第29話 掴んだ手のひら 2
翌日、旅行最終日。
寝る時に濡れタオルを当てたからそんなに目は腫れていなくて、鏡に写る顔はいつもとなにも変わらないように笑っている。
昨日は気分がどん底まで沈んでしまったけど、悩む暇があるならもっと必死に頑張ろうと決心した。
帰る前に寝姿山に登り第1展望台で景色を見た後、譲子さんがトイレに行くというから俺はトイレの前のベンチに座って待っていた。
ふっと横を見ると、御堂さんが売店の側で立っているのが見えて、胸がざわつき始める。
御堂さんも譲子さんを待っているんだ――直感で分かって、だからどうしても譲子さんには御堂さんの存在に気づいてほしくなくて、トイレから出てきた譲子さんの視界に入るようにトイレの入り口を見つめる。
トイレから出てきた譲子さんと目が合って、顔色が悪いことに気づく。そういえば、午前中も具合が悪いからと海に入らなかったな。
「譲子さん、大丈夫?」
もしかして具合が悪いんじゃ……
譲子さんは首を傾げてきょとんと俺を見る。その顔があまりにも可愛くて、俺は微笑んで駆け寄る。
「大丈夫ならいいんだ。皆はもう第2展望台の方に行ったから、俺達も行こう」
横に並んだ時、売店から出てきた御堂さんの姿が視界の端をかすめて、譲子さんが振り返って御堂さんに気づかない様に肩に腕をまわして引きよせ、遊歩道の方へと歩きはじめる。
少し強引すぎたかなと思って譲子さんの様子をうかがう様に横目で見ると、不思議そうに俺を見上げる譲子さんと目が合ってまじまじと見つめられて、その瞳が純粋すぎて――僅かに頬が紅潮する。
あまりに至近距離で見つめられて、心臓が早鐘を打ちはじめる。
恥ずかしくて視線をそらし、肩に回していた手を解いて譲子さんの手を握りしめる。
近すぎるのは困るけど――遠くにいかれるのは切なすぎて、側に繋ぎとめておきたかった。
手を握ったまま、ほとんど会話をすることなく第2展望台に着くと、譲子さんは辺りを見回して真っ先に聞いたことが御堂さんの事で、胸がちりちりと痛み始める。
掴んだ手のひらだけが譲子さんとのたった一つの繋がりで、その手のひらにすがりつくように力を込め、振り仰いだ譲子さんを、俺は切なくて胸がはち切れそうな気持ちで見つめた。
どうか、離さないでほしいと願って。
それなのに。
「ねー、譲子。一緒にこの望遠鏡見ない?」
第3展望台で夕貴さんに呼ばれて、譲子さんは蝶のようにするりと俺の手のひらからすり抜けて飛んでいってしまった。
虚しく風を受けてすかすかする手のひらに視線を落とし、ぎゅっと拳を握りしめる。
望遠鏡から景色を眺める譲子さんの後ろ姿を眺めて、俺は元来た道を引き返し、第2展望台へ行く手前の別れ道を進み、遊歩道から外れた草むらに隠れた木の根元に腰を下ろす。
はぁーっと大きなため息をついて頭を抱え込む。
俺はどうしたらいいんだ――
いや、答えは出ている。
俺は譲子さんが好きだ。例え、譲子さんが誰を好きでも――
だけど譲子さんが御堂さんの事を好きなら、気持ちを伝えて譲子さんを困らせたくはない。
言いたくて溢れそうになる想いを胸にぎゅっと抱きしめ、体を小さく丸める。
譲子さんが御堂さんを好きなら、俺が取る行動は決まっている――
しばらくそのままの体勢でいると、足音が聞こえて耳をすませる。俺が座っている場所からは遊歩道は見えないから気にする必要はなかったけど、聞こえてきた声にぱっと顔を上げる。
「それがどうかしたの? なんで、みんな私とカンナが付き合ってるって思いたいのかしら……」
ため息の混じった譲子さんの声が聞こえる。
譲子さんと――御堂さん……
「もう一度伝えるよ、俺は桜庭が好きだ。桜庭は俺の事どう思ってる? 友達――?」
真剣な御堂さんの声が聞こえ、その言葉にドキンと胸が跳ねる。
「今は友達としてでもいい、この先ほんの少しでも俺を好きになってくれる可能性があるなら――付き合ってほしい」
――――っ!
