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【F】寿命、宇宙、ガガーリン



「そろそろ時間だ」とバリトンの紳士が言った。凍った大地のような声だった。


 僕はまず状況を理解しようと努める。でもそれは無駄で無為なことだった。0時をとうに超えたにもかかわらず、うなるように走る電車。僕と紳士以外に誰も乗客はいない。そして目の前の紳士は、それがなぜかは分からないが、きっと僕自身に語りかけている。何を理解できるはずもなかった。


 凝り固まった泥のような沈黙が流れた。とても息苦しい沈黙だった。電車が風を切ってうなる音だけが、通奏低音みたいに響いている。


「みんな、寿命で死ねると思っている」とバリトンの紳士が言った。「それがなぜかは分からないが、みんな、寿命で死ねると思い込んでいるんだ」


 僕は紳士を見た。紳士もまた、僕を見ている。


「あらゆる前提を排除しようと思う。なぜ電車は走っているのか。どこに向かっているのか。私は誰なのか。なぜ君に語りかけているのか。それらをひとつ残らず省力しようと私は考えている。地震や雷と同じように。無差別に、無遠慮に、美しいほどシンプルに、君とのコミュニケーションを完結させたいと考えている」とバリトンの紳士が言った。「それについて、君の意見が聞きたい。出来るだけ、簡潔に、答えてほしい」


 徒労に終わることが分かっていたとしても、僕は乾ききったレモンを絞るように思考を巡らせないわけにはいかなかった。僕は何事かを考えた。あるいは考えるふりをしていただけかもしれない。そしてそれは徒労に終わった。


「分かりました」と僕は言った。全然分からなかった。「分かりました。あらゆる前提を排除して、コミュニケーションを完結させましょう」


 バリトンの紳士はやわらかい風に揺れるように、微かにうなずいた。あるいはうなずいたように見えただけなのかもしれない。


「1961年4月12日」バリトンの紳士は言った。「それは有史以来、人類が史上初の宇宙飛行を成し遂げた時だ。平凡なパイロットとして地球を飛び立ち、象徴的存在となって帰ってきた男がいた。名をユーリィ・ガガーリンという。


 宇宙から帰還した後のガガーリンは英雄だった。ソ連当局は彼を三十ヶ国ほどを巡るツアーに送り出した。生まれた我が子を自らの芸術作品のように見せびらかす母親のように、つまるところガガーリンはソ連の栄光と繁栄と可能性を象徴する国家最重要人物でありハリウッドスターのような存在だった。


 彼は英国女王エリザベス二世とも昼食をとり、君主と予定外の写真撮影も行った。エジプト大統領はガガーリンにカイロとアレクサンドリアの門の金の鍵を授け、ハバナではフィデル・カストロが彼を熱く抱擁した。ソビエトの宇宙飛行士は日本にも訪れ九日間滞在したが、この話しはひとまず置いておこう。


 だがその時、人々は若く笑顔に溢れ世界中の人々に慕われたガガーリンが七年後に亡くなるとは誰も予想していなかった。


 約三年かけて世界中を目まぐるしく回った後、ガガーリンは再び宇宙を求めた。飛行技術を磨くため彼はジュコフスキー空軍工学アカデミーの飛行訓練プログラムに参加した。再び宇宙へ行くことを、夢見る少女のように切望していたのだ。ソビエト宇宙プログラムにおける宇宙飛行士養成訓練所の責任者であるニコライ・カマニンは後にこう綴っている。『我々はガガーリンを博物館の置物にはできない。そんなことをしたら彼は死んでしまうだろう』と。カマニンはガガーリンの上司であり、友人でもあった。カマニンの言葉はソ連政府がガガーリンを次なる宇宙飛行に送り出そうとしていたことを示唆している。しかしその機会は訪れなかった。


 1968年年3月27日。この日は灰色に白んだ曇り空だった。ガガーリンは教官のウラジーミル・セリョーギンとともにジェット戦闘機MiG-15UTIに搭乗し飛行訓練を行っていた。セリョーギン大佐は第二次世界大戦中にソ連邦英雄の勲章を授かった熟練パイロットだ。彼はガガーリンを新型のジェット戦闘機MiG-17に乗せる前に、その飛行技術を確認しているところだった。


 午前10時19分、ガガーリンとセリョーギンはチカロフスキー軍用飛行場から離陸した。予定では少なくとも三十分間飛行するはずだった。しかし10時32分、ガガーリンは地上の管制塔に飛行場に引き返すと伝えた。それから間もなく、ジェット戦闘機との連絡は途絶えた。


 戦闘機がレーダーから消えた後、当局は飛行機とヘリコプターを派遣して捜索活動を行わせた。四時間後、戦闘機の残骸がキルジャチ市の近郊で発見された。そこはウラジーミル州モスクワの133キロメートル東だ。墜落現場は滅茶苦茶で、二人のパイロットの遺体は消え去っていた。


