暴石物語
プロローグ
石には人を魅了する力がある。
その中で特に輝きに優れたものは『宝石』と呼ばれ、権力者の力の誇示に使われる。
稀にだが、古の神や魔物等が宿り、意志を持つ石もある。そういった石は『暴石』と呼ばれ、使いこなせれば手にした者に絶大な力をもたらす。だが、暴石を扱い切れず、その力に負ければ、人は人ならざる異形の徒と化すという。
過去。魔物の宿る暴石の力を使って魔物を倒し、国を救った伝説の勇者がいたという。
名をライリー。
これは、ライリーの伝説が残る大陸に住む者達の物語である。
Ⅰ
ネルが物心ついた時からずっと、父は険しい顔をしている。
周りにいる人々に「富国強兵」と繰り返し唱え、忙しそうだ。ネルの方には見向きもしない。ネルはそんな父に振り向いて欲しかった。出来る事なら、笑いかけて欲しかった。
今思い出しても苦しくなる。あれはそう…、ネルが三歳の時だ。夜中に目覚めたネルの耳に不意に突き刺さった父の言葉。
「この子が………だったら良かった…」
突然の言葉にひどく傷ついて、ぎゅっと目を閉じた。目覚めた事を悟られまい、と息を殺して身を固くしているうちに再び眠りについた。その日から、幼心に色々考えた。
『お勉強を頑張って、文字を読めるようになったら、褒めてくれるかな?』
けれど、ネルが文字を覚え、かなり難しい本を読めるようになった事を得意げに報告した日も、父はネルを振り返りもしなかった。
ネルは悲しかった。心がきゅっとなって、泣きたくなった。でも、その場では泣きたくなかったから、ぎゅっと口を一文字にして一礼して父の部屋を出た。それから、ぐちゃぐちゃな心のまま衝動的に屋敷を飛び出した。無我夢中に走って、いつの間にか知らない教会に辿り着いた。かなり古い。というかボロかった。ネルはそっと扉を開けて中を覗いた。
天井から差し込む柔らかな光の下、埃がキラキラと舞う中で、ネルと同じ歳位の黒髪の少年が本をさかさまにして眺めているのが見えた。むしゃくしゃしていたネルは、意地悪な気持ちで話しかけた。
「それ、さかさまだよ。」
「えっ!」
突然の来訪者に驚いたのか、その子は本を落とした。
ネルは表紙を一瞥してから言った。
「『勇者ライリー』の本だね。」
「そう!ライリー!カッコいいよなぁ~。」
少年は落とした本をキラキラした目で拾い上げて、大事そうに表紙を撫でた。そのキラキラがネルの癪に障った。自分が父に求めても手に入らないものだったからだ。
「お前さっき、さかさまに持ってたし、どうせ読めやしないんだろ?」
「え…うん…。え?もしかして…君は文字が読めたりするの?」
子犬のような目がまっすぐにネルを見た。ネルは思わず、目を逸らせた。
「ま、まぁな…。」
「えっ!すご~いっー!」
それは尊敬の眼差しだった。心の底から言ってそうだったから、ネルはつい絆された。
「どうしても…って言うなら、読んでやらない事もない。」
「ほ、ほんとっ!?お願いしますっ!ボク、どうしてもこの本を読んでもらいたいんです!」
そう言うと、少年は必死な表情で本を両手で差し出し、深く頭を下げた。気分がちょっと良くなったネルは、少年の手から本を奪い取った。
「よし!読んでやる。」
「ほんと?ヤッター!!」
少年は大きく両手を広げてジャンプして喜びを爆発させた後、しつけの行き届いた猟犬みたいにネルの隣にすっと腰を下ろした。膝を両腕で抱えて、期待に満ちた眼差しでネルをじっと見てくる。なんだかむず痒さを感じたネルは「…こっちを見ろ!」と本の表紙を叩いてから、頁をめくり、物語を読み始めた。
「昔むかし、ある所にライリーという若者がおりました――」
ネルが読み終えると、少年は満面の笑みで拍手をした。
「すっごい、すごい!こんなに厚い本をつっかえずもせずに読めるなんて!君は天才だね!読んでくれてありがとう!」
「ま、まぁな…。」
褒められたネルはかなり気分が良くなった。ここに来る前のぐちゃぐちゃした気持ちが消えた。
「まぁ…。気が向いたら、また読んでやるよ。」
「ほんと?」
少年は目を輝かせてネルの目を見た。その真っ直ぐさにネルは負けそうになる。
「あ、あぁ…。ま!気が向いたら、だけどな!」
そう言うとネルは立ち上がった。もう大分日が暮れてきている。
(暗くなる前に帰らなくては…。)
そう思って、教会の扉を開けて、見知らぬ風景に戸惑った。
(ここは何処だ?)
無我夢中で走って来たから、帰り道が分からない…。
「どうしたの?」
扉を開けて固まったネルを不思議に思ったのか、背後からひょっこり顔を出した少年がネルの顔を覗き込む。
「もしかして…帰り道が分からないの?」
さっきまでいい気になって『本を読む』という施しをしてやった者に「分からない」と告げるのは癪だったので、ネルは小さく頷いた。
「ん~と…。何か目印あるなら教えて。」
そう言われたので、「大きな噴水」と答えると少年は「あっ!あそこか!なら、分かる!こっちだよ!」といきなりネルの手を掴んで走り出した。あまりに突然の出来事に、「汚い手で触るな!」と言いそびれたネルだった。
少年の足は速かった。ネルの手をひいて、どんどん駆けていく。
(勉強も運動も欠かしてない僕じゃなかったら、絶対に転んでるスピードだ。)
ハァハァ…と荒い息を吐いてたら、少年が立ち止まり、指差しだ。
「ほら、あそこ!」
指差す先に見慣れた大きな噴水があった。
「あ…」
ありがとう、とネルが言いかけるより先に少年が言った。
「ヤバッ!なんか今日はエーヘーがいっぱいいる!」
そう言うと、さっとしゃがんでネルを見上げて言った。
「今日はありがとう。すっごく楽しかった!気を付けて帰ってね!じゃ!」
そう言うと、ここまで来た時よりもはるかに速いスピードで走り去った。呆気にとられていたネルに近付いてきた衛兵の一人が声を掛ける。
「あぁ良かった!こんな所におられたのですか。探しましたぞ。さぁ、早くお戻りください。」
屋敷に戻ったネルが目にしたのは、父の満面の笑顔だった。
だが、それはネルに向けられたものではなく、父の腕に抱かれた小さな赤ん坊に向けてのものだった。
ネルは悔しかった。自分がどんなに勉強も運動も頑張っても得られない物を、ただ産まれて息をしているだけの弟がいとも簡単に手にした事が。ネルはひたすらむしゃくしゃした。
だから、その日から剣や弓の鍛錬を始めた。自分の体より大きな剣を勢いにまかせてがむしゃらに振っていたら、見かねたのか、父が部下の一人を指南役として付けてくれた。
母は困ったような顔をして「貴方はそんな事しなくてもいいのよ…」とネルに言い、父は苦虫を噛み潰したような顔をしてネルから目を逸らせた。父がただ一言ネルにかけた言葉は「何をしてもいいが…せめて髪だけは伸ばしておいてくれ」だった。
(ムカツク!僕個人の価値は髪の毛以下か!?)
そんなイライラを晴らすべく、ネルはひたすらに剣を振るったのであった。
日々そんな鍛錬をしていたおかげで、初等学校に入る頃にはもう、ネルは同年代の誰にも負けない腕前になっていた。父の言葉に従って伸ばした輝く銀髪を高い位置で一つに結い上げ揺らして歩けば、誰もがネルに道を譲る。と言うより、「ドラゴンテイルが来た!」と勝手に避けていく。それがネルには面白くない。
面白くないと言えば、学校もだ。全部既に家庭教師から学んだ事の繰り返しで退屈だ。先生は「学校は勉強だけでなく、人との付き合い方を学ぶ場所です」と説くが、ネルが話しかけても皆揃って委縮するだけだ。
(つまんない。)
つまらない、と言えばもう一つ。ネルは学校に行けば、あの日教会で会った少年に再会出来ると思っていた。だが、いなかった。
(同年代だと思っていたが、違ったのだろうか?)
Ⅱ
少年の事が気になったネルは、あの時の教会に行ってみようと思いつく。今回はしっかりと地図を持って出掛けた。ボロい教会はすぐに見つかった。
そっと扉を開けるも、あの時と同じように埃が陽の光に照らされて光っているだけで、誰もいない。ネルはなんだかがっかりして、俯いた。
その時だった。
「あれ?君、もしかして、前に本を読んでくれた子?」
背後の声に振り向くと、黒髪の少年がこっちに向かって歩いてくるところだった。気弱な所は見せられない。ネルはピシリと背筋を伸ばす。
「久しぶり!元気にしてた?」
少年は無邪気に駆け寄って来た。
「あぁ、元気だ。久しいな。今日はお前に聞きたい事があって来た。」
「聞きたいこと?」
「あぁ。何故、お前は学校に来ない?」
「ガッコ―?」
おうむ返しに言ってから、少年はアハッと笑って言った。
「行かないよ。てか、行けないよ。だって、あそこはオキゾクサマが行く所でしょ?」
「!」
そうなのか?という言葉は飲み込んだ。自分の無知を晒したくなかったからだ。
「そうか…」とだけ返した。
「そんな事より…」と、少年は期待に満ちた眼差しでネルを見た。
「ここに来たって事は…、もしかして、また本を読んでくれるの?」
「…あ、あぁ。お前が「どうしても」って言うのなら…。読んでやらない事もなくもない。」
「ほんと!?わぁ、嬉しい!ボク、君にどうしてもライリーの本を読んで欲しいんだ。よろしくお願いします!」
そう言って、いそいそとあの時の本を持ってきたから受け取った。
(同年代なのにコイツが文字を読めないのは、学校に行ってないからなのか…。教えてくれる者はいないのだろうか?)
そんな事を思いながら、ネルは勇者ライリーの本を読みあげた。
ネルが最後まで読み終えると、少年はニコニコして言った。
「読んでくれてありがとう。ボク、やっぱり、皆の為に戦ったライリーが好きだなぁ…。あと、本を読んでくれた君も好きだよ。」
「は!?」
カッと体が熱くなって、ネルは反射的に少年の頭をはたいた。
「な…にっを馬鹿な事を言ってるんだ!」
「…いてて。」
はたかれた所をおさえて、少年は苦笑しながらネルを見た。子犬みたいに邪気の無い目だ。ネルはなんだかいたたまれない気持ちになって立ち上がった。
「帰る。…あばよ!」
それだけ言うと一目散に駆けて帰った。
夜。ネルは自屋に戻ってから、『なんであんなに動揺したんだろう?』と学校の課題をしながら考えた。算数の式を解いていたら、唐突に分かった。
(学校では誰もが遠巻きにする僕をアイツはまっすぐに見るからだ。)
「そうか…。」
大きな天蓋付のベッドにごろんと転がり、ネルは大きく手足を伸ばす。
(父は自分に興味が無いみたいだし、母は幼い弟にかかりきりだ。使用人達もいるけれど、彼らは自分の扱いに手を焼いている様に見える。まぁ…、そのおかげで、屋敷を抜け出しやすい訳だが…。)
ネルにとって、初めて「自分」に対等に接してくれたのが少年だった、という訳だ。
*****
昨晩色々考えたネルは、学校終わりにまた教会に行った。
「おい!いるか?」
扉を勢いよく開けて、声を掛ける。返事は無い。
「…チッ。」
(折角来てやったのにいないのか…。)
ちょっと辺りを探してやるか、とネルが踵を返した時だった。
「あーっ!」と弾んだ声がした。少年が向こうから駆けて来る。その顔も身体も真っ黒だった。
「汚っ!!」
咄嗟にそう言ってしまって、ネルは慌てて口をおさえる。少年は気分を害したようでもなく、笑ってネルに言った。
「だよね~、ごめんね。さっきまで煙突掃除をしに行っててさ。で、今日はどうしたの?」
「ど…どうしたも何も…」
小声で聞き取れなかったのか、少年はネルに近付いて「ん?」と聞き返してから、バッとネルから離れた。
「ごめんっ!こんな汚い格好で近付いて。君の服を汚しちゃ悪いよね!」
そう言うと、バッと身を翻して走って奥に消えた。
「あ…っ!待て!!」
ネルは慌てて追いかける。教会の角を曲がったネルが目にしたのは、素っ裸になって、井戸の水を頭からかぶってる少年だった。
「うわーっ!!」
ネルはびっくりして、慌てて建物の陰に隠れた。ドキドキした。しゃがみ込んでいたら、しばらくしてから少年が顔を出した。濡れた髪からポタポタと水滴を垂らしながら、こっちを覗き込んで来る。
「ごめんごめん。で、今日はどうしたの?オキゾクサマ。」
その物言いにカチンときた。
「訂正しろ!僕は「オキゾクサマ」なんていう名前じゃない!」
「ご…ごめんなさい。でも、ボク…君の名前を知らないし…。」
そう言われて初めて、ネルはまだ名乗ってなかった事に気付いた。自分の落ち度だと思ったネルだが、口を開いて出たのは全く違う言葉だった。
「馬鹿め!人に名を尋ねる時は、先ずは自分から名乗るのが礼儀というものだ!」
(…もっと柔らかな物言いがあるだろうに…。こんな性格だから、皆、自分を避けるんだ。きっと今、コイツも僕の事を『嫌な奴』って思ったに違いない…。)
内心で焦るネルをよそに、少年は真顔で言った。
「そうだよね!ごめんなさい!」
素直に謝ってきたから、ネルは拍子抜けした。
「ボク、リュート。君は?」
「あ…。へ…、ね…、ネルだ!」
「ネルか~。いっぱい寝られそうでいい名前だね。」
「なんだと!」
またしても、反射的に頭をはたいたネルを責める訳でもなく、リュートは謝った。
「気に障った?ごめんね…。でも、いい名前だと思ったから…」
叱られて耳を垂れる犬みたいだった。
「フン!まぁいい…。許してやる。なんたって僕は心が広いからな。今日はお前にこれをくれてやろうと思って持って来たんだ。」
そう言うと、ネルは鞄から石墨と石版を出した。
「何これ?」
「僕が幼い頃に使っていた物だ。これで、お前に文字を教えてやる!」
「へ?」
びっくりしたまん丸の目がネルを見た。その眼に映る得意げな自分に気付いてネルはハッとした。
「あ…っ!べ、別にっ!お前が「どうしても!」って言うなら、教えてやらなくもなくもないって話で…」
しどろもどろに言うネルにリュートは言った。
「いいの?」
「ま、まぁな…。お前、学校に行けないみたいだし。じ…自分で文字が読めたら、僕がわざわざ来て本を読んでやる必要もないからな!」
ノブレスオブリージュってやつだ。持てる者こそ与えなくては。これは施しの一種だ。リュートは手渡されたそれをじっと見てからこっちを見た。
「ありがとー!!君って本当にいい人だね!ソンケ―!」
そう言われて、ネルはいい気分になった。
「まぁな…。僕もこれにたくさん書いて覚えたんだ。では、始めるぞ。いいか、これは布で擦れば何度も書けるからな。繰り返し練習するといい。まずは…」
一度に沢山教えても無理だろうと思って、先ずは三文字だけ書き方と読み方を教えた。
「いいか。明日、テストするからな。」
「テストって何?」
「ちゃんと理解したか確認する作業だ。分かったか?」
「うん。…てか、明日も来てくれるんだ?」
そう言われてドキッとした。
「い…嫌なのか?」
「ん~ん!逆!めっちゃ嬉しい!ネルが来るなら、明日の仕事も頑張るね!」
「仕事…。」
「そー。ほら、ボク、ここの教会でお世話になってるミナシゴってやつだから、いつか出てく日の為に出来る事をしてお金を稼がないといけないの。今日と同じく明日も煙突掃除の仕事があるから、頑張るね!」
「た、大変なんだな…。」
「うん。でも、煙突掃除は好きだよ。綺麗にしてから、煙突のてっぺんから見る町が好きなんだ。煙突は高いから、向こうのお城も良く見える。お城の前の公園にある大きな噴水がお日様の光を受けてキラキラしてるのを見るのが好きなんだ。知ってる?すっごくキレイなんだよ。」
「へ、へえl。」
「だから、ネルが帰り道が分からなかった時に目印に「大きな噴水」って言われてすぐにピンときた。ネルはあの近くに住んでるの?」
「そんな個人情報をお前に教える義理はない。」
「あ…、うん。ごめんなさい…。」
『またやってしまった…!』と反省するも遅い。リュートはしゅんと項垂れた。
「あ…」
何か声を掛けないと…と手を伸ばそうとした時、リュートはパッと顔を上げた。
「じゃあ!ボクが勝手にあの噴水の近くにネルが住んでるって思っとく。仕事で疲れた時は、噴水見て『後でネルに会える』って思って頑張るね!」
そう言って、ニコッと笑った。
「お…おぅ…。」
(コイツ、めげないんだな。)
拍子抜け半分となんかよく分からないけど嬉しい気持ちが半分で、その日のネルは足取り軽く帰った。
夕食時、母に言われた。
「今日、なにか良いことがありまして?」
「何故ですか?」
「だって…、今日の貴方はとても嬉しそうなお顔をしているから。」
うふふと微笑まれた、自分はそんな腑抜けた顔をしていたのかとネルはビックリした。
夜、自室から月明かりを浴びて輝く噴水を見てみた。綺麗だった。
(これがリュートの好きな景色なんだ…。)
*****
翌日から、ネルは退屈だった学校に行くのが少し楽しくなった。リュートに教える際、先生の教え方を参考にしようと思ったからだ。自分が教える側と仮定して授業を聞くと、これまでなかった気付きを得られた。
(成程。意識の持ち方一つで授業の価値は違ってくるものなのだな。)
収穫だった。
それからは学校帰りに、リュートに文字を教える毎日だった。リュートは勤勉だが、物覚えが少し悪かった。ネルは「こんな簡単なモノすぐに覚えろ!」と言いたくなる事もしばしばだったが、グッと堪えた。我慢できたのは、リュートが常に「いつもごめんね。ありがとう」とお礼を欠かさなかった事と「ネルはすごいね」と褒めてくれた事が大きい。そう、ネルの自己肯定感を満たすのに、リュートは丁度良い存在だったのだ。
「まぁ、あまり思い詰めず、気楽にやればいいさ。テイクイットイージーだ。」
「いーじー?」
「そ、イージー。」
「うん!イージー!」
「イージー」と言う時の口の動きが面白いのか、リュートが繰り返すのを見て、ネルは笑った。
Ⅲ
いくら物覚えが悪いリュートでも、半年も教えていればある程度は身につく。リュートは簡単な本なら読めるようになった。だから、次は算数を教えてやった。自身の教科書を貸して説明した後に、少し数字を代えて同じような問題を出す。
リュートが解くのを待ってる間、ネルは学校の課題で出た裁縫をやっていた。こんなもの、お針子さんに頼めばすぐにやってもらえる。皆、学校で少しやりはしても、家に帰ったら頼んでやってもらっているのだろうな…と思いつつ、ネルは一針一針丁寧に縫っていく。縫い目が均等なのは見ていて気持ちがいい。穏やかな時間だった。
綺麗に縫う事にこだわり過ぎて、二週間程かかってしまったが、簡素な肩掛け鞄が完成した。黒地に映える青い糸の均等な縫い目が美しくて目をひく。意気揚々と提出したら、授業が終わってすぐに先生に呼ばれた。
「あのね…。貴方にこんな事を言うのもどうかと思ったのだけれど…。これは様々な職業につく人を理解する為に、体験する授業なの。だからね…お針子さんに頼むにしても、もっと下手に縫ってもらった方が良かったと思うのよ。だって、これ…初めてにしては上手に出来過ぎているんですもの…。見る人が見ればすぐに分かりますよ…」
ネルはカッとした。
「全部自分でやりましたっ!」
そう言うと先生の手から鞄をひったくって、午後の授業そっちのけで学校を飛び出した。
自分の努力を認めてもらえなかった上に疑われたのが、この上なくくやしくて悲しくて泣きたかった。でも、学校の皆がいる前では絶対に泣きたくなかった。息を切らして、全速力で教会まで走った。走るのをやめた時、ずっと我慢してた涙が、ネルの目からポロリと零れた。
(イヤだ…!泣き顔なんて誰にも見られたくない!)
