていた。さっきの、オレと一緒に舞台に立つって言う発言も問いたださないといけないし。その怒りも相まって、オレはどうしても冷静な顔が出来なかった。

 慌ただしく出発の準備をしている音無さん達を後目に、新島がオヤジに蓮野のお骨の話を聞いていた。おそらく、芹さんに先に連絡をするためだろう。

 蓮野の兄、太平さんは、弟と一緒に暮らしていたベルギーに彼を埋葬しようと考えていたそうだ。しかし名古屋に、離婚して両親と一緒に暮らしていた母親のために、火葬してお骨を持って帰ってきたらしい。母親をあちらに呼ぼうと思っていたらしいが、弟の件もあり、彼女のたっての願いで、転職してこちらに戻ってくるそうだ。

 オヤジは彼の墓の場所も教え、芹さんとティアスに墓参りに来るように言っていた。


 わざわざ日本に来た芹さんの思いや、オヤジの言葉から受取れる蓮野への思いや、ティアスの彼らへの思いは判らないでもない。理解できないわけではない。そう思う。けれどやっぱりオレは蚊帳の外で、その状況に追いやっている彼らの行動が不愉快だったし、何より蓮野遼平という男が不愉快だった。もう、死んでしまった男だというのに。

 目の前のティアスも、オヤジも、彼の回りの人間全てが。勝負したわけでもないのに「勝ち逃げ」されたような気分だ。


「おい、久方。あの子は結局どうなんだ。賢木に聞いても、埒が明かないし……」


 恐らくさっきティアスが言った、オレと「一緒に舞台に立つ」と言う発言の件だろう。オヤジがオレの様子を伺いながら久方さんに聞いているのが判ったので、オレも彼らは視界に入っていたけれど見ないようにしていた。

 オヤジは、オレが「舞台に立つ」なんて望んでいないこと、よく知っているから。望んでいたら、オレはもっとまじめにピアノに取り組んでいたはずだから。


「悠佳があの調子なのは知ってるでしょう?あの子のプロデュースをするって言う話があったんだけど……」

「うちの子は?」

「あっちに聞いてよ」

「みず木!」


 いつの間にか部屋から出ていた音無さんが、外から彼女を呼ぶ。その声に、久方さんは「やれやれ」といった顔を見せ、オヤジを引っ張って外へ出た。

 あわただしく出て行った大人たちに、オレの隣で新島がため息をついていた。


「ちょっと遅いけど、みんなでどこかでご飯でも食べて戻りましょうか?」

「……でも、音無が」

「ティアちゃん」

「だって、リョウが……」

「ティアちゃん。他にも色々方法はあるから。私は、何もなかったような顔、しないから。行きましょう?灯路くん、ティアちゃん連れてってくれる?私、店をとっておくから」


 その不思議な台詞に、新島は当たり前のように頷き、彼女を連れ、オレと佐伯さんを残して楽屋を出た。

 佐伯さんがオレに話があるのは判ったけれど、それを簡単に受け入れ、彼女のために動ける新島のことを、少しだけ尊敬した。


「オレに何か?」

「あら、早くて助かる☆」


 からかうような口調に、ちょっとだけ腹が立った。


「ティアちゃんに、どこまで話を聞いてる?」

「……多分、何も」

「そう。それは、不愉快にもなるわね。でも、聞いてる話と随分違うのね。私は、あなたの態度はとても落ち着いてるし、大人だと思ったわよ?」

「聞いてる話って何ですか。この間も少し聞きましたが、僕はろくなことを言われてないようですけど?」


 彼女が煙草に火をつけたと同時に、ライブハウスの関係者らしき人が現れ、出るように声をかけてきた。それに従い、廊下に出る。

 煙草を噴かしながら、彼女は廊下の壁にもたれ、オレを見つめる。新島がこの人とつき合ってる理由が、それだけでもよく判る。この女は、ずるい女だ。


「ティアちゃんに言わせると、すぐ怒るし、すぐむっとするし、常に喧嘩腰だって。だけど、あなたは充分大人の態度が出来るし、怒りを隠すことも出来る。17歳の男の子が、あんなに年の近い父親の前で、あの態度はなかなかしないわよ。お父さんの方が遠慮しちゃってるじゃない?まあ、片親だからって言うのもあるでしょうけど」

「そうですか?父は、いつもあんな感じですけど。誰に対しても」

「そう?私も娘にはちょっとだけあんな感じかな。うちの子は君ほど大人じゃないけどね。子供過ぎて、ホントはどうしてほしいのか、わからないもの。その点あなたは、大人の付き合いができてるように見えるけど」


 言いたいことが言えないだけなんですけどね、端に。別にオヤジだって、オレの言いたいことがすべて判ってる訳じゃないし、すべて判ったら困るっつーの。


「話が前後しちゃって混乱させちゃったわね。ティアちゃんのせいだけじゃないのよ。私からもきちんと説明が出来ればよかった」

「でも」

「あの子、ちょっと感情的になっちゃうところがあるからね。特に遼平くん絡みのことでは」


 いや、その一言余計だし!!何で蓮野絡みのことであの女が感情的になるのか、はっきりしろ、そこんとこ!

