第33話 別れへの近道
ざわざわと賑わう人ごみの中。花火大会を心待ちにうきうきとした表情の人々の中で、私は一人、青ざめた顔で立っていた。
待ち合わせ場所の新浦安駅の改札前。花火大会開始1時間30分前なのに、駅にはすでにたくさんの人が詰め掛け、大混雑していた。
そんな中、なんで私が青ざめていたかと言うと……慣れない浴衣を着て、あまりにすごい人ごみに酔ってしまったから。
普段はちょっとやそっとのことでは体調を崩さないのに、海で風邪をひいてから微熱は下がらないし、頭痛と腹痛も続いていた。それでも、9月の初めにある水泳大会に向けて今週から部活に出て、練習時間も長くなって少し無理をしすぎたのかもしれない。
うっ……と胸から込み上げる気持ち悪さに、口元にハンカチを当ててしゃがみ込む。
ダメだ、立ってるのも辛い。カンナが来るまで、少しだけ――座っていよう。
ただでさえすごい人ごみの中、しゃがんだりしたら、見つけられにくいのは分かっていたけど、どうしても立っていることが出来なくて、お腹を抱えるように丸くなる。
せめて、普通の服だったら――と思う。きつく締められた帯が苦しいのも原因だと思うんだ。
花火大会に行くって言ったら、お母さんがすごい目を輝かせてきて、誰と行くのって聞かれて適当に誤魔化せばよかったのに、ついカンナとって言ったら、お母さんが慌てて和室に駆けこんでがさがさ箪笥の前でやってると思ったら、白い紙に包まれた浴衣を出して、にっこりと笑って言うの。
「譲子、当日はこれ着ていきなさい」
って――
恐る恐る白い包み紙を開けると、見たことも無い白い浴衣。白地に藤の花と鮮やかな蝶が描かれた大人っぽい浴衣。
確か、中学生の頃に紺地に赤い牡丹の描かれた浴衣を買ってもらった記憶があるけど、こんな浴衣は持っていた記憶がない。
「これね、お母さんが若い頃に着ていた物よ。と言っても数回しか着ていないから綺麗でしょう?」
にこにこと満面の笑みを向けられて顔が引きつる。お母さんは伝統のある女子校に通っていたらしく、茶道、華道といろいろ嗜んでいたらしく、時々着物で出かけたりもするから和装には慣れている。
一方私はと言うと、和装なんて滅多に着ることもないし、浴衣ですら小学校と中学校で数回着たくらいだ。
「えっ……いいよ、浴衣なんて。普通の服で行くから」
「だめよ。デートなんだからおめかししないと。男の子はそういうとこ、ちゃんと見てるんだから」
確かに藤柄の浴衣は可愛くて着てみたいと思ったけど、面倒だっていう意識が強くて敬遠する。
「大丈夫よ、お母さんが着つけてあげるし、下駄も鞄もあるから、ねっ?」
そういう問題じゃないんだけど……とは思っても、娘のデートに意気込んでいるお母さんに何を言っても勝てそうになくて、大きなため息をつく。
で、今日は昼過ぎから2時間かけて着付けとヘアメイク――メイクは軽くだけど、して貰って、笑顔で送り出されたのが30分ほど前。
ここ数日寝不足気味だったのと、帯の胸の締め付け、電車の揺れで新浦安に着くころにはげっそり。極めつけが駅前の大混雑で、吐き気が襲ってきたのだ……
あまりの気持ち悪さに、涙目になって口元を押さえる。
どうしよう……トイレに行った方がいいかな。それより、カンナにメールをしなきゃ――そう思って鞄から携帯を取ろうとして手を滑らせ、鞄を落としてしまう。
「あっ……」
最後の頼みの綱である携帯を遠くに落としてしまい、腕を伸ばしたけど、人ごみに遮られ、鞄を見失ってしまう。
最悪……どうしよう……
そう思った時。
行き交う人の足の隙間から、床に転がっている私の赤い鞄が拾われるのが見えて、そこにカンナが立っていた。
「カ、ンナ……」
危機的な状況に、タイミング良く現れたカンナに胸が熱くなり、さっきまでの苦しい気持ちがすぅーと流れていく。
「譲子さん!?」
しゃがみ込んでいる私を見つけて、カンナが焦った声を出して駆けつけてくる。
「どうした? どこか具合悪いの!?」
すぐ横にしゃがんで、気遣わしげに私の顔を覗きこんで来る。きっと私の顔は汗まみれで化粧もはがれてぐちゃぐちゃだったと思う。
こんな情けない姿見られたくなかったけど――その時はそんなことも考えられなくて、ただカンナが来てくれたことで胸が苦しくて、安心して。
「ううん、ちょっと人ごみに酔っただけなの」
「大丈夫? どこかで休む?」
私は首を横に振る。
「外に行こう、風に当たりたい……」
改札前は人の熱気で蒸し暑く、浴衣も熱くて動きにくい。外に出れば少しは気分も良くなると思って、カンナに手を借りて立ち上がり、外に出る階段に向かって歩き出す。
