第6話 メイヤー・アレキサンダードの悲劇
ブライト第2王子が訪れた日から、数日が過ぎた。
私は依然として体調が優れないと理由をつけ、ルプ以外の人とは接触を控えている。
完全に引きこもり状態だ。
「お嬢様…少しは外にお出にならないと、逆にお身体に障ります…」
ルプが朝食を運びながら、心配そうに私を諭す。
大きな窓から差し込む柔らかな春の日差しが、まだ少し冷たい空気の中で淡く部屋を照らしていた。
「…うん。やっぱりそうだよね…」
気の利いた返事ができず、私はため息をつく。
あれから、ルプといろいろ話していくうちに、いくつか分かったことがある。
まず、エレステ・アレキサンダードは元々病弱で、よく倒れたり発熱を起こすことがあったらしい。
そのため、彼女が体調を理由に引きこもっていることは、誰も特に疑問を持たないようだ。
ロベルトさんは父性が強く、エレステを溺愛しているが、エレステはいつも冷たくあしらっていたそうだ。
弟のメイヤーくんもまた、姉を慕っているが、彼に対しても同様に冷淡な態度を取っていたという。
さすがエレステ!あっぱれな悪役令嬢っぷりだ!
そんなことを考えていると、大きなプレッシャーが肩にのしかかる。
私には、現実世界に両親がいた。
父は警察官で、「人を傷つけてはいけない。悪人を見つけたら、警察に通報すること」と教えられた。
母は教員で、「先輩を尊敬し、後輩を守ること。いじめられても、いじめてはいけない」と叩き込まれた。
こんな教育を受けてきた私が、エレステのように冷酷無慈悲に振る舞えるわけがない!
しかし、春の訪れを感じさせるこの3月の空気は、セント・ヴェイレア学園の入学の日が迫っているを知らせている。
ガシャーン――。
突然、窓の外から大きな音が響いた。
まるで重い陶器が砕け散ったかのような破裂音だ。
私は驚き、ルプと顔を見合わせてから、急いで窓際に駆け寄る。
窓を開けると、アレキサンダード家の広大な庭とエントランスの光景が一気に目に飛び込んできた。
庭の中央には、見事な噴水があり、そこからは澄んだ水が優雅に流れ出し、石造りの池で光を反射していた。
その静かな美しさとは対照的に、広いエントランスの石畳には、数々の豪華な食器や陶器の破片が無残にも散らばっていた。
それは、間もなく開かれるセント・ヴェイレア学園入学祝いの夜会で使われる予定の、王国から預かった貴重な食器や重器の数々だ。
まさに、王国の威信を象徴するような豪奢な品々が、いくつも粉々になって地面に散乱している。
「何をやっているんですか!!!」
指示書を片手に握りしめ、もう片方の手で頭を抱えるメイヤーくんが、その惨状の傍らに立っていた。
彼の声は怒りと焦りに震えている。
庭師や使用人たちがあたふたと割れた食器を片付けているが、メイヤーくんはその混乱の中心で、明らかに困り果てた表情を浮かべている。
彼が握りしめる紙は、おそらくこの貴重な品々の搬入を指示するものだったのだろう。
しかし、今やその計画は崩れ去り、彼の肩には重い責任がのしかかっているのが見て取れた。
ルプも窓越しにその様子を見て、心配そうにため息をつく。
「大変なことになってしまいましたね…メイヤー様も気の毒に…」
私も思わず息を飲んだ。
今日に限ってロベルトさんは、家を空けている。
今すぐ助けに行きたい!
だけど、この世界で私は冷酷で無慈悲な悪役令嬢だ。
そんなエレステが急に誰かを助けるなんて、不自然すぎるんじゃないだろうか…
それに、メイヤーくんはいつも姉であるエレステに冷たくされてきたはず。
今さら優しい姉を演じても、彼を混乱させてしまうだけかもしれない。
私は窓辺に手をつき、少し俯きながら考え込んだ。
「これは一体、どうしましたかな?」
後方の馬車の戸が開き、鼻髭を生やした恰幅のよい男性が降りてきた。
「王室執事長のマックス・フェルダー卿です。」
この数日のやり取りで、ルプは、質問しなくても彼女の知り得る人物名を阿吽の呼吸で教えてくれるようになっていた。
窓から見下ろすと、フェルダー卿が重厚な足音を響かせながら石畳を歩いてくる。
その歩調は、あえてゆっくりとしており、まるでこの混乱を楽しんでいるかのように見える。
彼の恰幅のよい体からは威圧感が漂い、太った腹の上に重なった金ボタンの衣装が、光を反射してきらりと輝いている。
噴水の音が静かに響く中で、フェルダー卿は無惨に割れた破片を一瞥し、周囲に知らしめるような大きな声で
「これはまた残念な光景ですなー!
アレキサンダード家の名誉がかかる重要な夜会で、こうも大事な品々が…どうなさるおつもりですか?!」
彼はメイヤーくんの反応を楽しむように見つめている。
庭師や使用人たちは、フェルダー卿の姿を認めるやいなや、手元の作業を中断し、怯えた表情で彼を見つめる。
メイヤーくんはフェルダー卿の方を向くのが精一杯というように、その肩はガクガクと震えている。
「メイヤー様、ロベルト様はいらっしゃるかなー!?」
捲し立てるようにフェルダー卿が話す。
「ち、父上は…ふ……ふざ…い」
震えながら話すメイヤーくんを遮る様にフェルダー卿が声を張り上げる
「はあ!?全く聞こえませんなあ!」
こんな意地悪オヤジに、メイヤーくんが虐められるなんて黙って見てられない!