 消え去っていたんだ。


 粉雪が地面に染み入るように、彼らの姿はどこにも見当たらなかった。当局は血まなこで蟻一匹逃さぬよう捜索したはずだ。神に祈ったはずだ。しかしガガーリンとセリョーギンの遺体を特定することは出来なかった。ソ連当局が茫然自失としたのは想像に難くない。


 ガガーリンが亡くなったなど誰も想像できなかった。『ガガーリンは生命力に溢れており、空と宇宙を飛ぶことに果てしない夢を抱いていた』とカマニンは話している。だが人類史上初の宇宙飛行士はこの世を去った。あまりにも一瞬かつ不可解な事故によってだ。


 ほどなくして彼の死亡事故の調査が始まった。


 公式の見解はこうだ。『ゴム気球が死亡事故につながった』。捜査の結論が公式に公開されたのは2011年のことだった。ガガーリンの宇宙飛行五十周年を期に、ロシア当局が調査結果の機密指定を解除したのだ。『事故の原因として最も可能性が高いのは、気象観測用ゴム気球との衝突を避けようと急な舵を切ったということだ。これでジェット戦闘機は危険な飛行状態に陥り、螺旋降下したのだろう』と大統領公文書館の職員、アレクサンドル・ステパノフは話す。


 この見解では、とてつもない不幸がガガーリンの死につながったことになる。ちょうど突発的な災害や不慮の事故に巻き込まれて意識する間もなく死ぬように、それは外発的要因を機に起こったものだと考えられている。大きなゴム気球が飛行区域に現れ、パイロットらはそれを必死に避けようとして修正不可能な垂直降下状態に陥ってしまった。機体重量が増されていた戦闘機には燃料タンクが二つ追加され、速度を抑えられていたことと、雲がぶ厚かったことも災いした。


 しかし、世界中の人々がこの公式見解に納得したわけではない。結果としてさまざまな仮説が登場している。


 信憑性の高い仮説は四つある。まず一つはセリョーギンが突然意識を失ったという仮説だ。『私はセリョーギンが心臓発作に襲われたという説を取る。おそらく彼が操縦桿の一つに倒れ込み、それが大惨事につながったのだ』とソビエトの宇宙飛行士、ヴィタリー・ジョロボフは話している。しかし事故に起因するものがガガーリンではないことを訴えるような趣がある。これはあくまでも仮説にすぎない。


 次に減圧がパイロットらの死につながったという仮説だ。ガガーリンの死の調査に関わったパイロット、イーゴリ・クズネツォフはコックピット内の予期せぬ減圧が原因でパイロットらが死亡したのだと考えている。高度四千メートルを飛行中に気圧と高度が下がり始め、パイロットが意識を失って戦闘機を制御できなくなったのだという人もいる。


三つ目はエンジンが故障したという仮説だ。またMiG-15がスピンして制御不能に陥った可能性も指摘されている。技師のワレンチン・コズィレフは、調査官の一人から、戦闘機のエンジン故障が垂直降下につながったと聞かされたことを自身の回想録に記している。パイロットらは問題に対処しようとしたが、努力も虚しく墜落した。


 最後に別のジェット機が事故の原因となったという仮説がある。ガガーリンの同僚アレクセイ・レオノフはこの説を支持している。2013年、彼は別のジェット機の迂闊な操作がガガーリンとセリョーギンを死に追いやったと述べた。問題のジェット機が二人の前を超音速で横切ったことで、MiG-15は垂直降下状態に陥ったという。この仮説が示唆しているのは、つまりガガーリンの死は計画的、そして人為的な要因によってもたらされたということだ。


 彼が何を言いたいのかは想像に難くない。光があれば影もあるように、ソ連の栄光と繁栄と可能性の象徴を消し去りたいと考えるものは少ないくないはずだ。ただそれを実行に移せるものは限られている。しかしもちろんレオノフは何も言わない。何も言えないと言った方が正しいかもしれない。


 もちろん、これらの仮説はいずれも立証されていない。明らかなのは、ガガーリンとセリョーギンが技術的な問題や悪天候、あるいはヒューマンエラーに起因する悲劇的な状況の中で亡くなったということだ。


 しかし我々は全く別のアプローチからガガーリンの死を見ている。 


 鍵となるのは彼が人類史上初の宇宙飛行士として空に行った時に見たものと、そして接触したものだ。彼は宇宙で何かを見た。そして、何かと接触したんだ。これはおとぎ話ではなく現実世界の話しであり、我々は確かな情報と確信を得ている。我々は、その何かを探している」


 バリトンの紳士はそこで口を閉じてしまった。ダムが運河をせき止めるように、沈黙が空間を無為に支配する。


 僕は何も言わなかったし、何も言えなかった。何も言うべきことがなかったからだ。


「『地球は青かった』」とバリトンの紳士が言った。「ガガーリンの名言だ。この名言には続きがあるんだが、君は知っているか?」


 僕は首を振った。


「『神はいなかった』だ」


 電車が揺れた。鯨がいたずらに微笑む。








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