 オレの心の声でも聞こえたのか、佐伯さんは苦笑いを見せてから、ちらっと廊下の先を見た。


「……そろそろ行きましょうか。待たせすぎても悪いから。何が食べたい?」


 オレの背中を押す彼女の言葉に、応えられなかった。


 ならどうして彼女はオレと寝たんだろう。もしかしたら、オレをコントロールするためにか?

 オレに目を付けてて、オレと一緒に舞台に立ちたかったけど、オレがそれを嫌がるのが目に見えていたから?だから?


「私は、良いと思うよ?君とティアちゃん。二人とも舞台映えするし。何より、ティアちゃんがやっと気に入ったピアニストなんだから」


 オレの何が良いのかも判らないのに、「気に入ったピアニスト」なんて言われても、納得いくわけがなかった。

 彼女の口から、彼女の思いを聞きたい。オレの納得のいく答えを。


 しかし外で待っていた彼女は、そんなことは既に忘れてしまったかのようにオレ達に笑顔を向けた。全くもって意味が判らん。何でそう言う態度が出来る?

 何でオレばっかり? 何も判らず、こんな風に悩んで、悔しくて、重たいし、いろんなもの捨てたいのに。結局何一つ捨てられず、オレの中にだけ、わだかまりのようなものを残したままなのか。

 新島がタクシーを捕まえてる間、ティアスは佐伯さんと何かを話していたようだ。オレが少し離れて、彼女達を遠巻きに見ていたら、ティアスが近付いてきた。


「……テツ、ごめん。怒ってる?」


 佐伯さんに何か入れ知恵されたろう、お前は!

 ……と言ってやりたかったが、それも大人気ない。つーか、バレバレだよ。しかも、バレバレなのに、思わずくらっと来ちまったじゃねえか。

 オレはホントにバカだな。判ってて、どうしてこういう振り回すタイプの女にばかり惚れるのか。可愛くて、スタイルよくて、気が強くて、我が強くて、自己中で、だけどちょっと抜けてて。こんなのまんま、愛里だし。オレは一生、あの女の呪縛から逃れられないのか?

 だから今朝だって、あんなに簡単に泣いたりしちまうんだ。最低だな。


『テツ、ごめんねー。怒ってる?』


 愛里も、こんな風にオレが本気で怒ってると、機嫌を伺いに来たんだよな。ちょっとだけ怖々と。オレはその彼女の「本気」が怖くてどうしても、「怒ってる」って言えなかった。彼女が本気で怖がっていればいるほど。

 だって怖いじゃないか。その後の反応が。「もういい」なんて言われたら、オレは多分、地味に立ち直れない。


「何で、怒ってると思う?」


 だから、正直怖かったけれど。以前より、今の方がずっと怖いけど。

 彼女との距離が近付くほど。オレの彼女への思いが強くなるほど。

 でも、ティアスと愛里は違う。違うと思いたい。しかし、「一回寝たぐらいで」とか言われたら、身も蓋もない。


「あ……やっぱ、ホントに怒ってた?」

「やっぱってなんだ、やっぱって。お前は、とりあえず謝ればいいと思ってただろう?佐伯さんに言われて」


 よし、言ってやった。てか、意外とあっさりした反応じゃないか。ホントに怒っても逃げられないのか?つーか、オレはなんでこんなにびくびくしてんだ。コイツが悪いし、腹が立ってるのはホントなのに、恐怖の方が大きくなってる。


「でも、テツが怒ってるのは判ったから。カナが、私のせいだって言うから」


 ああ、そう。だから謝りに来たのか。バカなんだか可愛いんだか。


「何で怒ってるの?」

「……ホントに心当たりの一つもないとでも?」


 あるけど、言いにくいって顔してるぞ。何つー判りやすい。


「……判んない」

「判んないのにその顔かよ」


 バカで可愛いけど、女はずるい。オレの心はメチャクチャになる。振り回されて、疲弊しきってる。愛里もティアスも、オレのことをなんだと思ってるんだ。

 こういうの、怒ってるって言うのか?頭の中が熱くて、もう何も考えたくない。


「判んないなら、いい。オレはお前と舞台に立つ気なんて、さらさら無いからな」


 このときオレは、舞台がどうとかなんて、ホントはどうでも良かったけど。後で冷静に考えたとき、色々面倒なことが多すぎて、そう言っておいて良かったって、心底ほっとした。



