第36話 さよならのメロディ
なんだか分からない胸騒ぎを抱えたまま、夏休み明けの1日目はあっという間に終わり、帰りのホームルームを残すだけ。
1ヵ月半の長期休暇を挟んだ後の初日からの6時間授業に、教室の中の生徒達はぐったりとしている。
夏休みの宿題を提出したばかりなのに、4週間後に迫る前期期末テスト対策の宿題がどっさりと出されて、皆うなだれている。
おまけに宿題が終わっていなかった者は居残り補習を命じられ、昨日までの休みとのギャップにみんなついていけないでいる。
教室に担任が入ってくると、あからさまに元気のない生徒に苦笑し、手短にホームルームを切り上げる。
「まっ、頑張れよ」
そんな他人事のようなセリフを言って教室を出ていく担任に、クラス中からブーイングだ。
だけど、私が沈んでいるのはそんな宿題や迫りくる期末テストを憂いているからではない――
試験を心配している方が、幾分か気分はましだったはずなんだ。
勇気を振り絞ってカンナに送ったメールの返信が、私とカンナが友達の関係にさえ戻れない位置に立っていることを語っていて、胸が壊れそうに痛む。
なんで――友達以上の関係になれないなら、友達の関係さえ続けちゃいけないの?
カンナは、そんな簡単に友達の関係を切り離すような、薄情な子ではないと思っていたのに――
もう、私の顔を見ることさえ嫌になってしまったの――?
胸の中に、どろどろとした嫌な感情が溢れて来て、気持ち悪い。
悪い方に考え出すとその思考は止まらなくて、ミーティングがあるというカンナの言葉さえ疑わしく思えてくる。
私に会いたくないから、口実に使ったの――?
こんな自分は嫌なのに、どうしようもなく苦しい。
「ねえ、譲」
真っ黒の闇に飲み込まれそうだった時に、沙世ちゃんに話しかけられて、ぱっと顔を上げる。
「あっ……」
その時の私は、どんなに情けない顔をしていただろうか。もし、沙世ちゃんが声をかけてくれなかったら、私はもうカンナの事を信じられなくなっていたかもしれない。
「譲、大丈夫? 顔色悪いよ?」
「うん、大丈夫だよ……それよりどうしたの?」
「今日も図書館に寄って行くんでしょ? 私も一緒に行っていいかな?」
「えっ……」
確かに、いつもだったら迷わずに放課後は図書館に行くんだけど、カンナを待つ為に――
でも、今日はそんな気分じゃない……っていうか。
「ごめん、私、今日は部活なんだ。今週、大会があるから」
「そうなんだ」
「うん。でも、沙世ちゃんが図書館行くなんて珍しいね」
いつもだったら、私が誘っても絶対に一緒に行かないのに。
「今日、ブラバンは部活なくて。でも熊本君待つから、暇つぶしに一緒に図書館行こうと思ったんだけど、部活なら仕方ないね」
その言葉にドキンとする。さっき引っこんだどす黒い感情がじわじわと寄せ付ける。
「あの……テニス部、今日はミーティングで長くなるんだって……?」
もしかしたら、ミーティングがあるというのは嘘かもしれない――その疑いを晴らしたくて、沙世ちゃんに尋ねる。
「あー、そんなこと言ってたね、遅くなるって」
ほっと安堵の息をはく。
よかった――本当に、よかった。一人胸をなでおろしていると。
「譲もカンナ君のこと待つんでしょ?」
にやついた顔で聞かれて、困ってしまう。
「えっと、今日は先に帰っていいって言われてるんだ。私も部活長引くかもしれないから……」
部活が長引くかもしれないのは本当だけど、帰る約束は――していない。
「そだ、これ、旅行の写真見ながら待ってたら」
鞄の中から朝渡しそびれていたアルバムを渡す。
「ありがとー、これで時間が潰せるよ」
沙世ちゃんはにこりと笑って受け取る。
「夕貴が気に入った写真は抜いていいって言ってたよ。あと、見てないのカンナと熊本君と河原君だから、沙世ちゃんから熊本君に渡してくれる?」
「うん、分かった」
「じゃー私、そろそろ部活に行くから」
「うん、頑張って」
笑顔の沙世ちゃんに見送られ、部室棟に向かって歩き出した。
部室で競泳水着に着替えて、気持ちを切り替える。
部活中はタイムのことだけ考えよう……
もう考えるのに疲れてしまって、最近、ない頭でいろんなことを考えてばかりいたから頭が変になりそう。考え過ぎて疑心暗鬼になって、真実すら陰って、見失ってしまいそうだった。
今だけは、考えるのをやめてもいいかな――
今朝、感じたままに行動して自分で答えを見つけようって思ったばかりなのに、弱気になる自分に苦笑が漏れる。
だけど――頑張ろうって思っても頑張れない時は、どうしたらいい?
