通り過ぎた女たち
シリアス風味かつ一部キャラ崩壊につき注意。
人に歴史あり。
そして、ホストに語らぬ過去あり。
彼らがまだそれぞれの人生を歩んでいた時分、若き瞳で共に未来を思い描いた女性がいた。
その形や深さは様々だが、しかし、そこに少なからず愛という名の感情が刻まれていたのは違えようの無い事実だろう。
だが、彼らはそんな彼女らの手を離した。いや、離さざるを得なかった。
そして、その過去は今もなお彼らの心に暗く重く絡みついているのだ。
◇船上と戦場の狭間で
「お前も逝っちまうのか。」
苦しげな表情で1人のミノタウロスは前方から己を見上げる女に呟いた。
彼女の腰には、その細身に似合わぬゴツゴツとした手榴弾と拳銃が吊り下げられている。
「ごめん、ごめんね……ずっと一緒にいるって、約束したのに。
でも、どうしてもアイツを野放しにはしておけない。
同じ死んでしまうのでも、きちんとケジメをつけてからにしたいの。」
今にも泣き出してしまいそうな、しかし確かな決意を湛えた瞳を向けて来る女。
タッちゃんは、目の前にいる彼女の存在を確かめるようにそっと手を伸ばし抱き寄せる。
そして、されるがまま彼の温かな巨体に身を包まれた彼女も、静かにその肩口に額を乗せた。
女を抱く腕に少し、力がこもる。
「……結局、俺は他人に不幸を呼ぶだけの存在なのか。
誰1人として救えないのなら、なぜ俺はここにある。
俺の生きている意味はっ…。」
「止めて!」
自らを否定しだしたタッちゃんのセリフを、女は強い口調で制止する。
彼の過去はけして明るいものではない。
それが、彼女との邂逅でようやく変わろうとしていた。ようやくその人生に希望の光が灯り、あたたかく照らさ始めたところだった。
だのに……。
「少なくとも私は幸せだった。
貴方と出会ってから、命の終わる今この時までずっと。」
「ターニャ…。」
名を呼ばれて、女はタッちゃんの腕から身を放し彼の手に己のそれを重ね瞳を覗き込んだ。
「お願いだから、2人で過ごした日々を意味の無いものにしてしまわないで。
それとも、貴方は私と出会った事を後悔しているの?」
「有り得ない。それだけは有り得ない。
…………すまん。無神経な発言だった。」
「……うん。」
考える必要も無いとばかりに、即座に首を横に振り失言を謝罪するタッちゃん。
そんな彼へ彼女が見せた淡い笑みは、残酷なまでに美しかった。
「本当に……ありがとう。
この世界に生まれて来てくれて。私と出会ってくれて。そして、愛してくれて。」
「それは俺が言うべきセリフだろう。
お前がいなければ、俺はずっとあの仄暗い迷宮に囚われたままだった。
自身の在り方に疑問も持たず、ただ罪を重ねるだけの人生を……。」
つ…、と口元に指を添えられ続く言葉を止められる。
彼が黙ると、彼女は口に当てていた手を移動させて首筋の毛皮をゆるりと撫でた。
「エーゲの果てから、貴方の幸せを祈っているわ。」
「っター……。」
「さよなら。」
囁くように告げられた別れの言葉。
同時にかすめるように触れてきた彼女の唇は、深い深い海の底の水のようにどこまでも冷たかった……。
カラン…と、氷がガラスを滑り落ちる音が部屋の中に響く。
大きな窓から入り込む街明かりだけが室内を照らす薄暗闇の中。彼はひとつ方角へ目を向けながら、ただ黙々と透き通るような青色のカクテルを口に運んでいた。
その青が模しているのはかつての強き光を放つ彼女の瞳か、はたまた彼女の骸眠るエーゲの深海か。
ささやかな真実は、今宵もまた彼1人の身の内にゆるりと流れ消え去ってゆく。
テーブルの上に残されたグラスが寂しげに月の光を反していた。
◇禁じられたデレ期
些か乱暴に自宅マンションのドアを開けて、中へと入るリッちゃん。
そこで視界に入った空色のミュールに、彼は至極不快そうに鼻面に皺を寄せ舌打ちした。
