第1話(the heads)前編
楽しいことなんて何もない。
世の中希望なんて何もない。
オレだけじゃない。
誰も彼もそう思ってる。
そう感じるし、そう思う。それでいいじゃないか。
そう言ったら、笑うヤツがいた。
だからコイツだけは違うんだと、幼いころからずっとずっと思ってた。
彼はオレにとって誰よりも特別だった。
誰も彼も違うんだ、と全ての人間を排除しながら生きてきて、それでもそう思ってる。
沢田鉄人。
この無駄に強そうなのがオレの名前。
この名前をつけてくれた母親は妹を生んですぐ死んでしまったので文句も言えない。
「テツ!ホントにここにいた」
「…御浜。お前、学校は逆方向だろ?」
スタバには珍しく、店外に喫煙席がある。ここが毎日のオレの通う席だった。
御浜はオレん家の隣に住む、いわゆる幼なじみってヤツだ。高校から学校が変わったので、学校帰りにこうして会うことは、めったになくなった。
…はずなんだが。
「オレ、真に呼ばれて来たんだけど、知らない?」
「そんなこと、学校じゃ言ってなかったぞ」
真はオレのクラスメートだけど、なぜか御浜のことを気に入ってるらしく、よくつるんでる。
「御浜!いたいた。…って、テッちゃんもいたの?」
「お前がわざわざここに御浜を呼び出したんだろうが。オレは大概ここにいる」
「はいはい。あの美人のピアノの先生待ってんでしょう?愛里ちゃんだっけ?」
っとに、こいつは見た目に違わず、思っきし軽いな。なんで真面目が歩いてるような御浜と仲がいいんかな。
「ちゃんづけするような年齢かよ、あの女が」
「あら、言ってくれるじゃない、テツ?」
「げ、愛里…」
「カフェミスト、ディカフェのトール。テツの奢りでね」
緩く内側にカールした長い髪を揺らしながら、こんなセリフを吐いてるとは思えないような、爽やかな笑顔でオレを顎で使う。
目線だけでオレを席から立たせ、愛里は代わりにそこに座った。
いやいやレジの列に並ぼうと動いたオレを、真が止めた。
「オレも何か買ってこよ♪御浜、何がイイ?」
「キャラメルスチーマー、ショートね」
「了解っ。相変わらずお子様だねぇ」
御浜に対して小さく敬礼っぽいポーズをとって、オレの背中を押した。
「見かけだけなら、お前が御浜をパシらせてそうなんだけどな」
「うわ、言ってくれるね、テッちゃん。オレ、こう見えても尽くすタイプよ?」
「…うそくせ」
ディカフェは他のドリンクより時間がかかるので、後から注文した真が先に両手にドリンクを持ってオレの横に立った。
「今日、相原とか新島は?一人なの珍しくない?」
「あー、知らね。別にいつも約束してるわけじゃねえし。お前だって、いつも勝手に人の横に座ってんじゃん」
「ナマイキに男子高生が毎日のようにこんなとこ通ってっから、付き合ってやってんだよ」
「知るかよ。コーヒーは好きだけど、スタバは愛里の指定なんだよ。別にそのまま大学なり家なりくりゃ良いのにわざわざ…」
「付き合ってあげてんだ」
「そうだよ」
「ふーん。テッちゃんてさ愛里ちゃんのこと相当好きだよね」
「………
…ばっかばっか!んなわけあるか、ばっか!」
「…今どきそんな真っ赤になって否定する方がハズカシイヨ…。もしや今までフリー?せっかく親にイケメンさんに生んでもらったのに」
あー、もううるさいこいつ!愛里のことなんか御浜にしか言われたことないのに。
「テッちゃん。ディカフェ出来たって」
鬼の首をとったみたいにへらへら笑いやがって、ちくしょ。
「わーってるよ!」
「子供だな。言わなきゃ何も変わらないのに。一生シロート童貞だな☆」
「うるさい。良いから愛里にんなこと言うんじゃねえ」
真は大抵のヤツがたじろぐオレのガンツケにビクともせずにヘラヘラしたまま、
「よもやテッちゃん、自信がない?大丈夫じゃね?テッちゃん見映え良いし、年上受けするから、意外とイケそうじゃね?仲良いし」
「うるさい。ダメなもんはダメなんだよ」
「言い訳つけてビクついてるだけじゃん?」
「あいつ、親父の女なの」
さすがの真も黙ってしまった。
「…まったまた〜、愛里ちゃんそんなタイプゃないでしょ?大体、テッちゃんのお父さん、いくつよ?」