 結局あの後、舞台に立つだの云々の話は、オレのご機嫌を伺っていたのか知らないけれど、彼女たちの口から出ることはなく、普通に食事をして再びタクシーに乗った。オレの家まで送ってくれたのだが、そんなに遅い時間でもないのに、家に電気はついていなかった。


 また後日。別れ際、そう言ったのは佐伯さんだった。ちゃんとピアノを聞かせて、と付け加えて。

 もちろん、練習しに来るよね。オレの返事を聞く気のないティアスの捨て台詞を残し、タクシーは走り去った。

 愛里がオレを振り回すように、ティアスもオレを振り回す。同じようにオレの心がきちんと息苦しくなっているのが、余計に腹立たしかった。

 溜息をつきながら顔を上げると、向かいの玄関に秀二と御浜が立っているのが見えた。みんなで一緒に帰ってきて、助かったような、面倒なような。


「……どういうことですか、あれ。佐伯佳奈子じゃないですか」

「言わなかったっけ?ティアスの話」


 御浜は、ホントにどこまで知ってるんだろうな、ティアスのこと。


「テツ。柚乃は今日は帰りが遅いそうですから。何か食べますか?」


 家の管理人か、お前は。


「いや、いい。佐伯さんに奢ってもらったから。牡蛎食ってきた」


 ポケットを探り、家の鍵を弄びながら玄関に向かう。その後ろを二人がついてくる。


「どういうことですか」

「佐伯さんはティアスのプロデューサーだよ。オレに、彼女の後ろでピアノ弾かないか、ってさ」

「テツみたいに、ろくに練習もしてないヤツにですか?妙な話ですね」


 五月蠅いな。してないんじゃなくて、出来ないの。……とは言えないけど。

 玄関に上がり、コートを脱いで、リビングに向かうため廊下を進む。


「その話、受けたの?」


 後ろからついてくる御浜の声は、少しだけ不安気だった。その理由は、今のオレには判らない。


「そんな気はありません。お前、もしかして、ティアスから聞いてた?」

「うん。でも、テツはコンクールも苦手で出ないくらいだから、難しいんじゃ無いかなとは言っておいたけど」


 やっぱり。御浜は御浜だけど。

 御浜の彼女への対応は間違ってないし、事実を言ってるし、あらかじめ断っておいてくれたのはありがたいはずなんだけど。はずだけど。何でティアスも御浜も、そう言うことを言わないかな。ティアスはともかく、御浜に限って。

 いや、原因は分かってる。ティアスのことだからだ。オレが彼女との間にあったことを、どんな小さなことでも細心の注意を払って伝えるように、彼も、そこまでではなくても、そう思ってる部分があるはずだ。はっきりと、彼がそう言ったわけではないし、どこまで疑ってるか判らないけど、オレに釘を差す程度には、オレのことを彼女がらみの件に関しては警戒してるはずだ。オレがそうするように。

 でも、オレが彼を警戒するのは、何も彼から彼女を奪おうとしてるわけではなくて……。いや、もう、何をどう言っても言い訳になるな。言わなきゃ良いんだ。もう近付かなきゃ良い。1度や2度のこと、黙っとけば無かったことになる


「その話をしてたんだ?」


 オレがピアノの椅子に座るのと同時に、彼らはソファに座った。御浜の視線を真正面から受けるのは、ちょっと今は辛い。


「いや。音無悠佳のライブがあるから、見に行こうって言われただけ。でも、音無さんは、うちのオヤジ達と一緒に、蓮野のお兄さんに会いに行ったみたいだけど」

「そうなんだ。お兄さん、こっちに戻ってきてるんだ」

「何か、遺灰を持ってきて、実家に戻るとか何とか。新島が聞いてた話を少し聞いてただけだから、何とも」


 多分オレが知ってることなんて、彼は全て知ってるのだろう。こんなに簡単に話が通じることが、こんなに不愉快に思う日が来るとは思わなかった。


「なら、ティアスもそっちへ?」

「いや、親父が声をかけてたけど、断ってた。代わりに芹さんに連絡するって」

「やっぱりそうなんだ」

「やっぱり?」


 オレには納得がいかなかったことを、彼は簡単に納得する。目の前の御浜が悪いわけじゃない。あの女が悪いって判ってる。判ってるのに。


「うん。ティアスさ、蓮野さんと約束したって言ってたから。彼に、彼のことを忘れるように言われたって。長くないことを彼自身が知っていたことを、彼女は知っていたし、知っていたからこそ彼の側にいてあげたかったけど、彼がそれを拒んだ。そう言ってた」

