第30話 掴んだ手のひら 3
沈んだ気持ちと緊張で、譲子さん家の呼び鈴を鳴らすと、インターホンから快活な女性の声が聞こえる。
「はい、どちら様ですか? あら、譲子?」
インターホンにはカメラが付いていて背負っていた譲子さんが見えたのか、俺が名乗る前にガチャリと通話が切れ、バタバタと家の中に足音が響き、玄関が開き、譲子さんと同じくらいの身長の女性――おそらく譲子さんのお母さん――が現れた。
「あらあら、譲子ったら……」
言いながらおばさんが背中で寝ている譲子さんに駆けより、譲子さんから俺に視線を移す。
「はじめまして」
肩越しに挨拶をし、背中からずり落ちそうになった譲子さんを背負い直す。
「帰りの電車で具合が悪くなったみたいで、送ってきました」
「まあ、そうなの。重かったでしょう、ありがとうね」
そう言っておばさんはじぃーと俺を上から下まで見て、にこりと笑う。
「ついでに、部屋まで連れて行ってくれるかしら?」
開けたままの玄関に視線を移し、俺を促す。
「あっ、はい。お邪魔します」
靴を揃えて脱ぎ、案内されて2階の譲子さんの部屋に入り譲子さんをベッドに寝かし、布団をかけ直した時にベッドからはみ出た手を戻そうとしたら、小さな譲子さんの手に掴まれて、ドキンと胸が跳ねる。
譲子さんは寝ていて無意識の行動だと分かっていても、胸が跳ねて冷静じゃいられなかった。譲子さんの方から手を繋いでくれたことにどうしようもなく嬉しくて切なくなる。
掴まれた手をそっと外そうとしたのに、寝てるとは思えないほど強く握られていて、無理やり外すのを躊躇う。
いまだけは――俺を必要としてくれる。その手のひらに愛しさをこめて優しく包み込んだ。
そうこうしているうちに、おばさんが救急箱を持って戻ってきて、寝ている譲子さんの額に手を当てて、救急箱から体温計を取り出し、俺は視線をそらす。
すぐに帰ろうと思ってたが、タイミングを逃してしまい、譲子さんの部屋に視線をさまよわせる。
「あら、39度もある……」
呆れた様なため息交じりのおばさんの声に、ぱっと譲子さんを見る。紅潮した頬は相変わらずで、時々苦しそうに眉根を寄せている。
「夏風邪かしらね~、病院に……いまならまだ診察時間に間に合うわね。譲子、起きられる?」
「う……ん……」
返事はするものの動く気配はなく、静かな寝息が聞こえる。
「譲子、寝てるの? あら、困ったわね」
ぜんぜん困った様子には感じられない口調でおばさんがいい、譲子さんの顔から繋がれた手に視線を移して、にこりと笑う。
「君、譲子の彼氏?」
言いながらにんまりと笑い、口に手を当てる。
「いえ、あの……」
突然の問いかけに、しどろもどろしていると。
「ふーん、君がねぇ~。送ってくれたついでで悪いんだけど、病院まで付き添ってくれるかしら?」
そう言われたら断る訳にもいかず――どのみち繋がれた手のひらを俺からも離すことは出来なくて、病院に付き添い家までもう一度送る。
譲子さんはそうとう辛いみたいで、目を閉じたまま時々「うーん」とどっちなのか分からない返事をするだけだった。
病院でもらった風邪薬を飲んでベッドに横になった譲子さんの側に座って、繋いだ手を空いた手でさする。寝たら帰ろうと思っていたのに、すやすやと穏やかな寝息を立てて眠る譲子さんの寝顔を見たら、帰るに帰れなくなってしまう。
伊豆で御堂さんに告白された譲子さんがなんと答えたのか――俺は聞かなかったことを後悔していた。聞いたら聞いたで、きっと後悔していただろうけど、2人がどうなったのか知らないでやきもきするよりはましだったはずだ。