ドスドスと足音を派手に慣らしつつ、短い廊下を抜けリビングに入る。
「テメェ…何で居やがる。」
開口一番。リッちゃんはキッチンに立つ女に向かい、凄む様に言葉を吐き捨てた。
しかし、彼女はそれに怯む事なく笑顔で彼を迎える。
「おかえりなさいっ。
今日はねぇ、お豆腐が安かったから揚げだし豆腐に……。」
「黙れッ!」
女のセリフを遮るように怒鳴りつけながら、リッちゃんはその太い尾で激しく壁を打ち付けた。
破裂音のように響くソレに、ビクリと一瞬だけ身体をふるわせて彼女は床に視線を落とす。
その頭上を見下しつつ彼は口を開いた。
「たった2日前のアレを忘れたとは言わせねぇ。
……ノラかと思って同情なんかした俺様が間抜けだったぜ。」
が、そこで女が床を見つめたままポツリと何かを呟き、リッちゃんは己の話を止めて耳を傾けた。
「あ?」
「あの……と、突然だったから私……どうしてもこれだけ伝えたくて……。」
「……何だよ。」
それまでの怒気を抑えつつもぶっきらぼうに返すと、女は彼の顔を見上げてきた。
その瞳の奥にわずかながら熱が含まれているように受けられるのは、それが真実であるからか、それとも彼の願望からか…。
リッちゃんはギリと牙を食いしばり女から視線を逸らした。
「ずっと本当の事を黙っていて、ごめんなさい。
あと…あの、今までありがとう。私、あなたの存在にずっと救われてた。
あなたがいてくれたから、私は私のまま生きていて良いんだって思えた。
もし、あの人より先に出会っていたら…私……。」
「ウルセェ…。」
地の底から響くような暗く低い声に女は思わず息をのむ。
「……聞きたかねぇ……聞きたかねぇんだよ、そんな話は!
んな、つまんねぇ事を言う為にわざわざ俺様の前にツラァ出しやがったのか!」
ダン!と腕を壁に叩きつけながら彼は叫ぶ。
それが女の耳には酷く痛々しく感じられて、続けるはずであった言葉がのどで止まった。
彼の声を聞いて、ようやく彼女は自身の行為の残酷さに気がついたのだ。
「ごっめ…ん……なさいっ。
私、いつも考えが足りなくて……私……。」
そこまで言って、彼女は足元に置いていた自らの荷物を素早く持ち上げ、俯き加減にリッちゃんの横を走り抜けた。
直後、スタッカートのようなヒールの音と共に玄関扉の開閉音が届いてくる。
間もなく訪れた静寂の中。すぐ傍の鍋から漂う香りが鼻をくすぐり、彼はその苦々しさに強く拳を握りしめたのだった。
◇ただ真っ直ぐに、歪みなく
とある高級レストランの個室。そこで、1組の男女が不穏な空気を醸し出しながら相対していた。
白い身体をカタカタと鳴らしながら、その片側に座るスケルトンは重い口を開く。
「悪ぃけど……別れて欲しい。」
瞬間。女は椅子を引き倒す勢いで立ち上がり、彼に向かい声を荒げた。
「どうして!?
昨日だって、その前だって、愛してるって言ってくれてたじゃない!
アレはみんな嘘だったの!?」
必死になって問いただす彼女に、スケルンは落ち着いた態度でハッキリとこう告げる。
「……愛してるよ。
愛しているから、オレにはヒトミが幸せになれないと分かっている道を選ばせる事は出来ない。」
「何よソレ、意味分かんないっ!」
激昂し叫ぶ女は、目の前のテーブルをバン!と両手で強く叩いた。
スケルンを睨みつけたまま肩で息をする彼女へと、彼には珍しく女性相手に容赦のないセリフを浴びせる。
「オレは一生誰とも結婚しない。ヒトミの望む花嫁の立場は与えてやれない。
だから、頼む。オレの事は諦めてくれ……。」
そう言って膝に手を置き頭を深々と下げるスケルン。
女は自身の瞳から溢れ出る涙を拭いもせずに、彼を責め立てた。
「分かんないっ。分かんないよ、スケルン!
私はスケルンを愛してるし、スケルンも私を愛してるんでしょう!?
