第39話 溢れるのは、恋
※ 第28話 掴んだ手のひら3 の続きです。
「結局、何も聞けなかった……」
一人呟いて、ばたんと部屋の襖を閉める。さっきまで譲子さんの部屋にいて、今帰ってきたところだ。
リビングから、母さんが洗濯物を出してと叫んでいる声が聞こえるが、俺はそれを無視して畳の床に寝転がる。
はぁー。
大きなため息をついて寝返りを打ち、頬杖をついて横向きに寝る。
寝姿山で御堂さんの告白に何と答えたのか――
譲子さんと御堂さんが付き合いはじめたのか――
そのことが気になって、旅行の荷物の片付けも手に付かなくて、目を瞑ったんだけど――
バンッと大きな音を立てて襖が開かれ、俺の6畳の部屋が廊下から丸見えになる。
「お兄ちゃん!」
重たい頭を動かし視線を廊下に向けると、1つ年下の妹が立っていた。
「マリナ、開ける前にノックしろっていつも言ってるだろ」
呆れた口調で言う。どうせ言っても治らない事を知っているから、言っただけなんだ。
マリナは眉をしかめて俺を一瞥し。
「お母さんが洗濯物出してだって。あと、学校から電話」
「はーい」
右から左に聞き流して返事をして、ふっと首をかしげる。
「えっ……学校から電話?」
俺は慌てて立ち上がり、リビングに置いてある固定電話を取る。
「もしもし、お待たせしました」
通話の相手は担任で、内容は次の様なことだった。
『10月からの留学生に菊池が決定した』
うちの学校はオーストラリアに兄弟校があって、毎年10月から1年間留学生を派遣する。その留学生は1、2年の中から外国語の成績がトップクラスの者が選ばれる。もちろん希望した者が行くんだが、5月に行われた希望調査で『希望する』と書いたことをすっかり忘れていた。
外国語は他の教科よりも好きだし得意で、将来は外国語に関係する仕事をしたいなぁと密かに考えてもいた。だから、希望調査をした時も留学はいい経験になるだろうと思っていたんだ。
それなのに――留学生に選ばれたと言われても、なんだか素直に喜べない俺がいる。
電話が切れてからも、呆然と電話の前で立ちつくす俺に、リビングでテレビを見ていたマリナが声をかける。
「お兄ちゃん、もしかして、学校から呼び出し?」
そう言ったマリナに、キッチンに立っていた母さんが苦笑する。
「呼び出しなんてマリナじゃあるまいし、優等生のカンナにあるわけないじゃない」
母さんが言うほど頭がいい訳じゃないが、普通よりはいい方だとは思う。
「じゃあ、なんだったの?」
「留学生に決まったって」
俺は決まり悪く言って、母さんに視線を向ける。
タオルで手を拭っていた母さんが目を見開いて、次いでにこりと笑う。
「あら、すごいじゃない、おめでとう。いつから行くの?」
その問いに、俺はぼそりとした声で答えてリビングを出ていく。
「10月から……」
10月になったら、俺は日本にいない――
離れれば少しは気持ちの整理がつくだろうか――そう考えて、どうか離さないでほしいと願ったことを思い出して、切なくて胸がはち切れそうな気持ちになる。
荷物でも片付けようかとした時、メールの着信があることに気づいて開くと譲子さんから『送ってくれてありがとう』と来ていた。
俺はなんと送ろうかと考えて――
『早く良くなるといいね、お大事に』
そう、簡潔にメールを返信した。
今は突然の出来事が起こり過ぎて、上手く考えがまとまらなくて、譲子さんに向き合う気持ちを持てなかったから。
※
2日考えて、俺はある決意を胸に秘める。
ちゃんと告白しよう――と。
それでどんな答えを言われようと受け止め、譲子さんの気持ちを応援すると。
この時点で俺は、譲子さんは御堂さんのことが好きで、俺に振り向いてくれる可能性はゼロに限りなく近いと思っていた。
だから、留学も行くと決める。もともと行きたかったっていうのもあるし、こんなチャンスは滅多にないだろうから。
留学と譲子さんの事は別の事として切り離して考える――努力をすることにした。
期限はあと少し――そう思うと、すごい勢いで体が奮い立たされて、俺は譲子さんに電話していた。
俺が返した返信から、丸1日以上譲子さんとはメールをしていなくて、だからメールよりも電話で要件を伝えようと思ったんだ。1度目の電話は繋がらなくて、2度目に繋がった時、電話越しに久しぶりに譲子さんの声を聞いただけで、ドキンドキンと動悸が激しくなって、そんな自分が情けなくて苦笑する。