※
パシャッと水面から顔を出し、荒い呼吸を繰り返してプールサイドに上がる。
「桜庭さん、絶好調ねっ!」
ストップウォッチを握った3年の近野マネージャーが嬉々とした顔で私に話しかけてくる。
「タイム伸びてるわよ、その調子で明日も頑張りましょう!」
この調子でいいのかな――心の中で自問して、苦笑する。
「はい、次っ!」
マネージャーはスタート横に移動して、次の人のタイムを計りに行く。
空を見上げると、私の心を写したようにどんよりとした雲が広がっている。それなのに空気はまとわりつくようにじめじめと暑苦しい。
水面は雲を映して灰色のなんとも寂しげな色になっている。
カンナと音信不通になってからもう5日経つ。当たり前になっていた登下校はもちろん一緒じゃないし、メールも電話もしていない。
月曜日みたいに私からメールをすれば返事は返ってくるだろうけど、素っ気ないメールを見るのは心が痛むから、私からメールをすることも出来ないでいた。
このまま私とカンナは3ヵ月前の関係に戻るのだろうか――
私はフェンスにかけていたパーカーを羽織り、プールから出て中庭を突っ切る。
水着姿であんまりうろつきたくなかったけど、じっとしていられなくて歩いていく。
学校の敷地を囲むフェンスに指をかけて、鼻が触れそうな程の距離に近づく。学校の南側、この場所から里見高校の運動場が見え、端にテニスコートも見える。
グラウンドやテニスコートにいる人影は見えても顔までは分からない。それでも、あそこにカンナがいると思うだけで、胸が熱くなる。
どうしたらいいのだろう――
何度考えてもいまだに答えの出ない問いを、もう一度自分に投げかける。
たった3ヵ月前。カンナと出会ってから一緒に過ごした日々はほんのちょっとだけど、ついこの間知り合ったばかりとは思えないほどカンナの隣は居心地が良くて、今更知り合う以前の他人になんか、戻れそうにもなかった……
「もう、私とカンナは他人……? 友達にも戻れないの……? そんなの嫌だよ……」
漏れた声が涙声に変わって消える。
タイムが伸びたって、それを横でカンナが笑って聞いてくれなかったら、嬉しくなんかない。
私の心の中にはいつのまにかカンナの居場所が出来ていて、いまは心にぽっかりと穴が空いている気がする。
気持ちを落ちつけるように目を閉じて、プールに向かって踵を返し中庭を通り抜けていた時、ばたばたと教室棟から足音を響かせて沙世ちゃんがすごい剣幕で走ってきた。
「譲ーっ!?」
沙世ちゃんの表情は緊張で強張っていて、瞳孔が開いている。私を見つけるなり駆けよる。
「ねぇ、譲、知ってたの? カンナ君が……」
あまりにすごい勢いで走ってきたからか、息が続かなくて言葉を切る沙世ちゃんに、私は首をかしげる。
「カンナが、どうしたの……?」
カンナの名前を聞いただけで、どうしようもなく心が揺さぶられて、平静じゃいられなくなる。
心なしか、声も震える。
はぁー、はぁーと肩で大きく呼吸をし、息を整えた沙世ちゃんが一気に捲し立てる。
「いま熊本君からメールで聞いたんだけど、カンナ君留学するって。学校で毎年、外国語の成績がトップの人が数人選ばれてオーストラリアの兄弟校に留学する制度があって、それにカンナ君が選ばれたってっ!」
「カンナが……留学?」
外国語が得意とか、留学するとか、そんな話は一度もカンナの口から聞いたことはなくて、はじめて聞く話に胸がツキンツキンと痛み始める。
「知らなかったの!? そのことで、カンナ君と喧嘩してたんじゃないの……?」
私の戸惑いがちな声に、沙世ちゃんが眉を顰める。
「えっ……」
この5日間、確かに私は気持ちが沈んでてあからさまに普通じゃなかったかもしれない。けど、沙世ちゃんはそんなこと一度も聞いてこなかった。普段通りに話首を突っ込んで来るのに、この5日間、カンナの名前を口にしたことはない。
「夏休み明けてから、譲、ずっと元気がなかったじゃん? カンナ君と何かあったのかなって思って聞きたかったけど、熊本君に止められてたの、2人のことには口出すなって。何かあるなら譲から言ってくれるはずだから、待つのも親友だ――って言われて、聞きたくて仕方がなかったけど、ずっと我慢してたんだよ?」
ぷくっと頬を膨らませて言う沙世ちゃん。
「そうだったんだ……」
沙世ちゃんの優しさが胸に沁みる。
「それより、留学の事知らなかったの? それが原因で一緒に帰ってなかったんじゃないの?」
心配そうに見上げてくる沙世ちゃんに、花火大会での出来事を話した――
「そうだったんだ……それで譲は、答えを見つけたの?」
その質問に、渡り廊下の壁に背をつけて隣に座っている沙世ちゃんを見て、下唇を突き出してふぅーっと細かい息を吐き出し、苦笑する。
花火大会の時、カンナに言われた言葉――1番になりたい。
それは私が中学の時、御堂君に望んだことで、私が心の中で温めていた大事な気持ちだった。
だからあの時、その言葉を聞いて、心に踏み込まれて――怖かった。
もしカンナに私の1番をあげたら、やっと元の関係に戻った御堂君と私の友情まで壊れてしまうようで――逃げたんだ。
大事な物を犠牲にしないで、何かを得られることは出来ないのに――
腕に抱えたすべてのものを掴みとろうとしたから、欲張って、指の隙間から本当に大事な物がこぼれ落ちてしまったんだ。
今でも御堂君のことを考えると、胸がざわつく。でも、それは前みたいな嵐のような激しいものではなくて、優しく心震わせる温もりで。
カンナだけが私にいろんな気持ちを教えてくれる。カンナが私を弱くもし、強くもする。カンナが絡めばそれだけで胸がいっぱいになる。今だって、カンナのことで胸がいっぱいなのに。
なんで私は、こんなになるまで気づかなかったんだろう――
遠く離れていってしまってから、それがどんなに大事なものだったか気づくなんて。
近くにあり過ぎて、その存在に気付かなかったの?
手の届かない所に行ってしまってから気づいても遅いのに――