「35。金あるし、こんなでけーガキが二人もいるようには見えないし。奥さん死んでるし。24の院生なんてヨユーでしょ?オレ、親父にそっくりだし」
「…自信過剰だよ。冗談だろ?」
「御浜に聞けば?ほら、冷めるから早く行こうぜ」
冬空の下、緑色の木枠の窓の向こうで、ピアノを弾くあの白い手で煙草を持て遊ぶ彼女を、誰にもバレないようにそっと見つめた。
オレにとって、母親のようで、姉のようで、何よりはじめて好きになった女。
ずっと彼女は家に通い、オレにピアノを教えてくれた。
彼女が家に通う理由が他にあると、オレが知ったのはいつだったか。
それでもオレは、愛しい者を撫でるようにピアノを弾き、いつか、いつもとは違うことが起きることを期待しながら、彼女をあの席で待ち続ける。
楽しいことなんて何もない。
世の中希望なんて何もない。
そう思いながら、何とかなると期待しているオレがいる。
期待してるから、オレを絶望させた彼女にしがみつける。
今のオレの世界にはあのピアノしかなかった。
普通は受験のためにきちんとした先生をつけるものだ。
この待ち合わせのスタバからほど近い芸大で、オレは受験ために愛里にピアノを習う。
その様子を見た他の先輩達はみなそう言った。
佐藤愛里は舞台映えもするし、ピアノ科の院生の中でも巧い。だけど…って話らしい。
でも別にそんなことはどうでもよくて、オレは愛里にピアノを教えて欲しかっただけで、何だって良かった。
芸大に出入りしてるのだって、別にここに入りたいからってわけじゃない。(そもそも部外者だし)
愛里の練習の見学とか手伝いとかいう名目で入ってるだけで、ホントにそれだけのつもりだし。
別に大学なんか、この近辺なら上から下まで選び放題だし。入れりゃ何処だっていい。
もう2年も終わりだから、真剣に。特に音楽系は早めの対策をって言われるけど。
別に、なあ…。
「テツ、この曲は好きじゃない?」
大学の練習室でオレのピアノを聞いていた愛里がオレを制す。
「なんで?」
「つまんなそうだから。パワーゼロって感じ。ピアノだっていつもはヤバいくらい神経質に触るのに」
神経質…。あのなあ。オレがどんな思いで…。
「受験は来年なんだから、今は好きなことしようよ。つまんないヤツはつまんないものしか造れない!…ですって」
受験は…てセリフはまずいだろう。目の色変えてるヤツもいるのに。
「造る?ピアノなんだから弾くで良いだろ?」
「だって、これ言ったのは陶磁科の後輩(同い年)なんだもの」
「ピアノ関係ないし…」
「あら、芸術に限らず全てにおいて、生み出すものには創造主の全てがにじみ出るものよ」
「じゃあ、オレのピアノは愛に溢れてるはずだ」
「あら〜、ナマイキに高尚なこと言うわね。音楽への愛だなんて」
「愛里へのだよ」
「あら残念。私、子供には興味ないから」
「奇遇だな、オレもおばさんには興味ないや」
「…テツ、あんまり失礼なこと言ってると後が怖いわよ?」
「…自重します」
ホントに何かしそうで怖いっての。
ここで、本気で話せば、何か変わるのか?
冗談にしか取らないってわかってるから、何だって言えるさ。
ハズカシイなオレってヤツは…。
真の言う通りかもしれないな。
「失礼しま〜す」
練習用の個室に人が入って来るのはよくあることだったが、その時の声は、なぜか学校で聞いた覚えのある声だった。
「おー、ホントに沢田がいる。マジでピアノ弾いてたんだ」
「いつもそう言ってるだろうが。新島こそ、なんでこんなとこに?」
新島灯路も真同様、よくあの場所に集まってくる。つるんでることもよくあるけど、芸大で会うのはさすがに初めてだ。
「いや、従姉妹がさ、ここの声楽科の編入試験を受けるとか言ってて、見学に来たわけよ」
「なんでお前まで?」
「案内だよ。ベルギーから来たばっかだし、こっちの地理に疎い上に方向オンチだし」
「ベルギーならあっちの音楽学校の方が…」
愛里が少しうらやましそうに言ったが、