「『いてあげたかった』って、デキてたってこと?」

「そうとは言わなかったけど、そうだろうね。その話を聞いたとき、さすがにオレも何も言えなくてさ……」


 まあ、元カレの話をさらっと言われたわけだから、普通に考えてショックだろうよ。もう少し気を使えよ、あの女は。御浜がティアスに気があるのなんか、バレバレなのに。

 そもそも気を使ってるなら、オレとホテルには行かないか。オレとの行為のことを話している素振りは無いけれど……どうしよう。


「音無さんの名前は聞いたことありますよ、先輩から。奥さんと結婚する前から仲の良い友人の一人だって。賢木さんも確か共通の友人ですよね。先輩に紹介してもらったんですか、あなたが?」


 オレと御浜の微妙な会話をどういうつもりで聞いていたのか、秀二は最初の話に無理矢理引き戻してきた。


「んなわけない。親父達がいたのは、たまたまだって。元々、音無さんにプロデュースしてもらう話だったらしい。周りの人たちもみんなそれ知ってたし。その話が、音無さんの心変わりで無しになって、佐伯さんがティアスのバックにいる今の状況なんだと」

「なら、あなたに舞台に立つように言ったのは、佐伯佳奈子なんですか?」

「どうだろ……」

「ティアスだよ。佐伯さんは、ティアスを待っててくれてるって言ってたから」


 言葉にならなかった。

 ティアスがオレを選んだということを彼に言ってたという事実と、オレに言わず彼にだけ言っていたという事実。物事は側面次第で、こんなにも違うのか。

 彼女がオレを求めていたことの嬉しさと、彼女のずるさへの怒りと、彼と彼女の仲に対する嫉妬。オレはもう、処理しきれない。

 

「チャンスって気がしますけどね。やれるときにやれることをやっておかないと、年をとったときに後悔したりしますよ」

「お前が言うと、重みがあるな」

「余計なお世話ですよ。私は、そんなに世渡りもうまくなければ、チャンスもなかった。地味に努力して、今の場所にいますから。そう思うと、若くて、チャンスにも恵まれているあなたが、一時の感情でそれをフイにするのはもったいない気がしますね。あなたはこのままピアノを続けて、どうしたいんです?」


 ちょうど2年前、秀二は高校受験を目の前にしたオレに同じコトを言った。もしかしたら、親父に何か言われていたのかも知れないし、ただの老婆心からかも知れない。真剣にピアノをやりたいなら、コンクールにももっと出るべきだし、進路も考えた方がいい。それは、愛里にも言われていたから充分判っていた。だけどオレは、それを先延ばしにすることを選んだ。

 ただ愛里の側で、ピアノを弾ければ良かった。コンクールは苦手だったし、その苦手を乗り越えてまで何かを手に入れようと言う欲求は、その時のオレにはなかった。


「チャンスかもしれんけど、そうじゃないかも知れない。あいつらがどうしたいかも判らず、オレの何を気に入ったのかも判らず、ただティアスのおまけとして扱われることが、オレにはチャンスとは思えない。ティアスの音無さんへの対抗心を満たすためだけの道具かも知れない」

「随分、言うじゃないですか」

「……なんかあった?」


 心配そうにオレを見る御浜の視線を、今のオレは素直に受け止められなかった。オレは何か、まずいことを言っただろうか。

 彼女に対して怒りを感じているのに、一度動いた恋心のようなものがどうしても消えない。それどころかオレを支配し、余計に苦しめる。彼女を切り捨てられない。

 そして彼女と同様に、御浜も。


「別に。ただ、秀二がチャンスとか言うほど、具体的な話じゃないってことだ」

「具体的じゃないなら、余計に動いた方がいい気がしますけどね」


 彼の老婆心が、オレには重すぎた。


「テツが嫌がることを彼女は知ってたから、提案しづらかったみたいだけど。今まで、いろんなピアニストと組んでみたけど、うまく行かなかったから、どうせなら荒削りで多少技術的に未熟でも、自分が気に入った人と組みたいって言ってたからね」

「お前、何げに酷いこと言ってるぞ」


 未熟で悪かったな。発展途上と言ってくれ。


「でも、テツが気にしてるのはそこだろ?何で『オレなのか』ってのは、そう言うことだろ?」

「……まあ」


 複雑だ。複雑すぎる。彼女の思いを、御浜から聞かされてる。素直に、彼女の思いは嬉しい気もするけど、彼がその相談に乗っていたことをこんな風に聞かされるのは正直、きつい。嫌味の一つも言いたいところだけど、怒りにまかせて暴言でも吐いてしまいたいけど、それもオレには出来ない。

 彼に内緒で、彼女に触れ続けたことを、激しく後悔している。いやになる。


「いや、でも、オレには向かないし。いいよ。ピアノも、好きで弾いてるだけだし。未熟なのは誰より自分が判ってるし。受験もあるし、練習時間もそろそろ減らすつもりで、あまり弾いてなかっただけだし」


