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【S】雨、ホテルの精、ノイズ



「暗い話をしちゃって申し訳ありませんでした」と、タクシーを降りるときに運転手が言った。「あなたには神のご加護がきっとありますよ。私には分かります。人を見る目だけは、ほんのちょびっとばかしありますから」


「神のご加護ですか」と僕は苦笑した。「あれば良いですけれどね。あまりそういうものには期待をしないんです」


「それもひとつの考え方です」と、運転手はうなずきながら言った。


「ついでと言ってはなんですが、これをあなたにお渡ししておきます」。運転手はメモにボールペンを走らせながらそう言った。「もし道に迷われましたら、この番号にかけてみてください。きっと何かの役に立つはずです」


 渡されたメモには、070から始まる電話番号が書かれていた。「これはどちらの番号ですか?」


「神様につながります」と運転手が言った。「私もときどきかけるんです」





 僕は礼を言ってから、そのタクシーを降りた。雨は一向に止む気配がなかった。分厚いステーキのような雲から降る雨が、ひび割れたアスファルトを執拗に叩きつけていた。


 東京の街は相変わらず汚臭と、吐瀉物のような欲望で満ち溢れていた。性欲や自己顕示欲や金に目がくらんだ、そんななんやかやの烏合の衆で道はごった返していた。雨はそんな腐臭をむっとアスファルトからほじくり返した。一ヵ月洗っていない靴下を鍋でことこと煮込んだら、きっとこんな湯気が立つのかもしれない。僕は出来るだけ息を止めて、スペイン語でいちから順に数字を数えながら、ホテルに向けて足を進めた。


 そこは上流階級向けの高級ホテルで、広いロビーに入るとスーツに色物のネクタイを着けた紳士と、着飾った淑女の団体がラウンジで微笑みあっていた。きっと中学か高校の同窓会なのだろう。紳士は高価な腕時計を身に着け、淑女は黒や紺色のシックなドレスを着ていた。ロビーには背の高い外国人も何人かいた。彼らは電話で熱心に何かを話していたり、受付で荷物を預けているところだった。奥には広々としたカフェがあり、その手前の壁には印象派の大きな風景画があった。それは、今は失われてしまった西洋の原風景のような風景画だった。


 僕は受付に行ってチェックインの手続きをした。予約した日数よりも早くチェックアウトするかもしれない。仕事の都合上です。払い戻しは必要ありません。受付の女の子はスカイブルーの制服を着たホテルの精のようだった。彼女は洗練された清潔なホテルにのみ現れるような、感じの良い素敵な笑顔を見せた。たとえ訓練されたマニュアル的な笑顔だったとしても、それは素敵な笑顔のように見えた。


 エレベーターを上がって1101の部屋に入ると、嫌みのない石鹼のような香りがふわふわと漂っていた。僕は荷物を下ろし、洗面台に行って丁寧に手を洗った。そして鏡の前に立った。


 鏡に映った自分はいくらかナーバスになっている子どものように見えた。彼は色褪せた思い出のような顔をしていた。僕が右手をあげると、彼は左手をあげた。僕は彼が本当に僕自身であるのかいまひとつ確信が持てなかったし、きっと彼も僕が彼自身であることに確信を持てていないような気がした。彼は何事かを言いたそうにしていたが、やがて諦めたように鏡の前から立ち去っていった。


 窓際に行って外を眺めると、やはり銃弾のような雨が街に降り注いでいた。それから洗練されたシックな部屋を一通り眺めたあとで、高価で実用性に優れたペイズリー柄の椅子に腰かけた。深く息を吸って、それから一息にはいた。長くて不思議な道のりだった。長くて不思議な道のり。僕はしばらくその言葉をてのひらで転がした。


 すると小さな世界の小人たちが一斉に騒ぎ始めた。彼らは甲高い声で両手をめいいっぱい上に挙げて、指をさし、何事かを訴えていた。未知の生命体が静かに、だが確実に忍び寄っているといった具合に。僕は彼らを気の毒に思った。本当に、心の底から気の毒に思った。


 明日の仕事までやることというのは特になかった。いつもなら街を歩いたりホテルのバーに行ったりするのだが、どうもそんな気分にはなれなかった。僕は目を閉じた。目を閉じると、そこには暗闇があった。暗闇を見ていると、僕と言う実体が本当に実体を伴っているのか、いまひとつ確信が持てなくなってきた。僕は思考をやめ、静かに雨のことを思った。鏡の中のナーバスな彼のことを思い、小さな世界の小人たちのことを思い、それからラディカルなキリシタンのタクシー運転手のことを思った。「あなたに神のご加護がありますように」と運転手が言った。「あれば良いんですけれどね」と僕は苦笑した。


 しばらくしてから、思い立って神様の番号に電話をかけてみることにした。僕は携帯電話を手に取って070から始まる電話番号を入力し、架電のボタンを押した。三度目のコールで電話がつながったけれど、回線は不確かなくぐもったノイズを発していた。しばらくそのノイズを聞いていると、どこか遠くの場所で女がすすり泣いているようにも聞こえたし、誰かが押し迫った声で叫んでいるようにも聞こえた。つまるところ、神様にはつながりそうもなかった。


 僕は諦めて電話を切り、靴を脱いでマシュマロのようなベッドに身を沈めた。


 やがてホテルの精がやってきて、僕に優しく微笑んだ。




 





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