【S】セイウチ、砂漠、記憶
ここに、一頭のセイウチが転がっている。
1521の部屋は僕の部屋とはがらりと印象が違っていた。グレーを基調とした比較的モダンなレイアウトで、家具の配置も大幅に変わっている。やわらかな石鹸の香りだけがまったく同じで、そのおかげでほんの少しだけ穏やかな気分になれた。
僕はグレーの椅子に腰かけたまま、足元に転がる一頭のセイウチをぼんやりと眺めていた。それを世間の一般常識に鑑みて言い表わすなら、還暦間近の醜い太り方をした男性ということになる。太り方にもいくつかの傾向や種類があるが、その中でもとりわけ醜悪なタイプの太り方だった。すでに引き返すことができないところまで来てしまった太り方だった。
彼はうつ伏せのままガムテープによって口元をふさがれており、固いロープによって手首を後ろ手に結ばれていた。そのロープは両の足首にもしっかりと結ばれており、彼は筋力トレーニングの背筋をするようなかたちで、ときおりくぐもった声で何かを僕に訴えかけていた。それは彼にとってハードな筋力トレーニングになったはずだ。そして彼がメッセージのようなものを僕に訴えかけるのと同じように、今にもはち切れそうなワイシャツと格子柄のピンクのネクタイが、自身の限界というものを悲痛なまでに訴えかけていた。僕は生まれて初めてワイシャツと、格子柄のピンクのネクタイに同情した。本当に、心の底から気の毒に思った。
「みんな、寿命で死ねると思っている」と僕は言った。「それがなぜかは分からないが、みんな、寿命で死ねると思い込んでいるんだ」
彼は顔だけをこちらに向けただけで、何も答えなかった。ぐっしょりと汗をかいたまま、ただうつ伏せになっている。僕は少しだけ孤独を感じた。砂漠の真ん中で強い風に吹かれたような孤独だった。
「これから説明に入ります。なぜあなたがこのような状況に陥っているのかについて。そして私自身のことについても、簡単に。私はフリーで殺しをやっています。クライアントから依頼を受けて、対象の人物を殺し、報酬を得ることで生計を立てています。もうお分かりかと存じますが、今回の対象の人物というのが他でもない、あなたということになります。
クライアントからは事情を伺っています。なぜあなたを殺害したいのか、その動機や背景についてです。ただ、それらの事情というのを今ここで詳らかにするということはしません。私のこれは仕事であって、可能な限り手間や労力を省きたいからです。私の仕事はあなたを無難に殺すことであって、クライアントとあなたとの関係性というのは一切関知するところではないんです。実際のところ、興味も関心もありません。なので、ご自身の胸に聞いてみてください。閉ざされた扉を固くノックするように、聞いてみてください。
いまあなたに語っていることだって、別にルールやマニュアルがあるからやっているわけではないんです。なんせフリーの身ですからね。良くも悪くも、すべて自己責任ということになります。ここまでの説明は、私自身のほんのひとかけらの良心によってのみ成り立っています。ただし、決してあなたのためを思ってということではありません。善意の押し売りというわけではありません。あくまで私自身の問題です。私自身が納得できるかどうかということです。潔癖症の人間が不潔で散らかった部屋にいることが耐えられないように、ある種のこだわりや傾向のようなものです。あまり良い傾向ではないですよね。特に社会性のようなものが問われる環境においては、こだわりや傾向は排斥されてしまいます。私が殺し屋をフリーでやっている理由の一端というのが、そこにあります。あなたには関係のない話ですが」
彼の曇った目は、徐々に諦観の色に染まっていった。それは淡く色づいていく秋の紅葉を僕に思わせた。
二人の間に沈黙の幕が下りると、部屋はしんと静まり返った。ややあってから、外の雨音が忘れかけていた記憶のように静かに耳に届いた。それは白い砂漠に吹く風の音に似ている。僕は泥水を口に含んだときのように、反射的に顔を歪めた。顔が歪むと、この世界も少しだけ歪んで見えた。
砂漠にいる夢をよく見る。
雪のように白い砂漠がある。それ以外のあらゆる概念は排除されている。見渡す限り希望的なものは何もなく、ただ飢餓のように無慈悲な外的要因がどこまでも引き延ばされている。
夢の中で僕は、白い砂漠を歩いている。そこに意味性や目的はなく、ただ、白い砂漠を歩いている。そして僕は、歩くたびに何かを忘れていく。一歩一歩を踏み出すたびに、律儀に記憶のかけらを落としていく。ヘンゼルとグレーテルが深い森の奥で道標としてパンくずを落としていくように、僕は白い砂漠にあって、好むと好まざるとにかかわらず記憶のかけらを落としていく。
それは身を切られるように辛く、そして救いようのないことだった。
やがて僕は消耗していく。靴底がすり減っていくように、精神と肉体が不可逆的に損なわれていく。恒常的に自分自身の魂と肉体がむしり取られていく。僕はなんとか記憶を辿ろうとする。でも記憶を辿ることはどうしても出来ない。何も入っていないすり鉢を鉢でこすって回しているような悲しさが、そこにはあった。僕は涙を流すべきだったのだ。自然の大原則に基づいて、僕は一滴残らず涙を流すべきだったのだ。ものごとには後戻り出来ないポイントのようなものがある。僕はそのポイントに気づくことさえ出来ず、とうの昔に白痴にも通り過ぎてしまった。
僕はため息をついた。それはどこにも辿りつかないため息だった。
ため息をつき終わると、座り心地の良かったグレーの椅子から腰を上げた。眼下の男はまた筋力トレーニングの背筋をするようなかたちで、くぐもった声で何かを叫び続けた。けれど叫び続けてどうなるというわけでもなかった。
用意した頑丈なビニール袋で、男の顔をすっぽりと覆う。そしてビニール袋の上から首元に固くて頑丈なロープを出来るだけきつく縛り、しっかりと結ぶ。これで仕事はほとんど終わったようなものだ。男は呼吸が出来なくなって、やがて泡を吹きながら死んでいくことになる。窒息死というのは数ある死に方の中でも、比較的辛い死に方だ。かなり辛いと言ってもいい。けれど簡単かつ後腐れのない殺し方なのだ。セイウチに似たこの男をおもんばかって、比較的楽な死に方を選ばせてやるべきだろうか? そんなことはない。仕事は楽に、簡単に、効率的に遂行されるべきだ。少なくとも僕はそう考えている。
男は一般的な窒息の仕方だった。じたばたとのたうちまわった後で、激しい痙攣を起こし、やがて死んだ魚みたいに動かなくなる。曇ったビニール袋の向こうではぐしゃぐしゃに歪んで麻痺した顔と、もつれた舌が確認できるはずだ。その後の処理については別の業者が請け負っているため、後は報告さえすれば仕事は終わり、退勤ということになる。
退勤というのは素敵な言葉だ。それは秋の夕暮れに吹く、やわらかな風に似ている。