咄嗟に向きを変えようとして、勢いよく何かにぶつかった。
「「うわっ!」」
バシャン!とかかる大量の水。そして転がる木桶とリュート。
水溜まりに蹲ったリュートは顔を見上げて、ネルと目が合った瞬間、真っ青になった。
「ご、ごごごご…ごめん、ネルッ!びしょ濡れだね…。か…風邪ひいちゃう…!ちょ…ちょっと待ってて!」
慌てて起き上がったリュートは教会の中に駆けこんだ。ネルは怒るよりもほっとした。水をかぶった事により、泣いていたのが分からなくなったからだ。
すぐにリュートが「こっちこっち!早くっ!」と年老いた神父を連れて戻って来た。
「おやおや…これは派手にやったねぇ…」と言ってから、ネルを見た神父がハッとした。
(どうやら、向こうはこっちを知っているようだな。)
そう思ったネルが「気にするな」と目配せしたら通じたようで、「リュートのお友達かい?」と聞いてきた。
「はい。ネルと申します」と一礼した。
「そうですか…。うちのリュートがとんだ失礼を…。ただいま、お風呂と替えの服のご用意を致しますので。」
「いや、服さえ乾けばいい。申し訳ないが、暖炉に火をつけてもらえるか?」
「あぁ、はい。リュート。」
「うんっ!」
すごい勢いでリュートは薪を取りに行き、あっと言う間に暖炉に火をつけた。
「季節外れだが、二人、そこで服が渇くまでいるといい。今、ホットミルクも持ってきてあげよう。」
そう言うと神父は出て行った。狭い教会の暖炉の前で二人きりになった時、リュートが頭を床に擦りつけて謝ってきた。
「ほんっとぉ~っにごめんなさいっ!こんな時間にネルがいるなんて思ってもなくて!」
(まぁ、そうだろうな…。本来ならば昼食を経て、午後の授業があってから放課だしな…。)
「いいよ。気にしてない。」
「ほんとに?」
床から顔だけ上げてリュートが聞く。
「あぁ。」
「ほんとのほんとに?」
「しつこいっ!いいって言ってるだろ!」
ネルがイラっとして頭をはたいたら、ようやくリュートが体を起こした。ほっとした顔をしていた。
「良かった…。いつものネルだ。」
「お前…っ!僕を何だと思ってるんだ!」
拳を振り上げた時、神父がホットミルクを持ってきた。ネルは慌てて拳を下ろす。
「どうかしましたか?」
「いえ…っ!なんでもありません。それよりもこれ、ありがとうございます。」
そそくさとカップを受け取り、ホットミルクを飲む。いつも飲んでいるものよりも、すっきりしていた。
「さっぱりしてて美味しい…」
ネルがそう言ったら、リュートが自分のカップを差し出した。
「ヤギの乳だよ。気に入ったのなら、これもあげる。はい、どうぞ。」
「いいっ!それはお前が飲め!お前も水を浴びたんだから、冷えてるだろ!」
「でも…。ボク、ネルにあげるお詫びの品なんて何も持ってないから…」
「……。じゃ、少しだけもらっとく。ほら!これでもう貸し借りなしだ。」
リュートのカップから少しだけもらって、ぐいっとカップを押し返す。リュートは両手でカップを受け取ると小さく「いただきます」と言ってから、大事そうに一口飲んだ。
「ネルと一緒だからか、今日のミルクはすっごく美味しいね。」
そう言って、こっちを見てにっこり笑った。
「馬鹿か?人と一緒に飲食するだけで、ものの味が変わるワケないだろ!」
まただ…。リュートの目でじっと見られると何だか落ち着かなくて、ついつい嫌な態度をとってしまう。リュートは鈍感なのか本当に馬鹿なのか、ネルに何を言われても凹まない。今も「そうかな?」と言ってから、ホットミルクを啜ってる。そんなリュートを見ていたら、ささくれだったネルの心が少し落ち着いてきた。腹を立てていた事が、どうでも良くなった。
(理解してもらえなかったのなら仕方ない。自分は恥じるような事は何一つしていないのだから、胸をはっていればいいんだ。)
「はぁ~っ、僕が出来過ぎてしまうばっかりにな…。」
そう溜め息をついたら「何が?」と聞かれたので、ネルは事情を話した。
「その先生ひどいよっ!そうだっ!ボクが「ネルは毎日少しずつ丁寧に縫ってました!」って言うよっ!」
リュートは自分の事のように怒ってくれた。それだけでもう、充分救われた。
「もういいよ。何したって、大人は自身の発言をそう簡単には訂正しないだろうしね。」
チラと鞄を見る。提出するまではあんなに素敵に見えたのに、ケチがついた今ではとてもつまらないものに見えた。掴んで目の前の暖炉に投げ込もうとしたら、リュートが慌てて止めてきた。
「何するのっ!?」
「もういらないから。燃やそうと思って。」
「燃…!燃やす位ならボクにちょーだい!」
「なんで?」
「だって、ボク…。ネルが大事に作ってるとこ見てたもん!一目一目丁寧にやってたの知ってるっ!それって…いわばネルの努力の結晶じゃん!それを…使いもしないで燃やすだなんて勿体ないし、悲しいよ!だから…燃やす位なら、ボクにちょーだい!」
「どうしても?」
試すように言ってみる。
「うんっ!どうしてもっ!」
「そっか…。そこまで言うならあげるよ。」
振り上げた腕を下ろして、鞄をリュートに手渡した。
「やったー!ありがとうっ!」
ジャンプして受け取ると、リュートは早速鞄を斜め掛けした。
「い~感じ♪」
嬉しそうに言って、狭い教会内をグルグル走り出した。足の速いリュートの動きに合わせて、鞄のかぶせがバタバタするのが気になった。あれでは、走った時に中身が外に落ちかねない。
「リュート。やっぱり返して。」
そう告げた時のリュートの顔は見物だった。ぺしゃんこにされた犬のようだった。
「あぁ、誤解しなくていい。今のお前を見ていたら、そこのかぶせをとめるボタンを付けた方がいいと思ってね。」
「な…なんだぁ…。そういう事かぁ…。びっくりしたぁ…」
そう言って、名残り惜しそうに返してきたから、希望をきいてやろうと思った。
「ここに、どんなボタンを付けてほしい?色や石の希望があったら言うといい。」
「石?石でもいけるの?」
「あぁ。まぁ、大きさにもよるけど、革紐で巻いてしまえばボタン代わりになるしな。」
それを聞いたリュートは、「じゃぁ、これでも出来る?」とズボンのポケットから手のひらにすっぽり収まりそうな大きさの石を出して来た。黒に近い深い緑。真ん中に稲妻のようなヒビが浮き出ている。
「孔雀石の一種か…?」
ネルはそう言いながら手に取った。
「カッコいいでしょ、それ。」
「ん?」
「河原で拾ったんだけど、そのヒビがね、ライリーの右肩にあったっていう痣みたいで気に入ってるんだ~。」
「あぁ…。」
物語の中にそんな描写があった。「選ばれし者」の証でもある痣だ。それに似ているから気に入ってるだなんて、コイツ存外子供っぽいなと思って可笑しくなった。
「いいよ。石に合わせた革紐でつけてやるから、これ預かってくな!」
「うん!」
「出来上がるのが楽しみだなぁ~」と繰り返しながら、リュートはネルを噴水が見える所まで送った。手を振って別れた。
帰ったネルを待っていたのは、家庭科の先生だった。学校を飛び出したネルを心配して屋敷を訪ねるも、帰ってないと聞いて青くなり、その原因を尋ねた屋敷の者から、誰も課題を手伝ってない事を知らされて、更に青くなっていた。
「本当に本当にごめんなさい…」
こんな子供に向かって、何度も何度も頭を下げてくるのはなんだか滑稽で馬鹿らしかったから「もう気にしておりませんので、お気になさらず」とネルは言った。「でも…」と言うので、「なら、今からこれにボタン代わりにこの石をつけようと思っているので見てて下さい」と言って、革紐を用意させた。石に革紐を十字にしっかりと巻いて鞄本体に縫い付け、ループもつけた。折角だから、とリュートのイニシャルも縫い目で表した。
「ええ、えぇ…。確かに全部ご自分でなさっておられたのに、私ったら…。本当に申し訳ございませんでした。」
先生は深々と頭を下げて帰って行った。
*****
翌日以降、その先生を学校で見る事は無かったし、学校に通う他の生徒達は前にもましてネルを遠巻きにするようになった。
(僕のせいじゃないけど、まぁ仕方ない。)
悩んだってどうにもならない。ネルは放課後になるとさっさと学校を出て、リュートのいる教会に向かった。
鞄を受け取ったリュートは、それはもう大変な喜びようだった。
「すごい!すごい!かっこいい!ネルの鞄は世界一!この一針一針がネルの努力の結晶だもんね!うわ~!めちゃくちゃ御利益ありそう~。しかもボクのイニシャル入りなんて、すごいにもほどがあるよ!ネル~、ホントにホントにありがとう!」と聞いてるこっちが恥ずかしくなるような褒め言葉のオンパレードで、嬉しいけれどむず痒いネルはつい、いつものようにリュートの頭をはたいてしまった。
「もういい。あまり言われると世辞に聞こえる。」
「え~っ!そんな事ないよ!ネルはすごいよ!」
「だからっ!もういいって、言ってるだろ!」
もう一回頭をはたくも、リュートはえへへと笑って嬉しそうだ。
「大事にするね!」
それから、ネルとリュートはその鞄と一緒にあちこち探検をした。ある時は、河原で宝石探し。綺麗な石を見付けては、鞄に入れて帰って選別した。残念ながら、宝石も暴石も見つからなかったけれど。リュートは特に気に入った石だけを手元に残して、後は河原に返しに行っていた。曰く「石が『帰りたい』って泣いてるから」と。そんな事あるのだろうか?
あと栗なんかの収穫物を入れるのにも役立った。リュートが「ホントは内緒にしたいけど、早く食べちゃわないと駄目になっちゃうから…」とキイチゴの茂みにネルを連れて行った時は、二人でお腹いっぱい食べた。
「まだこんなにあるのに、たくさん持って帰ると潰れちゃってダメなんだよなぁ…」とリュートがしょんぼりするのを見て、ネルは言った。
「僕にいい考えがある。」
鞄に大量につめたそれを持ちかえったネルが、翌日、ジャムクッキーにしたそれを渡したら、リュートはめちゃくちゃ喜んだ。大事そうにゆっくり食べて、三枚食べたところで手をとめた。
「ねぇ…。これ、あとはあげてもいい?」
「は!?」
『昨日茂みにいた時みたいにお腹いっぱい食べればいい』と思っていたネルはムッとした。昨晩、料理長に教わりながら作って、自分では上手く出来たと自惚れていたのに、美味しくなかったのかと思って不機嫌になった。そんなネルを見て、リュートが慌てて釈明してきた。
「ち、違うよっ!これすっごく美味しいから、教会の隣にある孤児院の皆にも食べさせてあげたいんだ。」
そういう事ならしかたない。クッキーを持って一緒に教会の裏にある孤児院に行った。リュートは物陰から神父を呼ぶと、ネルを託した。「お前は一緒じゃないのか?」とネルが聞く前に、小さな子達が群がってきて、美味しい美味しいとすごい勢いで食べ尽くされた。ネルはびっくりしたが、あまりにも「もっと食べたい」と言われたので、また作った。以来、キイチゴの季節の恒例行事になってしまった。リュートは毎年、三枚だけを大事に食べる。「もっと食べたらいいじゃないか」とネルが言っても、「ありがとう。でも、一、二、三、たくさんだからいいんだよ。あんまり望むとバチがあたる。それに、ネルのクッキーはすっごく美味しいから、皆も食べて幸せになって欲しいんだ」と微笑んでいた。
(このお人好しめ!)
