【F】鯨、人生、紳士
目が覚める。ここはどこだ? と僕は考える。考えるだけではなく実際に口に出して自分自身にそう問いかける。「ここはどこだ?」と。
「ここはどこでもなく、君の人生だよ」と、鯨と呼ばれる君が言う。「起き上がるたびに転ぶような、君の人生。買ったばかりのチョコレートバナナクレープを誤ってアスファルトに落としてしまったような君の人生。一挙手一投足が常に選択を間違えているような、君の人生だよ」
僕は深く息を吸ってから、ゆっくりと吐いた。もう一度僕は言う。「ここはどこだ?」
「言っただろう。ここは紛れもなく君自身の人生の中だよ」と鯨が言う。「物憂げな雨の日に水たまりを選んで歩くような君の人生の中だよ。僕はつくづく思うんだけれど、君は、君が描く理想的な人生を歩んでいるような気がするんだ。『人は本当に自分がやりたいことしか出来ない』って言葉がある。この人生をあえて選んだのは君なんだよ。それだけは分かっておいてくれ。他の誰でもない君自身が今の人生を選んで生きているんだ。決して忘れるな。勘違いしちゃいけない。君は、あえてこの人生を選んだんだ。僕の言っていることは難しいかな?」
喉の奥でくぐもった咳払いをする。湿り気のある夢を見ていた気がする。何かの象徴のような、あるいは何かのメタファーのような、あるいは群れからはぐれた一匹の羊が路頭に迷うような、そんな夢だった気がする。
意識を現実に向けよう。頭の中の埃をほうきではたいていくように、夢の続きを無理やりに追いやろうとする。
僕は電車に揺られている。吐瀉物と泥水を煮込んで混ぜたような仕事からの帰りだった。感覚的には、今日という日があと数時間のうちに終わってしまうような気がした。僕は座席の背もたれから起き上がってため息をついた。それはどこにも辿りつかないため息だった。
腕時計に目をやると、時刻はすでにてっぺんを超えていた。意識がハンマーで叩かれたみたいに急速に覚醒してくる。時刻がてっぺんを超えている。僕はその事実をうまく飲み込むことが出来なかった。そんなことがあり得るはずもなかった。けれど腕時計の針は、夜の深まった時間を間違いなく指し示していた。にもかかわらず、乗っている電車は水を得た魚みたいにごうごうと走り続けている。
僕は実際的な焦りを感じ始めていた。乗客は僕のほかに誰もいなかった。対面の座席に座っている、黒服の紳士を除いて。
紳士は膝の上で硬くこぶしを握ったまま鎮座している。冷たいナイフのような鋭い目が、僕の内側を捉えていることが分かる。顔に刻まれているいくつものしわには、悲痛と凶兆が不可逆的なしるしとして跡に残されているようなニュアンスを示していた。
紳士は固く口を閉ざしたまま、顔色ひとつ変えないでいる。僕は紳士を見た。紳士もまた、僕をまっすぐ見ている。
紳士は腕時計に目をやった後で「そろそろ時間だ」と言った。床に響くような、バリトンの声だった。
「この人生をあえて選んだのは、君自身なんだよ」と鯨が言った。
「すべての責任は、君にあるんだよ」