第38話 はじまりはクレッシェンドで
自分の試合が終わって、まだ部長の決勝戦まで時間があるから着替えるために荷物を持って更衣室に行ったんだけど、携帯のディスプレイが光っている事に気づいて慌てて画面を開く。
着信が3件とメールが1件。すべて沙世ちゃんからで、慌ててメールを開く。
『From:南 沙世
subject:譲まだ試合?
本文:私はいま国府台競技場に来てるんだけど、もうすぐカンナ君達の試合始まるよ!
早く来て』
というメールが数分前に届いていた。
試合が始まる――つまり、早く国府台競技場に向かわないと、私が着く頃には試合が終わって帰ってしまって、カンナに会うチャンスを逃してしまう。
この水泳大会に賭けて自己ベストを出せて、これでやっとカンナに会いに行く勇気を手に入れたのに、このまますれ違ってしまうのは嫌だった。
まさか決勝にまで進むと思ってなくて、本当だったら今頃国府台競技場に行けてたのに――とか、うだうだ考えるのをやめて更衣室に駆けこむ。
手早く着替え、服も畳まずにスポーツバックに詰め込む。更衣室を出て、一目散に駆けだした――
本当は近野マネージャーにだけでも先に帰ることを伝えるべきだったんだろうけど、あまりに焦っていてそんなことも思いつかなくて、私は新習志野駅から電車に乗り込み国府台を目指した。
いつもだったら電車の中で読書したり有意義に時間を使えるのに、ただ焦り募る想いにドアの前に立って景色を睨んでいた。50分の時間がすごく長く感じて、国府台駅に着いてからも競技場まで全速力で走る。200Mを全力で泳ぎ切った後に、まだこんな体力があるのかと言うほど足が動いて、自分でもびっくりする。
競技場に近づいた時、携帯が鳴ってるのに気づいて沙世ちゃんだと思って出たら――近野マネージャーからの電話だった。
「すみません、マネージャー……私、表彰式には出られません」
表彰式のことなんかすっかり忘れて飛び出してきた私。出られません、というか無理だもんね。
私は走りながら呼吸を整え、誠意をこめて謝る。
「いま学校の側にいるので……本当にすみません」
『学校!? なんでっ!?』
驚きの声を上げたマネージャーが、沈黙を挟み、大きなため息をつく。
『分かったわ。学校にいるなら今から戻ってもらっても時間的に間に合わないし、部長と顧問には私から説明しておいてあげる』
「ありがとうございますっ!」
『その代わり……、今度から途中で抜ける時は、ちゃんと一言いって行くのよ! いい?』
「はいっ、はいっ」
いっぱいマネージャーに迷惑をかけることになるのに大会を無断で抜け出したことを許してくれたマネージャーに言葉では言い尽くせない感謝を感じで電話を切った。
電話を切ると、すぐに再び着信音が響き、今度は沙世ちゃんからだった。
『譲、いまどこ!?』
「えっと……」
マネージャーと電話している途中で競技場に着き、敷地内の公園を抜けたところだった。
「もう競技場だよ、テニスコートの近く」
このまま進むと陸上競技場、左に行くとテニスコートがある。
『カンナ君の試合始まるから、はやくっ』
沙世ちゃんに急かされ、左の道を走り抜ける。
「ここ、ここ」
フェンスの外のギャラリーの中から沙世ちゃんが手を振って私を招く。
「沙世ちゃん……お待たせ……」
「譲、すごい汗……」
そう言って、私から一歩離れる沙世ちゃん。
酷い……走ってきたんだから仕方ないじゃない。
勇気と自信を手に入れたはずなのに、沙世ちゃんの何気ない一言で落ち込んでしまう。
「見て、カンナ君の試合だよ。カンナ君が勝てば優勝なんだからっ!」
興奮気味の沙世ちゃんをよそに、フェンスに近づいて中のテニスコートを覗く。緑の萌ゆるコートに、白地に紺色のラインの入ったユニフォームを着たカンナの姿が目に飛び込む。
カンナの動きだけがスローモーションで見えて、切り取った絵のようにとても綺麗だった。テニスをするカンナは、表情は見えないものの、テニスに対して真剣な姿勢で取り組んでいることが窺えた。
テニスの事はよく分からないけど、カンナがすごいことだけは、観客の声援や感嘆の声から伝わってくる。
しばらく、カンナに見とれて立ち尽くす。
見とれていたことにはっと気付いた時には、試合は終わっていて、コートの中央、ネットを挟んで試合相手と固く手を握り合いお辞儀をしてコートを出ていく。
コート脇で見守っていた里見高校の部員たちの歓声は一際大きく、勝ったのかな? 沙世ちゃんに聞いてみようと横を見た時、部員に囲まれているカンナが一瞬、こっちを見た様な気がする。
まさかね――そう思ったのに、気のせいではなかったみたい。