まさか御堂さんが旅行中に告白するとは思いもしなくて、ぎゅっと唇をかみしめる。
これ以上ここにいてはいけないと頭に警戒音が響くけど、譲子さんの返事を聞きたい――けど聞きたくなくて、腰を僅かに浮かせた姿勢のまま身動きが取れなくなる。
だから俺は両手で耳をふさいで、聞こえる音のすべてを拒絶した。
俺は何も聞いていない――そう必死に思い込むために。
※
行きの電車は譲子さんの隣の席に座ったけど、帰りは河原の隣に座る。
もし目が合って透き通るような綺麗な瞳で見つめられたら、俺はどうしていいか分からなくなるから、今は譲子さんの顔を正面から見られなかった。
トイレに立った時、窓側に座った譲子さんは窓に寄りかかって寝ていて、その様子を見て心がほんわかとする。だけど、寝ている譲子さんの額にはうっすらと汗が浮かび、顔色も青ざめているように見えて、心配になる。
東京駅で乗り換える時に声をかけてみようかと思ったが、電車から降りてきた譲子さんは御堂さんに手を繋がれてて、声をかけるタイミングを失ってしまう。
総武線に乗り換え、扉の横、御堂さんの隣に立った譲子さんの顔はさっきは青かったのに今は赤みを帯びぐったりと瞼を閉じている。
本当に具合が悪そうだな――
そう感じて、側に近寄り声をかける。
「譲子さん、大丈夫?」
尋ねた俺に返事は返されなかったが、瞼を閉じたままこくりと首を一度縦に振り大丈夫だと伝えてきた。
だけどその様子はどう見ても大丈夫には見えなくて、譲子さんの肩に手を伸ばした時。
キュキューッ!
高いブレーキ音が響いて大きく電車が揺れ、その拍子に扉に寄りかかっていた譲子さんの体が傾いで、俺は慌てて両手を広げて抱きとめる。
俺の肩に顔をうずめて力なく倒れた譲子さんの体はすごく熱くてビックリする。
倒れた譲子さんに、夕貴さんが驚きの声を上げて駆け寄ってくる。
「譲子、大丈夫!?」
俺の肩に顔をうずめていた譲子さんを支えて顔を覗きこむと、額にびしりと汗をかき、頬が上気している。呼びかけには返答はなく、瞳もだるそうに閉じられ、荒い呼吸が繰り返されている。
「電車に乗る前からずっと具合悪そうにしていて、皆に心配かけない様に無理しすぎたんだ、きっと。熱がすごい」
譲子さんの額に手をかざし、あまりの熱さに眉根を寄せる。
沙世さんと駿介が座っていた席を譲ってくれて、譲子さんを座らせ横に座る。譲子さんは力なく体を俺の方にもたれかかってくる。
「ん……」
眉根を寄せ、辛そうに呻く譲子さんを安心させるように、譲子さんの右手を強く握りしめた。
船橋駅に着く直前、少し距離を置いた場所に立ってずっと譲子さんを心配そうに見つめていた御堂さんが近づいてくる。
「桜庭、大丈夫か?」
譲子さんは規則正しい寝息をするだけで、問いかけには答えない。御堂さんも答えは期待していなかったようで気にした風もなく俺に向き直る。
「桜庭とは家が近いから俺が送っていくから」
それが当然だという様に、俺の返事も待たずに譲子さんに手を伸ばした御堂さんの腕を遮り、立っている御堂さんを見上げ鋭い視線で見つめる。
「いいえ、譲子さんは俺が送っていきますから」
具合の悪い譲子さんを、譲子さんの家も知らない俺が送っていくよりも中学からの付き合いの御堂さんが送る方が効率もいいし譲子さんの為だとは分かっていても、どうしても譲れなくて、強い口調で言い返す。
俺も御堂さんも譲るつもりがないのは同じで、互いに視線だけで相手を威嚇し沈黙が流れる。
駅に近づき電車が大きく揺れ、動こうとしない俺達に痺れを切らした夕貴さんが、御堂さんに声をかける。
「今日は彼に任せよう。私が家まで案内するから」
前半を御堂さんに、後半を俺に言い、口を挟もうとした俺と御堂さんを遮る。
「ほら、譲子が具合悪い時にぐだぐだしないの、もう駅着くから。カンナ君も、譲子背負って一人では行けないでしょ? どうせ荷物持つ人が必要だろうし」
「それなら、俺が荷物を持って案内する。いいだろ?」
静かな、だけど有無を言わせない口調で御堂さんが言い、俺は頷き、夕貴さんはため息をついて御堂さんの肩を叩き、自分の荷物を置いた中野さんのところへ戻る。
御堂さんに手伝ってもらって譲子さんを背負い、船橋駅で降りる。
船橋駅で夕貴さん達と別れ、京成線に乗り換え大神宮下で降り、御堂さんの案内で大通りを抜け、数回曲がって譲子さんの家に行く。
譲子さんの家の前で3人分の荷物を持っていた御堂さんが俺と譲子さんの荷物を置いて、自分の鞄をもち直す。
「じゃ」
結局、一緒に送ることになったけど、御堂さんはそれだけ言って歩き出してしまった。最後まで意地を張って譲子さんを送ると言った俺は子供で、荷物を持つだけと言って本当に帰ってしまう御堂さんは大人で、そんな冷静な態度を恨めしく思う。
自分ばかりが余裕なくあがいてもがいて、格好悪くて、みじめな気分になるじゃないか。