【S】折り返し、猿、人生
電話の音で目が覚めた。
それは数ある目覚め方の中でも比較的下位に位置するひどい目覚め方だった。体は鉛のように重く、携帯を手に取るまでにコール音が八回も鳴った。
ランプの明かりを無造作につけたあとで、「もしもし」と僕は言った。頭の中は霧が出たみたいにかすみがかっていて、声は声帯に膜が張られたようなくぐもった声だった。
電話の相手は何も答えなかった。小さな砂嵐のような電子音が通奏低音みたいに流れているだけだ。
「もしもし」と僕は我慢強く言った。置き時計の針を見ると夜中の三時を過ぎていた。僕はよっぽどその電話を切ってしまおうかと考えたけれど、夜の暗闇の中の何かがその考えをそっと押しとどめた。
「返事がないようなので切りますよ」としばらく経ったあとで僕はそう言った。
「あら、冷たいのね」と女の声が言った。「折り返しの電話なんだけれど。何か用があって、あなたは私にかけてきたんでしょう?」
それは妙になまめかしく、声の若さに比べてイントネーションや雰囲気はいやに大人びていた。まるで西洋の魔女が若返り薬を飲んだみたいに。
頭の中の比較的まともな部分が、霞がかった脳を固くノックしていた。折り返し、と僕は思った。けれどそれ以上に僕は混乱していた。起き抜けに、それも夜中の三時を過ぎた頃に電話で起こされ、電話には沈黙があり、応じたのは妙な声色の女だ。混乱しないわけにはいかなかった。
「折り返し」と僕は言った。「失礼ですが、電話口の方のお名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「名前というか、一般的な呼称ということになるけれど」と女が言った。「私は『神様』と、みんなからそう呼ばれているわ」
デカい猿にハンマーで思いっきり頭を殴られた後のようなめまいがした。目を閉じると頭の中をぐるぐるとシェイクされているような感覚さえ覚えた。「万物は神の意思によって、あらかじめ決定づけられていますから」と、タクシーの運転手が言った。
「それで、私に何か用があるんでしょう?」と神様が言った。「悪いけど私も暇という訳ではないの。まだ電話はかかってくるし、折り返しをしたり調べものをしたり、何のかのと忙しいのよ。とり急ぎ用件だけを伝えてもらえるかしら?」
「用件、ですか」と、僕はラグジュアリーなホテルの1101の部屋の中の暗闇に、指で空書きするように無力な思考を巡らせながらそう言った。「用件というものは、ありません。悪いとは思うけれど、一種の好奇心によってそちらに電話をかけたんです。神様の電話とは何なのか、神様の真偽を問うことが出来るのか、神様と対話を試みることは出来るのか。そういった安易な稚気でもって、そちらに電話をかけたということになりますね」
沈黙。僕は電話を右から左に持ち替えた。
「そんなことはないはずよ」と神様が言った。「みんな、複雑で暗たんな悩みを抱えてここにかけてくるの。一人の例外もなく、よ。逆に言えば致死的な悩みや困難を抱えていない人は、この電話番号にかけることは出来ないの。ここはそういう世界で、逆立ちしたって何したってそのシステムはひっくり返らないの。あなたがいま私に電話をかけているというのは、あなたが私に電話をかける必要があったからかけているということになるのよ」
「なるほど」と僕は言った。僕には何も分からなかった。「あなたがそう言うのなら、きっとそうなんだと思いますよ。なんせあなたは神様、ということになっているんですからね。正直言って、この際あなたが神様であるかどうかなんてどうだっていいと思えてきました。ただ、分からないな。僕にはあなたの言う致死的な悩みや困難なんてものには心当たりがありません。あるとしたら、それは僕の人生ということになります」
「そうかしら」と神様が言った。「あなたは致死的な悩みを抱えているはずよ。それは決して下ろすことのできない道連れのように暗い暗闇。夜より暗くて漆黒より闇深い悩み。きっとあなたには心当たりがあるはずよ。
例えば、そうね。白い砂漠とか」