あなたへの贈り物
「あのホラーがどうやって生まれたのか、お話してもいいですか?」
彼女は、いたずらっぽい目で目の前のカメラを見つめ、口を切った。
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「ただいま」
リビングに入った慧は、テーブルの上に小さな薄手の段ボール箱が載っているのを見つけた。
ハガキくらいの大きさで厚みは3センチそこそこ。テープの封ははがされていて、ただ軽く、折り畳み式のふたの、真ん中の突起がわずかに差し込まれているだけだった。
慧は宛先と差出人を見る。
いったん開けてあるということは……やっぱり、同居している山本ルミ宛だった。
差出人は東京都品川区のどこかのビル11階、名はただ、「FOR YOU」としか書いてない。
会社名なのか、団体名なのかもわからない。
「ルミ、いるの?」
リビングを出て、廊下の突き当り、閉ざされたドアに向かって大声を出す。
返事はない。集中している時にはいつものことだ。
「ルミ?」
再び呼んでみる。
共有スペースにはなるべく私物を置きっぱなしにしない、先に言い出したのはルミだったが、守られていないのはルミの方が多い気がしていて、つい、声がとがる。
「ルミ、リビングに箱、置きっぱなしだよ!」
ふと気づいて、玄関先、小さな靴箱を開けた。
いつものサンダルがない。夕方には珍しいが、出かけているようだ。
コンビニならさっき慧も寄ったばかりだから、会っていそうなものだが姿は見えなかった。
これも珍しく、少し先のスーパーに行ったのかもしれない。
今週は慧が朝夕のご飯当番だったから食材ではなくて、部屋で食べるお気に入りのおやつでも買いに行ったのだろうか。
慧は軽くため息をついて、買って来た二人分の肉と野菜とを冷蔵庫にしまう。
自分はフルタイムで働いて、しかも食事当番も隔週でやっている。
共有部分のお掃除や洗濯はいつも家にいるルミに任せているが、それも彼女は時々忘れていることがある。
忘れるほど、小説を書くことに没頭できるんだ……慧は今度は大きくため息をつく。
元々、ふたりともプロを目指していたのだ。
最初の頃は慧もルイもアルバイトをしてそれで生計をたてていた。
ふたりの城を持った時も、お互いに折半ということで、細かい取り決めをしたのだ。
いつの間にか、ルミはバイトを辞めていた。
店ではよく失敗をして店長や先輩から注意されることが多かった、というのは聞いていた。お客様からのクレームも何度かあったらしい。とうとう、人と会うのがつらすぎる、と部屋にこもってずっと書くだけの暮らしになった。
逆に、慧は仕事ぶりが認められて正社員に昇格した。
つい、暮らしに必要なお金は慧の方が多めに支払うようになっていた。ルミはすまながって貯金を崩す、と言ったのだが「出世払いでいいから」と笑って遮った。
そんなある日、ルミの書いた恋愛小説が新人賞を獲った。賞金は100万円。
「ほんとうに、出世払いができるなんて思わなかったよ、」
ありがとう、と潤んだ眼のルイが頭を下げた時、慧の喉の奥に苦い塊がぐっ、と詰まった気がした。
――私だって、ずっと書いていられればこのくらいは。
賞金が出たものの、その後、ルミに大きな転機があるわけでもなく、彼女はただひたすら、書き続きていた。
新人賞をくれた出版社からも何かと連絡はあったようだが、「はい、はい」と答えてから「でも……すみませんそういうのはちょっと」とルミが小声で答えていたのも何度か聞いていた。
「もったいないよ、せっかくのチャンス」
慧がそう声を強くしても
「……今度は青春ものを、って言われたけど、言われた感じで、書ける気がしなくて」
小さな声でそう答えるだけだった。
他の時には他所から別の企画を持ちかけられたようだが、それも
「そんな感じのハッピーエンド、無理かも」
とやはり小声で繰り返していた。
――だったら、私にそのチャンスを譲ってよ。
いつも喉元まで出かかっている叫びだった。自分だったら、求められたものを求められた枚数で、長編だろうが短編だろうが、何でも書けるし、書く気も満々だ。
才能だって、大学生時代、文芸関連のゼミでルミより教授に褒められることが多かった。
君の文章にはパワーがある、人を惹き付ける何かがある、よく言われたものだ。