「いや、あいつ学校行ってないはず…。なんかここの教授の名刺もってたし。編入が無理なら、まだ18だし、4月から入学でもいいしって…。人数少ないし、年齢幅もあるから居心地は悪くないとか言われて…なんかその教授に招待されたって言ってた」
「なにそれ、そんなおかしな話あるわけ?!留学生かなんか?」
「いや、名前は向こうの名前みたいなのついてるけど、ほとんど日本人ですよ?」
「愛里、なに噛みついてんだよ」
「噛みついてなんかないわよ。」
噛みついた理由が少しだけ判った気がする。愛里はこの大学にはいるのに結構苦労してるから、降ってわいたようなチャンスを貰ってる新島の従姉妹とやらが、気に入らないだけだ。
「灯路、知り合い?」
「何だよ、ティアス。賢木先生はもう良いのかよ」
「賢木先生ですって〜?ピアノ科の先生じゃないのよ?なんで声楽に……」
あー、なんか愛里の逆鱗に触れまくってるなあ……。しかも、拾ってきたのはあの賢木先生っぽいし。
親父の旧友で、ピアノ科の助教授。愛里としては気に入られときたい相手だしな。
「さあ?なんか友達が来たからって、そっちに行っちゃったわ。勝手な人。ねえ、ここで誰かピアノを弾いてたでしょう?」
声と共に、軽やかな足音が徐々に練習室に近付いてくる。
どんな美人が出てくるか、当然のように期待してしまう。あの賢木先生が気に入ったってことは、相当美人なんじゃないの?そのティアスって女。
女の手が扉の向こうにちらっと見えた。その後、ゆっくり入ってきた。
「ねえ、ピアノひいてたの、誰?ここの学生さん?」
「違うよ。オレの同級生だよ。あいつ、沢田鉄人って言うんだ」
「ふうん」
じろじろとオレを見る女。確かに賢木先生好みの美人だけど……確か、年上だったと思ったけど?すっげえ童顔。賢木先生、これはロリコンじゃねえ?確かに体はすごいけど。
ダメージデニムに薄手のグリーンのニット。栗色の髪は多分地毛だろう。ショートカットに切りそろえていた。
さっぱりした格好で俺は嫌いじゃないけど、確実に愛里は嫌いだな、こういう女は……。全然タイプが違う。
「君さ、なんか、さっき賢木先生の所に来てた人に似てるね。兄弟かな?お兄さんとかいる?」
「あー。それ、オレの親父じゃないかな?賢木先生の友達」
「そーなんだ。じゃあ、君は高校生だけど、この大学の関係者ってこと?」
「いや、別に……。てか、あんた、妙にオレに突っかかってない?」
感じ悪ーい。この女、さっきからじろじろオレを見てるし、なんか話し方には棘があるし。美人だからよけーに冷たく感じる。
「べつに。ここの大学の人ってどんな感じなんだろうと思っただけよ。だってさっきのピアノ、つまんなかったんだもの」
……なっ?!
言うに事欠いて、つっ……つまらないだとお?!
「ちょっと!あんたねえ?賢木先生のお気に入りだか何だか知らないけど、失礼にもほどがあるわよ?私が教えた子よ?」
「……なんで?だって君、ああいうの、弾いてて楽しかった?」
……そう言われると……。それは、どうだろう?
「ティアス、どうしてお前はそう気が強いんだよ。愛里さん怒ってんじゃん。すいません、ホント。沢田も気い悪くすんなよ?コイツ、ちょっと口が悪いから。悪いな。ほら、謝れよ」
「なんで?怒らせたから?」
別に怒らせるつもりで言ったんじゃない、とでも言いたげな顔だった。
「気分悪くするようなこと言ったから。別に何を言うのも自由だけど、言い方に気をつけろってことだよ、もう。佳奈子さんが言ってただろ?」
なんか新島って、思ったより大人だなー……。人の受け売りとは言え、そう言うこと言えるか?
「あ、そっか。そうだね。ごめんね」
「謝って済むわけ?相当失礼よ、その子!」
「愛里……。こいつ、謝ってんじゃん。……それにつまんないって思ったの、ホントなんだろ?えっと……ティアス、でいい?」
ティアスはオレを真正面から見上げたまま、頷いた。
確かに、彼女の言うことをオレは認めてはいたけど……さすがにへこむな。
彼女はまだ何か言いたげにオレを見上げている。
「何だよ?」
「名前、何だっけ?」
「沢田鉄人。ホンットに失礼な女だな、あんた!」
さっき新島が説明してただろ!あったま悪いんじゃねえの?