だったらっ……。」
「ヒトミだって、知らないわけじゃ無いだろう。
オレは世界中の女の子という存在を愛していて、いつだってその全員を幸せにしてやりたいと思ってる。
けっして、その中の誰か1人を選ぶ事は無いんだ。」
「スケ……。」
「そして、だからこそ。
女の子が幸せになるのなら、相手は必ずしもオレじゃなくていい。」
真剣すぎる彼の声とまなざしに怯み、ヒトミはやるせなさに唇を噛む。
そう。知っていた。彼女は最初からそうと知っていて彼と付き合っていたはずだった。
彼に両手で数え切れないほど多くの恋人がいる事も、その中の誰をも特別扱いしない事も。
「ヒトミを幸せに出来るのはオレじゃないよ。
余計なお世話かもしれないけど、何だったら気に入りそうなヤツ紹介するし。」
ヒトミはスケルンの無神経なセリフに反射的に怒鳴り返しそうになるが、敢えてそれを堪えた。
おそらくソレは自身が悪者になるため、彼女を怒らせようとワザと吐かれたものだったのだろう。
それなりに彼と長く共に過ごしてきた彼女には、心から彼を愛していた彼女には、そのセリフの本当の意味が手に取るように理解できた。
そして、今さら何をどう足掻いたところで目の前の男が考えを変えはしないのだろうという事も。
どこまでも女に甘くて優しくて誠実で、そしてどんな男よりも残酷なスケルトン……。
だからこそ、彼女は笑った。笑ってみせた。
それが彼女の意地と、そして、ケジメの形だった。
「…………仕方ないから、別れてあげる。
でも、紹介してくれるんなら最っ高ランクの男じゃなきゃ承知しないわよ?」
「ははっ、当ーぉ然だってぇ。このオレが代わりに任せようってぇヤツだぜぇー?
も、バンバン期待しちゃってーっ。」
そんなヒトミの胸の内を一瞬の内に理解したスケルンは、敢えて道化のように陽気に振る舞う。
2人は互いの胸の内と正反対の楽しげな様子でレストランでの食事を終えた。
すぐ傍らの窓の外では、あたたかな陽光の中を香る春風が花弁と共に優雅に舞っていた。
間もなく関係を絶った当の彼女からスケルンの元へ1通のハガキが届いたのは、それから約1年の後の事であったと言う。
◇密林は青天に消ゆ
パチリという音と共に、暗闇に包まれていた空間に白く眩しい光が降り注ぐ。
「ボクの書斎で何してるのかな?」
部屋の隅に跪き、そこに鎮座している小さな置物を手にしていた1人の存在が彼の声に息を呑んだ。
「…っど……りー……く……。」
「君が探しているものは、コレ?」
そう言われて、灰色のスーツに身を包んだ女はハッとした表情でドリーを振り返った。
彼は透明のケースに入った黒色のマイクロチップを、これ見よがしに手で揺らしながら微笑んでいる。
「言い訳は聞かないよ。
君の正体も、目的も、事情も、もう今のボクは何もかも知っているんだ。」
淡々と告げられる言葉。
くしゃり、と女の顔が苦しげに歪んだ。
それに構わずドリーは話を続ける。
「信じたくて、疑いたくなくて、ずっと君の事を調べるのを避けてた……。
それが、このザマだよ。
何も知らずに浮かれるボクの姿は、さぞかし滑稽だっただろうね?」
「私はそんなことっ…!」
今にも泣き出しそうに眉を下げゆるゆると首を横に振る女に、何の感情も伴わない視線を向けながらドリーはマイクロチップを持っていた腕を下ろした。
世界の何も映していないかのような混沌とした闇色の瞳は、彼女に絶望にも似た感覚を呼び起こさせる。
「かもね。でも、もういい。もういいんだ、アグウェ。
君の言葉の全てが嘘だろうと本当だろうと、ボクはその裏を疑わずにはいられない。
ただ盲目に君を信じていた頃のボクはもうどこにもいないんだよ。」
そのセリフに、なぜか傷ついたような表情を見せる女。
息の詰まる様な長い沈黙が続く。
数分の時が経ち互いの間に極限に近い緊張感が漂って来た頃、ドリーがそれを払拭するように小さくため息を吐いた。
それから、彼は一瞬ためらうような動きを見せた後で再び口を開く。
「実を言うとね……チャンスはあったんだ。
ボクは真実を知った後、君が本当の事を打ち明けてくれるのを…相談してくれるのを待ってた。
それだけで何もかもを受け止めてあげるつもりだった、君の抱える全ての問題を解決してあげるつもりだった。
……でも、現実はこの通り。」
聞いて、何か反論でもしようとしたのであろう彼女の開きかけた唇からは、しかし実際に言葉が紡ぎ出される事は無かった。
ドリーの態度に、今さらどう言い繕ったところで自身の何もかもが届きはしないのだと理解していたからだ。
そのかわりに、女の口から発されたのは1つの問いかけだった。
「私は、これからどうなるの。」
「……どうにも。
事情があったのは知っているし、分かっていて放っておいたボクにも罪はあった。
だから、君がボクに2度と関わらないと約束してくれるのなら…ボクは君を罰しない。」
あくまでも平淡に無感動に彼は告げる。
数秒の逡巡の後。分かった、と。ただそれだけを呟いて、彼女は彼の前から永遠に姿を消した。
ドリー最後の10代、そして祖国を発つほんのひと月前の出来事だった。
◇惜春、例え空回ろうと
パパンが明日の旅立ちへ向けて自室で準備を整えていると、入口から遠慮がちなノックの音が響いた。
返事をすれば、今は人型を取っている人魚の女が扉を開けておずおずと彼の部屋へと足を踏み入れてくる。
「……本当に行っちゃうんだ。」
ガランと片付いた室内を見回して、彼女は独り言のように呟いた。
それから少しばかり眉間に皺を寄せパパンの隣へ腰を下ろすと、こんなことを聞いてくる。
「パパンお兄。あの牛の人の言うこと……本当に信用できるの?