 我ながら、うまいこと言うもんだと思った。自分にも御浜にも秀二にも、そして愛里達にも言い訳が立つ。これで良いじゃないか。

 ティアスにだけは言い訳できないけど、だけど、もうやめないと。こんなに彼と彼女は近いのに。体だけのオレに勝ち目はない気がするし、仮に勝ったとして、勝利と引き替えに御浜がいなくなるだけだ。


「もったいないですね」

「秀二がもったいない、て言う意味がよく判らないけど。オレとしては、テツとティアスが一緒に舞台に立ったら面白いかなって思ってただけで。何より、彼女が望んでたし。テツもね」

「オレ?」 

「そう。彼女が歌っている姿を、羨ましそうに見てたから」


 どうしても反論の言葉が出ず、黙って首を振った。


「賢木先生のピアノを思い出してたろ?」


 オレは、彼らの前で譜面を読んでただけなのに。


「彼女がライブの話をする度に、少しだけ悔しそうにしてたの、自覚してる?」


 判らない。だけど、息苦しくなるような、締め付ける思いはあった。それが、彼女が他の男と一緒にいることに対してなのか、その行為に対してなのか、彼女の横にいる同じくスポットを浴びる存在に対してなのかは、オレには判らなかった。

 恋愛感情なのか、コンプレックスなのか。何れにしろ、彼女がオレの何か欠けた存在であることだけは確かだけど。


「そんなことは……ないんじゃないか?」

「かもね。オレの見てる範囲だからね」


 かもね、とか言いながら、自信たっぷりじゃねえか。ホントに何なんだろう、コイツのこの妙な存在感と説得力。


「テツってさ、考え過ぎなんだよね。しないならしない、するならするで、どっちでも良いし?時期を待つなら待てばいいと思うし」

「何だよ、そこまで言っといて、その突き放した意見は」

「だってそうだろ。そこにただ留まる以外はどうしたって良いんじゃない?だって、自分の責任だし」

「留まるって?」

「何もしない、ってこと。それを自分で選んだのならともかくね」


 動くのが怖いから、何もしない、じゃダメだろうか。ダメだろうな。


「あと、嘘はダメかな。練習量を減らしてるって言うのとか。減らしてる人は、10時ぎりぎりまでピアノの前に座ってたりしないしね」


 やっぱりばれてる。弾けないのを知ってるとは思ってたけど。

 秀二と言い、御浜と言い、何で、オレの行動が手に取るように判るんだ。


「せめて、もっと夜遅くまで弾けると良いのに。未だ何か言われる?」

「言われなくても、近所迷惑ですよ。家までまる聞こえですからね」


 ティアスが、家に練習しに来ればいいって、そう言ってたんだ。

 思わずそんなこと、口が滑りそうになった。

 言ったほうが楽かもしれない、とも思ったけれど。だけど、多分、オレはまだ何かを期待していたのだろう。

 かすかにだけど、御浜はオレの心を言い当て、その先を(どっちかというと退路を絶たれた感じだが)指し示した。にもかかわらず、オレはこの男を裏切っていいのか?