「沢田くん。ピアノ、真剣にやりたいなら、私とやろうか?絶対楽しくしてあげる」
「自信過剰じゃねえの、あんた?世話になんかならねえよ」
オレには愛里がいるのに。
「そう。残念」
意外にも、ティアスは特に怒った風でもなく、オレに笑顔を見せた。
少しだけ、胸の奥の方がざわめいた。
それが彼女の台詞のせいなのか、笑顔のせいなのかは判らなかったけれど。
声楽科の教室に戻っていくティアスの後を新島が追いかける。
新島がティアスには聞こえないように、俺達に身振りで謝ってるのが見えた。
「つまんないですって!何なのよ、あの女!」
新島達の姿が見えなくなったのを見計らって、オレに怒鳴りつける愛里。もう慣れっこだ。
「お前だって、同じこと言ったじゃねえか、愛里」
「私が言うのと、あんな一回聞いただけの女が言うのは別問題!あんたは私が教えてんのよ?私がバカにされたのも一緒よ!」
……ごめんな、愛里。
そう言うけど、オレはあの女の言うとおり、ホントは楽しくなかったんじゃないかって思うんだよ。
オレのピアノがつまんないって言うより、オレが楽しくないことの方がオレには問題だ。
だって、こんなに心の奥の方がざわついてるんだ。
『ピアノ、真剣にやりたいなら、私とやろうか?絶対楽しくしてあげる』
それにしても、何であんなに自信たっぷりなんだ……。信じられん。
ムカツク。感じ悪い。
でも、売り言葉に買い言葉とは言え、オレも相当やな態度をとってた気がする(だって、新島があんなに申し訳なさそうにしてた)
ていうか、何でこんなにオレ、自信喪失しちゃってんの?!
『つまんなそうだから。パワーゼロって感じ』
おかしいな。今日に始まったことじゃない気がする。
「……ちょっと、どうしちゃったのよ、テツ。なんか元気ないわね」
「いや、別に……。オレ、そんなにつまんなそうにピアノ弾いてた?」
「うーん。まあ、誰にでもそう言う時期はあるわよ。迷っちゃったり、判らなくなっちゃったりしてさ。メンタル面がどうしても強く出ちゃうから。楽しいだけじゃどうしようもないことってあるわけだし。弾きたくなかったら弾かなきゃイイだけの話。自分を追い込んで、一皮むける人もいるけど、それで壊れちゃう人もたまにいるから、無理しない方がいいわよ」
ようするに、オレは相当つまんなそうに弾いてたわけね。
「もっとポジティブに考えなさいよ。誰だって迷う時期はあるんだから。受験シーズンじゃなくて良かったじゃない」
なんだよもう、受験受験って……。
「どうする?今日の練習。テツの好きにすればいいわよ?」
彼女はそう言って、ちらっとドアの方を見た。
正直、今日はもう弾く気にはなれない。でも、愛里がこれからどうしたいのか判っていたから、ホントは動きたくなかった。
「親父、来てるって……」
「会いに行くに決まってるじゃない。こんな堂々と会えることなんて最近無いから。ちゃんと帰って来てんの?鉄城は」
「そりゃ、あそこしか家はないみたいだし、夜と朝はいるよ。たまに夕食作って待ってるし」
「そうなんだ。受験シーズン近いから忙しいとか言ってたのに、そんなコトしてるんだ」
愛里にはそんなこと言ってんだ。オレ達には何も言わずに、いつも通りだったけど。
愛里も親父も、お互いに何もあるわけがないって言う。
でも、愛里はずっと親父を追っかけてる。
家に来るのは遠慮してるみたいだけど。
本当のところはどうなんだろう。そんな言葉なんて、信じられるわけもないのに。
「他に別宅の一つや二つありそうだけどな、あの親父は。モテるし。よく女から電話かかってくるし」
「ないわよ。確かにモテるから、女の一人や二人や三人はいるだろうだけど、そう言う男じゃないのよ、あんたの父親は」
人の目って言うのは……主観と理想が入り交じって、見たいものしか見えないものだよ、愛里?
何でそんなに親父が好きなの?
