第41話 辿り着くのは、君の隣
思いのまま校庭を駆け抜け、校庭の脇の並木まできてしまったが、部活に戻らないわけにもいかなくて。でも、ほんの少し燻ぶる意地が、すぐに戻ることを許さなくて――
ふっと顔を上げた数メートル先、校庭を囲むフェンス越しに国府台南高校の校舎が見える。
譲子さんのことを忘れようと、頭と心から存在を消そうと努力すればするほど、胸は苦しく切なくて――好きな気持ちが大きくなる。
忘れられないほど、好きになる。
こんな気持ちになるなんて、こんな気持ちを知るなんて――譲子さんに出会うまでは知らなかったんだ。
それでも、どんなに世界が色あせ、空に浮かぶ夕陽が霞もうと、この気持ちを知ったことを後悔はしていない――
そう感じて、俺の中でぷつんっと何かが吹っ切れる。
「はは……」
乾いた笑いが込み上げて、視界の端が涙の膜でけぶる。そのまま空を仰いで、笑い声を上げる。
校庭で部活中の生徒が、一人突然笑い出した俺を不思議そうに見て首をかしげている。だけどそんなことも気にならなくて、気が済むまで笑い続ける。
そうだ――どんなに消そうとしても消せない想いがあるのなら、消す努力じゃなくて、想いを叶える努力をしてもいいんじゃないか?
隣で笑顔になるための、努力をしてもいいんじゃないか?
単純な事だけど、そんな答えに辿り着くのに、悩みまくって。だけどまだ、この恋を、願いを叶えるために、最大限の努力をしただろうか? もっとあがいて、くたくたになるまで全力をつくしてもいいんじゃないか――
今ある俺のすべてをかけて、旅立つ日に、後悔しないように――
テニスコートに戻ると、駿介が気まずそうに額を掻いているから、俺は苦笑して通り過ぎざまに肩を優しく叩く。
「黙ってて悪かった……心配してくれて、ありがと」
帰りの電車の中で、駿介は俺の留学の話を聞いて焦燥感にかられたと言っていた。
「留学を決めたカンナが、すごい将来の事を真剣に考えてるように見えて、すごい焦ったんだ……」
別に将来の事を考えているからではないんだが、まあ、全く考えていない訳でもなくて、苦笑して頷く。
「相談してくれなかった事も、俺は親友として頼られてないのかと思って……」
「そうじゃない。悩んでたけど話さなかったのは……自分の中でもまだ整理がついていなかったからで、問題を丸投げするのが嫌だったんだ」
「それで、悩んで――留学することを決めたんだな?」
ずっと黙って俺と駿介の話を聞いていた河原が、澄んだ瞳で尋ねてくる。
俺は真っ暗な窓の外に視線を投げ、頷く。
「ああ――」
「カンナが決めた事なら、俺は応援するよ」
ぽんっと肩を叩かれ、笑いかける河原。
「俺も! 俺もそうだぞ。離れてたって、友達だろ?」
俺の左右に立った駿介と河原が顔を見合わせて、にぃっと歯を見せいたずらな笑顔を作る。
「頑張れよっ!」
2人同時にそう言って両脇から背中を叩かれ、あまりに強く叩くから、痛さに涙目になりながら、暖かい気持ちで心が満たされる。
※
留学するなら、この大会でしばらくはテニスともお別れになる。仲間と出る最後の試合――そう思うと俄然気合いが入って、調子も上がってくる。
大会初日は個人戦と団体戦の予選。嬉しい事に、個人としても団体としても予選を通過して、2日目に臨む。
個人戦はいいところまでいったけど負けて。団体戦、初日はメンバーには選ばれてたけど試合には出れなくて、だけど個人戦で調子が良かったから、決勝で団体シングルスのメンバーに選ばれる。
