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2.カトリーヌ・メジッチ

 メジッチ家の邸宅は、市の中心部にあるにも拘わらず、広大な敷地を持った大邸宅だった。

 海外からの賓客が逗留する迎賓館としての役割も果たしているらしい。

 ベネッチェ共和国はイタリア半島北部のアドリア海に面した都市国家で、バルカン半島のアドリア海沿岸に属領を抱えている。

 ベネッチェ共和国では、総督ドージェと、有力な名家から選出された10人の評議員シニョリーアによる合議で国政が行われていた。

 そして、メジッチ家では、夫のアンリ・メジッチが総督ドージェとしてベネッチェの共和制政治を牛耳り、妻のカトリーヌがメジッチ商会会頭としてベネッチェの経済界を牛耳っていた。

 ベネッチェは他国との貿易によって存立している商業都市国家であるので、ベネッチェ共和国を実質的に支配しているのは、経済界を牛耳っている妻のカトリーヌであると言っても過言ではない。

 事実、夫のアンリは恐妻家として知られていた。

 

「エリカちゃん、お久しぶりね」

 そう言いながら応接室に入って来たカトリーヌは、背中がざっくりと開いた深紅のロングドレスを纏っていた。

 ティムはその妖艶なオーラに圧倒された。

 40代半ばと聞いていたが、どう見ても30代前半くらいにしか見えない。

 いわゆる美魔女と呼ばれるタイプである。

 いや、魔法を使う本物の魔女かもしれなかった。

「カトリーヌ様、御無沙汰しております。いつも傭兵団のことを気にかけて頂いて有難うございます」

 対するエリカは、ネイビーのパンツスーツに白のブラウス、髪を後ろで纏め、スクエアな伊達メガネで知的でシャープな印象を演出している。

 エリカは20代後半であるが、年齢相応の装いだと言える。

 ティムにとって、エリカは憧れの綺麗なお姉さん的存在であった。


「そちらの方は? エリカちゃんの新しい愛人ラマンかしら?」

「カトリーヌ様、若者を揶揄うのは止めて下さい。彼は学院アカデミーを卒業したばかりの新人で、傭兵団の将来の幹部候補ですよ」

 ティムは、学院アカデミーで学んだビジネス会話の作法から逸脱した2人に面くらいつつ、慌ててカトリーヌに挨拶をした。

「はじめまして。ティム・バートと申します。よろしくお願いいたします」

「ティム坊やね。初々しくって可愛いわぁ! カトリーヌです、宜しく。エリカちゃんの愛人ラマンじゃないなら、私がティム坊やを頂いちゃおうかしら?」

「あ、あう、、、」

「ですから、カトリーヌ様、うちの新人を揶揄うのは止めてくださいって。早速ですが、今回うちに売却頂く債権についてですが、、、」

「あらあら、ごめんなさい。エリカちゃん、うちが不良債権を急いで手放したいのは事実だけど、ゆっくりお茶をするくらいの時間はあるわよ」

 面談が始まってから、終始会話をリードしているのはカトリーヌだった。


「お持たせですけど、、、これはラデュレのマカロンね! ありがとうエリカちゃん。私の好物を覚えていてくれたのね」

「ええ、子供の頃メジッチ家にお呼ばれして、はじめてマカロンを頂いた時から、私も好きになったんです」

 侍女がお茶と茶菓子を用意してティータイムが始まると、会話は漸く穏やかなものとなった。

 ティムも冷静に状況を観察出来るようになったが、さきほど冒頭の会話も、交渉の主導権を握るためのテクニックだったのだろうか?

 学院アカデミーであれば、作法に外れた物言いだと糾弾されるような内容であったが、実務の現場ではあらゆる手練手管を使って交渉の主導権を握ろうとするものだ。

 そう考えると、さきほどの不躾な会話自体も、新しくビジネスの世界に入って来たティムに対する、カトリーヌの荒っぽい教育的配慮であったのかも知れない。


「傭兵団が出来てからもう10年も経つのね。エリカちゃんが初めてスクルージ団長を連れてきた時には驚いたものよ。エリカちゃんは学院アカデミーを卒業したばかりで18歳だったでしょう? てっきり大きな商会の御曹司とでも結婚するのかと思っていたら、一回り以上年の離れた傭兵を連れてくるのだもの。てっきり、悪い男に騙されてるんじゃないかって心配したわよ」

 エリカは、ベネッチェ共和国の評議員シニョリーアを務めるマーレイ家の次女である。

 いわゆる名家の御令嬢なのだ。

「あの時のカトリーヌ様が団長を睨みつける目は、隣で見ているだけでも恐ろしかったですもん。ウィルも未だにあの時のことがトラウマになっているようです」

「あら嫌だ。団長さんとは今では仲良しよ」

「傭兵団設立以来、ずっとカトリーヌ様にはお世話になっていますからね」

「私も、エリカちゃんが傭兵団なんかでやって行けるのかしらと疑っていたけど、スクルージ&マーレイ傭兵団は、いつも私の期待に応えてくれているわ。今では、信頼して貴方たちに仕事を任せることが出来る。エリカちゃんも良く頑張ったわね」

 カトリーヌとエリカの間では、お茶を飲みながら穏やかな会話が続いていたが、ティムはいつビジネスの話題が始まるのかと気が気では無かった。

 そうこうしていると、ドアをノックして執事が部屋に入って来た。


「あら嫌だ。もうこんな時間? じゃあ、お仕事の話もしないとね。エリカちゃんのところで買い取って頂きたい債権は、ボヴァリー男爵家への額面5億ドルトの債権よ。メジッチ銀行の査定では、回収可能額は1億ドルトと評価されているわ。これが銀行の査定報告書ね」

 カトリーヌはそう言いながら執事が持って来た分厚いファイルをテーブルに置いた。

 ティムは、一番知りたかった回収可能額を、カトリーヌがあっさり明かしたことに驚いていた。

「査定報告書についてはそちらで再精査して頂いて結構よ。10日間くらいで大丈夫かしら?」

「はい大丈夫です」

「じゃあ、再精査を停止条件にして10日後の決済。それで、うちの債権をいくらで買い取って頂ける?」

「そうですね、回収可能額に1割上乗せして1億1千万ドルトで買い取りと言うことでいかがでしょう?」

「ええ、分かったわ。エリカちゃんの所は話が早くて助かるわ。じゃあ、このまま契約ということで宜しいかしら?」

「はい、お願いします」

 あれよあれよという間に交渉は纏まってしまった。

 ティムはその成り行きを呆気に取られて見守っているだけだった。

 執事が予め用意していた債権譲渡契約書にカトリーヌとエリカがサインをする。

 エリカは傭兵団の共同経営者であるので代表権を持っているのだ。


「うちにとって良い取引が出来たわ。あとはエリカちゃんのところで頑張って頂戴ね。ティム坊やも大変なこともあるだろうけど、お仕事頑張ってね」

「こちらこそ有難うございます。カトリーヌ様にはいつも気にかけて頂いて、本当に感謝しています。うちの新人のことも、どうかよろしくお願い致します」

 メジッチ家と傭兵団との交渉は、実質10分にも満たない時間で完了してしまった。

 その間、ティムは一言も発する機会を得ず、ただ茫然と交渉を見守っていただけであった。


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