リュートに対して腹を立てながらも、その控えめな所を好ましいとも思うネルだった。
そんなネルが、リュートが一緒に孤児院に行かない理由を知ったのは、しばらくしてからだ。
学友の一人が、「昨日、うちに来た煙突掃除の奴が“クロトー”でさ。サイアク~。俺まで穢れた気がするよ」と言い、周りも「でも、アイツら、最初から黒いから汚れても分からないし、いいよな」と同調して笑っていた。
「何の話をしている。」
その問いに、学友が答えた。黒髪の人間は汚れをまとった劣等種だと。それを聞いたネルはカッとなった。
「では、お前は自分で煙突掃除をするのか?しないのであろう?自分がしない事をしてもらっておきながら、その者を笑い者にするとは何事だ!恥を知れ!そもそも人の命の重さは同等だ。髪や肌の色で変わる物ではない!」
その日、教会で煙突掃除から帰って来た真っ黒なリュートを見たネルは言った。
「お前、“クロトー”なんだって?」
それを聞いたリュートは困ったように弱く笑った。
「あ~…、うん…そう。…ごめんね、黙ってて。もう一緒に過ごせないね。」
そのまま、井戸の方に駆けだそうとしたリュートの手をネルは力強くつかんだ。
「待て!」
「…っ!汚れちゃうから離して!」と慌てるリュートに言い放つ。
「僕を見くびるな!僕は見た目で人を判断したりしないっ!」
「えっ!?」
驚くリュートにネルはゆっくり言い聞かすように言った。
「お前と僕は友達だ。そうだろう?」
リュートの目が葡萄みたいにまん丸になった後、笑顔になった。
「うんっ!」
黒髪黒目でみなしごのリュートと、輝く銀髪に青い目を持つネル。何を言われても凹まないお人好しのリュートと、少し怒りっぽいネルの相性は悪くないのかもしれない。
Ⅳ
「大事にするね!」
その言葉に嘘は無く、この十年リュートの肩にはいつもその鞄がかかっていた。「煙突掃除に行く時も寝る時も一緒なんですよ」と神父に暴露され、「ちゃんと洗濯してるし、いーじゃんか」とむくれるリュートは子供みたいだ。
この十年で変わった事と言えば、ネルは高等学校に通うようになり、魔法の授業を受けるようになった。
リュートはいつのまにかネルより背が高くなっていた。自分より格下だと思っていたリュートに見下ろされるのは、ネルにとっては腹立たしい。つい「僕を見下ろすな!」と言ってしまってからは、リュートは歩く時以外はなるべくしゃがんでネルの話を聞くようになった。しゃがむ場所がない時は足を大きく横に開いて背を低くして話を聞いている。その姿は間抜けだが、忠犬みたいで悪くない、とネルは思ってる。
高等学校はネルにとって、初等学校や中等学校とはまた違う居心地の悪さだ。お茶会やら夜会やらの誘いが頻繁にある。めんどくさいから、全部断る。「付き合いが悪い」と言われても気にしない。
(どうせ彼らは僕個人ではなく、僕の血筋に用があるだけなんだろうからな…。)
その証拠に、剣術の授業でネルが相手をコテンパンにしたら、聞こえたのは称賛ではなく、悪口だ。悪口はやがて己に返るというのに…。馬鹿な奴等だ。
そんな訳で、ネルは相変わらず放課後は古い教会に来て、リュート相手に復習を兼ねて色々教えて過ごす。剣術も教えた。
「いいか。こう持って、こう使う。やってみろ。」
「う…うん。」
構えだけはいいものの、実際、剣代わりに木の枝で打ち合いをすると、避けるだけのリュートであった。
「こら!そんな事ではお前の好きなライリーのようにはなれんぞ!」
「無理だよ~。ボクはネルみたいに強くないもん。」
「強さとは最初からあるものではない。作る物だ。行くぞ!」
ネルが何度打ちこみに行っても、リュートはギリギリ避ける。一向に攻撃が当たらないネルはイライラした。
「このっ!すばしっこい奴め!」
小一時間続けて、結局一本も取れなかったネルは汗を拭きながら言った。
「お前の…、そのすばしっこさは武器になる。誇って良い。」
「武器?」
「あぁ。戦士として戦場には立てなくとも、斥候してなら役に立つ。捨てたものではない。」
「やった!」
拳を握って喜ぶリュートの頬すれすれに、ネルはサッと木の枝を打ち込んだ。
「うわっ!」
驚くリュートにネルは笑って言う。
「一本とった。」
「ず…、ずるいよ~。」
「ズルくなどない。戦場では気を抜いたら死ぬ。ゆめゆめ忘れるな。」
*****
学校の休み時間、ネルは図書室で石に関する本を読み漁った。その時、ライリーの伝説について、より詳細に書かれている本を見付けた。ライリーが大好きなリュートにも読ませてやろうと思い、借りた。一緒に読んだところ、子供の頃に読んだものとは少し内容が違っていたので驚いた。子供の頃に読んだものは勇者ライリーを称える内容だったが、こちらは少し違っていた。暴石の力を借り、異形の徒となり国を救ったライリーのその後が描かれていた。「国を救った勇者と姫を結婚させる」と言った王に約束を反故にされ、姫に拒絶され、絶望して人の姿に戻ることなく、年老いた母と山に籠って暮らした、と晩年の記述があった。母の死後は、誰もその姿を見た者はなく、強力な恨みのこもった暴石になった可能性がある、と記されていた。
「約束を破るなんてひどいよ!ライリーがかわいそうだ!」
「そうだな…。人の上に立つ者が約束を違えるなど、為政者の風上にもおけん。あるまじき行為だ。」
「だよね!ライリーは、国の皆を守る為に戦ったのに…。ひどいよ!それに…裏切られてかわいそうだ…。」
ひとしきり怒った後はしょんぼりしてた。
(リュートが喜ぶと思って、この本を借りて来たのに失敗だったな…。)
ネルがどう言葉をかけようかと思った時に、リュートがパッと顔を上げた。
「待って!だとしたら…ボクの石がライリーかもしれない!」
そう言うと、いつも肩にかけている鞄の留め具にしている石を見せてきた。
「ほら!このヒビ、前にも言ったけどライリーの肩にあったっていう痣みたいだし!」
そう言った時、ブチッと音がしてゴトン、とその石が落ちた。
「あっ!」
慌てて、リュートが拾い上げる。
「取れちゃった…。でも良かった、割れてない。」
ネルは鞄を掴んで見る。しっかり丁寧に縫いつけたつもりだが、いかんせん子供だった十年前に作った物だ。こうしてまじまじと見ると、もうあちこち生地は薄いしボロボロだ。良く見ると修繕の跡もあちこちにある。
「いい加減、寿命だな。新しいのをやるから、もうこれは捨てろ。」
「やだよ!ネルが初めて作った鞄じゃん!」
「うるさい。返せ。でないと新しいのはやらん。」
「やだー!!!」
取り返そうとしたリュートが強く鞄を引っ張ったから、ビーッと音がして鞄が裂けた。
「あっ!」
「うわー!!!!」
涙目になったリュートに言う。
「泣くな。言っただろ、寿命だ。むしろここまで良くもったと思うよ。」
「でも、でも…。色んな思い出が詰まった宝物だったのに…」
鼻をすすり始めたリュートを慰めるべく言ってやる。
「お前、僕より大きくなったんだし、鞄も大きくする頃合いだったんだよ。使い込んで寿命だったとはいえ、まぁ…、最後に壊したのは僕みたいなものだから、お前が望む鞄をやるよ。どんなのがいい?なめし皮で作ったものか?今は撥水加工が施された物もあるから、それにするか?」
リュートは首を振った。
「そんなのいらない。ネルが作ってくれるのがいい。」
「はぁ?馬鹿か?あの頃とは違う。この歳になれば皆、革製のしゃれたものを持ちたがるぞ。お前だって、その方がいいだろう?こんな…仕切りの一つもないただの袋なんかより、よっぽど使い勝手がいいぞ。」
「やだっ!ネルが作ってくれたのがいいんだ!なんでも出来るネルが作った鞄だからこそ…お守りになるんだもん!」
(……。いい歳した青年が…語尾が「だもん」って…。)
ネルは呆れた。溜め息が出た。これは諦めだ。
「はぁ~っ。しかたない。どうしても、っていうなら作ってやるよ。」
「ど…、どうしてもっ!どうしてもネルが作った鞄が欲しいんです!お願いしますっ!」
深く頭を下げてくる。こういう所、十年経っても全然変わってない。
「分かった。どんなのがいい?」
「同じの。」
「お前、他の鞄を知らないのか?」
「知ってるけどっ!使い慣れた形がいいの!それに…黒地に青い糸ってすごく綺麗で気に入ってたから。」
「はいはい…。」
その青かった糸は今ではもうすっかり色落ちして汚れてたけど、リュートにとっては綺麗な色のままなんだな、とネルは思った。
「じゃあ…、サイズを一回り大きくして作ってやるよ。但し、僕も忙しい。出来上がるまでは時間がかかる。そんな訳で…、それまではこの鞄を使っておけ。」
そう言って、今日使っていたなめし皮の鞄を渡した。
「えっ!いいよ…。こんな高そうなもの…。汚しちゃ悪いし。」
「無いと困るだろ?お前、これ以外の鞄持ってないんだし。」
「う…っ!」とリュートが言葉に詰まる。
「で、でも…、そうしたらネルはどうやって荷物を持ち帰るのさ?」
「案ずるな。中に、移動教室の時に使うサブバックがあるし、家に帰れば違う物がある。」
ささっと入れ替えて、手渡した。
「あっ、ありがとう…ございます。」
「ん。」
いつだってちゃんとお礼を言えるのはリュートの美点だ。好ましい。
「あ…。じゃあ、これどうしよう…」と言うので、リュートの手にある石をとった。
「ふむ…。巻いてる革紐はしっかりしているから、このままでいいな。留め具は最後につける物だから、それまではこうするといい。」
ネルは細い革紐を束ねて作られたベルトから一本を切り取り、それを革紐で十字に巻かれている石に通した。
「ほら、ペンダントだ。こうしておけば、身に着けていられるだろう?」
そう言って、ネルは自身が首から下げている銀水晶を服から引っ張り出して見せた。これは十六になった時に、両親から送られた守護石だ。
「首から下げる石は、守護石といって、災厄から守ってくれる効果があるらしい。」
「そうなの?」
「あぁ、この国の習わしではそうだ。他にも婚約をする時、この石に誓うんだ。」
「へぇ~。」
「守護石には暴石同様、精霊が宿る物もあるらしい。その力を使う時は祝詞を唱えるんだ。」
「のりと?」
「あぁ、呪文みたいなものだ。『一つ、神なる貴方のもとへ 二つ、私の心をお運びしましょう…』と以下、ながったらしい文言が続く。」
「へぇ~…。」
「ま。お前には関係ないがな。」
*****
それから何かと忙しくて、二週間程ネルはリュートのいる教会に行けなかったが、鞄の方は順調に仕上がっていた。
「ふむ。後は留め具を付けるだけだな。」
そう言ってから、ちらりと時計を見る。今日は夜に所用があるので、それに伴う支度がある。出られるにしても一時間もない。どうしようか、と悩んだが、早くリュートの喜ぶ顔が見たかった。ネルはブーツに履き替えると、厩舎に行った。
「シルバー。」
十五の誕生祝いに贈られた葦毛の愛馬の名を呼び、拳を鼻先にそっと出して匂いをかがせてから、鞍をのせる。
「すまないが、ひとっ走り頼むよ。」
そう言って、颯爽と馬を走らせた。
リュートは教会にいた。シルバーを見て「かわいい」と言って、にっこりした。
「いいだろう。自慢の愛馬だ。」
「触ってもいい?」と聞くので、許可した。
「いいぞ。だが、目の前に立つのは禁止だ。あと、いきなり触るな。こうして…、拳の匂いをかがせて挨拶してからな。」
「…うん。よ、よろしくね。ボク、リュートって言います。」
おずおずと拳を出すリュート。シルバーはそこに鼻先を押し付けると、いきなりベロリと舐めてから、鼻先をゴシゴシと擦りつけた。突然の事に固まるリュート。ネルも驚いた。というのも、シルバーは気難しく、気に入らない相手には一切体を触らせようとせずに威嚇するからだ。
「シルバー?」
ネルが声をかけると、シルバーはブルル…と啼いてリュートから離れ、ネルの元に来た。
「び、び、びっくりした…。でも、思ったより、大人しいんだね。」
「まぁな。この子は賢いからな。」
「そうだね。ネルの馬って気がする。毛並みも綺麗だね。」
そう言うとシルバーに向かって「撫でてもいい?」ときいてから、そっと鬣を撫でた。シルバーは大人しく撫でられている。
「かわいい…。」
ブルル…と啼く愛馬とリュート。仲睦まじい様子を見ていたら、『僕のなのに…!』となんだか腹が立って来た。
ネルはもうすぐ鞄が出来る事を伝え、リュートが首から下げてる石を預かった。リュートが身に着けていたからか、その石は熱かった。
「では、これは預かっていく。鞄の出来を楽しみにしていろ。」
そう告げて、ネルはシルバーに乘って教会を後にした。
戻ったネルは、おつきの侍女に見付かり、小言をくらった。
「お姿をお見かけしないと思ったら、外乘にでていたなんて!いますぐ!お風呂に入ってその馬くささを無くしましょう!さぁ!こちらです!」
そうして、堅苦しい正装をさせられた。今日は近隣諸国が集まって魔物に対しての緊急会議が行われたので、それに伴う夜会の開催だった。ネルは夜会が苦手だ。差しさわりのない社交辞令だけ述べて、申し込まれたダンスは「体調が優れない」と断った。嘘ではない。今は気分が優れない。豪華な椅子に腰かけて周りを見れば、きらびやかに着飾った令嬢ばかりが目に入る。
(ふわふわで、可愛い。)
思わず、見惚れた。自分には縁遠いもの。
夜会に出た唯一の収穫は高名な石の鑑定士が来ていた事だ。自身の守護石と一緒にそっと持って来ていたリュートの石も見せた。銀水晶は絶賛されたが、リュートの石は一瞥して「フム。単なる石ころですな」と言い捨てられた。ライリーの宿る暴石だったらどうしようと危惧していたので、安心した。
疲れていたが、その晩、鞄にその石をくくり付けて、新しい鞄は完成した。
Ⅴ
「おい、ちょっと付き合え。」
鞄を渡してからそう告げる。嬉しそうにお礼を言っていたリュートの動きが止まった。
「え?どこに?」
「西の森だ。昨日、あそこに魔物が出るという話を聞いてな。」
「ま…魔物!?やめなよ。危ないよ!」
おじけづくリュートにネルは言う。
「僕を誰だと思っている。案ずるな、魔法の使い方も心得ている。」
「でも…」
渋るリュートを追い立てて、シルバーと一緒に二人は森に向かった。
「ふむ…。特に異常はないようだな。」
西の森は、リュートのいる教会から近いから心配だった。これなら、隣にある孤児院も安泰だな、と一通り見回りを終えた時だった。シルバーが低く唸った。
「!」
息を飲む。少し離れた木陰から犬のような生き物がこちらを伺っているのが見えた。
(野犬か?かなり汚い…。疫病の元となる事を考えるとここで仕留めておくべきか…)
そう考えていた矢先、飛び掛かって来た。尻尾の先が赤黒く燃えている。魔犬だ。ネルは瞬時に抜刀して、それを斬り伏せた。断末魔の雄たけびが響く。
「うわー!!!」
リュートも悲鳴を上げる。
「うるさい。黙れ。」
斬られたそれは地面に落ち、鈍い色の石へと変化した。シルバーから下馬したネルが拾い上げる。
「見ろ、魔石になった。魔物だ。」
「う、うん…。分かったけど…、早くここを去ろうよ。危ないよ。」
「そうだな…。」
そう言った時だった。低い唸り声が四方から聴こえた。荒い息遣いと共に気配が少しずつ近付いてくる。
(まずい…。今ので、離れていた仲間を刺激したのかもしれない…。)
ネルの脳裏に不吉な考えがよぎる、そして、それは的中した。ネルは剣を握り直す。低い唸り声を上げて、襲い掛かって来た魔犬を再び斬り捨てる。
「チッ。」
甘く見ていた。ざっと見回す。五…いや、十頭程いそうだ。自分一人だけならいざ知らず、今はここにシルバーとリュートがいる。庇いながら戦うには、圧倒的不利だ。ネルはチラリと後ろを見る。斜めに一頭。先ずはそこを倒し、シルバーを逃がそう。瞬時に判断し、その一頭を斬り伏せる。そのまま、シルバーの尻を叩いた。
「行けっ!」
シルバーは高くいななくと、町の方に向かって一目散に駆けだした。リュートは腰が抜けているのか、動かない。ここは魔法でまとめて仕留めてしまおう。そう思って、呪文を唱える。炎の礫が魔犬達を襲い、それらはまとめて魔石になった。
「よしっ!」
鮮やかな自分の手際に満足し、拳をぎゅっと握った時だった。突如、右から襲われた。一瞬の油断が命取りだと、以前、リュートに言ったのは自分だったのに…。
「ぐ…っ!」
油断した。剣を握った右手はクマより大きい魔犬の左前脚に押し潰され、胸元が右前足で押し潰される。それを左手で必死に押し戻しながら叫んだ。
「リュート…逃げろ!」
「で…でも…!」
「い…から…行けっ!」
「で…でも…」
まだ動けないリュートに叫ぶ。胸が苦しい。
「お前の武器はすばしっこさだろ!逃げろっ!」
(そうだ、逃げろ。こんな所に連れて来た僕の責任だ。例え、僕はここで死んだとしても、お前は生きろ…)
胸に更に圧がかかる。魔犬の唸り声がすぐ近くまで近付いて、赤い口元が目の前で開いた。
『喰われる…っ!死ぬ…っ!』
思わず、ネルが目を瞑った時だった。
「お願いライリー!力を貸して!」
リュートの声が聞こえた。声が続く。
「い…、いちょかみ!にちょかみ!イージーアクション!!」
(馬鹿だな…。お前のはただの石ころだし、祝詞も噛み噛みだぞ…。)
こんな時なのに、くすっとした。死に面した恐怖から、ネルが少しだけ救われた…と思った瞬間、すごい勢いでネルにのしかかっていた魔犬がふっとんだ。
「――!?」
ハァハァ…と荒い息遣いが近付く。
「ネルから…離れろー!!!」
そう叫んだリュートの拳が、怒り狂ってこっちに突進してきた魔犬の額に炸裂した。さっきより大きな断末魔の叫びがあがり、空に吸い込まれると地面に拳大の魔石が転がり落ちた。
上体を起こしたネルが目にしたのは――、両手が異形と化したリュートの姿だった。
「お前…!その手…」
ネルの言葉でリュートも己の手を見て、固まった。それは固くてゴツゴツとした硬質の鎧のような鱗に覆われた腕だった。指先だった所からは鋭く伸びた爪が生えていた。
「え…?え…!?」
状況を呑み込めないリュート。
「馬鹿な…」
ネルの頭の中も疑問符でいっぱいだった。
だって、昨晩、鑑定士は言った。「これはただの石ころです」と。なのに…。
何故だ!?
その時、遠くから、ヒヒーンと馬のいななきが聞こえた。シルバーだ。
あの賢い愛馬はきっと衛兵を呼んで戻って来たに違いない。
今、この状況で、両手が異形と化したリュートを見られるのはマズイと思った。ただでさえ、“クロトー”だ。捕らえられた挙句、処刑されたりなんかしたら困る。
「リュート!お前は一旦、森の奥に隠れろ。」
「で…でも…」
「大丈夫だ。約束しよう。お前の腕は必ず僕が元に戻してみせる!だから…、誰かに見られる前に隠れろ!また後で僕が来るから!!」
「…う、うん…。」
ネルを見るリュートの目は不安でいっぱいだ。ネルは重ねて言った。
「大丈夫だ。絶対に僕がなんとかしてみせる!」
「…うん。」
リュートは頷くと、すごい勢いで森の奥へと走って消えた。
しばらくして、シルバーに連れられた衛兵達がやって来た。ネルとその周りに散らばる魔石を見て目を見張る。
「こ、これは…!」
「貴方様がお倒しになられたのですか!?」
「まぁな…。僕の手にかかればこんなものだ。この魔石の持ち主は大きな熊のような魔犬だった。おそらく、この辺りのボスだろう。ソイツを倒した。しばらくは大丈夫だと思う。が、念の為、森への入り口は閉鎖しろ。」
「は、はいっ!」
「魔石を回収して持て。」
「はいっ!」
「では、いますぐこの森を出て、入口全てを閉鎖せよ!」
「はいっ!」
衛兵達が「流石、ドラゴンテイル…」と囁く声が聞こえた。
「注意喚起を行って来る。」
ネルはそう言って、いつもの教会の神父の元に行った。
神父にだけ、こっそりとリュートが異形化した事を伝え、万が一姿が戻らぬまま、ここに戻ってきたら匿ってくれるよう頼んだ。
「リュートは…、必ず、僕が元に戻しますから。」
「…分かりました。おお…、神よ!」
Ⅵ
すぐ森に戻るつもりが、『こんな人里近くまで魔物が来ている!』と近隣諸国を巻き込んでの大事になってしまった。魔物を倒したネルは、方々で魔物について聞かれ、疲弊していた。
(過ぎた事はもういい。早くリュートを元に戻さなくては…。)
そう気は焦るのに、異形を解く方法が見つけられない。分からない。気が気ではなかった。
とりあえず、専門家を自称するあらゆる職業の者に会い、暴石について知っている事を聞いて回ったが、これと言った収穫はなかった。
「はぁ…。」
溜め息が出る。とりあえず、ここまでで分かっている事は、一度唱えて召喚が成功した祝詞は確定のものになるという事。つまり、あの噛み噛みの祝詞がリュートの正式の祝詞になってしまったという事だ。正規の祝詞であったなら、まだ逆に唱える等して、異形を解くのに何らかの手の打ちようがあったかもしれないのに…。
「はぁ…。」
再び、溜め息が洩れる。そこでドアをノックされた。
「なんだ?」
「教会より、お手紙が届いております。」
「もらおう。」
侍女から手紙を受け取って、ドアを閉めてからそっと開いた。
『先日は魔物の注意喚起に訪れて下さり、ありがとうございました。
森に魔物が出たというので心配しておりましたが、
どうやら衛兵の皆様のおかげでいなくなったようです。
月の無い夜は暗くて少し不安ですが
松明を灯して過ごしております。
ご安心下さい。』
ただの礼状かと思ったが、区切られた文の頭の四文字で察した。
(リュートが教会に戻ったんだ!!)