個人だろうと団体だろうとのしかかってくるプレッシャーは重くて、それを振り払うように、コートに潜む相手だけに集中する。
萌える若葉にコートは眩しくて、心地よい風が吹き抜ける。
コートには一人だけど、仲間からの声援を受けて孤独感は全くない。グリップを握りしめて、きゅっと軽快な音を鳴らす。
気持ちが晴れ晴れとしたからか、体は軽くて、いまなら空すら飛べそうな足取りで――
ゲームが終わった瞬間、耳に響く歓声に、仲間の笑顔にふっと笑みがこぼれる。試合相手と挨拶をして部員が待つベンチに向かう。
「やったなぁー、カンナっ!」
駿介が自分の事のように喜んで俺の肩に腕をまわして抱きついてくる。
「おめでとう、カンナ」
河原がタオルを渡しながら言ってくれる。
いまだ抱きついたままの駿介に苦笑しながら、ひきはがす。
「駿介、暑苦しいから離れろよ」
そう言った俺に、駿介が頬を緩めてにたぁ~っと嫌な笑みを向ける。
「なっ、なんだよ……」
「俺にそんなこと言っていいのかなぁ~?」
「はっ!?」
「俺はカンナのために、景品を用意したんだぜ?」
景品――って、勝つかどうかも分からないのに、何を用意したのだろうか?
腰に手を当てて威張る格好の駿介からひしひしと嫌な予感が漂い、眉を顰める。
「ほら、あれ」
駿介が俺の後ろ――コートの外のフェンスを指さす。俺はつられて振り返り、ぎょっと目を見開いて自分の目を疑う。ってか、駿介に詰め寄る。
「なっ、まさか……譲子さんを呼んだのか!?」
振り返ったのは一瞬だったけど、俺の瞳に譲子さんの姿は鮮やかに飛び込んできた。
「えへへっ」
気持ち悪い笑いを浮かべる駿介から一歩距離を置く。
「なんてことするんだよっ」
心の中で叫んだ言葉が口から出ていて、しまったと口をつぐむ。
譲子さんに、もう一度気持ちを伝えようと、最後まであがいてみようと決めたのは2日前。だけど、それをどう行動に移すか、まだ思いついていなかった――
どうしてくれるんだよっ。
なんの作戦もないまま、もう一度当たって粉々に砕けろって言うのかよ――!?
花火大会の時とは違う。あの時はまだ、譲子さんの気持ちを知らなくて、万に一つの可能性に賭けたけど。
譲子さんと御堂さんが仲良く登校する姿を思い出して――苦虫をかみつぶしたように顔を顰める。
ばっと振り返り、譲子さんを見つめる。
くりっとした二重の瞳、桜色の様なふわりとした唇の譲子さんが、俺を見ていて――譲子さんの顔を見たら、頭で考えるよりも何よりも先に、駆けだしていた。
人でいっぱいになっている客席を掻きわけるように進み、コートをまわって出入り口を目指す。テニスコートを囲うフェンスの外に出て走り、譲子さんに駆けよる。
息が僅かに切れたけど、お構いなしに話しかける。
「譲子さん……どうして……」
横に沙世さんがいるのに気づいて、駿介に呼ばれたことに確信を得る。だけど、俺が聞きたかったのはそんなことではなくて、譲子さんがどうしてここにいるのか。
呼ばれたからただ来ただけなのか、それとも――
「えっと、カンナの試合を見に?」
頬を掻きながら横に視線を漂わせ、首をかしげる譲子さん。
呼ばれたからではなくて、譲子さんの意思で来てくれたのだろうか――そんな予感に、胸がきゅっと締め付けられる。
溢れる想いに駆られて口を開こうとしたんだけど、俺と譲子さんがたくさんのギャラリーに囲まれて見られていることに気づいて、譲子さんの手を握って咳払いする。
「譲子さん、ちょっとこっち来て……」
あんな大勢の前で告白する訳にはいかなくて、だけど、あわや勢いで言ってしまいそうだった自分が恥ずかしくなって、心なしか顔が赤くなる。