「オレ、一緒に行った方がいい?」
そう、精一杯気を遣ったオレの言葉を受け、彼女は
「あんた、時々子供みたいね。でも、嬉しいわ。来て欲しい。会いやすいし……あんたの話もしておきたい」
「オレの話?」
オレの手を引き、練習室から引っ張り出して、扉に鍵をかけた。
「あんたの受験の話よ。本気で受験する気があるなら、いいかげんちゃんとした先生つけないとね。私だけじゃダメなのよ。そしたら、お金がかかるでしょ?お金出すのは鉄城なんだから」
「ああ、受験……」
なんか、いろんな意味で気が重いな……。
普段なら、どの練習室にいるかとか、教務室に聞きに行くのだが、今日はその必要はなかった。
「な……なによ、あれ!?」
音楽科棟内の一番はしにある大練習室。そこには異常な人だかり。
40人くらいだろうか?(一学年に40人もいないのに)普段は広すぎる練習室が狭く感じる。
その中心にいたのはピアノを弾く賢木先生と、歌うティアス。
奥の方に新島と親父が控えていた。
何故か、隣で騒ぐ愛理の声が、耳に入らなくなってきた。
クラシックかと思ったら、ロックだった。
だとしても、それを抜きにしても……彼女の歌声はすごい、の一言だった。
楽しくしてあげる、って言葉、案外嘘じゃないのかもしれない。
ピアノと歌い手。たったそれだけの存在が作る場なのに、この大きな部屋と、彼女たちを囲む人間を揺さぶっている。
「テッちゃん!これ、なんて曲?」
「え!?」
人混みの中から声をかけてきたのは、真だった。
隣には御浜と……、確か真の遠縁にあたる南 紗良さんだ。クールビューティーって言葉がぴったりの美人だが、いつ会っても笑顔が固い。そういや、彼女も芸大だ、っつってたな。
「知らない。ロックっぽいけど聞いたこと無い。何でお前らここにいんの?美術じゃなかったっけ?彼女」
真が大学に出入りしている話はよく聞いてた。南さんに会いに美術科の方によく行くんだって。こんな山奥の、交通の便の悪いところまでわざわざ。
知ってたけど、大学内で会ったのは初めてだった。
「たまたまだよ。なんかすごい子がいるって美術の方にも噂が流れてきてさ。見に来たの。まあ、8割はその子がすっごく可愛いってことだったんだけど」
「あれ、なんかプロの人が来てるとかって話もなかった?」
「そうだっけ?なんか情報が錯綜してるけどね。気分転換に見に来たってわけ。部室の近くだったし」
真と御浜がいたらしい「部室」がどこにあるかは俺はよく知らないが、美術科棟はこの音楽科棟から(心理的に)ちょっと離れている。(といっても、通り道が草木の手入れがしてなくて移動しづらいだけで、距離的には同じ敷地内なのでそうでもないのだが)
「すごいね、彼女。きれいな声だし。なんて言うか力があるよね。オレ、音楽のことよく判んないけど、彼女は何だか良いよね。すごく楽しそうで。見ててこっちも楽しくなるって言うか。そう思わない?テツ」
御浜の言葉は、いつでもオレに重くのしかかる。
今までも、これからも、きっと。
でも、今日の言葉は……
「そ……そうかもね……」
重いっつーか、……痛いっつーの!
曲が終わり、彼女が一礼をすると、歓声と共に拍手がわき起こる。
クラブやライブハウスではなく、大学の練習室でこんなことってあるのか?
「テッちゃん。聞きたかったんだけど、なんで奥に新島がいるの?テッちゃんの親父さんがあそこにいる理由は御浜に聞いたけど」
「あー、なんかあの女の従兄弟で付き添いらしいよ?さっき挨拶に来た。今日はやけに知り合いに会う日だな」
「ふーん。あの人、友達?」
新島の方を見てそう言う御浜。そういや、知らなかったっけ。
「まあ、そんなもんかな。テッちゃん、御浜にお友達紹介してないの?」
「お前が紹介すればいいじゃん……」
いろんなヤツと仲よさそうにしてるくせに、どっか一線を引いてるような所があるよな、真は。
「じゃあ、紹介して、オレのこと」
「良いけど。珍しいね、御浜。あんまりそう言うこと言わないくせに。なに、彼女に興味持っちゃった?新島から紹介して貰おうってハラ?」
「言い方悪いけど、そうかな?」
……あれ?
なんだ?なんか今、やな感じがした。
さっきティアスと話したときにざわついた場所が、引っかかれてるみたいに痛かった。
「オレ、あの子のこと、好きになっちゃうかも」
何言ってんの?
御浜の言ってること、よく判んねーって。
ティアスは、歌ってただけなのに?
お前、そんなこと言うようなタイプじゃないし!