「西の森の視察に行って来る!」
逸る気持ちをおさえてそう告げると、ネルはシルバーに跨り、急ぎ教会に向かった。
「おい!いるか!」
勢いよく扉を開けると、教会の奥に小さく蹲る少しやつれたリュートがいた。
「リュート!どうやって戻ったんだ?」
「ボクにも…良くは分からないんだ。とりあえず、あの日はそのままで…。また魔犬が出たら怖いなと思って、あの日は高い木の上で寝たんだけどね。目が覚めてもそのままだったから木の実を食べて過ごして、その日もまた木の上で寝て…。次に目が覚めたら元に戻ってた。でも…、もしまた異形になったら困ると思って、しばらくは森にいたんだ。けど、もう大丈夫そうだと思って、昨晩教会に戻ってきたんだよ。」
「そうだったのか…。良かった…。とすると、その時に食べた木の実に何らかの効果があったのかもしれないな。もしくは…時間の経過と共に効果がきれるのかも?そこをもっと詳しく調べてみる必要があるな。まぁ、とりあえずは元に戻れて良かった。今回の事で僕も反省した。すまなかった。もうお前を魔物退治になんか連れていかないから、今後は大人しくしてるんだぞ。」
折角珍しくネルが謝意を示したのに、リュートの口から出たのは「うん」ではなかった。
「え?やだよ。ボクは皆を守れる力を手にしたんだから、それは使わないと!でしょ?」
「な…っ!?」
焦るネルを横目にリュートは言う。
「この力があったから、ネルを守れた。この教会と孤児院も、町の皆だって守れる力が手に入ったのに使わないなんて、ライリーにも申し訳が立たないよ。」
「う……。」
(そうだった…。コイツは皆を救った英雄ライリーに憧れていたんだっけ…。)
ネルは少し考えてから言った。
「…分かった。だが、単独行動は慎め。今日から五日後に、僕を含む若手騎士団で西の森に経過監察に行く事になっている。お前はその時、こっそり後をつけてくるがいい。」
「うんっ!」
リュートは嬉しそうに頷いた。ネルは複雑な気分だ。
*****
そして五日後。
ネルを先頭にして、若手騎士団が西の森に入った。ネル以外は緊張の面持ちだ。無理もない。普段はこういった警邏などとは無縁の貴族の子息の集まりなのだ。『魔物討伐に参加した勇敢な若者』という箔付の為だけに集まった者達。浅ましいな、とネルは思う。
「なぁなぁ、本当に魔物が出たらどうする?」
「大丈夫だろ?あれ以来、目撃情報もないし。」
「まl、いざとなっても、我らにはドラゴンテイルがいるしな。」
「そうそう。頼もしいよな~。」
背後から聴こえるそれらの声に「私語を慎め。周囲を警戒しろ」と一喝してシルバーに乘ったネルは森の奥へと進む。何の気配も感じないが、きっとこっそりリュートもついてきている筈だ。
かなり奥まで来た。この先は崖になっていて、下には川が流れる。かなり深い谷底だ。下馬したネルが川を覗き込んだ時だった。
ピーロロと声がして、何かが上から降って来た。ネルは瞬時に抜刀し、それをはじく。と同時に叫んだ。
「来たぞ。隊列を組め!先ずは火礫だ!目を狙え!」
「「「「うわーーーっ!!」」」」
「は?」
ネルの指示も聞かず、彼らは悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
「…腰抜けどもが…!」
あの調子では迷子になるに違いない。ネルはシルバーの首筋を叩いた。
「シルバー。すまんが、アイツらを町まで誘導してやってくれ。」
シルバーは分かった、と言わんばかりにいなないて駈け出した。
ネルは剣を握り直し、空を見上げる。かなり大きな鳥だった。弧を描いて飛んでいる。普通の鳥ではないと一見して分かるのは、その翼が青黒く燃えている様に見えるからだ。
「リュート!いるなら出て来い!共闘するぞ!」
「うんっ!」
斜め後ろの木の上から、返事が聞こえた。心強い。
「アイツの注意をひきつけて地上に下ろした所で僕が討つ。出来るか?」
「うん。ボク、石たくさん持ってきた。」
リュートはネルが作った鞄から石を取り出すと、頭上に向かい、勢いよく投げた。
が、全然届かない。
「…ダメじゃないか…」
溜め息交じりにネルが言う。リュートは叫んだ。
「う…。お願いライリー!力を貸して!いちょかみ!にちょかみ!イージーアクション!!」
「あ…っ!バカ…」
ネルが止めようとしたが遅かった。リュートの両腕は異形と化した。
「よしっ!」
そう言って、リュートが石を頭上に放つ。今度の石はすごい勢いで飛んで魔物の身体にクリティカルヒットした。
「クエ―ッ!」
怒号ともとれる鳴き声を発しながら、魔鳥が急降下してくる。ネルは剣を構える。リュートは木の上から魔鳥に飛び移り、首筋を押さえつけた。ネルの剣先が魔鳥の喉笛を切り裂くも、魔鳥の叫びは止まらない。返す刀で翼に切りつけたら、すごい勢いで跳ねのけられた。そのまま大木に頭を打ちつけそうになったネルを瞬時の所で、魔鳥から飛び降りたリュートが抱きとめる。
「大丈夫?」
「ああ…。」
リュートがそっと抱きかかえたネルを下ろした時、大きな嘴が二人を目掛けて突っ込んで来た。
「――っ!」
リュートが異形の両腕で嘴をがっちり掴む。
「でかした!」
ネルは先程と同じく喉笛を斬りつける。黒い血しぶきがあがるも致命的なダメージにはなってないようだ。
「クソッ!なら、これでどうだ!」
ネルの左掌に赤い炎が産まれる。
「くらえっ!」
斬りつけた喉笛目掛けて炎を投げつけると、魔鳥は大きくのけぞった。
ネルが「よしっ!」と言ったのと、リュートが「うぐっ!」と声を発したのが同時だった。
「――!」
ネルは目を見張る。先程まで翼だった魔鳥のそれがヒトの腕のような物となってリュートの首を締めあげていた。このままの状態が続けば、首が締まって死ぬか、もしくは魔鳥の嘴を抑え込んでるリュートの腕の力が弱まり、放した所であの鋭い嘴の餌食になって終わりだ。
「この…っ!」
ネルはがむしゃらに斬りつける。翼が腕となり、リュートを締め上げている今、胴体は無防備だ。
(早く仕留めないと!)
気が焦る。
「くらえっ!」
渾身の一撃で、ネルが魔鳥の右足を胴体から切り離した時、魔鳥が大きくバランスを崩した。
「あっ!」
リュートと魔鳥のお互いが腕を離さぬまま、谷底に落下していくのがスローモーションで見える。
「や~んっ!リュートが死んじゃうぅ~!!」
突如、耳元で聞こえた可愛い声に驚いてネルが振り向くと、オレンジ色の瞳と目が合った、
「!?」
驚くネルの視線の先に小さな妖精のような物が浮いていた。陽の光を存分に浴びて育ったオレンジのように鮮やかな髪にトンボのように透きとおる四枚の羽根を持ったふわふわで可愛い女の子。手には小さな扇のような物を持っている。
「お…お前、何者だ?」
喉から声を絞りだして聞く。
「あら~ぁ?びっくり。貴方、私が見えるのねぇ~。」
妖精もどきは嬉しそうにそう言うと言葉を続けた。
「だったら、話が早いわ。リュートを助ける為に、ちょ~っと貴方の身体を貸してちょうだい♪」
「断るっ!」
間髪入れずに断るネル。
「え?ええーっ!ここは「はい」って言う所でしょぉぉ~!」
小さな手足をばたつかせて抗議する妖精もどきにネルは言った。
「お前が魔物でない、という確証はないからな。無闇な契約は命取りだ。」
「ぐぬ~!この私を魔物扱い!なんて奴っ!こぉんな奴のどこがリュートの友達なのよぉ~!」
「魔物でないというなら、証拠を示せ。」
「私の存在そのものが神でしょ~がっ!アンタ、リュートの左耳にある石を見た事無いの?」
そう言われて、思い出す。リュートの耳はいつも髪の毛に隠れているが、いつだったか掻き上げた時にオレンジ色の耳飾りが埋め込まれているのが見えた。
「これ、ボクがここに来た時にはもうついてたんだって。親がお守り代わりにつけたんじゃないか、って神父様言ってた。」
(アレか…。)
そう言われてから、妖精もどきを見ると、確かに瞳が同じ色だ。リュートの状況を思えば、あまり揉めてる時間は無い。
「分かった。信じよう。但し、一度のみの契約だ。だが、僕はお前に対価など一切渡さぬぞ。」
「私だってね~、アンタなんかと契約なんかしないわよっ!私はリュートを守るんだから!契約だって、あの子とするの!」
「フン…。そんな事を言ったって、リュートが契約の―」
ネルの言葉を遮って、妖精もどきは勝ち誇ったように言った。
「甘いわね。私が何年あの子と一緒にいると思ってるの?あの子の事はお見通し♪そ~んでもって、あの子なら、きっとこう言うわ。」
小さな扇子をパチンと鳴らして、妖精もどきはこう言った。
「三神は女神で、ビューティーアクション!」
眩しい光がネルを包み、ネルの体が勝手に動く。一瞬目を閉じたネルだったが、瞬時に目を開けて叫んだ。
「な…っ!なんだこれっ!?」
今日は動きやすい軍服を着てきた筈なのに、とても軽い白光の鎧に変わっていた。しかも、その鎧は腰回りがシフォンのような素材のフリフリになっている。ネルの両手がそれを掴んで、優雅に可愛くお辞儀のポーズをしようとするのをネルの屈強な意志がギリギリ止める。
「ぐぬぬ…」
おかげで変なポーズになった。
「むぅ~。絶対似合うと思ったのにぃ…!」
自称女神は小さく舌打ちをした。
「き、貴様―っ!僕をなんだと思ってる!」
激高したネルをスルーして、自称女神は言った。
「そんな事より、リュートよっ!」
ふわりと優しい風に包まれたと思ったら、ネルは宙に浮いていた。
「!」
ネルは剣を構え直す。
「行くわよっ!」
ネルの身体がそのまま一気に谷底に急降下する。つかみ合ってるリュートと魔鳥が視界に入る。リュートの顔は真っ赤で苦しそうだ。
「この…っ!」
左掌を握って火礫を放つ。
「援護はまかせて!」
ネルを包む風のような女神の声が聞こえるとそれらは増幅し、器用にリュートを避けて、雨のように魔鳥の身体に降り注ぐ。ネルは魔鳥がひるんだ隙を見逃さなかった。急降下の勢いそのままに、魔鳥の嘴目掛けて剣を振り下ろす。
ガキン!という音と共に、嘴が折れた。その衝撃で魔鳥がリュートから手を離した。ネルが慌てて手を伸ばすが届かない。落ちるリュート。だが、女神(?)の力か、リュートはふわりと浮いて、ゆっくりと地上に倒れた。
「リュート!!」
ネルは慌てて駆け寄る。ぐったりしている。無理もない。
「しっかりしろ!」
左腕でリュートの頭を支えて腰から下げてた小さな水筒から水を飲ませると、リュートはうっすら目を開けた。
「リュート!良かっ…」
そう言いかけたネルの目に、大きく目を見開いたリュートが映る。次の瞬間、ネルはリュートの固い腕で払いのけられた。
「ぐ…っ!」
(僕が分からないのか!?)