 まあ、答えはNOなんだけど。それはあくまで理屈の問題なんだよな。頭では判ってるんだ。だからオレがこんなに、考えすぎといわれながら、悩んでる。

 だからオレは、いつもここに留まることを望んでいるのか。


「御浜。ティアスがどうとか、面白そうとかなしでさ。オレはどうしたらいいと思う?」

「知らない。好きにすれば?」


 なんか、答えは判ってたけど……突き放すなーこいつは。


「オレが見てるテツなんて、ほんとのテツの気持ちじゃないと思うし。テツが自分で何とかしたいと思わないなら、何したって意味がないし」

「相変わらず、厳しいですね。案外、自分よりも他人のほうが、客観的に自分の事を見てくれるから、正確かもしれませんよ?」

「でも、決めるのは自分だよ」


 修二はその御浜の台詞に苦笑いを見せたけど、きつい言葉とは思ったけれど、その通りだとも思った。


「……そういえば、今日はどこに行ってたんですか?先輩に聞かれると困るんですけど」


 思い出したように確認をする修二。多分、話を変えたかったんだろう。御浜は多分、答えも出さないし、その態度を変えることもないだろうから。オレを哀れに思ったか。


「音無さんのライブで一緒になったときに、聞かれなかったんですか?その後、電話とかは?」

「……そういえば、電源切ってた」


 脱いだコートのポケットに入れっぱなしだった携帯を探し当て、電源を入れる。ほぼ同時にメールやら留守電やら入ってきた。最近、こんなのばかりだな。


「どうして、また」


 時々、そうやって保護者みたいな顔をするのはずるいぞ、修二。隣で御浜が聞いてるじゃねえか。アリバイ工作しといてよかったよ。


「ライブだったから。あと、新島んちに泊めてもらってたから。……悪い、ちょっと電話でていい?」

「誰ですか、こんな遅くに」

「佐伯佳奈子」


 一応、余計な話にならないように、携帯をもってリビングを出た。






 佐伯さんからの電話は呼び出しで、例の、ティアスが住んでるマンションのエントランスに来いというものだった。

 オレはティアスに会う意思がないことを伝えたら、会わせるつもりもないと言っていた。いいから来いという彼女に押され、仕方なく、深夜だけど家を出た。なんと言うか、有無を言わせない女性だと思った。親父がいたらどうする気だよ。相手が修二だからよかったものの。

 御浜には佐伯さんのマンションに行くとだけ告げた。(ティアスが住んでいる場所のことを知っているかどうかは判らないけれど、怖くて話を出せなかった)


 原付で向かったら、15分くらいでついてしまったので、約束の時間を遅めに告げたことを後悔しながら、普段ティアスと会うときには使うことのなかった側のエントランスで待っていた。

 深夜だからか、エントランスの奥にある管理室前の受付に若い男性が立っていて、声をかけられてしまった。なんて答えていいかわからないところに、佐伯さんが上から降りてきた。


「なんか、ホテルの受付みたいになってるんですけど」

「普段も常駐してるんだけどね。こっちから入ったことなかったんだっけ?奥にラウンジもあるのよ。ごめんね、そっちで待っていてくれたらいいかと思ってたんだけど」


 ますます、どこかのホテルみたいだぞ?いや、結構すごいマンションだとは思ってたけど、予想以上にすごくないか、ここ。


「そっちの、駐輪場側からしか入ったことなかったですから」

「ああ、通用口のほうね。ティアちゃん、表玄関から入ると、管理の人が立ってて緊張するって言ってたから」


 彼女に誘導されるままに、エントランス奥のラウンジに案内される。マンションの住人しか入れないという、スペイン風の簡単なバーがあった。その存在に、なんだか頭が痛くなってきた。


「あんまり、外に出ないようにしてるの。こんなところに呼び出しちゃってごめんね」

「いえ……」


 やばい、完全に飲まれてる。つーか、何でカウンターで、しかも隣に座らせるんだよ。ずるくない?


「何から聞きたい?ティアちゃんのこと」


 ストレートすぎて、何も言えなくなってしまった。


「オレのこと、からかってませんか?」

「少しだけよ、少しだけ」


 嘘でも良いから否定しろよ。完全に子供扱いだな……つーか、子供か。オレなんか、この人から見たら。

 新島は男扱いっつーのが腑に落ちんけど。


「別に、ティアスのことなんか、どうでも良いです」

「そんなこと言うと、ティアちゃんが泣いちゃうわよ」

「オレが突き放したくらいで泣きますかね?あの気の強い女が」


 蓮野のために泣く彼女を思い出し、佐伯さんのせいじゃないって判ってるのに、余計に腹が立ってきた。


「そう?あの子、よく泣くのよ?甘えるの下手なくせに。遼平くんにもそうしてれば良かったのに。不器用だから」


 オレがこの「場」に戸惑ってるのを彼女は悟っているのだろう。簡単にオレに了承をとって、勝手に飲み物を注文していた。

 もしかしたら、わざと蓮野の話も振ってるのかも知れない。


「そんなに警戒しなくても」

「別に、してませんよ?」

「それがしてるっていうのよ」


 彼女は苦笑いを浮かべながら、出されたグラスの一つをオレに勧め、乾杯の素振りだけを見せた。


「……別に、ティアスのことなんかどうでも良いですって言ったじゃないですか?オレがあなたに聞きたいのだとしたら、ティアスが言っていた『舞台に立つ』話ぐらいです」

「どうしてそんなに喧嘩腰なの?まだ良い話とも、悪い話とも聞いてないのに。少なくとも、悪い話じゃないわよ?」

「悪い話かどうかはオレが判断します」


 気を悪くするかと思ったが、彼女は人の悪い笑みを見せただけだった。


「だったら、悪い話だと思ってるからその態度?ティアちゃんがずっと気にしてたからね、君のこと」

「気にしてた?」


 オレの質問に、わざと間をおいて答えた彼女の対応に、してやられたとしか言いようがない。また、オレは彼女のペースに持っていかれた。


「白神くんだっけ?沢田くんの幼馴染みが、君のコンサート嫌いの話をしてくれたって。小学生くらいのころは、従姉妹のお姉さんと一緒に何度か出てたみたいだけど、中学生くらいからほとんど出たことが無くって、学校行事くらいしか人前に立たないって。どうして?」


