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【S】暗号、一般論、復讐


 ホテルの上階には、ラグジュアリーで落ち着いた雰囲気のバーがあった。窓からは夜景を見渡すことが出来、テーブル席にまばらに座っている人々は夜景を眺めながら、あるいは夜景を背にグラスを傾け合っている。


 僕はカウンターの席に座りバーボンソーダを飲み干したあとで、グラスの中の氷を指で回しながらぼんやりと記憶を辿っていた。記憶とは不思議なものだ。それはまるで前世の記憶のように、僕自身とは切り離された人生であるように思えてくる。あるいは僕とは全く違う、別の人生のようにさえ思えてくる。


 やがて朝日がやって来て、隣の席に音もなく腰を下ろした。彼はスコッチのオン・ザ・ロックを注文したあとで、しばらく自分の手の甲を眺めた。まるで何かの暗号を読み解こうとしているかのように、血管の浮き出た手の甲を見ていた。僕も自分の手の甲を見たけれど、それは上から見ても横から見ても手の甲以外の何でもなかった。それからしばらくの間、我々は別々の世界に静かに耳を澄ませた。


「仕事は順調?」と朝日が言った。


「金は?」と僕は言った。


 朝日は頬杖をつきながらしばらく僕の横顔を眺めていた。それからボストンバックの中からステーキのように分厚い封筒を取り出して、カウンターの上に置いた。


「質問に質問で返さない方がいいぜ」と朝日が言った。「合理性は両刃の刃みたいなものだ。それは時として、自分自身を傷つけることになる。それに社会で生活をするうえで、与太話やアイスブレイクや前置きのようなものは、ある種のマナーみたいなものだよ」


 封筒の中にはパリパリの一万円札が二十枚入っていた。僕はそれを一枚ずつ丁寧に数えた後で、もう一回丁寧に数えた。カウンター越しの若いバーテンダーは、その様子を新種の深海生物でも見るみたいに眉をひそめたあとで、はっと気づいて目をそらした。僕は封筒を胸の内ポケットに入れ、溶けかけた氷の入ったグラスを傾けた。


「僕たちの間に一般論は必要じゃない気がするんだ」と僕は言った。「特に、暗くてじめじめとした場所に好んで住み着いている僕たちの間には」


 若いバーテンダーがスコッチのオン・ザ・ロックをカウンターに置いた。僕は彼にさっきと同じものを注文した。


「それは同族嫌悪というやつだよ」と朝日は微笑した。それからスコッチのオン・ザ・ロックを一息で飲み干した。「君は少し、ナーバスになっているように見える」


「嫌な夢を見るんだ」と僕は言った。

「とても嫌な夢だ。その夢の中で僕は、恒常的に損なわれていくんだ」


 僕は朝日に白い砂漠の話しをした。バーボンソーダのオン・ザ・ロックがカウンターに置かれた。


「それは何かの象徴みたいに思うんだけれど」と朝日は言った。「君の生活のことは僕には分からない。だけど一般的に考えると、現実世界の君と何かしらリンクしてくるということはあるんじゃないかな」


「まるで一般論王国の王様みたいだ」と僕は言った。「心あたりというものはない。というか、分からない。僕は何も分からないんだ。昨日の夕飯に何を食べたのかも分からない。思い出せないんだ」


「君は物事の悪い側面を見すぎている」と朝日は笑った。「例えば僕たちは稀有で特殊な仕事をしているね。そのことで君は、例えば罪悪感のようなものを感じているとする。それは君のキャパシティを超過するような、とてつもなく大きなエネルギーかも知れない」


「罪悪感」と僕は言った。それから僕は罪悪感について考えた。目で見たりてのひらで触ったりしながら、僕は僕の中の罪悪感というものを理解するよう努めた。「分からないな。例えば罪悪感が僕の中にあったとして、それが何を意味するのか、何を意味しているのかが分からない」


「意味性というのは、原則として重要ではないのです」とタクシーの運転手が言った。


「君は休んだ方が良いのかもしれない」と朝日が言った。「きっと今に分かるよ。罪悪感の姿かたちというものがね。それは深海にすむ巨大なバケモノみたいにおぞましくて、四六時中僕たちの命を狙っているんだ。少しでも油断したらジ・エンドさ。後には骨一本残らない。君は死ぬのが恐い?」


「死ぬときは死ぬ」と僕は言った。「命なんて本当に呆気ないものなんだ。この仕事をやっているとよくわかる」


「その通り」と朝日は言った。「だからこそ僕たちは生きている今このときを楽しまなくちゃならない」


「君は楽観的なんだ」と僕は言った。


「君が悲観的に過ぎるんだ」と朝日は笑った。


「でも死には抗うべきだ。はいそうですかと、簡単に受け入れていいものじゃないんだ。どんなに辛くても、僕たちは生きていかなきゃならない」と朝日は言った。「生きるというのは、人生に対する復讐みたいなものだから」


「復讐?」僕は朝日の横顔を見た。朝日は空間の一点を、ただ見るともなく見つめていた。


「そして、復讐には入念な準備が必要なんだ」朝日はカウンターの席から腰を上げた。「確かに金は渡したよ」


「最後に、聞いておきたいんだけれど」と僕は言った。「神様を信じてる?」


「信じてるよ」と朝日が言った。

「神様がいるんならね」


 朝日が去った後で、僕はバーボンソーダを胃の中に沈めた。それは何の味もしなかった。






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