そうではない事にすぐに気付いた。ネルがさっきまでいた場所に魔鳥の鋭い左足が食い込んでいたからだ。物凄い殺気。魔鳥の大きな影が谷底を覆う。呪われた太陽みたいに赤く光る魔鳥の目だけが頭上に光る。
「負けるか…」
ネルが左の拳を強く握った時だった。
「うおー!!!」
獣のようなリュートの叫びが上がると、黒い影が吹き飛び、青空が見えた。青い空を背景にネルが見たのは、さっき自分が切り落とした魔鳥と同じような足になったリュートの姿だった。リュートはその跳躍力で魔鳥に飛び掛かり、鋭い爪で引っ掻き、相手を殴っていた。
「早くっ!アイツの弱点の目を潰すのよ!」
女神(?)の声に促され、ネルはリュートに押し倒された魔鳥の身体を駆け上がり、勢いよく右目に剣を突き立てる。どす黒い体液が飛び散り、魔鳥の叫びが谷底から森を震わす。ネルは剣を引き抜くと、今度は左目に剣を突き立てた。
「ギギギャー――!!!」
断末魔の叫びが上がり、魔鳥はこの間の魔犬よりも大きな魔石に変化した。
ハァハァ…と二人の荒い息切れだけが谷底に響く。
振り返ったネルの目に、笑顔のリュートが映った。
「良かった…。ボク、ネルを守れたよ。」
嬉しそうに言う。その両腕両足は異形のままだ。
「無茶しやがって…」と言いかけたネルの言葉は遮られた。
「リュートぉ!!死んじゃうかと思って心配したよぉ~!」
さっきまで、ネルを包む風になっていたあの妖精もどきがリュートの胸に飛び込んで行った。
「えっ?誰?」
驚くリュートだったが、妖精もどきの話を聞いて納得したみたいで、「そうだったんだ。助けてくれてありがとうね」とお礼を言っていた。妖精もどきは満足げな表情でネルの左肩に腰を下ろした。
いつのまにか、ネルは元の軍服に戻っていた。
その時、頭上から声が聞こえた。
「おーい!おーい!」
「いらっしゃいますかぁ~?」
ネルは叫び返した。
「ここだー!無事だー!」
「おーー!!」という声が降ってきて、「これからそちらに向かいますー」と続いた。
ネルはリュートを振り返ると言った。
「さてと…。お前は前回同様、見つからないように隠れていろ。」
「う、うん…」
「リュートには、私が付いてるから大丈夫よ~!」
得意げに言う妖精もどきにムッとしたネルは言った。
「なら、今すぐリュートを元に戻せ!」
「う~ん…。戻してあげたいのはヤマヤマなんだけどぉ~、残念ながら、それは私には出来ないのよねぇ~。」
「チッ。使えないな。」
吐き捨てるように言ったら、妖精もどきもムッとしたようで「い~っだっ!」とネルに向かってあっかんべーをしてきた。
「…こ、コイツ…!」
思わず、剣の柄を握ったネルをリュートが止める。
「二人共。ケンカしないで、ね?」
ネルと妖精もどきは不服な顔をしながらも争うのをやめた。ネルは気を取り直してリュートに言った。
「とりあえず、前回同様の行動をしてみてくれ。今回は足もだから、時間経過の方だった場合は前回より時間がかかるかもしれん。僕の方でも引き続き、元に戻れる方法を探しておく。」
「…うん。」
頷いてから、リュートが不安そうに言った。
「ねぇ。もし…、もしもだよ?ボクが異形のまま、元に戻れなくなったらどうする?」
「案ずるな。僕が絶対にお前を元に戻すと言っただろう?でも、そうだな…。万が一、ヒトに戻れず異形のままなら…、お前を僕のペットとして飼ってやるよ。それで一緒に元に戻れる方法を探そう?それでいいだろう?」
「……うんっ!」
それを聞いたリュートは元気に頷いて谷底の奥へと走って行った。
その後、衛兵達と一緒に逃げ帰った奴等が谷底まで降りて来た。どす黒い血しぶきをまみれのネルを見て、「ヒッ!」と声を上げる。彼らと状況検分を行ったネルは、崖下にある魔鳥の巣に卵があるのを見付けた。それは衛兵と共に逃げた貴族の子息らが処分した。
(こんな卵を潰しただけで、彼らは「魔物退治をした」と鼻高く吹聴するのであろうな…。)
黒い血しぶきを浴びたままのネルがシルバーに跨って町に戻ると、人々はネルを称えた。
「見ろ!あのお方が我が国が誇るドラゴンテイル様だ…!」
(僕の名前は『ドラゴンテイル』ではないんだがな…。)
そう思いながら、高い位置で一つに結い上げた長い銀髪を揺らして民衆の前を通り過ぎるネルであった。
再びの武勲を上げたネルを称えつつも、父は複雑な表情をしていた。
「お前はそんな事をしなくともいい。」
「何故です?人々を脅かす魔物がいて、それを倒す力が己にあるのならば、使わない手は無いと思いますが?それが、人の上に立つ、という事ではないのですか?」
ネルの正論に父は口を閉ざした。
「流石に疲れているので、今日はここで失礼致します。」
ネルは一礼して、父の部屋を出た。風呂に入って、魔物の血や匂いを洗い流してから、泥のように眠った。疲れていたのだ。
Ⅶ
目を覚ましたネルはもう日が高くなっている事に気付いて大急ぎで着替え、用意されていた朝食と貯蔵庫にあった保存食を鞄にまとめてつっこんだ。それから、使用人たちの目を盗んでシルバーに乘ると、西の森へ向かった。森の入口には衛兵がいたが、「昨日の検分を行いたい」と告げると通してくれた。魔物に怯えているのか、同行を申し出る者がいなかったのをこれ幸い、とネルは奥にある崖を目指す。
目的地について、小さくリュートを呼んでみる。
リュートの代わりに、妖精もどきが現われた。
「なんだ、お前か。リュートは?」
「お前じゃない。ビィナスって呼んでよね。」
「はいはい。」
ビィナスの案内で奥へ進む。生い茂った茂みを掻き分けると、小さな洞窟があり、その中にリュートがいた。まだ、異形のままだ。
「…昨日の今日では難しいか…。とりあえず、食料を持って来た。これを食べてしばらく大人しくしているんだな。」
「…うん。ありがと。」
ネルが持って来たパンをいかつい手が掴んで食べる。奇妙な光景だ。ネルはその手にそっと自分の手を重ねた。
「早く…元に戻るといい。」
祈りを込めてそう言った。-
「…うん。ありがと。」
そのまましばらく無言で過ごした。ネルが口を開く。
「何か食べたい物はあるか?今度来る時に持ってくる。」
リュートは言った。
「じゃあ、ネルが作ったキイチゴのクッキー!」
「…時期じゃない」と告げるとリュートはしゅんとした。
「僕が作る他のものでもいいか?」
「う…うんっ!ネルが作ってくれるなら、なんでも!」
大きな犬が尻尾をブンブン振る勢いで言って来たから、ネルは笑った。
「まかせとけ!お前が今まで食べた事無いような美味い物を作ってやるよ!」
それから、真顔になってビィナスに頭を下げた。
「これまでの失礼な態度を謝罪する。だから…、僕が来られない間、リュートを頼む。守ってくれ。」
ビィナスは驚き、了承した。
「いいわよ、まっかせといて!」
それから、「素直な子は嫌いじゃないわ」とネルの頭を撫でて、「女神の祝福あれ」とネルの髪の毛にキスをした。
「じゃあね。気を付けて帰るのよ。」
「またね、ネル。」
手を振って別れた。
*****
戻ったネルは、人々に取り囲まれた。これまで二体の大きな魔物を倒した英雄として、会いたがる者が殺到したのだ。近隣諸国の王などもいた。彼らは縁談話を持ち込み、ネルとつながりを持とうとした。
ネルはまずそれらをバッサリと断り、言った。大事な事は、皆が魔物に備える事だ、と。
その時、隣国の王が重い口を開いた。
「そうは言ってもですな…。もう、地獄の釜は開いてしまったのですよ。」
「どういう事です?」
「…皆様も、この大陸に伝わる勇者ライリーの伝説はご存知でしょう?」
「あぁ。」
その場にいた誰もが頷く。
「あれはですな…、実は過去に我が国で起きた出来事なのです。私の国には魔物が住むと言われる洞窟があり、あれはそこから出た魔物を退治した勇者の話なのです。ライリーが魔物を倒した後、その洞窟は固く封印されました。ところが…、先月その封印が何者かによって破られているのが分かりました。一応、その場で新しい封印を施したのですが、既に魔物は外に出てしまっていたようで…。当初は黙っていようと思ったのですが、ここに来て、その洞窟からほど近いこちらの西の森で二度、魔物が出たという話を聞いてはもう黙っていられんと…」
それを聞いた他国の者が騒ぎ出す。
「お前の国のせいだったのか!」
「責任を持って退治しろ!」
「討伐にかかった費用は全額そちらに請求致しますぞ!」
荒れる議場を、この国の皇帝が諫めた。
「今は、そんな事を言っている場合ではない。対策を考える場だ。」
そして続けて言った。
「何か、魔物に対して有効な手はあるのですか?」
「分からない…。近年と言ってもここ百年単位で魔物は出現していなかったし。一応、魔法も物理攻撃も有効とは聞いている。倒せば魔石が手に入るから、それを使って術を使うのも有効みたいだが…」
そこまで言って、隣国の王はネルを見た。
「貴殿はどのように魔物をお倒しになったのですか?」
ネルはリュートの事は伏せて話した。剣も魔法も有効だと。ボスクラスは弱点をつくのが効果的だったのかもしれない。魔犬のそれは額、魔鳥は目であったと告げる。
「ふうむ…。ならば、兵は魔法師と一緒に組んだ方がいいのか。」
「兵には、護符をもたせるか…」
前向きな意見が出て来た時に、隣国の王が言った。
「魔物はそれで倒せそうですが…、実は私が怖れているのは勇者ライリーの方でして…」
「何故だ?ライリーは過去の人物であろう?」
「そうなのですが…、その…。お恥ずかしながら、私の先祖はライリーとの約束を破っておりまして…ですね…。異形の徒と化したライリーが強力な力を持つ暴石になっている可能性が捨てきれなくてですね…。その…、もしそんな暴石を持った者が我が国の魔物の洞窟の封印を破ったとしたら…」
その場にいた全員がゴクリと唾を飲んだ。
「それはとんでもない事になる…」
「えぇ、ええ。そうなんでございます!ですので!ここは近隣諸国の皆様と力を合わせ、皆で魔物を倒そうではないですか!という事で…先ずは是非、腕自慢の方々で我が国の魔物の洞窟の調査を行っていただけないでしょうか?不安要素を消し去りたいのです。どうかご協力の程、宜しくお願い致します。」
目の前で繰り広げられるやりとりを聞きながら、ネルは考えていた。
(ライリーは暴石になっている可能性が高いのか…。では、やはりリュートの持つあの石が?しかし、鑑定士はただの石ころだと言った。高名な鑑定士が鑑定を間違うとも思えん。とすると、ライリーとは無関係の暴石なのか?しかし、リュートの「お願いライリー」という呼びかけに応えているしな…)
「――様。」
名を呼ばれてハッとした。
「何か?」
「ここにいる者達の総意なのですが、魔物討伐の総大将になってはいただけませんか?」
「いえ、それは…。ワタクシなどより、武勲に優れた方はたくさんおられますし…」
辞退するネルに周りは言った。
「そうはおっしゃっても、魔物を倒した者はおりません。」
「そうです!民衆に呼びかける際も、功績の無い者が偉そうに言っても響きませぬ。やはり、ここは大物の魔物二体を倒した実績を持つドラゴンテイル様でないと…」
そこまで言って、その者はハッと口を押えた。
「あ…っ!」
ネルはその者を冷ややかな目で見て言った。
「ドラゴンテイルで構わんぞ。どうせ皆、陰ではそう呼んでいるのだろう?」
そして、席を立つと言った。
「僕の命に従うと言うのなら、各々魔法師と騎士衛兵の兵団を作り、稽古せよ。その際、魔物を見て逃げ出すような腰抜けはいらん!分かったか!準備が整い次第、その洞窟とやらに向かう!」
ネルはその、『ドラゴンテイル<竜の尻尾>』と称される高い位置で一本に結い上げた銀色の髪を揺らして議場を後にし、そのまま調理場へと向かった。当然の訪問に驚く料理長にネルは言った。
「ボクに日持ちするケーキの作り方を教えてくれ。」
「は、はいっ!」
そうして、「分かります…。ストレスがたまると無性に甘い物が食べたくなりますからなぁ…」などととんちんかんな事を言いながら、ドライフルーツの入ったパウンドケーキとチーズケーキの作り方を教えてくれた。焼き上がり、端っこを味見したネルは大きく頷いた。すごく美味しかったのだ。冷ましてから包もう、とケーキとパラフィン紙を持って自室に戻り、ベッドに転がってから大きな溜め息をついた。
「はぁ~っ…。」
(どうして僕が魔物討伐の総大将なんかに…。隣国には武功で名高い武将がわんさかいるじゃないか…。そもそも自国の責任だって言うなら、あの国王がやればいいのに…!)
「はぁ~…。」
(分かってるさ。隣国は大国だからって、小国のうちをなめてるんだ。魔物討伐の総大将とかうまい事言って僕を担ぎ上げて、失敗した時の保険をかけているんだろう…。)
「クソッ…!」
面白くない上に、不安だ。ネルはベッドから起き上がるとベランダに出た。大きな噴水は夜の光の中で静かに光っている。しばらく眺めてから、ネルはいつもの服に着替えた。それから少し冷めたケーキを包んで鞄にいれると、そうっと自室を抜け出した。屋敷の者は会議が行われている場所の手伝いに駆り出されているようで、しんとしている。ネルはそのまま厩舎に向かった。シルバーの馬房を覗き込む。おがくずがひかれたその奥にある藁の山でシルバーは横になっていた。ネルはそっと馬房の閂を外して中に入る。
「シルバー。起きて。」
小さな声で呼びかける。シルバーが目を開けた。ネルはシルバーの首筋に抱き着いて言った。
「お願い。暗くて悪いんだけど、もう一度僕を西の森に連れて行ってくれないか?」
シルバーの丸い目がじっとネルを見る。馬は賢い。ネルの気持ちが分かったのだろう。静かに立ち上がり、『鞍を載せろ』とばかりに背中を見た。
「ありがとう!」
ぎゅっと首筋に抱き着いてから、静かに鞍を載せて馬房を出る。そのまま手綱をひいて歩き、通用門の閂を開けて屋敷の外に出てからシルバーに跨った。
「行くぞ。」
シルバーは空気を読んだのか、いつものようにはいななかず、静かに夜の中を走り出す。
西の森についた。流石にここまで来ると町灯りは届かない。周囲は暗い。見張りもいない。流石のネルも少し怖くなった。だから、森に入って少ししてから、リュートの名前を呼んでみた。返事は無かったが、代わりにネルの目の前がポォッと明るくなった。良く見ると、それはビィナスだった。
「こんな夜中にどうしたの?」
「あ…。その…。リュートに渡す物と話したい事があって…」
「ふぅ~ん…」と言うと、ビィナスは小さな手に持つ小さな扇をパチンと鳴らした。
「はい!」
「わっ!」
シルバーの目の前に何かが落ちた。リュートだった。
「リュート!」
「いてて…」
いきなり召喚されて地面に落とされ、腰をさするリュートにネルは駆け寄った。
「大丈夫か?」
「うん。てか、ネル、こんな時間にどうしたの?」
「う…。実は…」
ネルは魔物討伐の総大将にされてしまったことと、隣国の王の話を伝えた。
「ふぅ~ん…。なんだか、大変な事になってるね。でも、その隣国の洞窟ってここから近いんでしょ?なら、ネルの討伐隊が向かう時にボクもこっそり後をついて行くから大丈夫だよ。」、
「すまない…。本当はよく分からない異形の力には頼りたくはないんだ。お前の身体がどうなるかもわからんし…。」
「うん。心配してくれてありがと、ネル。でもさ、折角こうして誰かを守れる力を手にしたんだから、使えるものは使わないと!だよ。あと、ボクはライリーはいい人だって思うから、ライリーに対しての心配はいらないよ。ねっ?」
そう言って、にこっとしたから、ネルの心は少し軽くなった。話題を変える。
「そうだ!お前に早速ケーキを焼いてきたんだ。食べてみろ。こっちは木の実のパウンドケーキ、こっちはチーズケーキだ。」
鞄から包みを出して開く。香ばしい匂いが広がった。
「わぁ…!美味しそうっ!ありがとうネル!」
「ほら」とリュートの鱗に覆われた手にチーズケーキを載せてから、残りのケーキの端をちぎってネルはビィナスに差し出した。
「良かったら…ビィナスも食べて。」
「え~、私にもくれるの?」
「…うん。良かったら…。」
「わ~い!いっただきま~す♪」と口に入れて、二人は同時に「美味しい!」と言った。
「すごいネル!何これ?すっごく美味しいよ!」
「私も~。こぉんな美味しい物食べたのひっさしぶりよぉ~!」
ビィナスが手をほっぺに当ててにこにこしている。こうして見ると、ひらひらの服とあいまって実に可愛かった。「ビィナスは可愛いね」と素直に言ったら、「あら、ようやく私の魅力に気付いたの?そうやって素直でいれば、貴方もとても可愛いわよ」と返してきた。こちらが礼をもって接すれば、ちゃんと「アンタ」呼ばわりをやめてくれるんだな、とネルは思った。
「では、遅いからもう帰る。隣国に行く時は、おそらく、向こうの緩やかな坂になっている方から行くと思うのでよろしく頼む。」
そう言ってシルバーに跨る。
「うん。送っていけないけど、気を付けて帰ってね、ネル。」
「じゃ、代わりに私がついてってあ~げるっ!」
上機嫌のビィナスはそう言うと、ぴょこんとシルバーの耳の間に腰掛けた。
「はぁ~い、賢いお馬ちゃん。この子を無事に送っていくのに協力してね。」
小さくブルルと鼻を鳴らして、静かに素早くシルバーは駈け出した。ビィナスの力なのか、かなり速い。魔鳥を倒した時のようだった。あっと言う間に厩舎に着いた。
「貴方達いい子ね。でも、あんまり根を詰め過ぎちゃダメよ。」
そう言って、ビィナスはシルバーとネルの額にキスをした。
「女神の祝福あれ。」
*****
三日もしないうちに各国の精鋭部隊が結成され、ネルに面通しがされた。各々の魔法のレベルや武器の特技等を確認し、いくつかの隊列のフォーメーションを作る。それをしながらも、暴石についての情報収集も忘れない。ネルは忙しかった。
魔鳥を倒した際、近くに巣があった事も合わせて報告し、見慣れぬ物があったら報告をするよう、徹底する。隣国の洞窟近くにある村の住民には避難勧告も出した。
大方の避難が済んだという報告を受けて、ネルを先頭にした魔物討伐軍は出発した。西の森に入った当初は、ただの雀が飛んだだけでも驚いていた討伐軍の面々も、歩みを進めるにつれて緊張が解けてきたようだ。ネルは周囲を警戒しながらゆっくり進む。きっとこの先でリュートもこっそり合流してくれるに違いない。
国境を越えると、空気が少し重くなったような気がした。兵達もそれを肌で感じたようで、一斉に背を伸ばす。
「魔物はいないようですね…。」
隣国の兵団長であるオスマンが声を掛けてくる。
「まだ姿を現していないだけかもしれない。油断は禁物だ。」
「そうですね。本日は、我が国王も洞窟の視察に来ると申しておりました。」
「そうか…。」
その言葉通り、洞窟にほど近い所に大規模な野営地が作られていた。
「遠い所をご苦労様です。疲れたでしょう?とりあえず、こちらへどうぞ。」
茶や葡萄酒が用意されていたが、ネルは手を付けなかった。代わりに野営地の外でシルバーに草を食べさせた。
「疲れたか?でも、本番はまだこれからだ。頑張っておくれよ。」
そう言って、首筋を撫でて自身は腰に下げている水筒で喉を潤した。野営地に戻ると皆一休みしてリラックスしていた。
「では、向かうと致しましょう。」
足場の悪い道を進んだ先に、問題の洞窟があるという。
「あちらでございます。」
皆が馬から降りて、徒歩になる。隣国の王とオスマンに促されて、ネルは洞窟の封印を間近で見た。何やら独特の文字が書かれた布製の紐で入口が覆われている。
「……。この封印では弱いのではありませんか?もっと頑丈な鉱石等で封じなければ、切られたらおしまいではないですか…」
ネルがそう言った時だった。
「そうなんですよ。」
国王が言い、オスマンが封印の紐を剣で切り裂いた。
「何をっ!?」
咄嗟に剣を構えたネルが瞬時に後ろに飛びのく。
「皆、構えよ!魔法を放て!」
しかし、誰も答えない。ネルはそっと視線を背後にやった。兵達が一人残らず倒れていた。
「!!!」
「いや~、皆様お疲れのようでしたからね。眠り薬入りとも知らず、実に美味しそうに飲み物を飲んで下さいました。ここまで来るのが程よい運動となって全身に薬が回ったようですね。」
オスマンが笑って言う。
「どんなに優秀な兵を集めても、眠っていては使い物になりませんね。」
「そうそう。私の敵ではない。こやつらは寝てるうちに魔物に喰われて死ぬだろう。残すはお前だけだ、ドラゴンテイル。貴様が討伐を失敗し、魔物の洞窟の封印を解いてしまい、魔物が世に放たれた。我々も手を尽くしたがどうにもならなかった。という訳で、この世は魔物が支配する世になるのだ!」
「貴様…っ!」
ネルは唇を噛みしめた。元凶はコイツだったんだ。野望からなのか、魔物に操られているのかは知らないが、この世を魔物で満たすのが狙いだったんだ。そうとは知らず、近隣諸国は各国の精鋭部隊を討伐に差し出し、このざまだ。
「いや~、手始めに小国の一つでも滅ぼすかと思って偵察に放った魔物がやられたと聞いた時は驚きましたよ。それも、こんな若造に。二度も!流石『ドラゴンテイル』と称されるだけある。まぁ、折角ですから、魔物達で溢れる世の中をお見せしてから、魂だけあの世に送って差し上げましょう。これは餞別です。」
ニヤリと下卑た笑いを浮かべた国王が両手を広げると、洞窟の中から青黒く光る蝙蝠が無数に飛び出して来た。
「では、アデュー。」
そう言ったオスマンの口が裂けてヘドロのような黒い粘性の何かが出てきて、再びヒトを形どる。それがネル目掛けて、剣を振り下ろそうとした時だった。
ザシュッと風が吹いて、それは四つに切り裂かれた。
「そんな事はさせないよ。」
今まで聞いた事もないような低い声のリュートがネルの前に降り立った。
「な…、なんだ貴様!ハッ!異形!?まさか…お前がライリーなのか?」
「違うよ。」
「クソッ!こんな所でやられてたまるかっ!お前達、コイツらをやっつけろ!」
国王がそう言うと、洞窟の奥から低い唸り声が聞こえた。闇と一緒に何かがこちらに向かって来る。ネルは右手に剣を持ち、左掌に炎を宿した。
「来るぞ!リュート!」
「うんっ!」
二人目掛けて、魔犬の群れが飛びだしてきた。ネルは炎の礫を放ち、剣で払う。その隙に、国王は洞窟の奥へと逃げていく。洞窟からは次々に魔物が溢れ出てくる。圧倒的に不利だ。先程、放たれた蝙蝠達がどんどんと空を覆う。視界が暗くなり、見えづらい。
「クソッ!」
(この異変に気付けば、城に残った衛兵達も駆けつけてくるだろうが、それには時間がかかる。せめて、今ここで眠っている兵達が起きてくれたら…!)