「私、行くわ!」
「お、お嬢様!?お支度がまだです!!!」
驚いて止めようとするルプをよそに、私は勢い任せに部屋を飛び出した。
ただ急ぐ気持ちだけで、廊下を駆け抜ける。
私の慌ただしい足音が館内に響く。
普段は賑やかな館内が、今はまるで人の気配が消えたかのように静まり返っていた。
豪華な絨毯が敷かれた廊下を走り抜け、私は螺旋階段に飛び込む。
重厚な手すりを掴みながら一気に駆け下りる、途中、壁に掛けられた家族写真のような大きな絵画が目に入る。
たけど、今は気にしている暇はない。
やがて、エントランスホールにたどり着く。
高い天井と豪華なシャンデリア、真紅の絨毯が広がり、私を迎える。
玄関の大きな扉を目指し、さらに足を速めるとザワザワとした人の声が聞こえてきた。
外の騒ぎに気を取られた使用人たちがほとんど外に出てしまっているようだ。
「ふう」
私は深呼吸をしてから扉を開けた。
扉が大きな音を立てて、バタンと開くと、空気が一変して静寂が広がった。
全員の視線が私に集まり、メイヤーくんがその中心で、顔を青ざめさせながら私を見上げている。
彼の目には涙が浮かんでおり、必死に助けを求めているように見えた。
しかし、目の前にいるエレステに何も期待してはいけないと絶望したようにすぐ顔をそむけた。
「おやおや、これはまた…」
フェルダー卿が口元に皮肉な笑みを浮かべながら、私の姿をじっと見つめた。
「ふむ…エレステ様はさすがですね。何もかも完璧でいらっしゃる。たとえば、その大胆なお召し物など…」
彼の声は甘く、しかしその裏には露骨な嘲りが込められている。
私は何か言い返そうとしたが、彼の目線がじっと私の服に注がれているのに気づいた瞬間、体がこわばった。
そうだ、私、部屋着のままだった!!!
薄手のナイトドレスが素肌に直接触れ、その上から薄手のガウンを羽織っているだけの姿だ。
ガウンは軽く風を通すような素材で、私の動きに合わせてふわりと揺れその無防備さを強調している。
「このように飾らない姿も、また一興ですな。これほどの美しさを、拝見できるとは幸運でございます。」
彼の言葉は、まるで私をじっくりと観察するかのようで、ゾワリと悪寒がする。
彼の視線から逃れようと、私は声を高めた。
「さ、騒ぎが聞こえましたので!」
フェルダー卿はまるで待っていたかのように、口元に皮肉な笑みを浮かべながら話し始めた。
「おっと、そうでした!弟君のメイヤー様がとんでもない事をされましてな。状況をお聞きしていたのですよ。」
彼は饒舌に続けた。
「ご存じの通り、来月の夜会のための貴重な品の搬入があったわけですが、それが無惨にも粉々になっているのですよ、そこにいる!メイヤー様のせいで!」
彼は捲し立てるように語気を強め、メイヤーくんを指差した。
私はその手を視線で追いながら、心の中で怒りを抑えた。
メイヤーくんは怯えきった表情を浮かべ涙を流さないよう必死に耐えていた。
「そうですか、それがメイヤーの失敗だというのですね。」
私は冷静を装いながら、メイヤーくんに歩み寄った。
その動きに合わせて、フェルダー卿の視線が私に絡みつくのを感じた。
「ええ、そうですとも。」
彼はニヤニヤと笑みを浮かべているが、その眼差しはまるで私を試しているようだった。
私がメイヤーくんの隣に立つと、彼の背中がビクリと跳ねた。
私に叱咤されると怯えたのだろう。
「怪我は?」
私がそう尋ねると、メイヤーくんは首を小さく横に振った。
怪我がなくて良かった。
再びフェルダー卿に視線を戻すと、彼の目には一瞬の戸惑いが浮かんでいた。
「おや、王国に嫁がれるエレステ様とあろうお方が、弟君の失態を咎めもしないとは…
アレキサンダード家は、まともな王族教育もされてないようですな!」
酷すぎる……
だってメイヤーくんは搬入を手伝っただけじゃない。
でも、本当に全てメイヤーくんが原因なの?
私はふと現実世界の父を思い出した。
警察官の父はいつも平等で、表面だけで物事を判断するのではなく、本質を見極め真実を知ることの重要さを教えてくれた。
私はフェルダー卿に向き直った。
「失礼ですが、フェルダー卿。
そのように決めつけるのは少々早計ではございませんか?一体何が起こったのか、まずはしっかりと確認させていただきます。」
私は毅然とした声で言い、メイヤー君の肩に手を置く。
「あ、姉上?」
彼はさっきまでの絶望感を忘れたように目を丸くして私を見上げ、呆気にとられている。
「真実を知り、正しい判断を下す。
それこそ、責任を持つべき王族としての態度ではありませんか?」
その言葉が静寂を突き刺した瞬間、フェルダー卿の笑みがわずかに歪んだ。
彼の目が一瞬泳ぎ、額にはうっすらと汗が滲んでいる。
「ぐっ…」
フェルダー卿は喉を詰まらせるような音を立てた後、急いで薄笑いを浮かべようとしたが、その笑みにはさっきまでの余裕はなくなっていた。
「そ、それは、ご立派な事で…ふふ、一体どうなさるおつもりで?」
フェルダー卿拳を地面に向けブルブルと震わせるが、
私は、彼の目を真っ直ぐ見つめ言いはなった。
「現場検証します!」