カンナが近くにいる人に何か言い、背中を向けたままこっちを指さしているのが見えて、カンナが話している相手が熊本君だと気づく。
振り返ったカンナと視線が絡み合い、カンナが人混みを掻きわけて客席の中に消えていく。その様子を首を傾げて眺めていると、横に立っていた沙世ちゃんが私の制服を引っ張ってぴょんぴょん跳ねる。
「カンナ君、譲に気づいたみたいよ」
「えっ?」
もういちど首を傾げてカンナが消えた客席に視線を向けると、客席を抜けたカンナが、テニスコートを囲うフェンスの出入り口を出て、私の方に駆けてくる。
わわっ。
カンナが気づいて、こっちに来るっ。
その行動に私は慌ててしまう。カンナと話すために来たのに、いざカンナが目の前に現れると緊張で、背中に冷や汗がでる。
「譲子さん……どうして……」
どうしてと言われると困ってしまう。
「えっと、カンナの試合を見に?」
自分の事なのに、語尾が疑問形になる。
そんな私を瞠目して見つめてたカンナが口を開きかけて、試合を見守っていたギャラリーの只中にいることに気づき、周りからの視線にたじろいで、私の手を掴んで歩き出す。
「譲子さん、ちょっとこっち来て……」
後ろで、おめでとうとか、すごい試合だったぞって声が聞こえてカンナの後ろ姿に視線を向けると、耳がほんのり赤く染まっていた。
陸上競技場の正面スタンド裏の並木まで歩いたカンナがふいに立ち止まる。
「…………」
カンナが何か呟いて、沈黙が2人の間に押し寄せる。
私はなんて話を切りだしてらいいか分からなくて……繋がれていない方の手を顎に当ててうーんと考え込む。
ぴったりの言葉を思いついて、カンナの正面に回り込んで尋ねる。
「私に何か言うこと、ある?」
いつかカンナから言われた言葉をそっくり返すと、カンナが目を見張って私を見る。
さぁーっと風が吹いて、生い茂る青葉を揺らしさらさらと葉擦れの音が優しく耳を撫でていく。
額ににじんだ汗を手の甲でぬぐったカンナは、眉根を寄せて苦虫でも噛んだように渋い顔をして私から視線をそらす。
「どうしてそんな顔するの……?」
思わず、思ったことを口にしてしまうと、繋いだ手にカンナがあまりにも力を込めるから、私は眉根を寄せて肩を震わす。
「譲子さんは、どうしてここに来たの? 沙世さんに呼ばれたから?」
一瞬前の複雑な表情を見事に隠して、カンナが不自然なくらい爽やかな笑顔を作るから、私は頭にきちゃって、繋がれていた手を振りほどいて、叫んでいた。
「1週間も音沙汰なしで、どうしたのはないんじゃないの?」
そう言って私は横を向く。
「私、聞いたの……」
体の横に下げた左の二の腕をぎゅっと右手で握り、聞きたかった言葉を吐き出す。
「カンナが留学するって。どうして教えてくれなかったの? もう私とは友達もやめるから……?」
自分でも信じられないくらい声が震えている。すると。
「……ごめん」
ドキッとするような憂いを帯びた声で言われて、私はびっくりしてカンナを仰ぎ見る。
「ごめん……」
もう一度謝るカンナの瞳は曇っていて、切なく胸を締め付けられる。
それがカンナの答えなの――?
「分かった――」
長い沈黙を挟んでから言う。
「カンナと友達するのはやめる」
自分で掴んだ勇気と自信を片手に握りしめ、くっと顎を引いて、まっすぐにカンナを見つめる。
「…………っ」
カンナが声にならない声を出し、悲痛に顔を歪ませて斜め下に視線を落とす。瞬間――
私とカンナの間にある1歩の距離を詰めて、私はぎゅっとカンナに抱きつく。
驚いたカンナが身じろぎし、視線を恐る恐る上げて私の顔を見るから、にこっと意地悪な笑みを浮かべる。
「カンナと友達はやめて――彼女になれるように、今度は私からカンナに好きになってもらえるように、頑張るよ」
1つの事を終わらせて、新しい1歩を踏み出すんだ――
私は触れそうな程の距離に立つカンナの顔が、どういう意味か分からないという様にキョトンとしているから、くすりと微笑む。
「私の1番はカンナだよ」
カンナは一瞬動きが止まって、それから。カンナにがばっと私の肩を掴まれ引き寄せられて、カンナの胸に抱かれていた。
「さっきの言葉、本当? ううん、嘘でももう取り消しはなしね」
そう言って抱いた腕の力を少し緩めて、見上げた私の顔を間近で見つめてくる。
澄んだ瞳の中に甘やかなきらめきがあって、うっとりするような魅惑的な顔で見つめられて、ドキってしちゃった。
「譲子さん、好きだ」
斜めに見下ろしたカンナの目元が和み、再び、ぎゅっと抱きしめられる。
「私もカンナが好きだよっ」
そう言ってカンナを見上げると目があって、ふっと一緒に笑いあった。