「へー。いいね。御浜、そう言うこと言わないから、オレ、手伝っちゃおっかなー」
「邪魔するのはよく見るけど?」
「うわー、酷いこと言うね、紗良。御浜みたいなお子さまにまでそんなコトしないってば」
「何だよ、お子さまって」
怒って見せる御浜は、オレの知ってる御浜だった。
人混みの向こうで、ティアスが賢木先生や親父と話している。
何の話をしてるか判らないけど、先生達は楽しそうで、新島が一人判らなそうな顔をしてるところを見ると、専門的な話でもしてるんだろう。
親父も、多少なら話が分かるし、賢木先生達といるといつも楽しそうにするからな……。
その様子を遠巻きに見ながら、唇をかみしめる愛里の姿があった。
「なんか、テツと一緒に帰るのって久しぶりだね。家にはよく行くけど」
「そーだな。てか御浜、そのヘラヘラ浮かれた顔を何とかしろよ。さかりのついた猫かお前はっっ!」
「えー。それはさすがに酷い言い方。オレが女の子に声かけちゃいけないわけ?」
「まったくだね。なーんでテッちゃんはそんなにかりかりしてんの?何かやなことでもあったわけ?愛里ちゃんのこと?」
「うるさい!何でお前が着いてきてんだ!真!」
「いやだー、この人。今日の愛里ちゃんの前での態度ったら落ち着き払ってて、一体どこのおっさんかと思ってたのに、今度は何だかかりかりしちゃって、情緒不安定な思春期の女子高生みたいー」
「だまれ!棒読みすんな!余計へこむわ!わーっとるっつーの!!」
すっかり夜も更け、芸大からの最終バス(20:10)に何とか乗り込んだオレ達は、バス停から歩いて家路についていた。
オレと御浜は良い。お隣さんだし、仕方ないけど、なぜか真が後ろから着いてくる。
いちいちオレをからかうような、カンに触る態度をとってきやがる。
確かに、真の言うとおり、今日はかーなーり、かりかりしてはいるけれど。
「南さんに送ってもらえばよかったじゃねえか、お前らは」
「だめだって、卒制があるから忙しいんだって」
「なに忙しいのに押し掛けてんだよ、そーんなに彼女に会いたいわけ?」
「仕方ないじゃん。紗良のヤツ、忙しすぎて帰ってこないんだから。年明けじゃないのか?卒制って……?」
……オレのつっこみはスルーかよ。顔色一つ変えねえ。
「ふーん。つき合ってるわけでもないのにご執心だな。……てか、一緒に住んでるみたいな言い方」
「住んでるよ。言わなかったっけ?オレ、紗良んちに居候してるの」
「……そう言えば」
確か、真は家族を事故でなくしてて、遠縁の親戚の家に預けられてるって聞いてたけど、そこが南さんちか……。
「真は、ホントに紗良さんのこと好きだよね。すっごく大事にしてる」
「お!御浜は良いこと言うよね。そうそう、オレってば大事にしちゃってるわけよ。あの人お堅いからさ」
「何が大事か!?見るたび、違う女連れて歩いてるくせに」
南さん一筋だというなら、そう言う態度をしろよ。軽すぎんだよ、お前は。いくらなんでも。(ある意味うらやましいけど)
御浜もそんな真のことを笑い飛ばしていた。
そういえば、今まで、御浜のそう言う話って聞いたこと無いよな。
もしかしたら学校でそう言う女がいるかもしれないけど、御浜がオレに言わないわけがないし……。
どっちかっつーと……相当奥手で、そんなに下ネタも興味なくて、中学の時から先輩女子に人気のあったさわやか美少年のイメージそのまんまのいい子ちゃん、ってかんじなんだけどな。
何で、急にあんな失礼な女が良いなんて言い出したんだか。
「ただいまー」
「おじゃましまーす」
「……って、何で真までオレんちに着いてくるんだよ!」
「あ、ひどいなー。御浜はよくてオレはダメなわけ?てか、御浜がフツーにこっちに来たから、オレもこっちに来ただけなんだけど」
ああ、もう何もつっこむ気にならん。……今日は一人にして欲しい。考えることが多すぎるよ。
「あ、テッちゃんおかえりー。御浜さんと真さんもいらっしゃい」
セーラー服のまま台所から出てきたところを見ると、妹は帰ってきたばかりのようだった。しょっちゅう家に来るから、もう御浜も真も顔なじみだ。
「親父は賢木先生と飲んでくるから遅くなるって。ちょっとピアノ弾いてるから、テキトーにしてて」
玄関を上がったところで、学ランを脱ぎながら、御浜達をおいて、奥にあるリビングに向かう。
「ちょっと、テッちゃん!待ってよ。御浜さん達とは言えお客さんよ?ほっといていいわけ?」
「10時までしか弾けないだろうが。今さら客もくそもあるかよ」
「あはは、良いって、柚乃。テツ、なんか調子悪いみたいだからさ。あと30分しかないし、弾かせてあげようよ」
リビングの扉を閉めた後、電気もつけずに思わずその場に座り込む。
そんなこと、ここに来るまで一言も言ってなかったじゃねえか……。ホント、かなわねえな、御浜には。
なるべく、フツーにしてたつもりなのに。
……もう、何も考えたくない。とにかく弾こう。
弾いてる間は、忘れられる。
集中してれば……
ダメだ、なんでだ?