一方のルミはよく「君は考えすぎなんだよ」と。ルミもよく分かっているようで、小さな声ではい、と答えるのが常だった。
テーブルの上の小さな箱に人差し指を滑らせ、慧はつばを飲む。
才能があるはずの私は、生活のためにいっしょうけんめい働いている、やりたいことも存分にできず、書く仕事も少しは続けているとは言え、すきま時間にやるようなささいなものばかり。
もちろん、それだけで生計を立てられるわけがない。
なのにルミばっかり、ずっと、信じるものだけを書いている。
ずるい。不公平だ。
手が滑って箱を押してしまい、はずみでふたが跳ね上がった。
思わず後退り、ふたを閉めようと手を伸ばし、中に目がいった。
小さなカードが一枚入っているだけだった。
上の方に、タイプみたいなぎこちない「GIFT FOR YOU」の文字、その下にはQRコードがひとつ、ついていた。
気づいたらスマホを取り出して、慧はそれを読み込んでいた。
思った通り、ルミは好物のドライパイナップルをスーパーに買いに行っていたらしい。
「少しおこづかい入ったから、ケイちゃんのも、はい」
「おこづかい?」
「こないだの、星に関するエトセトラ」
新人賞をとった出版社の雑誌で、コラムを何回か書いたというのは聞いていたが、それもいくばきかの収入になったというのを初めて聞いて、慧はまた、口の中に苦味を感じた。
帰って来たルミは、リビングの小箱については、ああ、と言ったきりで特に説明もせず、中を確認するでもなく、ダストボックスに放り込んでしまった。
「中身は、いいの?」
思わす慧が訊くと
「中身? ああ」
少し遠い目をして、ルミが逆に「中、見た?」無機質な声で訊いてきた。
「ううん、」
不自然にならない速さだったろうか、慧はさりげなく
「何が入ってたんだろう、って」
と付け足して皿を流しに置いた。
ルミが淡々と続けた。
「出版社から……私にお仕事どうかって聞いてきたみたいだけど、こないだその件は電話で断ったから、もう必要ないかな、って」
「そうなんだ。でも試してみても」
振り返るとすでにルミの姿はリビングから消えていた。
夕飯後はいつもならばリビングでダラダラ過ごす慧もさっさと自室に戻った。
先ほどのQRコード、リンク先を保存したものを改めて開いてみる。
後ろめたさはあった、しかし好奇心には勝てない。
黒い画面に、白い文字で「GIFT FOR YOU」とある。文字をタップすると、画面が変わった。
『才能あるあなたに、執筆をお願いします →』
もしかしたらルミにしかリンクが開けられないかもしれない、と思ったのだが、案外あっさりと中が見られるのに拍子抜けする。
黒地に白文字のメッセージに、どこかひやりとする感覚をおぼえ、次のタップをためらった。
しかし、なぜか抗えずに→に触れる。次の画面も黒地に白文字だった。文字数が格段に増えている。
『ホラー短編を5本、期日は2ヶ月でお願いします。文字数は7千~1万文字以内、1作につき前払いで20万円です。その後の印税については詳細をご覧ください。 次の画面→』
慧は気づくと次の画面も食い入るように読んでいた。
――できる、かもしれない。でも2ヶ月はさすがに無理かも?
著作権は? 印税はなんと? 次々と湧く疑問に、文面は簡潔ながら、必要な項目を羅列している。そして、最後にはこうあった。
『ふたつの選択肢からお選びください。
(注)どちらを選択されても原稿料・印税に変わりはなく、著作権もあなたに帰属します。
1.プロットのみこちらで10本提示、その中から5本を短編として完成させて、送る
2.既に書かれた短編5本を読んで『そのまま原稿を送信』を押す(直しは不要です) →』
え? と何度も何度も慧はその選択肢を読み返す。
プロットが用意されている、というのも驚きだが、2はいったいどういうことなのだろうか?
すでに出来上がっている文章を読むだけで、それが自分の著作として世に出せる、ということなのか?
そして直しが不要?
「うそでしょ……」
小声でつぶやき、慧はいったん画面から目を離し、閉ざしたドアの方を見た。
廊下の向こう、似たような部屋の中で、ルミは今この時も、なにかを書いているんだろう。
しかしもしかしたら、このQRコードを先にスマホで読んでいたかも知れない。
引き受けるだろうか?
