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5.ボヴァリー夫人

 翌朝、ティムは廊下をせわしなく行き交う人の足音で目を覚ました。

 早朝から屋敷内が騒がしい。

 部屋の扉から顔だけ出して様子を伺っていると、ウィルの部屋からエリカが出てきた。

「エリカさん、お早うございます。何かあったんですか?」

「ティム、お早う。すぐに身支度をしてウィルの部屋に集まってくれるかしら。ボヴァリー夫人が失踪したらしいの」

 ティムはまだ寝ていたボブを揺り起こすと、慌ててウィルの部屋に向かった。


「みんな、朝早くからすまないな。昨晩遅く、庭師のレオンがボヴァリー夫人らしい女性を連れて屋敷から抜け出したことが目撃されている。夫人の所有している宝飾品類も持ち出されているようだ。詳しい情報についてはボヴァリー男爵から説明があると思うが、傭兵団としては男爵家のプライベートな問題に首を突っ込むつもりはない。昨日の打ち合わせ通りの方針で、本日から領内の資産査定を始めるから、そのつもりで居てくれ」

 ウィルはいつも通り、淡々とした様子で団員たちに告げた。

「庭師のレオン・デュピュイもボヴァリー夫人の情夫のひとりね。男爵家を見限って、情夫と駆け落ちしたってことかしらね」

 エリカの情報によれば、ボヴァリー夫人の情夫は、同時進行で複数人居たらしい。

 男爵家にとって、エマ・ボヴァリーは疫病神としか思えない。

「ですが、宝飾品を持ち出されたのは我々にとっても痛手ですね」

 ボブはそう言って眉間に皺を寄せた。

「まあ、持ち出した宝飾品もおそらく偽物だろう。我々としては最初から無かったものとして回収計画を進める」

 ウィルにとっては、これも予想出来ていた状況だったのかもしれない。

 ウィルの部屋で打ち合わせを続けていると、扉がノックされ執事のセバスチャンが入って来た。

「朝早くからうるさくして申し訳ありません。恐縮ですが、ダイニングルームにお集まりください。旦那様が、皆様にご説明されたいそうです」

 ティムたちはセバスチャンに従いダイニングルームに向かった。


「朝早くから申し訳ない。当家の恥を改めて晒すことになるが、昨晩、エマと情夫のひとりが屋敷を出て行った。エマの寝室に書き置きが残されていた」

 ボヴァリー男爵はそう言いながら、ウィルに何かが書かれた紙片を差し出した。

『男爵のこれまでのご厚意に感謝いたします。 私は真実の愛を貫きます。 エマ・ボヴァリー』

 書き置きの内容を盗み見たティムは気分が悪くなった。

 どう考えても、常識的な成人女性の振舞いとは思えなかった。

「エマは身の回りの宝飾品も一部持ち出したようだ。あなた方にとっては不本意な事実だとは思うが、当家としては事実を隠すつもりは無いし、債務の返済にも協力するつもりだ。だが、私にも急いでやらなければならない用事が出来た。領内の資産査定に関しては、本日の午後から開始することにしてもらえないか?」

 そう話すボヴァリー男爵の声は、苦渋にまみれていた。


「事情は了解いたしました。傭兵団としては御家のプライベートな問題に口を出すつもりはありません。領内の資産査定は午後から開始いたしますので、よろしくお願いいたします」

 ウィルは表情を変えずにボヴァリー男爵に応じた。

 これもウィルなりの気遣いなのだろう。

「旦那様、エマ様とレオンに領兵を差し向けて、宝飾品を取り戻しますか?」

 セバスチャンがボヴァリー男爵に指示を促す。

「いや、放っておきなさい。エマが持ち出した宝飾品は偽物だよ。取り戻したところで価値はない。男爵家がこのような状況になれば、エマも考えを改めてくれるかと期待していたのだが無駄だったようだ。急ぎ、王国の貴族府にエマの除籍届を提出するので、書面を準備してくれ。もはや、エマは当家とは関係の無い人間だ」

「かしこまりました」

 ボヴァリー男爵は全てを承知の上で、夫人の改心に最後まで期待していたのだろうか?

 そう思うと、ティムはボヴァリー男爵のことが気の毒に思えてきた。


 午後まで時間が空いたティムたちは、再びウィルの部屋に集まっていた。

 屋敷内での行動は制限されていないので、ジェシカは屋敷内の調度品を見て回って鑑定作業を始めている。

「結果的には、これで良かったのだろうよ。男爵家の財政に開いていた大穴が、これで塞がった訳だからな」

 珍しく、ウィルが独り言を漏らした。

 ウィルの言葉にエリカが反応する。

「私はボヴァリー夫人の気持ちが分からないでもないわ。山の上の刺激のない暮らしは、エマの思い描いていた結婚生活とは全く違っていたのよ。鳥籠に閉じ込められた鳥は、大空を飛ぶ夢を見続けるものよ。その結末が悲劇であることを分かっていてもね」

 エリカがカトリーヌから聞いた話によると、学院アカデミー時代のエマは、恋愛小説に憧れる、夢見がちで大人しい性格の少女だったらしい。

 エマの実家は貧しい商家だったが、いつの日か、自分を貧しい生活から救い出してくれる白馬の王子様と燃えるような恋をし、二人は結ばれ、幸せな結婚生活を送るのだというような夢の話を、エマはよくカトリーヌにしていたそうだ。

 だからこそ、エマはボヴァリー男爵から求婚されたときに舞い上がってしまった。

 カトリーヌも、エマの幸せそうな様子に、心から祝福を送ったのである。

 しかし、地方領主の仕事は想像以上に過酷なものである。

 常に敵を警戒し、領地経営に気を配り、領内の揉め事を収め、領民たちの生活を安んじる。

 領主に課される仕事は、毎日、朝から晩まで休んでいる暇などないのだ。

 その分、忙しい領主に代わって、領主家の家政を一手に引き受けるのが領主夫人の役割なのであるが、エマにはその覚悟が最後まで出来なかった。

 エマ・ボヴァリー夫人は、恋に恋する夢見がちな少女が、そのまま大人になってしまったような女性だったのだ。


「そうは言っても、ボヴァリー夫人の行動を擁護することは出来ないな」

 そう述べたウィルに、再びエリカが噛みついた。

「私だって、ボヴァリー夫人を擁護するつもりは無いわ。そんなことを言っているんじゃないの。ウィルはもっと女性の気持ちを慮るべきなのよ。そんなんだから四十過ぎても独身のままなのよ。この鈍感男!」

「まあ、俺が朴念仁の鈍感男だという自覚はあるよ。その辺はエリカが副団長としてカバーして欲しい」

「もう、知らないわよ!」

 そんなウィルとエリカのやりとりを、ティムたちは残念な者たちを見る目線で眺めていた。

 エリカは良家の御令嬢という身分を投げうって、畑違いの傭兵団の立ち上げから参画しているのだ。

 そこには、エリカのウィルに対するただならぬ思いを誰もが見て取れるのだが、ウィルはその思いに気付かないのか、気付かない振りをしているのか、応えようとしていなかった。

 いい加減、エリカもウィルのことを見限って、他の男の気持ちにも目を向けて貰いたいものだと、ティムは密かに思っていたのだった。


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