「来週の土曜って空いてる、かな?」
他愛もない話をしてから長い沈黙を挟み、勇気を振り絞って要件に入る。
『来週って……27日だっけ? その日は用事ないけど……どうして?』
「譲子さん、さ……夏休み前にした約束って覚えてる?」
平静を装うのに気力を振り絞る。声が掠れていないか心配する。
『えっと……夏休みに遊ぼうって約束したこと?』
「花火大会――一緒に行こうって、言ったこと」
夏休みが始まる前、譲子さんとした約束、譲子さんは冗談のように思っていたかもしれないが、俺は毎年行く花火大会に、今年は譲子さんと行きたかったから――
告白するならその花火大会で、と思う。
『うん……』
震える声で譲子さんが返事するから、緊張感が一気に高まる。
「一緒に、花火大会行こう?」
『うん……』
「俺と譲子さんと2人で――行こう?」
2人きりで――
譲子さんが愛おしくて、ぎゅっと拳を握り、お腹に溜まった息をふぅーっとすべて吐ききる。
『うん……』
「うん――」
譲子さんの声に被って静かに頷いた。
※
花火大会当日。
同じく花火大会に行くという姉と妹の髪を結わされて、待ち合わせ時間ギリギリに新浦安駅に着く。
いちお、譲子さんにはギリギリになるってメールしたけど返事はなくて、改札を抜けてあまりの人の多さに唖然とする。例年、かなりの人が来るのを知っていたが、今年は中止になる花火大会も多く、開催される花火大会に人が集中したようだ。
この中から、譲子さんを見つけなければ――
メールの返信がなかったことから、電話をしても繋がらない予感がして、改札前に視線を走らせる。譲子さんの性格を考えると、待ち合わせよりも早めに来て、建物の柱の前とかで待っていそうだ――そう思って、改札から一番近い柱に近づく。
ちょうど電車が両方のホームに到着して、改札から人が波のように溢れ出て来る。人ごみを掻きわけながら進むと、からんからんと小さな鈴の音が足元に響いて、赤い巾着が転がった。
俺は思わずその巾着を拾い視線を上げると、柱の根元に蹲っている人物を見つけて慌てて駆け寄る。
俺の名を呼んだ譲子さんの顔色は青ざめていて、驚く。
「どうした? どこか具合悪いの!?」
譲子さんのすぐ横にしゃがみ、顔を覗きこむ。顔は汗ばみ、真っ青でとても大丈夫そうには見えなくて心配になる。
どこかで休むと尋ねると、首を横に振る。大丈夫なはずないのに、俺に迷惑かけないようにと気づかっているのが分かって胸が締め付けられる。
「外に行こう、風に当たりたい……」
譲子さんの言葉に立つのに手を貸し、立ち上がった譲子さんの姿を見て瞠目する――
清楚な白地の浴衣には藤の花と鮮やかな蝶が描かれ、清廉で見入ってしまう。普段は下ろしている髪は複雑に結いあげられ、見えるうなじが色っぽい。化粧をしている顔も青ざめているせいで儚さが漂って、この世の物とは思えない綺麗さだった。
あまりに綺麗過ぎて直視できなくて、外に出る階段に向かって歩く間、譲子さんの手を握る手に力を込めた。
譲子さんの体調が優れないのは心配で、駅前の人ごみの少ない場所まで行く。打ち上げ時間まではまだ時間があるから、空いているベンチに座らせ、飲み物を買って渡す。
「具合はどう? 気分悪いようだったら、今日はもう帰ろうか?」
「ううん、夜風にあたったらだいぶ良くなったから大丈夫」
「本当――?」
また俺に気を使ってるんじゃないか――それを見極めるように腰をかがめ、譲子さんの顔を覗きこんだんだけど、純粋な瞳に吸い込まれそうで視線をそらす。
出店を見ながら花火会場に向かうと決まって、譲子さんの方から手を繋いでくれて、涙が出そうに嬉しかった――それと同時に、酷く切ない衝動にかられる。
いつか離さないといけない――そう思ったら、繋いでいる自信がなくて、出店で買い食いするのを理由にすっと繋いでいた手を離してしまった。
最後のチャンスを掴むために、今日、譲子さんをデートに誘ったのに、どこか逃げ腰な俺がいる――
勝敗の確率は低い、それでも最後まで勝負を投げ出すつもりはない――それなのに。
譲子さんと一緒にいるのが辛くて苦しい。譲子さんの幸せを願うとか格好良い事言っておいて、本当はこの繋いでいる手を離したくない。譲子さんが俺以外の違う人の隣にいるなんて耐えられない。
俺は譲子さんの1番でいたい――