やるとしたら、どちらで受けるのだろう。
しかし以前から
「あたし……暗い話しか書けないけど、ホラーだけはぜっっっっっったい、無理! 読むのも無理無理無理」
眉を寄せて、いつになく力を込めてそう言っていたルミが、最初の画面をみた瞬間にすでにやる気を失っていたに違いない。それに、電話も受けて、「その件は」断ったと言っていた。
彼女がホラーなんて、書くわけがない。
「受ける/断る」の選択肢が最後に、画面の真ん中にあった。
慧は「受ける」をタップする。そして、次の選択肢では少しだけ指を浮かせて逡巡したが、「2」を選んだ。
これならば、電車内でも作業ができる。5本ならば、読むだけならば、一週間以内になんとかなるだろう……「直しは不要」とあったが、気になる表現を少しいじるくらいならOKだろうし、楽勝だ。
いいよ今週も夕飯作るから、今、仕事あんがいヒマなんだ、と慧はルミの買って来た食材をさっと受け取った。
「……いいの?」
「だってルミ、今度のオリオン文学賞、出すんでしょ?」
以前から目標のひとつだった大きな文学賞に、少し前から取り組んでいるのだ、とある晩ルミは慧に打ち明けたことがあった。
「全然自信ないけど、」
言い澱むルミに、慧は目を見開いて
「いいじゃん!」
と大声を出す。
「ルミ、こつこつ書けるし、内面をじっくり見つめるタイプだから絶対いけるとおもう!」
「でも何かと迷惑かけちゃうし」
ルミは口を引き結ぶ。
「それでなくても、ケイの書く時間をどんどん奪ってる気がする」
「だいじょうぶだいじょうぶ」
慧は鼻歌まじりにフライパンにひき肉を投げ込んで、ぐるぐると炒めながら答えた。
「この頃、ちょっとした時間でひとつ、書くお仕事できたんだ、そこそこ頂いたし」
彗が『仕事』を納品したのは、仕事を引き受ける返事をした三週間後だった。
直しひとつ、必要のない流麗な文章だったから、もっと早くできたかも知れない。
しかし、三週間時間をかけたのには意味があった。納品したものを何度もなんども暗記するほど読み返したからだ。
自分の作品だったら、すらすらと文章が出てくるはずだ。
はじめのうちかすかに抱えていた良心の呵責は、実際に原稿料が振り込まれたとたん、あとかたもなく吹っ飛んだ。
読むだけで原稿を送る、それだけで翌週にはもう、原稿料が手に入った。5本でちょうど、100万円。ルミの新人賞と同額だ。
話の内容については、正直、そこそこのホラーという程度だった。
それでも、「自分の作品」がついに、世に出ようとしているのだ。
「すごいね、ケイ」
ルミは心底感心しているようだ。
「お勤めもいそがしいのに、ちゃんと書き続けていて」
ちくりと小さな針が刺したような痛みが、慧をおそう。
正確には「書いた」のではない、「読んだ」だけだ。
こんな言葉でちくりとするようならば、プロットをもらって自分で少しは苦しんで書いた方が良心の呵責は少なかったかもしれない。しかし……
『涼森継先生、この度はホラー短編のご寄稿、まことにありがとうございました』
そんな文言の入ったメールと、実際に振り込まれた額面を見たとたん、どうでも良くなった。
さ来月には、とある出版社から出版されると聞いている。
本名の文字を少しいじっただけだから、知り合いにもばれる可能性はあるし、第一、ルミに何と言って話したらいいのか……不安はあった。
まさか、あなたの荷物をこっそりと見て、などとは言えない。
読んだだけのシロモノを自作として出版するなんて、それももちろん言えるわけはない。
それでも、何とかなるだろう。慧の鼻歌は止まらない。
本が出せるのだ、いったん本が出たら、今までの仕事先をやめよう、上司にちゃんと説明して。そして、今度こそほんとうに書くのだ。
自分ならできる、どんなものでも、こなせる自信がある。
なぜなら私には才能があるから。
本が出る日が近づいたというのに、慧の所に何の連絡も来なかった。気になって色々なメディアを漁るが、『涼森継』『ホラー短編集』の文字はまるで検索に引っかかってこない。