面倒見てやるなんて言って、実は騙されてるんじゃないの?」
不安気な彼女の様子と裏腹に、パパンは朗らかな笑みを浮かべた。
その笑顔にうっすらと頬を染めて顔を逸らす女。
間もなく、彼女のすぐ右上方から柔らかな音が降って来た。
「心配してくれるんだね、…ありがとう。
でも、大丈夫だよ。彼はとても親切だし、信頼できる人だから。」
パパンに視線を戻した女の瞳に、じわりと涙が溜まっていく。
それが1粒。真珠となって零れると同時に、彼女は俯きがちに彼の腕にしがみついて震える声で告げた。
「……っ行かないで。
メル、お兄と離れるのヤダ。ずっと、ずうっと一緒にいたいのっ。
だから、メルを置いて遠くになんか行かないで……行っちゃわないでよぉ。」
必死に引き止めてみるも、目の前の相手はただ困ったように眉尻を下げるのみ。
潤む瞳で真っ直ぐに見つめて来る彼女へ、パパンは幼子に言い聞かせるように静かに語りかけた。
「…………ごめんね、メル。もう決めた事だから。
それに、母さんを助けるためにはこうするしか仕方がないんだ。」
パパンがそっと頭を撫でると、彼女はしおらしい態度を一変させ今度はまくし立てる様に叫ぶ。
「じゃあ、せめて一緒に連れて行って!
あの牛の人が信頼できるって言うんなら、メルが一緒でも問題ないでしょ!」
「……メル。そんな事、軽々しく言っちゃあダメだよ。
君のお父さんとお母さんが聞いたらきっと悲しむ。
何より、レヴィアタンが可哀相だよ。」
「止めてよ!何でそこでアイツの名前が出て来るの!?」
いきなり挙げられた名前に驚いて、心外そうに彼女は表情を歪める。
その反応にパパンは首を傾げて問いかけた。
「え…何で…って。メル、彼に告白されたんでしょう?
2人で一緒にいる事も多いし、付き合っているのかと思っていたけれど……。」
「冗談っ、告白なんてその場で断ったわよ!
あと、一緒にいるんじゃなくて一方的に付きまとわれてるだけだから!
あんな粗暴な流れ者と恋人になるなんて、死んだってイヤ!」
興奮に息を荒くして強く主張するメル。
パパンは相変わらず困ったような顔を向けて、諌めるようにポンポンと彼女の背を叩く。
「ええと。彼、普段は少し悪ぶっているけれど根はとても良い人だよ。
少しくらい考えてあげたって……。」
「そんなセリフ、パパンお兄にだけは言われたくない!」
パパンの言葉を遮ってまるで悲鳴のように叫んだ彼女は、背に置かれていた彼の手を払いのけ立ち上がった。
拍子に、床にいくつもの真珠が散らばる。
いきなりの彼女の態度に呆然とするパパンを、メルは悔しげに唇を噛みつつ睨みつけた。
そして、そのまま勢い良く身体を反転させて扉へと駆け出し、彼の前から姿を消した。
結局。彼女は翌日の見送りにも現れず、彼は心に小さなしこりを残したまま遠い異国の地へと旅立つ事を余儀なくされた。
しかし、数年の時を経てしても、ついにパパンが彼女の涙の理由に思い至る事は無かったそうな。