 彼女は明らかにオレに気を使っていた。それはよくわかる。ひどく言葉を選んでいるということが、痛いほど伝わってくる。

 そりゃそうだ。この年で、受験どうする?なんてレベルまで音楽やってるくせに、コンサートやコンクールが苦手なんていう奴の理由なんて、たかが知れてる。ましてや、思春期真っ盛り、腫れ物を触るように扱われたっておかしくない。


 ……なんて、冷めたこと考えてるって知ったら、オレも新島みたいに男扱いしてもらえるんだろうか。正直、愛里や親父がオレのことをそんな扱いしてくるから、もう慣れっこだ。思春期も反抗期も、それらしいものは残念ながらやってこなかった。

 辛かったり、恥ずかしかったり、悔しかったり。わけのわからないものに振り回されたのは一瞬だった。オレを振り回すのは、あの女に対する執着だけだ。ほかはどうでもいい。


「あまり、好きじゃないですから」

「緊張なら、誰だってするものよ?」


 やっぱり、そう思われてるよな。そうだよな。


「……意味がないですし。いや、オレの感情より、オレに場数が少ないことは、その話を聞いたら判りきったことでは?」


 愛里と一緒だからオレはピアノを弾いていたし、愛里に習うことが出来るからオレはピアノを続けている。元々、子供のころに習っていた先生とは合わなかったから(エキセントリックな先生で、愛里は優秀だから気に入られていたけど、オレは出来が悪かったからよく怒られてた)、愛里が受験のために先生を変えたタイミングでやめても良かったけど、彼女が教えてくれると言うから続けていただけ。ピアノを弾くことは好きだったし。

 コンサートは元々苦手だったけど、先生につかずに、愛里に教えて貰うようになってからは、逆にその手の柵が無くなって楽になったと思ってたくらいだ。

 ……とか、絶対この人の前では言えないし。


 我ながら、恥ずかしいくらい愛里に依存し、振り回されまくってる人生!


「何で、オレなんですか?ティアスは他にも色々違うピアニストをバックにつけて歌ってるでしょう、今でも」

「ティアちゃんが気に入ったからよ?簡単な理由。ほかに必要?」

「それの意味がわからないんですよ」


 彼女が言う「簡単な理由」という奴が、オレの心の奥深いところで、なあんか引っかかる。

 嬉しい気もする、怖い気もする、納得いかない気もする、悔しい気もする。


「考える時間がほしい?」

「え?」

「そんな顔してたから。なんか難しく考えすぎてない?とりあえずやってみればいいのに」

「……そんな」


 難しい顔してたか、オレは。


「ティアちゃんみたいに、とりあえず」


 ……


 思わずグラスを落とすところだったじゃねえか!なんつう……いや、他意はないと思う、多分。いや、新島のあの台詞から、この人も確実にオレとティアスがヤったと思ってんな。いや、事実ですけど。

 てか、とりあえず。そうですか、とりあえず。そんな軽がると。まあ、そもそもあの女、オレに嘘ついてんだよな。彼氏いたことないって。なら、蓮野は何なんだよ。大体、初めてじゃないくせに。

 いや。そんなこた、どうでもいいはずなんだが。引っかかる、引っかかる。気持ちが悪い。どうしたらいいんだ、オレは。


「……もしかして、今まで彼女とかいたことないの?そんなに動揺しちゃって。ちょっとからかっただけなのに」


 ちっ、悪意だらけかよ、ちくしょう。この女……。


「いましたよ。失礼じゃないです?別に、動揺とかしてませんし?」


 いや、親父より年上の女だからさ、わからないでもないけど。せめてもう少し反応して見せろよ。悲しすぎる、完全に馬鹿にされてる。


「冗談よ。でもわかった。ティアちゃんが君に興味を持った理由が」

「……理由?」

「とりあえず、悪いようにはしないから」


 そういって、彼女はオレに、名刺とスタジオのチラシを押し付けた。


「何ですか、これ」

「文句はやってから言いなさい。いろいろ気に入らない理由はあるみたいだけど、やらない理由らしいもの、彼女に言える?」


 だって、舞台に立ったときに指が動かなかったらどうするんだよ。とは言えないけれど。いっそ、言ってしまえば良いのか、何度も迷ってたんだから。

 いや、それはそれで、なんだか逃げのようにも聞こえるし、言いたくない。第一、オレだって、それが引っかかってるわけじゃない。


「それは……大体、あの女が最初に言わないのが」


 そう、彼女に食って掛かったが、御浜の顔が浮かんでしまったので、それ以上言えなくなってしまった。

 御浜は知ってる。言わないだけで。オレのことを何もかも。だからオレの妹がそうするように、彼も愛里にいい感情を持っていない。それだけオレは、あの女に振り回されてる。オレを大事に思ってくれる人たちが、彼女をよく思っていないのなんか、知ってる。


