【F】議論、嘘、失格
やがて風を切って走る電車が、そのスピードをゆるやかに落とし始めた。
「正直言って」と僕は言った。「何が何だか僕には分かりません。意味が分からないと言った方が良いのかも知れない。為すべきことだとか、役割だとか。僕の命は安いものではありませんが、決して高級な代物という訳でもないんです。失うものもなければ失われて困るような人もない。僕の内臓を見たければ見ればいい。内臓を踏みにじって豚の死骸みたいにすればいい。ただし、それで何になるというわけでもないでしょう」
「意味性というものは、原則として、重要ではない」黒板にチョークで書くように、バリトンの紳士は言った。「君は私に対して正直に答えてくれた。だから私も、可能な限り君に正直でありたいと思う。その通りだ。君の言っていることは、概ね正しい。失うものもなければ失われて困るような人もいない。まったくその通りだ。でもだからといって、君が君の本来為すべきこと、為さなければならないことを放棄して良いという訳ではない」
「分かりませんね」と僕は言った。「ガガーリンも宇宙も内臓も、僕の知ったことじゃない。あなたのことも僕は知らない。ここは法治国家であって、あなたのやっていること、やってきたこと、やろうとしていることは火を見るより明らかにアウトローです。残念だとは思うけれど、僕にも一応の人権があるんです。僕だってサンドバックじゃない。大体あなた方の事情なんて、そもそも僕の預かり知ることじゃないんです」
「議論をする気はないが」とバリトンの紳士は言った。「運命というのは、流砂のごとくとどめようのないものだ。それ以上でもそれ以下でもない。もうひとつ、私は君と違って嘘はつかないタチだ。君の言う法律や人権に関しても、私の預かり知るところではない。為すべきことは必ず行われ、そこに例外や議論の余地は皆無だ。最後にもう一度だけ言う。君は、君の役割を、果たすんだ。分かったな?」
紳士は顔色ひとつ変えず、ただ僕の目の内側をずっと見ている。心の中の泉を素手でかき回されたような感覚だけが残った。やがて電車が止まろうとしていた。
電車が止まると、バリトンの紳士は何も言わずに去って行った。紳士を降ろした後で、電車は大きくため息をついてから重い腰を持ち上げ、また線路の上を走り出した。
数奇な人生、と僕は思った。僕はそんな線路の上を走っていた。
「バカを言っちゃいけない」と鯨が言った。「何度も言わせるんじゃないよ。これが君の望んだ人生なんだ。思うがままの人生。理想的な人生だ。他責にしちゃいけない。君は人生を騙し騙し生きたことで、自分さえも騙している。その結果、今日の晩に何を食べたいのかさえ自分では分からなくなってしまったんだ。何をしている時が楽しくて、何をしている時が嫌なのかさえ分からなくなってしまった。冗談じゃないよ。生後間もない赤ん坊に出来ることが出来ないなんて考えものだね。そう言う意味では君は、生き物として失格だよ」
車窓は黒に黒を塗りたくったような暗闇で、外の景色は何も見えない。僕は電車の行く先を考えたけれど、考えても考えようがないことに気がついた。
僕はずっと車窓を見ていた。
そこには僕の姿が映っていた。