扉の前に座り込んだまま、体が動かない。
暗闇の中、どうして良いか判らない。
……弾かなきゃ。
御浜が、心配する。
何とか体を起こし、電気をつける。
母のグランドピアノの蓋を開け、赤いキーカバーを無造作にはずし、楽譜を開く。
ショパンエチュード。確かに、面倒くさくて、難しい。けど、別に嫌じゃない。
指、動かねえし!なんで?!
ついこないだ、普通に弾いてたつもりだったのに。
これが愛里が言ってた、メンタル面ってヤツかな……?
でも、こんなことで?別に何もないのに。辛いこととか、大きなショックとか、別に何もない。
ティアスの言った「つまんない」って台詞?
いや、あの程度ならいくらでも言う奴はいる。
今、彼女の言い方を思い出せば、(あの時はむかついたけど)はっきり目の前で言ってくれて、いっそ清々しいくらいだ。
あの大学で練習してたら、いろんな陰口が聞こえてくる。
愛里がティアスの待遇に対して怒ることをフツーに感じる程度には。それくらい、みんな苦労して入ってる。それでもさらに上を目指すヤツもいる。そんな場所。
だから理解できる。
……あー。オレ、やっぱ楽しくないのかな?わかんねーよ。
動機が不純だからな。
愛里に教わってるのが楽しかった。
愛里が誉めてくれるのが嬉しかった。だから、毎朝5時に起きて練習して、夜も10時までずっと練習。
部活も何もしないで、ひたすら練習してた。
それでも普通科高校を選んだのは(確かに県内にあまり選択肢がなかったのもあるけど)迷っていたから。
「弾かなきゃ……」
迷ってる場合じゃない。愛里はオレの受験のこと、真剣に考えてくれてた。
オレは期待に応えないと。
でも、愛里以外の先生なんていらない。
だから、オレにはこれしかないのに。
焦れば焦るほど、オレの頭の中でティアスの歌がぐるぐると回る。
忘れようと思っても、忘れられない。
彼女が歌った後の周りの歓声、拍手。そして、彼女を見いだした賢木先生の満足そうな顔。
あの御浜ですら魅了された、彼女の笑顔。
なんか、「負けた」って感じだよな……。
「テツ、今日、ティアスに貰った楽譜あるだろ?弾いてみてよ。今日歌ってた曲だろ?」
「……御浜。何でここに?」
立ち上がった勢いで椅子が転がる。その失敗を取り繕うように、ゆっくりと椅子を拾い上げた。
御浜に対して、そのフェイクは意味がないと知りながら。
「良いから。初見だろ?ゆっくりで良いから、練習しながらで良いから弾いてよ。オレ、あの曲好きなんだ」
オレが最初していたように、彼は扉の前に座り込む。
しかし、彼の目はまっすぐオレを射抜いていた。
あの時、歓声がやみ、学生達の波が退いた後、知り合いの強みで彼女たちに近付いた。
新島とティアスに、真が御浜を紹介した。
何かトラブることを期待していた。でも真の気持ち悪いくらいの猫かぶりっぷりと、元から異常なくらい愛想のいい御浜でそんなことが起こるわけもなく、滞り無く話は終わった。
オレはもう、何も話もしたくなかった。
それなのに、あの女がこの楽譜を押しつけてきた。
今、賢木先生が使ったのと同じ楽譜だよ。と言って。
「何様だよ、あの女。いきなり押しつけてきて、弾けとも何も言わないで」
「弾けって言って欲しかった?」
「……なんで?!」
「弾いてよ」
御浜の言葉に押され、オレはピアノに向かう。
今度は、カンタンに指が動いた。
そんなに難しい曲じゃない。
初見でいきなり弾けるほど、オレにはテクニックがないけれど。
「50年代ロックンロールだな。賢木先生、年ごまかしてんじゃねえの?」
たどたどしく弾きながら、ピアノに集中しすぎないよう会話をはじめる。
「鉄城さんよりは少し上なんだっけ?賢木先生、今年40だっけ?」
「…にしても、計算があわねえか。クラシックの先生が50年代ロックンロールを、ピアノとボーカルだけで、しかも芸大内で披露しちゃうのか。だから敵が多いんだな、あの人」
「多いんだ、あの人」
「多いね。良い話も悪い話も、あそこにいるとたくさん聞くよ。在籍してるわけでもない、顔出してるだけのオレがこれだけ色々聞いてんだ。中ではもっといろいろ言われてるだろうな」
「敵も味方も多いってことか……」
賢木先生は、こんな風に弾いてなかったな。もっと……なんて言うんだろう?