カンナは私の手のひらを優しく包み、ゆっくりと歩いてくれる。私を気遣って時々後ろを振り返し、私が不安げに見つめると、大丈夫だよ――そう言う様にぎゅっと手を握ってくれた。
駅前の人ごみの少ない場所まで来て、空いているベンチに座らせてくれた。
「ごめん……なんか、私具合悪くなってばかりで……」
旅行の時といい、今回といい、カンナに迷惑ばかりかけている。自分の体調管理も出来ないなんて、私は自分が情けなくなる。
「気にしなくていいよ。そういう時もあるんだよ」
目の前に立ったカンナは、優しく双眸を細め、ぽんぽんっと頭を撫でてくれた。
その気遣いが温かくて、カンナの優しさが胸に沁み渡る。
「何か、飲み物いる?」
カンナに首を傾げて聞かれ、私は頷く。
「ちょっと待ってて」
左右を見渡し、自動販売機を見つけて駆けていくカンナ。
カンナの姿を目で追いながら、足をブラブラさせ、ふぅーっと細く息を吐く。
一昨日までの連続的な雨の影響でここ数日、気温がぐっと下がって、夜風は肌に冷たく心地いい。外の風に当たって、だいぶ人酔いの気持ち悪さが抜けて、胸をなでおろす。
ベンチの前の路を、家族連れや友達同士、腕を組んで仲良さそうに歩く恋人同士などが通り過ぎていく。その様子を見て、なぜだか胸が苦しくなる。
私とカンナって、周りからはどう見えるんだろう――
二人で来ているから、恋人同士にみえるんだろうか……
友達――それが今の関係だと思うけど、今日はその関係に別れを告げる予感がして、どうしようもなくやるせなくなる。
地面に視線を落とすと、楽しい花火大会のはずが気分も沈んでくる。じくじくと胸が痛み、眉根を顰めた時。
ひやりと小気味良い感触を頬に感じて、背筋を震わせる。
「きゃっ……」
見上げると、目の前にカンナが立っていて、ペットボトルを私の頬につけてにこりと笑っている。
「はい、ミネラルウォーターで良かったかな?」
「あっ、うん。ありがと」
私は差し出されたペットボトルを受け取り、キャップを開ける。カンナは私に渡したのとは別に持っていたスポーツドリンクを開けてごくごくと喉を鳴らして半分ほどを飲み干す。
「具合はどう? 気分悪いようだったら、今日はもう帰ろうか?」
「ううん、夜風にあたったらだいぶ良くなったから大丈夫」
「本当――?」
そう言ってカンナが腰をかがめ、小首を傾げて顔を覗きこんで来る。黒い澄んだ瞳が間近に迫って、ドギマギして目をそらしたい衝動にかられたんだけど。
私よりも先にふいっとカンナが視線を外して背を向ける。その行動に違和感を覚える。
「会場までバスも出てるみたいだけど、どうする? 歩くと30分くらいかな?」
尋ねられて、私は携帯で時間を確認する。打ち上げの時間まではまだ1時間ほどある。
「出店とか見ながら歩いてたら、ちょうどいいんじゃないかな?」
私はとてもじゃないけど、買い食いをしたい気分ではないけど、きっとカンナは何か食べたりしたいだろう。具合悪い私に付き合わせて待たせてしまったから、カンナには少しでも楽しんでほしくて歩いて行く方を選ぶ。それなのに。
「大丈夫? 歩ける?」
優しく気遣ってくれて、泣きそうになる。
私は苦しい気持ちに気づかれない様に立ち上がり、カンナの手を繋いで歩き出す。
「行こう」
一瞬、掴んだ手がビクッと震え、拒絶されたように感じたけど、カンナがゆっくりと歩き出して正面を向いて掠れた小さな声で言う。
「花火……楽しみだね」
「うんっ!」
だいぶ体調も回復して、だけどカンナがゆっくりとした歩調で歩いてくれて、会わなかった2週間の出来事をお互い話しながら会場へと向かった。
途中、カンナはたこ焼きの屋台と焼きそばの屋台、ベビーカステラの屋台によって買い食いをしていた。
焼きたてのほかほかしたベビーカステラは美味しくて私も好きだけど、カンナが実は甘党だと知って、笑ってしまった。
繋いでいた手は歩き始めて数分で、初めに寄ったベビーカステラの屋台で離されてしまって、そのままだった。
いつもはカンナの方から手を繋いでくることが多いのに、離されてしまった手になんだか寂しさを感じる。食べ歩きをするから仕方がないとは分かっているけど、なんだかそこに、距離感を感じて切ない衝動にかられる。
カンナの希望だった2人だけで会っているのに、カンナはあまり私の方を見ようとはしないし、時々視線が合うとすっとそらされてしまう。
駅で会った時は、気持ち悪くて歩くので一杯いっぱいで気づかなかったけど、楽しそうに会話するカンナが時折、ふっと切なげに顔を曇らせるのに、私は気づいていた。
どうしてそんな悲しそうな顔をしているのか気になって仕方がなかった。
私のことばかり気遣ってくれるカンナはとても優しくて、でもどこかよそよそしさを感じるのはなぜだろうか――?