必死に斬りつけるネルの耳にリュートの声が聞こえた。
「お願いライリー!力を貸して!いちょかみ!にちょかみ!イージーアクション!!」
「馬鹿ッ!やめろ!」
(まだ前回の異形も解けてないのに、ヒトの姿に戻れなくなったらどうするんだ!)
ネルの心配をよそにリュートの異形は進化を遂げた。顔も胴体も鱗に覆われ、背中にはゴワゴワとした毛が生えている。その顔は蛇のようで、腰からはサソリみたいな尻尾が生えていた。
「……嘘…だろ…」
呆然とするネルの前で完全なる異形と化したリュートが雄たけびを上げ、その尻尾で周りにいた魔犬達を一掃した。
「アオーン…!」
狼に似た遠吠えをすると、その体はむくむくと五倍以上の大きさに膨れ上がり、その口から炎を吐いた。空を覆っていた大群の蝙蝠の一部が燃やされ、そこから青空が覗く。
「まさか…異形の力がこれほどのものとは…」
あまりの事に気圧されるネルの背後から声が掛かった。
「お~、お~。遂に完全なる異形徒になっちまったか…。」
「誰だっ!?」
ネルは飛びのき、剣を構える。そこに立っていたのは、恰幅の良い筋肉質の男だった。風呂上がりのように、布を巻きつけただけの簡易な格好をしている。男の髪はリュート同様に黒く、その男の右肩には稲妻のような痣があった。
「まさか…ライリー!?」
ネルは声を上げる。
「おや、嬉しいねぇ、俺の名を知ってるのかい?」
「あぁ、有名だからな。だが…、僕が本で読んだライリーの髪はブロンズだった。お前、本当にライリーなのか?」
そう言われて、男は頭を掻いた。
「おいおい、マジかよ…。散々人を利用して裏切った挙句、死後も自分達に都合のいいように改竄三昧とはおそれいるね…。おい、そこの女神様。いるんだろう?コイツに俺がライリーだって証明してくれよ。」
その言葉に応えるようにビィナスがぴょこんと姿を現す。
「はぁい、ライリー。その姿を見るのは何百年振りかしら?すっかり、毒が抜けたみたいね。」
「あぁ、アイツのおかげでね。」
顎をしゃくった先には異形と化して暴れるリュートの姿。ネルはライリーにしがみついた。
「お願いだ!あの暴石の異形を解く方法を教えてくれ!頼むっ!」
「あ~…」
ライリーはボリボリと顎髭を掻いた。
「残念ながら、あれは暴石によるものじゃねぇ。俺の呪いが移ったもんだ。」
「え?呪い…?」
「あぁ。確かに俺は暴石の力を借りて異形になった。国を救えたら、姫様と結婚させてやるって、当時の王様に言われてな。姫様は大層な別嬪さんだったんだ。おりゃあ、頑張ったね。ところがよ、魔物を全部打ち倒して城に行ったら、王はそんな約束をした覚えは無いと言う。姫様に至っては俺を見て失神してね。それを見た衛兵共は俺を攻撃してくるし…。全く…、ひでぇ目にあったもんだ。」
「……。」
「憎くて悔しい気持ちを抱えたまま、異形の姿で俺は死んだんだ。そのせいか、天国ってやつに行きそびれてな。以来、ずっとこの大陸を彷徨ってた。そしたら、ある時、俺を称える声が聞こえたんだ。アイツだった。馬鹿みたいに「ライリーすごい。かっこいい」ってな。嬉しかったんだよ、俺は。嬉しかったから、アイツの近くを漂ってた。そしたら、急に引っ張られた。」
「引っ張られた…とは?」
「上手く言えないんだが、なんかこう…、アイツの身体に俺の身体が重なるような感覚で一瞬重なったんだ。それで、アイツの声に応えた時、俺の腕の異形がアイツに移動した。その後も同じだ。そして今、俺の異形は完全にアイツの身に移った。だから、あれは俺の呪いなんだ。」
「じゃ、じゃあ…!その呪いはどうやって解いたらいいんだ?」
「さぁなぁ~。」
ライリーは少し離れた小高い丘付近で魔物相手に暴れ回る異形のリュートを見て言った。
「昔は…、約束を破った王と姫様を『ひでぇ奴等だ』と思ったもんだが…。今、こうして完全なる第三者として見たら思うな。ありゃ、バケモンだ。あんなバケモンに愛を誓えるワケね~よなぁ…」
バケモンという言葉がネルの胸をえぐった。
「訂正しろっ!アレはリュートだ。バケモンなどではないっ!」
「…そうは言ってもよォ~。あんだけ暴れてたら、もう人としての片鱗なんざ欠片も残ってねぇんじゃねぇか?それに…、この状況でここに寝てる奴等が目を覚ましたら、真っ先に魔物だと思われて倒されるのはアイツだ。」
ネルの肌が粟立つ。
地上で寝ている兵士の一人が「うぅ~ん…」と動いた。
そうだ、時間がない。
「頼むっ!なんでもいいから呪いを解く手がかりを教えてくれ!」
「そんな事言われてもよォ~…」
う~ん…と腕組みをしたライリーは「心当たりがあるとすれば…アレか…?」とネルに告げる。
「…!?それで解けるのか?」
「分からん。おとぎ話だしな。でも、無理だ。だって、まず肝心の―」と言いかけたライリーの言葉は、ピーッというネルの指笛によって遮られた。
「来いっ、シルバー!」
駆けて来た葦毛の馬に飛び乗ると、ネルは異形のリュートに向かってシルバーを走らせる。
「いいか…。背後からこう…」
馬上から話し掛けると、シルバーは勝手に向きを変え、丘の上目掛けて走り出した。
「おいっ!そっちじゃ…!」と言いかけて、ネルは気付いた。
(そうか…、異形のアイツは大きすぎて、鞍の上に立ったとしても背後からでは尻尾の付け根までしか届かない。なら、あすこの小高い丘の上から飛んだ方が…。)
「お前はやはり、賢いな。」
バシバシとシルバーの首筋を叩いて褒めてから、ネルは手綱を右手一本で握り、左手で首から下げてる守護石を取り出しだ。丘の上を疾走しながら、それをぎゅっと握って口を開く。
「聖なる銀水晶に誓おう。我はこれから口付ける者に、生涯の愛を誓うと!」
そして、シルバーは勢いよく丘の上から跳んだ。ネルも飛んだ。そしてそのまま体当たりする形で異形のリュートに口付けた。固くて冷たい。苦い味だった。手が滑って鱗の首を掴めずに、落下するだけのネルを異形となったリュートの蛇の舌が絡めとる。長い舌でグルグル巻きにされたネルは剣を抜く事もままならない。絡めとられたまま、大きな口へと運ばれる。ネルを見る蛇の目は、透明な鱗で覆われていて、まばたきもしない。それはもう、ネルが知ってるリュートの目では無かった。もうリュートとしての意識もないように見えた。
ネルの目の前で異形の口が開く。細長い牙が無数に並ぶその奥に、昏い穴が見えた。
「…駄目だったか…。ごめんな。約束したのにお前を元に戻してやれなくて…。」
(流石の僕もここまでか…。)
がんじがらめのネルは喰われる覚悟を決めた。
「こんな別れになってしまったが、今までありがとな。僕は…、お前の事好きだったぞ。」
そう言って、自身を喰おうと迫って来た牙の一つにキスをし、目を閉じた。
Ⅷ
(無数の牙に身を裂かれるのが先か、はたまた丸呑みされて胃酸で溶かされるのが先か…。)
目を閉じたネルに、一秒はとても長く感じた。
体が重い…と気付いたネルはそっと目を開けた。大量の蝙蝠に覆い尽くされた空を遮る黒い何かが目に入る。邪魔だと思い、どかそうと触れた時、それがリュートの黒髪だと気付いた。
「――!!!」
ネルはガバッと上体を起こした。ネルにうつ伏せにのしかかるようにヒトに戻ったリュートが気を失って倒れていた。
「も…戻ってる!」
涙目になったネルの安堵を、喧騒が一瞬で吹き飛ばした。
「こ~んぐらっしゅれ~しょんっ!ラブイズパワー!いや~ん!とってもいいもの見せてもらっちゃったあぁ~!」
羽根が消え、何故か大きくグラマラスになってるビィナスがウキウキで言った。
「おいおい~。ただのおとぎ話だと思ってたのに、マジかよ!?こりゃ参ったね。だが、俺はお前さんを気に入ったぜ!」とはライリー。
そして、ポロンと小さな竪琴をつま弾いて、物凄く整った顔の長髪の男が歌うように言った。
「嗚呼!今、ここに蘇る伝説の勇者と暁の乙女の物語!」
「「「誰っ!?」」」
三人の視線を集めた全体的に白い長髪の男は言った。
「これは失礼…。小生ともあろうものが、名乗りを忘れておりました。我が名はダンテ。美しき物語を語り継ぐ者であり、その銀水晶に宿りし者です。」
ネルは首から下げてる銀水晶を見てから、男を見た。まっすぐ伸びた長い髪とその色は確かに銀水晶を思わせる。
「お前が僕の守護者なのか?」
「さぁ…?小生、先程、その石に入ったばかりの新参者です故…。ですが、そう…。極上の物語を見せていただいた分の働きは勿論、致しますよ。そうでございましょう、皆様方。」
長髪の男はビィナスとライリーに呼びかけた。良く見ると、この三人は少し体が透けている。精霊等の類なのであろう。
「もっちろんよぉ~♪極上のラブを浴びて、私は今!全身に力がみなぎってるの!暴れたくってウズウズするわぁ~!」
両手で自身の身体を抱いて見悶えるビィナス。
「そうだな。久し振りにこの体で暴れるのも悪くねぇ…」
心強い。ネルは気を失ったままのリュートをそっとどかして立ち上がる。
「では。これより、魔物殲滅に入る。いいな!」
「おう!」
「まっかせといて~。」
「むべなるかな。」
「よしっ!行くぞっ!」
ネルが再び、シルバーに跨るとすいっとビィナスが抱き着いて来た。
「ねぇ~。前は一度だけって言ったけどぉ~。また共闘しない~?」
押し付けられる豊満な胸に圧倒されながらネルが答える。
「…いいだろう。」
「そうこなくっちゃあ♪」
ウフフと妖艶な笑いを浮かべるとビィナスはネルの額に口付けて言った。
「女神の祝福あれ。それじゃ~、いっくわよ~!三神は女神で、ビューティアクション!」
ネルの身体が眩しい光に包まれて、いつぞやの白光の鎧になった。いや、いつぞやのではない。以前のより華美になっているが、そんな事を気にしている場合ではなかった。
シルバーと共に駆け回り、バッタバタと魔物を斬りつけるがキリがない。何より、再び蝙蝠に覆い尽くされた空のせいで視認が劣る。
「クソッ!まずはアイツらを片付けないと…」と漏らすネルにビィナスは言った。
「弓とか出来て?」
「無論だ!僕を誰だと思っている!」
「じゃ~、話は早いわ。これ、貸してあ~げるっ!」
ビィナスは自身の扇を見せてくる。
「それをどうしろと?」
「これに私の神力をのせて放てばい~んだけどぉ、何か矢の依り代になる貴方の物な~い?」
(そんな事を急に言われても…。大量の蝙蝠に対して、僕は守護石は一つしか持ってないしな…。)
そこでハッと気づいた。大量の蝙蝠に対抗し得る大量の物…。
「あるぞ!」
そう言うとネルは、結い上げた髪を毛先から拳一つ分、剣で斬りおとした。握りしめたそれをビィナスに差し出す。
「これでどうだ?」
「ドラゴンテイルね!これならバッチリよぉ!」
ビィナスから手渡された扇をネルが手にすると、それは白く輝く翼の弓へと変化した。ビィナスがネルの切った髪に触れるとそれは一本の光の矢となったが、空に向かって放れると、それは無数の光の矢に変わった。バサバサと蝙蝠達が消えていく。
「よしっ!」
ネルはどんどん自身の髪をつかんでは切り、弓矢に変えて空へと放った。空はどんどん明るさを取り戻す。ネルの髪はどんどん短くなり、あともう二掴みしかとれないな、と思った時にビィナスが言った。
「いい加減、彼らも目覚める頃よ。ここは総大将として、鼓舞しなくちゃね!」
(確かにそうだ…。兵の士気は高い方がいい。)
ネルはぐっとお腹に力を込めた。
「遠からん者は音に聞け!近くば寄って目にも見よ!我こそは、ハザック皇国の第一皇女ヘレン・シャイニング!魔に打ち勝つドラゴンテイルだっ!者ども、我に続けっ!」
そう叫んで、無数の光の矢を放つ。その神秘の光景に目覚めた兵達が湧きたったのが空気を通して伝わって来る。ネルは最後の一掴みを光の矢に変えて放った。空を覆う蝙蝠の闇は完全に消え去り、雲間から差す光がネルの白光の鎧を照らす。その光景は一枚の絵画のようだ。
兵達が魔物と戦いだしたのを確認して、ネルはリュートの様子を見に戻った。そこでネルが見たのは、倒れたままのリュートを守り、ライリーが魔物を武器に魔物を倒す所だった。
「あ~らよっと!」
禍々しい臭気を放つ牛のような魔物の足を右手で掴むと、左手でもう一体の魔物をひっとらえる。それをお互いに叩きつけ、振り回してから他の魔物に投げつける。
「お~う!武器いらずでいいだろう?」
ネルに気付いたライリーが魔物の角をへし折って、それをそのまま胴体に突き刺す。なんて野蛮な戦闘スタイルだ。
「…僕が読んだ本では、ライリーはすごい剣士だった。」
ネルは言った。こんなライリーを見たら、リュートはがっかりするんじゃないかと思ったからだ。
「おいおい~、マジかよ~。そんなとこまで改竄されてんのか…」
ライリーは苦笑したが、楽しそうだ。久し振りの人間の身体を堪能しているように見える。ネルは下馬して、リュートに触れた。
「おい…!しっかりしろ!大丈夫か…?」
「う…」
ゆっくりとリュートの瞼が開いて、葡萄みたいな目が見えた。
(良かった…。もう、あの蛇の目じゃない…。)
「ネル…?ボク…」
痛む頭をおさえようとして、手を見たリュートが叫んで、ネルを見た。
「戻ってる…!ネル、君が…?」
「あぁ。言っただろ?必ず、僕がお前を元に戻してやると。」
「…うん、うん…。ありがと、ネル。」
リュートはちょっと涙目だ。つられて泣きそうになったけど、ネルは堪えた。
「礼を言うのはこっちの方だ。異形となったお前がかなりの数の魔物を倒してくれて助かった。」
「そうなの?ボク…記憶にない。」
「まぁ、完全な異形となっていたんだ。無理もない。身体はどうだ?痛むところはあるか?」
リュートはゆっくりと立ち上がると言った。
「…大丈夫、みたい。」
そして気付いた。
「ネル!髪が!」
「あぁ、邪魔だったから切った。そんなことより、これから、あの国王をとっ捕まえに行くからお前も来い!」
「…うん。あ、ちょっと待って。行くなら、やっぱり…。お願いライリー!力を貸して!」
そこまで言ったら、「おう!」と傍にいたライリーが答えた。
「えっ!?ライリー?」
「おうよ!」
右手で魔犬の首根っこを掴んでブォンブォン振り回してから、他の魔物に叩きつけたライリーを見て、リュートは目を丸くする。
「すごいっ!ライリー格好いいっ!」
「まぁな~。」
ライリーがニヤリと笑う。ネルは脱力した。
(あんなライリーでもいいんだ…。)
「あっ!でもっ!そしたら、ボクどうしよう…。ライリーがいるなら、ボクもう駄目じゃん…。異形の力は使えない…。」
しゅんとするリュートにライリーは言った。
「おいおい~。馬鹿言ってんじゃねぇよ。一時とはいえ、この俺様の力を使えたお前さんが、へっぽこなワケね~だろぉ~がよっ!」
言いながら、魔物の頭を掴んで勢いよく振り回す。ポロンと音色も響く。