 だけど御浜は、ティアスには言わなかっただろうし、これからも多分言わない。彼の気遣いが、彼女からオレに話が伝わらなかった遠因だと言うことを知ったら、それは誰のせいにもしたくない。


 御浜は、彼女からオレの話を聞いたとき、どう思ったのだろう。蓮野の話を聞いたときのような動揺をしたんだろうか。

 だとしたら……。


「やってみたら、案外いいかもよ?」

「音無さんに対抗するための道具ってのは、気に入らない」

「利用し返してやろうっていう程度の野心くらい、持てばいいのに」


 それはそれで、そういわれると悔しいぞ。野心がまったくないって言うのも、男としてなんだか、恥ずかしい。


「プロデューサーですから、一緒にやるならきちんと話くらい聞くから。本格的に彼女が動くなら、私もつきっきりになるし」

「ずいぶんティアスに期待してるんですね」


 それは、公私ともども、彼女に援助をしている佐伯さんの態度で知ってはいたが。言葉にされるとなお重い気がする。

 それも、オレが引いてしまう理由のひとつではある。

 彼女への期待の大きさを、オレの指が壊してしまうんじゃないかって。


 野心がないといわれて腹が立つのに、期待がでかいと引いてしまうオレは、気が小さいってことか?

 指が動かないことすら、そのせいだと思われたら、いや過ぎる。


「それもあるけど、遼平くんの遺言だからね」


 なんだかやりきれないこの思いを叫んでみたいような気もしたけど、たくさん理由がありすぎて、何から言っていいかわからないけど。でも、ひとつだけ、何者にもはばかられず、だけど人知れず叫びたいことは、この男だ。


 話したことも、会ったこともない、今は存在すらしていない。そのくせに、オレの前に立ちはだかる。


 これはたぶん嫉妬だ。御浜や愛里のことを考えたとき、こんな風にティアスを思い出すことはないのに、蓮野の話になったとたん、はっきりとオレの中に彼に対する妬みと、彼女に対する思いが噴き出してくる。

 ずいぶんオレはずるいものだと、思わず冷笑してしまう。だけれども、どうしようもない。


 認めたくないけれど、全てオレの中にある。

 オレは、どうしたらいい?どうしたら……。


「テツ」


 ティアスが、オレの後ろに立っていた。横で「会わせるつもりはない」と言っていた佐伯さんが苦笑いをしていた。


「私の隣で、ピアノを弾いて」

「何で……」

「私が、楽しくするって言った。責任とれって言ったのはあなた」


 彼女は手を伸ばし、オレに触れる。たったそれだけのことなのに、触れられた部分は以前よりも酷く痺れる。彼女の上に乗ったことを思い出すと、その出来事があったにもかかわらず、余計に。

 オレの手をとり、立ち上がらせる。彼女に逆らえない。


 だめだ。このまま流されたら、だめだ。


「……だけど、隣で、人前では、無理だ。オレ……」

「テツ、私といるときは弾いてたじゃない。弾けるでしょ?」


 彼女はオレの手をとったまま、バーの奥にあるステージに引いていく。グランドピアノのカバーを勝手にあけ、オレを座らせた。

 客は佐伯さんを入れても3組。ここで弾けってことか?


「テツが気にしてるのは、時々指が動かなくなること?それとも、別のこと?」


 彼女は知っていた。彼女が知っているのも、知っていた。多分、御浜も知っている。ティアスも御浜も、知らない振り、見なかった振り、何もなかった振りをしてくれていた。知ってて、オレは甘えた。

 オレの練習不足を嘆く愛里は、きっと知らないけど。だから彼女には、必死に取り繕った。


「動かないかもしれないぞ」


 本当は「全て」だと言ってやりたかった。オレ自身、どうしていいかわからなくなっていた。そうとしか、言えなかった。

 ほか「全て」なんて、オレがオレ自身を責める要因を増やすだけだ。十分判ってる。

 今オレができる、精一杯だ。


「大丈夫。動くよ」

「どこからそんな自信が」

「だって、私と一緒のときは、弾いてくれたじゃない」


 彼女が楽譜をオレの前に置く。てっきり、以前読めといって渡された佐伯さんがアレンジした曲だと思ったのだが、違った。子守唄だ。


「お前、ずるいよ」


 どうせ心を持ってくなら、愛里への執着も全て、持って行ってくれたら良かったのに。

 あの夜から、オレはとっくに持っていかれていたのだと、いまさら自覚させられた。

 愛里への執着も、そのままだったけれど。




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