「敵も味方も多いってことは、幸せなことだね。ねえ、テツ」
ティアスの目が、オレを射抜いた、あんなまっすぐな目ではなくて……
もっと……
「テツ?」
「え?!……いつの間に、横に?」
「てか、話聞いてた?手が止まってたし」
「聞いてた聞いてた。幸せなことだねってことだろ?敵が多いのは不幸じゃね?」
御浜は取り繕うようにそう言ったオレの台詞を受けて、静かに微笑むと
「両方あるから、ちょうど良いこともあるんだよ」
時々、言ってることが判らん。御浜の言うことはオレには難しすぎて。
ただ、心地よい重さでオレにのしかかる。その強引さも癖になる。
だけど今日は何だか心臓に悪い。まだ、鼓動が早い。
「顔が赤い。ホントに調子悪かったりして。柚乃にいっとこうか?」
「いや、いい!何でもないから。それより、真はどうした。待たしてるんじゃないのか?」
「うん、そうだね。練習、してて」
あと10分。そう言って御浜はリビングを出ていった。
練習曲、やらなくちゃな。
そう思っても、先生のピアノ、彼女の歌声。絡み合って、オレの脳裏をぐるぐる回る。
つまんないって言ったティアスと、歌うティアス。
やっぱり、指は動かなかった。
練習を終えてキッチンに向かうと、大抵、御浜と柚乃がそこにいる。真がそれにつき合って……。
でも、今日は柚乃と秀二だけがそこにいた。
「御浜は?もしかして帰った?」
「真さんが、今日は御浜さんちに泊まるから、また明日って言ってた」
「最近、よく来ますね、あの泉って子」
秀二は勝手しったる何とやらで、勝手に換気扇を回し、側に椅子を移動し、煙草に火をつけた。
彼は向かいの開業医の次男で、N大の理学部で講師をしている。こうして時々家の様子を見に来る。
寝ぐせだらけで、もうそう言う髪型のように見えてしまう、手入れの全くされていない長髪に、中途半端に細い黒縁眼鏡。無精ひげもしょっちゅう生えている。はっきり言って、清潔感ゼロ(本人はわりと潔癖性なのだが)今どきオタクだってもう少し身なりに気を遣う。制服のままの柚乃とキッチンに座る姿は、はっきり言って犯罪一歩手前。
ちなみに、ただご近所さんなだけではなく、戸籍上は御浜の「甥」に当たる。といっても、秀二はもう今年で32になるのだが。
「まだ31です。失礼な」
「そんなにかわんねえだろうが。1歳や2歳でがたがた言うな。こんな夜中に何しに来た?」
「テッちゃん。秀二さんは夕食持ってきてくれたのよ。様子見に来てくれたの、パパに言われて」
「先輩も助教授ともなると、忙しさに拍車がかかっているようですね」
「親父は賢木先生と飲みに行ったんだよ。いつものことだ」
「そんなこったろうと思いました……」
親父と秀二はN大理学部の先輩後輩だったそうだ。そのまま二人とも院にいき、教員になった。(その間、オレも柚乃も生まれてたし、母さんも死んでたのに、金は一体どうしていたのか?母さんの実家が金持ってるのは知ってるけど、子持ちの婿を院まで行かせるか?我が親ながら謎の多い人だ……)
「御浜が先に帰るなんて珍しい。何かあったのかと思ってましたが」
「何かって?」
「いいえ。……今日はちらし寿司です。桃の節句に向けて、花まるで特集してたので、参考にしてさらにバージョンアップ版です。錦糸卵の幅も均一で完璧です」
「秀二さんて、ちゃんと大学行ってます?何で、そんな朝やってる番組見て、料理作れるんですか?」
柚乃のつっこみももっともだ。家に来るたびマニア度の高い料理を持ってくる。
「ちゃんとしたもの食べないと大きくなれませんよ?特にテツ。こそこそ毎朝ランニングしたりピアノ弾くだけじゃなく、ちゃんと栄養とんなさい、栄養を。だから筋肉ばっかついて、背が伸びないんですよ」
お前と比べたら、(真以外の)大抵のヤツは「背が低い」に分類されるっつーの……。オレはフツーだ。
てか、それより……
「……何でオレの朝の行動を……ストーカー?」
「秀二さん、いつ寝てるんですか……?」
ノーコメントかよ。
「じゃあ、私はこれで。ついでだから、御浜の家にも差し入れしてきましょうか。……テツ、何か伝言は?」
「伝言て……。別にないよ」
「そうですか。なら結構」
彼はそう言うと、たばこをくわえたまま、玄関へ向かった。
秀二がここに来たのは、親父に言われてオレ達の様子を見に来ただけなんだろうけど……。
「何なんだよ、一体?」
何か言いたげな秀二の態度が、オレの混乱を増していく。