「そうでございますとも!ここからは、貴方様ご自身のお力でやれば良いだけのこと。小生は知っておりますよ?貴方の剣技の腕前を。」
「そうなの?」
言われた本人が一番びっくりしている。
「えぇ。並みの方では、こちらにおわすドラゴンテイル様の剣先を躱し続ける事は不可能でございます。貴方様の剣は敵とみなした者だけを打ち砕く破邪の剣です故、今こそ、腕の見せ所かと。」
そう言って、すいっと長剣を差し出した。
「こちらをお使いになると良いでしょう。」
「あ、ありがとうございます。え、えと…。ボクはリュートって言います。あ、貴方は…?」
ボロロン!と激しくつま弾くとダンテは叫んだ。
「嗚呼!主様が小生にお礼を…!」
なんだか知らないが感極まってるようだ。冷ややかな目で見るネルに気付いて、ダンテは気を取り直す。
「コホン…。小生、ダンテと申す。微力ながら、貴方様をお助け致しますぞ。」
そう言うと、竪琴をかき鳴らしてから、バチンと指先を鳴らした。
「四神は詩人さ、ホーリーアクション。」
ご丁寧にウインク付きだ。『気障ったらしい…』とネルが思った横で、リュートが光に包まれる。光が消えた後には、夜の闇のように黒い鎧をまとい、漆黒の長剣を手にしたリュートが立っていた。
「なにこれ!?ダンテってすごいんだね!ありがとう!」
「そうでございましょう、そうでございましょう。」
ダンテはうんうんと頷き、満面の笑みだ。
「支度が出来たなら行くぞ。」
目覚めてウロウロしていた馬を捕まえると、ネルはリュートに乗るように促し、自身はシルバーに跨った。
「ライリーも来るか?」
「おりゃあ、勝手に移動できっから、後で行くわ!」
「ダンテ、お前は?」
「物語のあるところ、小生はいつだって参ります。」
「あっそ…。」
「ビィナスは…」と言いかけたネルは、森を抜けてこちらに突進してくる自国の軍を発見した。国旗を風に翻して進んで来るその先頭は、ネルの父である現皇帝だった。
「うをををーっ!!!」
物凄い雄たけびを上げ、斧のような大剣を振り回し、残る魔物を引き裂きながらこちらに向かってくる。
「あれなら…、地上の残党はまかせて大丈夫みたいだな。僕達は洞窟に進もう。」
「うんっ!」
Ⅸ
洞窟内にまだ少し潜んでいた魔物を倒しながらある程度進んだところで、急に狭くなった。二人は馬から降りて歩き出す。
「暗いな…」
ネルが言ったら、「お任せ下さい」と声がして、明かりが灯った。ダンテの竪琴が光ってる。
「すごい!便利だね、それ。」
「フフフ…」
話しながら進む。漆黒の鎧をまとうリュートはここでは影のように映る。洞窟内の魔物はもう出尽くしたか、狩り尽くしてしまったのか分からないが、もう出ない。いなくなったようだ。
そして、遂に行き止まりに辿り着いた。行き止まりのように見えたが、良く見ると、苔に覆われた扉のような岩がある。
「これ、開きそうだな。」
「うん…。」
ネルとリュートが二人がかりで押しても動かない。
「ライリーでも呼ぶか?」とネルが言った時、「ちゅど~ん!!」とビィナスの声がして、岩は木端微塵に砕け散った。
「は…?」
砕かれた岩の欠片がパラパラと崩れ落ちる。突然の出来事に二人は驚いて振り返る。
「ちょっとぉ~!地上で頑張る私を置いて行っちゃうなんて、ひどいじゃないのぉ~!」
オレンジ色の髪を逆立たせたビィナスだった。豊満な胸を揺らしながら近付いてくる。
「えっ!?え…?もしかして…君、ビィナス?」
目をぱちくりさせてリュートが言うと「や~ん、大正解~♪さっすがリュートぉ♪」と身をくねらせた。それから、緩んだ顔を真顔に戻して言った。
「上はあらかた片付けてきたわ。あと、この姿に戻れたからには、今後はアフロディテって呼んで欲しいかな?」
口元に手を当て、妖艶な笑みを浮かべる。
「アフロディテ…」とリュートが口にする。
「って!それは、女神の名前じゃないか!」
ネルは叫んだ。
「そ~よぉ。だから、いつも言ってるじゃない。『女神の祝福あれ』って。」
(ヤバい…。)
ネルは冷や汗を禁じ得ない。だって、アフロディテって有名な女神じゃなかったか?そう、確か…。
「私が司るのは、ラブ&ウォー(愛と戦い)。さっき、戦場で極上のラブを浴びて、本来の姿に戻れたの。だから、二人にはとっても感謝してるわ~。そ・ん・なワケで、ここもさっさと片付けちゃいましょ!」
アフロディテの指の先を見ると、あの隣国の王がいた。
「おのれ、ドラゴンテイル…!女神を連れてくるなど卑怯だぞ!恥を知れ!」
「嘘つきにそんな事を言われる筋合いはないっ!」
素早く抜いた剣の切っ先を王の喉元目掛けて突きつけようとネルが飛び出した瞬間、「ダメッ!」とリュートに腰を抱えられ、そのまま背後に押しやられた。見れば、足元に魔法陣が浮かび上がっている。
「チッ!極上の器となる筈が…。」
「そんな事にはさせないよ!」
そう言うと、リュートは飛び出した。
「馬鹿っ!お前こそ、魔法陣を踏むぞ!」
ネルのそれは杞憂に終わった。リュートは異形の時の跳躍力そのままに魔法陣を軽々と飛び越え、長剣を一閃した。ボトリ、と王の首が落ちた。魔法陣が消える。
「さ~て!本命がくるわよぉ~!」
アフロディテがそう言うと、魔法陣が消えた地面がボコボコと音を立てて泡立ち始めた。
「オノレ…!」
黒い泡の塊に光る尖った目と裂けた口がそう叫んで、襲い掛かって来た。ネルは剣先を突き刺すが、一瞬穴が開いただけでまた塞がった。
「チッ…!ノーダメか…。」
「大丈夫。」
そう言って、つーっとアフロディテがネルの剣をなぞる。
「これで、おっけ~。」
アフロディテを信じて、再び剣を振るう。今度は、泡の一部が切れて消えた。
「キエー!!」
黒い泡の魔物が叫ぶ。想定外だったらしい。
「見たか!」
ネルは拳を握って一瞬喜んだものの、すぐに気を引き締め直して、斬撃を繰り出す。泡の一部は切れて消えるものの、新たな泡が生まれ出てキリがない。
「いたちごっこだな…。」
体力をすり減らすだけかもしれないが、ただ待っているだけでは襲われる。自身を守る為にも斬撃の手を休める訳にはいかなかった。攻撃は最大の防御だ。
(リュートは何をしている?)
黒い泡で向こうは見えない。同じように攻撃してくれていると信じて戦い続けるしかなかった。
どれ位、経ったのだろう…。激しい攻防が続き、ネルも泡も疲弊していた。
(まずいな…。あと一撃位しか打ち込める自信がないぞ…。)
ネルの足がふらつく。勝機とばかりに、黒い泡がネルを覆い尽くそうとして――消えた。
「えっ!?」
黒い泡が消えた向こうにリュートが見えた。
「ネルッ!」
よろけたネルを走って来たリュートが受け止める。
「大丈夫っ?」
「あぁ…。お前、何をした?」
「最初に王を切った時に分かったんだ、これはニセモノだって。」
そう言われて視線を動かすと、落ちた首だと思っていたのは、ヘドロの塊だった。
「だから…、この泡の魔物の正体も別にあるんじゃないかと思って…、その…。ネルには悪いんだけど、ここを調べてたんだ。」
さっきまでリュートがいた魔法陣の向こう側に穴を掘った形跡がいくつもあった。近づいて見る。
「なんだ、これは…。」
そこにあったのは、元は宝石箱だったと思われる小さな箱だった。中にある石は砕かれていた。
「これは、リュートが?」
「うん。それを砕いたら消えた。」
「を~、を~。こりゃ、暴石じゃないか」と声がして二人は振り向く。いつの間にか、ライリーがいた。
「これが…暴石…。」
「あぁ、そうだ。随分と古い。」
「そうね…。そうして、昔はもっと強かった…。」
暴石の欠片をつまみ上げたアフロディテは、それを拳で握りつぶした。開いた掌から暴石が砂のように零れ落ちる。
「これは…かつての神が魔物に堕ちたもの。美しくないわ。リュート、割ってくれてありがとう。」
「うん…。」
ポロン、と竪琴が響く。
「嗚呼。かつて志を共にしていた者を砕く哀愁の女神…」
ギロリとアフロディテがダンテを睨む。
「友だったのか?」
ネルの問いにアフロディテは答えた。
「姉だったのよ。私と同じくラブ&ウォーの天秤を同量にしておけば良かったのに、ウォーに溺れて、魔物に堕ちた。そうして戦乱の世を起こした。たくさんの人が死んだわ。その頃の私は姉に力が及ばなかったから、調石師に頼んだの。『姉を封じて』って。調石師は上手くやってくれた。姉は暴石になった。そして、私はその石をお気に入りの宝石箱に入れてここに埋めたの。封印もしっかりしたわ。でもね…、長い歳月が経つと封印が緩むの。平和に飽きた人々が戦争を望むから。そうして、今回みたいな事が起こる訳よ…。」
「成程…。では、本物の国王はどこに?」
「多分、あれじゃない?」
泡の魔物を倒した後の、消えた魔法陣の端に元は人であったのだろうと思われる塊があった。
「本物の国王は既に死んでいて、魔物が王に成りすましていたという訳か…。」
「そうみたい。なら、これで一安心だね、」
リュートはニコッと笑ったが、ネルは言った。
「いや、ちょっと待て!さっきは聞き流したが、調石師とは何だ!?そして、アフロディテともあろう女神がなんでリュートの耳飾りなんかにいるんだ?分からない事だらけだ!」
「あぁ、そりゃ多分、俺らが調石師だからだ。」
「は?」
複数形の意味が分からず、聞き返したネルにライリーは問いかける。
「俺と、リュートの共通点はなんだ?」
「え?黒髪?」
「そうだ。俺達“クロトー”の中には、代々、石の声を聞く事が出来る特技を持った者が産まれる。その中で特に優れた技能を持つ者が調石師となり、石に色んなものを封じ込めるんだ。最初見たアフロディテは小さかったろ?それはおそらく…、過去にソイツの身内が弱ったアフロディテを見付けて石の中に保護したんだ。大事な女神様だからな。」
「えっ!?そうだったの?」
驚くリュート見て、ネルは昔を思い出す。河原で拾った石を「帰りたいって泣くから」と返しに行ってたリュート。あれは…本当に聞こえてたのか…。
「そうだ。魔物なんかを閉じ込めてその力を使えば、異形の力を手に入れられる…んだが、俺みたいにやらかす奴もいる」と言って笑った。
「そうそう。本来の魔石なら、ドラゴンとかまともなモノを封じて召喚出来るのだけど…。貴方達もライリーの戦い方を見たでしょう?あれのせいで、キメラの暴石が出来ちゃうのよ。全く…ライリーってば粗製乱造なんだから~。」
アフロディテが呆れたように言う。
「じゃ…、じゃあ!リュートは意図せず、ライリーを暴石化してたってことなのか?」
ネルは驚いて聞き返す。
「う~ん…。言われてみりゃあ、そうなのかもな…。俺ぁ、自分で暴石を作った事はあっても、なった事は無かったからなぁ…。そうか!暴石になる時って、あんな感じなのか…。知らなかったわ!ま、俺はともかくとして、そこのあんちゃんは間違いなく、無意識にコイツが石に引っ張り込んでる。調石師として、かなりの素質があるのは分かったから、コイツは俺が責任を持って、立派な調石師に育ててやんよ!」
ガッハッハとライリーが笑う。リュートはダンテに対して恐縮し、ダンテは「お気遣い無く。小生とても満足しておりますので」と答えている。
その時、「おーいおーい!」と洞窟の入り口方向から呼ぶ声が聞こえた。
「いったん出よう。お前達はどうする?」
ライリーとアフロディテとダンテは顔を見合わせて頷くと消えた。どうやら、面倒事から逃げたらしい。
「なんて奴等だ…。」
「まぁまぁ…。いっぱい、助けてもらったし、いいじゃない」と言ってから、「いけない!忘れてた!」とリュートは慌ててしゃがみ込んだ。
「何をしている?」
「だって…。ネル、見下ろすと怒るから…」
「あぁ…。」
(そんな事もあったな…。)
「それはもういい。そんな事で腹を立てるのはもうやめた。」
「そうなの?ホントに怒らない?」
「しつこいな!怒らないって言っただろ!」
いつもと同じような会話が出来る喜びをかみしめながら、ネルは洞窟を出た。ネルの父である現皇帝を始めとする一団が二人を待ち構えていた。
「無事だったんだな…」と言う父の言葉に、ネルは「お陰様で」と素っ気なく返した。それから、以下の報告をした。魔物が国王に成りすましていた事、本物の国王はこの洞窟の奥で屍になっている事。そして、元凶となった暴石をリュートが破壊し、ボスである魔物を倒した事。
「洞窟内の魔物は全て討伐したと思いますが、流石に体力の限界です。残党については、あとはそちらに一任し、ワタクシを総大将の任から解いていただきたく願います。」
「分かった。では、ここからは騎士団長のファルマンにその座をひきつごう。」
「「「異議なーし!」」」
「君達には休息が必要不可欠だ。あの馬車に乗るがよい。今から城に帰ろう。」
馬車に向かって歩きながら、リュートはネルに小声で訊いた。
「ねぇ。なんで、ボクに手柄を譲るような物言いをしたの?」
「お前が大量の魔物を倒し、暴石を壊したのは事実だ。最強の魔物を倒したのが黒髪の英雄だと知れ渡れば、“クロトー”に対する謂れのない偏見も少しは減るだろ?」
「…さっすがネル!そんな先の事まで考えてたなんてすごいや!」
「当たり前だ。僕を誰だと思ってる。」
疲れ切っていたネルとリュートは、馬車の中で仲良く並んで眠りについた。
*****
「ヴッ、ヴッヴッヴッ…!」
ネルは誰かの嗚咽で目が覚めた。頭がぼんやりする。体中が重くて瞼が開かない。
「もう~。いい加減泣き止んで下さいな。とりあえず、無事で良かったじゃないですか。…もぉ!だから、いつも言ってるじゃないですか!もう少し、あの子との時間を作ればいいのに、って…」
「ぞ、ぞんな事を言ったって…あんなに可愛いんだぞ!目に入れたら…、構い倒したくなるだーが!剣もやるんだぞ…。そんなん…自分で稽古をつけたくなるだろーが!!でもっ!!そうしたら、今日みたいに執務を放り出したってお前や大臣達が怒るんじゃないかっ!うう…っ。」
「まぁ~…。流石に今日の出陣に関しては部分もありましたけど…。仮にも一国のトップが、護衛兵よりも先に立って魔物の群れに突っ込んでいくのはどうなのかしら…って話ですわ…」
「何を言うっ!可愛いネルが魔物にやられるかもしれなかったんだぞ!それを…他の奴になんか任しておけるかっ!」
「…なら、日頃からもっと、その気持ちを伝えないと…。あの子はきっと…貴方に嫌われていると思ってますよ。」
「そんな訳ないだろう!目に入れても痛くない自慢の愛娘だ!ネルの為にあの銀水晶も一等いい馬も手に入れたんだ!それなのに…。いつか…、いつかあの子がワシの元を離れてよその国にお嫁にいってしまうと考えたら…無理だっ!耐えられんっ!泣いてしまうぅ~!なるべく顔を見ないようにしなくてはぁ~!…うっ、ううっ…。なんで、あの子は男の子じゃなかったんだ!男の子だったら、ずっとワシの手元においておけたのにっ!」
(――――っ!!!)