譲子さんが俺に引かれるまま半歩後ろを歩いていて、こんな情けない顔を見られないで良かった――
陸上競技場の正面スタンド裏の並木まで歩き、ここなら人も少ないからいいかと立ち止まる。
「譲子さん……」
思わず名前を呼んでしまったが、譲子さんには聞こえていなかったようで2人の間に沈黙が流れる。
何から話せばいいのか分からなくて、ただ、1週間ぶりに見る譲子さんの顔に、声に、存在に、繋がれた手の温もりに心が癒される。
あまりに俺が黙っていたからか、譲子さんが俺の正面に回り込んで尋ねた。
「私に何か言うこと、ある?」
その言葉に目を見張る。
譲子さんに言いたいことはたくさんある。ただ、いざ譲子さんを目の前にすると言う事が出来なくて、そんな情けない自分に嫌気がする。
さぁーっと風が吹いて、さらさらと揺れる葉擦れの音さえ、俺を急かしているようでうっとおしくなる。じわりと、額ににじんだ汗を手の甲でぬぐい、眉根を寄せ奥歯を噛みしめ――譲子さんから視線をそらす。
「どうしてそんな顔するの……?」
言葉にするだけの勇気が持てなくて、繋いだ手に気持ちを込める。
譲子さんはぴくりと肩を揺らし、眉根を寄せる。
いい加減話をしなければと思い切り、口を開く。
「譲子さんは、どうしてここに来たの? 沙世さんに呼ばれたから?」
本当はもっと別に言いたいことがあるのに、遠回りしようと据える。
譲子さんにいつも見せる自然な笑顔を作ったのに、譲子さんが苛立ったように繋いでいた手を振りほどいた。
「1週間も音沙汰なしで、どうしたのはないんじゃないの?」
声を荒らげ、横を向く。
「私、聞いたの……カンナが留学するって。どうして教えてくれなかったの? もう私とは友達もやめるから……?」
譲子さんの声が信じられないくらい震えているから、愛おしくて。
「……ごめん」
何に対してか分からないけど、切なく胸が震えて、謝罪の言葉を口にする。
「ごめん……」
そう言うだけで精一杯で、まっすぐに譲子さんを見られなかった。そんな言葉だけじゃ、俺の気持ちが伝わらないのは分かっていたけど、言葉に詰まって、何も言えなかった。
長い沈黙を挟んで。
「分かった――カンナと友達するのはやめる」
その言葉に、胸がつぶれるように痛み顔を歪める。声にならない声を出して、斜め下に視線を落とす。
自分で招いた結果だとは言え、譲子さんから突き放されるような言葉を言われ、心が痛くて叫んでいる。
だけど、次の瞬間――
譲子さんが、俺達の間にある1歩の距離を詰めてがばっと俺に抱きついたんだ。
驚いて身じろぎ、地面に落していた視線を恐る恐る上げると、見た事もないような優美で魅惑的な笑みを浮かべているから――ドキンっと胸が跳ねる。
「カンナと友達はやめて――彼女になれるように、今度は私からカンナに好きになってもらえるように、頑張るよ」
えっ、えっ――!?
「私の1番はカンナだよ」
くすっと笑って譲子さんが下から俺を覗きこむ。その顔はとても嘘を言っているようには見えなくて――一瞬何を言われたか分からなかったが、目の前にある笑顔が答えなんだと思ったら、譲子さんの肩を掴んで引き寄せていた。
「さっきの言葉、本当? ううん、嘘でももう取り消しはなしね」
譲子さんが、俺を1番だと言ってくれた、それだけで、心が心地よく揺れる。
どんな言葉よりも輝いて、俺の宝物になる――
腕を緩めた俺のすぐ下、至近距離で澄んだ瞳に見つめられて、ふわりと顔をほころばせた。