「ねえ、譲子さん……」
返事が返ってこないのを分かっていて、尋ねる。繋いでいない手で譲子さんの頭を撫で、髪をすく。
触れた時は眉根を寄せたが、気持ちよさそうに目を細めて微笑んだ。
「譲子さんは御堂さんの事が好きなの? それなら、俺は自分の気持ちを消す努力をするよ。譲子さんには笑っていて欲しいから、隣にいるのが俺じゃなくても……いいんだ……」
最後はか細い声になって、情けなくて、ベッドに顔を突っ伏す。
「譲子さん……譲子さん……」
その名を呼ぶだけで、胸がはち切れそうに苦しくなる。
好きになることが楽しいだけじゃなくて、こんなに切ない気持ちになるなんて、俺は知らなかった。
「どうして俺じゃダメなの……」
呟くつもりのなかった言葉が声になって、静かな室内に吸い込まれて行く。
譲子さんが掴んでくれたこの手のひらも、離さなければいけないんだ――
そう思って、もう少しだけ、もう少しだけだからと自分に言い聞かせて、繋がれた手に力を込めベッドに再び顔をうずめた。
※
ベッドの軋む音に顔を上げると譲子さんが上体を起こしていて、ぼーっと俺を眺めていた。
「あっ、俺、寝ちゃってたのか……具合はどう?」
ベッドから上体を起こして、譲子さんに笑いかける。
さっきまでうだうだと考えていた気持ちを見透かされない様に、笑顔で心を隠して。
「具合……?」
「覚えてないの? 譲子さん、電車の中で倒れたんだよ。夏風邪だって」
「そうなんだ……カンナが家まで送ってくれたの? ありがとう」
家に帰ってきてからも時々返事をしていたのは、やっぱり覚えていないようで、ベッドで情けなく吐いた言葉も聞かれていないと分かって苦笑する。
「どういたしまして」
「いま何時? もうこんな時間――カンナ付いていてくれてありがと。でも……」
言いながら譲子さんは視線を机の上の時計に向け体をみじろぎ、繋いだ手のひらに視線を落とす。
その手を解こうと力が込められたことに気づいて、ぎゅっと力を入れて譲子さんの抵抗を遮る。
「カンナ……?」
苦笑して首をかしげる譲子さんを、揺れる黒い瞳で見つめる。本当は何も聞かないつもりだった。でも、だけど――
これが最後のチャンスだとしたら、あがきたかったんだ。
「御堂さんと……なにかあった?」
そう聞いた俺から、譲子さんは素早く視線を外して俯き、掠れた声で言う。
「えっ、と……な、んのこと……?」
動揺しているのが伝わってきて、じれる気持ちと切ない気持ちが入り混じってぎゅっと唇をかみしめる。長い沈黙を挟んで。
「なにもないなら、いいんだ……」
そう言うのが精一杯だった。
御堂さんと何かあったことを知っている俺は、譲子さんが嘘をついていることを知っている。どうして話してくれないのか、そんな苛立つ気持ちは独占欲丸出しで胸がじりじりと焼けるように痛む。
「すべてを俺に報告する義務はないもんな……」
自虐的に聞こえない様な声で呟いて、素早く掴んでいた手のひらを離して立ち上がる。
「帰るね」
部屋を出て1階に降りると、リビングからおばさんが顔を出す。
「遅くまでお邪魔してしまってすみません」
頭を下げて挨拶をしながら、結局、最後まで名乗るのを忘れていたことに気づいて苦笑する。まぁ、もう会うこともないだろうからいいのかな?
そんなことを考えていたら。
「いいのよ、譲子が迷惑かけてごめんなさいね。また遊びに来てちょうだい」
そう言われて困ってしまう。首を掻く、気持ちを隠してふわりとおばさんに笑いかける。
「はい、失礼します。譲子さん、お大事にね」
譲子さんにもそう言い、俺は駅に向かって夜道を歩き始めた。