ネルの記憶が繋がった。
(三歳のあの時も、父は今と同じ気持ちであの言葉を言っていたのか…。)
今更ながら後悔した。
(あの時、目を開けて、「それってどういう意味?」って素直に聞けば良かった。難しい本を読めた事を報告したあの日も「どうして、父上はこちらを向いて話を聞いてくれないのですか?」と一言訊けば良かったんだ。思い返せば、そんなことばかりだ。父も自分も歩み寄る事から逃げていた…。)
「親子だなぁ…」って呟いたら、両親がネルを見た。
「ネルッ!?大丈夫なのかっ!?」
「どこも痛くない?」
「…流石に、体の節々が痛みますが、致命傷ではないと思います。あぁ、父上のお気に入りの髪は相当短くなりましたがね…」
「お…っ、お前が無事ならそれでいいんだっ!髪の毛はせめて女の子らしくあれ、と思って言っていたにすぎぬっ!」
(そうだったんだ…。別に自分は髪の毛以下の存在じゃなかったんだな…、)
疲れ切って起き上がれないネルに母が「この人は恥ずかしがって「言わないでくれ」って言うけどね」と前置きして、ネルが産まれた時の話をしてくれた、ネルが産まれた時、物凄く喜んで授乳の時以外はずっと腕に抱いていたこと。その状態が一月以上続いて執務や外交に支障が出まくりで大臣達に詰められたこと。溺愛するあまり、視界に入れると仕事が全く手に着かなくなるので敢えて見ないようにしていた事、その他諸々…。他人が聞いたら、呆れる話だ。
「何それ…」
思わず、ネルはプッと吹き出した。弟が産まれた時以上じゃないか…。
その晩は、両親とたくさんの話をした。ネルのわだかまりが消えた夜だった。
Ⅹ
一方、完全な異形となっていた反動がでたのか、丸三日リュートは目を覚まさなかった。ネルは朝昼晩と一日三回様子を見に、城の医務室に通った。
ようやくリュートが目を開けた時、ネルは心からホッとした。リュートが目覚めたと聞いて、皇帝もやって来た。
「こたびの働き、実に見事であった。今、魔物討伐をした君を称える宴の準備をしている。各国から君に縁談話もきているぞ。楽しみだな。」
そう告げると、ハッハッハ…と笑って去って行った。
「エンダン?なにそれ?」
「生涯を共に過ごしましょう、という結婚の約束だな。」
「ケッコン?そんなの別にいいのに…。」
「いや、良くはないだろう?誰か気に入った娘がいたなら、証となる物を差し出して申し込めばいい。こんな風にな。」
そう言って、ネルは片脚で跪いた。
「わぁ!ネルカッコいい!ネルに申し込まれる子は幸せだね。」
屈託のない笑顔で返されて、内心ネルは頭を抱える。
(そうだろうなとは思っていたが…。コイツやっぱり、僕の事を完全に男だと思っているな。)
無理もない。父のあの言葉のせいで、幼い頃からずっとネルは男の子の格好をしてきた。口も悪い上に手も早いから、さんざんリュートをはたいてきた。その気性と容姿から『ドラゴンテイル』の異名がついた程の男勝りだ。魔物を討つ矢の依り代に使ったことで、今のネルの髪の毛はリュートよりも短い。動きが妨げられるのが嫌で、胸にはいつもきつくさらしを巻いてるせいでアフロディテみたいな豊満な胸もない。ぺたんこだ。これで気付け、という方が無理だろう…。
「まぁ…。見聞を広げる為にいろんな人達に会うのは無駄じゃない。気楽にいけよ。イージーゴーだ。」
「うん。イージーゴー、」
翌日、城の者達の手によって仕立てあげられた礼服を身にまとい、髪をセットされたリュートはかなりの男前に仕上がった。
「いいじゃないか!どこぞの御落胤と言ったら、信じる奴がいるんじゃないか?」
ネルは笑ってそう言った。
「助けて、ネル!今日、これから知らない人達とお茶を飲むって話に勝手になってたんだ!」
「魔物と違って、とって喰われる訳じゃない。気楽に行けよ。これも勉強だ。」
ポンと背中をはたく。
「ネルは…一緒に行ってくれないの?」
捨てられた犬のような目で見てくる。
「あぁ、僕にはやらなきゃならない事があるんでね。」
そうなのだ。本当はリュートに悪い虫がつかないように見張っていたい。けれど、各国からの要請で、早く魔物討伐の報告書をまとめねばならなかったのだ。
自室に籠って報告書をまとめる。途中、手が疲れたのでいったん休憩した。ベランダに出て、下を見る。庭園に設けられた茶席で、綺麗に着飾った令嬢達に囲まれているリュートが見えた。
「何だよ…。楽しそうじゃないか…。」
一緒に魔物を倒したのに、自分だけが報告書を作っているのが腹立たしかった。
その夜、眠れずにベランダから噴水を見ていたネルの横で、ポロンと竪琴が鳴った。
「憂いの夜でございますな。夜風は体に障ります故、長居はお勧め致しませんよ。」
ネルは横目でダンテを見て言った。
「なんだ、お前か…。何用だ?」
「特に用はございませんが…。あまりに哀愁漂うお姿を見て、声を掛けずにはいられなかった次第でございます。」
そう言って、静かに竪琴をつまびく。
「…いい曲だ。」
「お心を癒すひとときになれていたなら、光栄でございます。」
ダンテは一礼してから口を開いた。
「我が主に、お伝えしなくてよろしいのですか?」
「何をだ?」
「魔物討伐の日に、あの女神アフロディテを感動させた告白劇の一部始終をですよ。貴方様の口からは恥ずかしいと言うのであれば、このダンテが!二つ返事で引き受けましょう!」
「…いい。やめろ。どうせ、面白おかしく脚色する気だろ。」
「まさか?そんな事は致しませぬよ。」
「どーだか…。」
ふぅ、とネルは溜め息をつく。それから訊いた。
「なぁ…、お前は物語について詳しいんだろう?」
「えぇ、古今東西何なりとお聞きください。全てに答えてみせましょう!」
「なら…、教えてくれ。今回のリュートの呪いは、ライリーがいうところの古の童話のお約束“姫のキス”で解かれた。なら、それ系の童話は全部『めでたしめでたし』で終わるのか?」
それを聞いたダンテは口の端で小さく笑った。
「本当に貴方は難儀なお方だ…。その問いに答えましょう。答えは『大半は』です、」
「……残りはどうなった?」
「有名どころといたしましては…、選ばれなかった姫は海の泡となって消えたそうですよ。」
「…そうか。泡になって消えるなら、それも有りだな。ありがとう。もう寝る。おやすみ。」
ネルは片手を上げて挨拶すると「お前も休めよ」と言い残して寝室に消えた。
残されたダンテは小さく呟く。
「全く…手のかかる御仁ですね。我が主もあれでは手を焼くでしょう…。」
*****
「寝る」と言って、ベッドに入ったネルだったが、心はザワザワするし、目が冴えて一向に眠れない。一旦、寝るのを諦めていつもの服に着替えると、ネルはそっと自室を抜け出した。
リュートがいる筈の医務室の扉をそっと開ける。部屋はもぬけの殻だった。
「…いないのか…。」
何かが胸を締め付ける。
(もしかして…、昼に会った令嬢の誰かに心奪われて、その娘の元にいるのかもしれない…。)
ネルの心はぐちゃぐちゃになる。
(こんな気持ちの時…どうしていたっけ?)
ネルは昔を思い出す。
ぐちゃぐちゃな気持ちでここを飛び出した時にリュートに出会った。イライラをぶつけた。そうだ、嫌な事があった時はリュートに話してた。話しているうちに落ち着いたんだっけ。そうだ…。異形の姿に向かって必死にシルバーを走らせた時も、似たような事を考えてた。
『お前がいなくなったら…、僕は誰に自分の気持ちをぶつければいいんだよ!?』
『ドラゴンテイル』などと呼ばれ、気楽に胸の内を相談出来る友などいないネルにとって、リュートが唯一の心安らぐ友だった。それなのに…。どうして、お前は僕を好きにならない…。
「アイツ馬鹿だからな。広い庭園で迷子になっているのかもしれん。」
心とは裏腹にそう悪態をつきながら、ネルはイライラして夜の庭園を歩き回った。垣根の裏にもリュートはいない。
(…あの馬鹿ッ!まさか本当に、どっかの令嬢の所に泊まってるんじゃないだろうな…。)
イライラして怒鳴りたい気持ちと、良く分からないけど泣きたい気持ちの半々で、ネルは厩舎に足を向けた。リュートがダメなら、シルバーに胸の内を話して落ち着こうと思ったのだ。奥にある馬房の入口に体を押し付けるようにしているシルバーが見えた。おかしい。寝る時はいつも奥の藁の山で体を休めている筈なのに…。心がザワッとした。
(まさか、シルバーの身にも何か異変が!?)
足早に駆け寄る。
「シルバー?」
呼びかけると、シルバーはパチリと目を開け、ゆらりと立ち上がった。そして「あれを見ろ」と言わんばかりに首を後ろに振る。いつもシルバーが休む藁の山に見慣れた黒髪が見えた。
「!!」
ネルは馬房に入り、藁の山に向かった。気持ちよさそうに眠るリュートがいた。
「…こンの馬鹿…!」
ネルが拳を握って、リュートの頭に振り下ろそうとした時だ。リュートの口が開いた。
「ネルが…」
「…僕が…なんだ?」
質問の答えは無かった。リュートは幸せそうに寝ていた。どうやら今のは寝言だったらしい。なんだか毒気を抜かれてしまったネルは拳を下ろし、リュートの身体をゆすった。
「おい、起きろ。」
「ん~…。」
何回かゆすって、ようやくリュートは目を開けた。
「あれ…?ネル…?」
「起きたか?お前、こんな所で何をしている。ここはシルバーの寝床だぞ。見ろ!お前のせいで、シルバーが向こうで寝ておがくずまみれだ。どうしてくれる?」
「わっ!ご、ごめんねネル。ごめんねシルバー。」
リュートはそう言うと慌てて起き上がり、シルバーの身体のおがくずをせっせと掃った。全部払い終えると「ありがとうね」とシルバーにお礼を言っていた。
「ほら行くぞ。」
ネルはリュートを馬房から追い立てる。二人が出るとシルバーは『やれやれ』と言ったていで藁の山へゆっくり体を埋めた。
「で?お前はなんでシルバーの馬房で寝てたんだ?令嬢達と楽しくお茶を飲んでたんじゃなかったのか?見ろ、折角作った一張羅が馬臭くなった上によれてしまったじゃないか!」
リュートに小言を言いながら、ネルはずんずんリュートの先を歩く。
「た、楽しくなんて無かったよ…。ネルはいないし、皆はボクに『魔物がでたら守って欲しい』って言うばかりだし。あと、い、言ったら怒られるかもだけど、全員匂いがきつくって…ボク、頭が痛くなっちゃったんだ。だから厠に行く振りしてそこを抜け出して…。朝いた部屋に戻ろうとしたんだけど、場所が分からなくてさ…。馬の匂いがしたからこっちに来たんだ。そこで、シルバーを見付けたから『お願い』って事情を離したら、「こっち」って言わんばかりに首を後ろに振ってくれたの。だからボク、馬房に入ったんだ。そうしたら、鼻先でボクを押して藁の山に連れてってくれて、シルバーは馬房の入口を塞いでボクを見えなくしてくれたんだ。シルバーってすごいよね!絶対、ボクの言葉を理解してるよね?」
愛馬を褒められたら悪い気はしない。
「まぁな。シルバーは賢いからな。」
「うん。飼い主のネルそっくりだよね。」
「そうか?」
「うん。」
「まぁ、それはさておき。令嬢方はこぞってお気に入りの香水をつけているんだ。間違っても「臭い」なんて言うんじゃないぞ。」
「…うん。でもさ、なんでそんなのつけるのかな?ボクには分からないよ。」
「好きな香りを纏っているといい気分になれるだろ?作法の一種でもある。あとは…、異性を振り向かせる香水やら何やら、用途によって色々使い分けるみたいだぞ。」
「へぇ~、そうなんだ。流石ネル。物知りだね。」
「あぁ。ときに。お前、さっき何の夢を見ていたんだ?」
「えっ!?な、なんで…?」
「寝言で僕の名前を言っていた。」
「えっ!?ええ~…。あ、あぁ~、そ、そうなの?急に起こされたから忘れちゃったよ…。」
嘘だな、とネルは思った。その証拠に目が泳いでいる。でも、追及はしないでやった。
屋敷に入り、使用人を呼ぶ。
「すまない。迷子になってたコイツに風呂と着替えをさせてから、もとの医務室に帰してやってくれ。その際、この汚れた服一式を明日の式典に間に合うよう、綺麗にしておいてもらえるか?」
「かしこまりました。」
「小腹を空かしてるようなら、軽食も食べさせてやってくれ。頼んだぞ。」
「はい、では、勇者様こちらへ。」
「え?あ…、待っ―」
「じゃあな、明日式典で。」
ネルは使用人に指示だけ出すと、リュートを振り返らず右手だけ上げてその場を離れた。
Ⅺ
今日は、魔物を倒した勇者を称える式典だ。
まずは、甲冑姿で馬に乗ってのパレード。民衆から大きな拍手と感謝の言葉が送られた。城に戻った後は、礼服に着替えてのパーティだ。
綺麗にしてもらった礼服を着て、会場である大広間に入ったリュートを見届けてからネルは自室に戻った。クローゼットにあるドレスを胸に当ててみる。ふわふわと柔らかい素材のドレスはネルには似合わない。かといって、胸元が大きく開いているドレスはもっと似合わない。ネルは軍服に着替えた。
(もういいや、これでいこう。)
その時、「やだ~!ネルちゃんてば、し~んじらんないっ!」と声がした。アフロディテだった。
「何だ?」
「まさかと思うけど…、その格好で式典に出るつもりじゃあないでしょ~ね?」
「悪いか?これも正装だぞ。」
「悪いにっ!決まってんでしょ~がっ!」
噛みつく勢いでアフロディテが言い返す。勢いに押されて、たじろぐネル。
「そんな事を言われても…」
「あ~、ハイハイ。アンタの事は分かってるわよ。だ・か・ら!この私が、アンタにピッタリのドレスを用意してあげたから、これを着なさい!ほらっ!」
そう言って、ぐいっと押し付けられる。それは光沢のある青のグラデーションが美しいタイトなドレスだった。空の青から海の碧へと足元に向かって濃くなっている。首元までボタンのあるかちりとした作りで、上だけ見たらドレスとは思わない。脇からは大きくスリットが入っているが、そこからは銀の薄絹のレースが覗く。更にその下はズボンになっているようだ。
「異国の服よ。それなら、アンタにも似合うでしょ。」
そう言われて素直に着た。ネルの銀の髪と青い目に合わせてしつらえたように似合っていた。
「ほら~、バッチリ!私の目に狂いは無いわ!今日のハレの日にピッタリよ!素敵!」
満面の笑顔で背中を押される。ネルは式典の行われている大広間に向かった。だが、ネルが入ったのは、大広間の上に設けられている室内バルコニーだ。今日の主催はこの城の主であるネルの父。その後ろにそっと腰を下ろしたネルを見て、弟が目を見開いた。
「…ど、どうしたのですか?」
「何が?」
「あ…、その…。そのような服を着ている所を初めて見ましたので…少々驚いてしまいました、」
「あぁ。たまにはな。」
そう言って、ネルは近くにあったグラスを手に取った。大広間で沢山の人々に話しかけられて、リュートは困っている様に見える。その時、皇帝が口を開いた。。
「勇者リュートよ。汝に褒美の品をとらせよう。なんなりと申すが良い。」
大広間にいた人々が、さっと脇に退き、大広間の中央にリュート一人が残される。リュートは慌てて、片膝をつき答えた。
「勿体ないお言葉、ありがとうございます。でも…特に欲しい物はございません。」
「そう言うな。武勲を立てた者にはきちんと報酬が払われなくてはならぬ。」
「では…、西の森近くの教会の修繕をお願い出来ますでしょうか?」
「良い。他には?」
「え?えぇと…。では、その隣にある孤児院にいくばくかの支援をお願い出来れば…」
「良かろう。他には?」
「特に…ありません。」
リュートは頭を下げた。皇帝は続けて問う。
「各国からの縁談話はどうする?」
「そ…っ、それは…。自分には勿体無さ過ぎるのでお断りさせて下さい。皆様、本当に申し訳ございません。」
リュートが深く頭を下げてそう言った。ネルはホッとした。
「そうか…。では、他に望みはないか?物でなくても良いぞ?」
その言葉にリュートは顔を上げた。高い場所にいるネルと目が合った。二人のいる場所の違いが、二人の身分の高さの違いだった。リュートはネルがお城に住んでいる『オキゾクサマ』である事を認識した。
(いつだってネルが会いに来てくれた。もし、ネルが会いに来てくれなくなったら、今後はもう会えないかもしれない…。そんなの…嫌だ!)
リュートはキュッと拳を握って言った。
「で、では…!ボクにネルに会いに来る権利を下さいっ!」
「ネ…ネル呼びだと…!?」
皇帝の持っていた立派な杖がバキッと音を立てた。皇帝に握りつぶされたのだ。無理もない。『ネル』とはごく親しい者だけが呼ぶ事を許される『ヘレン』の愛称なのだ。愛娘をいきなり愛称呼びした男を前に皇帝はわなわなと震え、無言であった。
だから、代わりにネルが答えた。
「いいだろう。」
「なっ!?ネル!?」
「会いに来る権利だけでいいのか?今なら、僕を丸ごとやるぞ。」
ネルは立ち上がる。驚いてネルを振り返った父の横を通り過ぎて、高い室内バルコニーの先に立つ。柵で下半身は見えない。
「え1?それって、どういう…」
混乱するリュートの言葉を遮って、ネルは勢いよく室内バルコニーの柵を飛び越えた。リュートは咄嗟に落ちてくるネルを受け止めようと前方に走り出す。ネルの青いスリットの入ったスカートが大きく開く、銀沙のレースが海の泡のように広がった。
リュートは降って来たネルを両腕で受け止め、驚いたように言った。
「ネルッ!君、女の子だったの!?」
「そうだ。」
「えっ!?じゃ…、じゃあ…!」
ネルを両腕で抱き抱えたまま、リュートは言った。
「ネル!ボクとケッコンして!お願いしますっ!」
ネルは笑った。嬉しかったんだ。でも、ネルの口からでた言葉は「はい」じゃなかった。
「どうしても?」
「うん!どうしてもっ!だってボク、ネルが大好きだから!」
その時、盛大な音楽が鳴った。
「嗚呼!今、ここから伝説の勇者と暁の乙女の物語が新たに始まる!皆の者、祝うが良い!」
ダンテであった。それに応えるかのようにアフロディテが姿を現した。その姿を見て、会場を守っていた衛兵たちがどよめいた。
「あの時、戦場で見た女神様だ!」
「集団幻覚じゃなかった!」
「本当にいたんだ!」
その場にいた各国の王や重鎮達も驚いた。
「壁画と同じだ!」
「奇跡だ!」
「おお!神よ…!」
それらの反応を満足そうに眺めて、アフロディテは微笑んだ。
「貴方達に、女神の祝福あれ。」
そんな光景を見たら、皇帝だって二人を祝福するしかなかった。
エピローグ
白く長い髪を持つ男が竪琴片手に歌うように話している。
「――こうして、めでたく結ばれた二人は、まだ知られざる暴石の謎を解き明かすべく研究を重ね、旅に出けたりするのでございます。」
そこで男は竪琴を弾く手をとめ、こちらを見た。
「…おっと、時間がきたようですな。では、今回はこのへんで…。」
男が一礼すると、銀色の風が吹いた。
風がやんだ時、そこにはもう誰の姿も無かった。
〈終わり〉