ペンネームだけでなく、本名の「鈴盛慧」も検索してみるが、結果はゼロだった。
そしてついに発売日となったが、短編集は出なかった。
最初から、なかったかのように。
「ケイ、今日はだいじょうぶなの?」
物憂げな目線になったのだろう、ルミがベッドの枕元に屈みこむ。
「おかゆにしたから、食べられる?」
のろのろとうなずいて、慧は半身を起こした。
あの日から、慧はずっと寝ついていた。
外に一歩も出られないまま、会社にも退職願いをメールした。
それから数ヶ月経ったが、慧はほとんど部屋から出なかった。
今日もルミが、玉子がゆを口まで運んでくれる。
数口めに、慧は口を開けるのをやめた。
「ケイ? もういらないの? だめだよもう少し食べないと」
慧はゆっくりとルミを見上げ、口を開ける。
そこにスプーンを寄せるルミの手をしかし、慧の右手がすばやく払った。
オリオン文学賞の締切は先月末だった。ルミは「渾身の一作」を書き終えて、応募していた。
それからその原稿を、慧に見せた。
ルミの得意とする、旅する人々の話。道に迷い、それでもなお、旅を続ける人びとの。
「アンタは、いいじゃん」
ひび割れた声がようやく慧の口から洩れた。
「ずっと書けない、って言いながら、それでもずっと書き続けられて」
「そうかな」
「あれは、受賞、すると、おもう」
ひとことひとことを絞り出す。
確かに、胸に迫った。迫り過ぎた。道に迷う人の姿が、まるまる自身を投影しているようだった。
だから余計、惨めだった。
「分からないよ、でも書ききった気はする」
ルミは小さな声で言った。だが、
「ねえケイ、」
急にルミが身を乗り出す。
「これからは、ケイにもばんばん書いてほしい」
「かいしゃ、やめたから?」
「それもあるけど……アタシ、ケイに書いてほしいものがあるんだ」
ぼんやりと、慧はルミの顔を見上げる。
「ジャンルは分からないけど、あらすじはあるんだ……こんな始まり方」
ルミが語り出す。
――主人公とその友人はルームシェアをしている。ある日、主人公が留守中に、彼女が受け取るはずだった贈物の小包をその友人が開いてしまう。その中には、魅惑的な誘いがあった。労せずして富と名声とを受け取ることのできる、そんな誘いが。
徐々に目を見開く慧に向けて、ルミは感情のない声で続けた。
「ずっと、ずっとうらやましかった、何でもそつなくこなして、書く才能だけじゃない、世の中を渡る才能にも長けて、いつも周りが味方してくれて、軽々と何でもできる、そんなルームメイトと、書くことしかないのに、書けるものがほとんどなくて、いつも押しつぶされそうになっている自分。肩を並べていたはずなのに、いつの間にか養ってもらっている自分。惨めさしかなかった」
慧は黙って彼女の口元を見つめていた。
「そんな自分に、ずっと囚われていたんだよ。アンタには『書くこと』しかない、って何かにつけて突きつけられる気がするのに、それが書けない。でも書かなければ存在すらできない……書けないことが書けるようになる、それってどういうことなのか自問自答ばかり……でもある日、気がついた。囚われていたのは、自分だけではないのかも、って」
「それって」
わずかに、慧の口調が強くなる。
うん、とルミはうなずく。
「それで、どうしても確かめたくなったんだ」
「わざと、置いたってこと? あんたに来た、贈り物だったのに?」
「あれはね、ケイ、最初からあんたへの贈り物だったんだよ」
少し遠くをみて、ルミは静かに付け足した。
「それとも……復讐だった、のかな」
言葉が沁みていく速度で、慧はゆっくりと身体を起こした。
「酷いな……」
ルミの目がうるんでいる。
「ほんと、酷い仕打ちだよね。でも謝らないから」
慧の目から大粒の涙が落ちる。しかし口元は笑っていた。
「じゃあ……決まり。それ、ホラーにする」
「あたしが読めないじゃん!!」
「復讐への復讐だからね!!」
久しぶりに、ふたりの笑い声が部屋いっぱいに満ちた。
了