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【S】渋滞、戦争、海洋



 僕は二十七歳で、そのときタクシーの後部座席に座っていた。首都高速道路は蜘蛛の巣にからまったような渋滞が続いている。


 窓の外に目を向けると、空はどんよりと曇っていた。僕は窓枠に映る空を見ながら、すでに失われてしまったものについて考えるともなく考えていた。失われてしまった時間、失われてしまった場所、失われてしまった人々。


「こりゃもうしばらくは動きそうにありませんね」とタクシーの運転手が言った。「明日は木曜日ですね」とか「雨があがれば晴れ間が見えますね」とか、ある種の普遍的な決定事項を申し伝えるような響きがあった。


「そうですか」と僕は言った。「タクシーの運転手でも、渋滞にハマるとイライラしたりするものですか?」


「そんなことはありません。静観するだけです。風のないときに凧があがらないのと同じように、ものごとの自然な流れに従うだけです」


 タクシーの運転手は白髪の混じった初老の男性だった。声にハリがなかったものの、頭の良い水中生物のような親しみやすさがあった。普段は岩陰に身を潜めているが、晴れた日には水辺に顔を出して新鮮な空気を肺にめいいっぱい取り込むような。そして仲間内で集まって、外敵の情報やそれぞれの近況を報告しあうような。


「ものごとの自然な流れ」と僕は言った。「真理のように聞こえますね」


「真理と言うことも出来ます。万物は神の意思によってあらかじめ決定づけられてますから。それは流砂のごとくとどめようのないものです。雨が降れば地は固まりますし、風が吹けば桶屋は儲かります。まあそれは少し違いますが、つまるところすべては神の意思によるものです」タクシーの運転手が言った。「それが運命というものです」


「神はこの首都高速道路の大渋滞も、あらかじめ決定づけていたということですか?」


「さようです。首都高速道路の大渋滞も、あなたが今わたしのタクシーに乗っていることも、今にも雨が降り出しそうな今日の天気も、すべて神の絶対的な意思によるものです」


「でも首都高速道路で大渋滞を起こすことに、いったい何の意味があるんでしょう?」


「意味性というものは原則として重要ではないのです。大切なのは、我々が神の決定にどのように向き合うかということです」


「この場合、首都高速道路の大渋滞という神の決定に対して、静観という向き合い方をするということですね?」


「仰る通りです。先ほども申し上げましたように、流砂のごとき運命にあらがうことは不可能なのです。雨が降れば傘をさすように、私たちはその運命を受け入れなくてはならないのです」


「雨が降れば、傘をさすように」と僕は言った。「神の意思というのはひとつの考え方ですか? それとも宗教的な意味合いでしょうか」


「私はラディカルなキリシタンです。そういった意味では宗教的な価値観を持っていますが、同時に自然の普遍的な大原則でもあると考えています」


 渋滞の列は一向に進む気配を見せなかった。ふと窓枠に目をやると、隣のヴォクシーに若い女が座っているのが目に入った。助手席に座る女は銀のブレスレットを左の手首に身に着け、肘を窓枠に乗せている。運転席に座るサングラスをかけた男は紙たばこを吸いながら、ただ見るともなく眼前の何かを見ている。


 僕は小さな世界のことを思った。そこでは小人たちが木を切ったり川で洗濯をしながら、にこやかに鼻歌を歌っている。


「他意のない率直な質問ですが」とタクシーの運転手が言った。「あなたは神を信じますか?」


「信じているか信じていないかで言えば、信じていないと思います」と僕は言った。「少なくとも僕が神様であったなら、こんな世界は創造しませんからね」


「良い時もあれば悪い時もあります」。子猫を抱き上げるようにタクシーの運転手が言った。「すべては神の決定に対して、我々がどのように向き合うかにかかっています。要は捉え方の問題です」


 ぽつぽつと小雨が降り始めた。それは最初、目視が不可能なほど小さな雨だったが、やがて斜線を描いて窓を叩くような強い雨へと変化していった。深く息を吸い込むと、冷房の効いた車内に夏の湿った雨の匂いが混じっていた。


「ただ、あなたの仰ることも理解が出来ます」


「何のことですか?」


「私が神様だったらという話しです。神は時に、ナイフで腹を裂かれるように辛く苦しい試練を私たちに与えます。それはあまりにも暴力的であまりにも不可抗力的な試練です。かくいう私も長く人生を生きておりますから、死んだ方がマシだと思ったことも何度もあります。いまこの場で申し上げるようなことは出来ませんが、お若いあなたにとっては想像も出来かねるようなむごくて凄惨で絶対的に救いのない出来事だって何度もありました。それは地獄の巨釜で責め苦にあうよりもはるかに辛く苦しいことです。本当の地獄に底なんてものはないんです。これ以上悪くならないと思っていても、沼のようにずるずると足を引っ張られ続けるんです」


「でもあなたは神を信じている」


「そうですね。私は神を信じています」とタクシーの運転手が言った。「良い時も悪い時も、私は神を信じています」


「僕にはとうてい出来ないことです」と僕は言った。「それは個人の考え方によるものでしょうけれど」


「考え方と言いますか、きっかけならあります」とタクシーの運転手が言った。「私が戦争に行っていたときの話しです」


「戦争?」僕はそこでようやく、少し混乱した。「それはメタファーとしての戦争ですか?」


「いいえ。実際に血が流れる戦争の話しです。銃弾が人の肉をえぐり、爆弾が地を赤黒く染める戦争の話しです」とタクシーの運転手が言った。「私は、特に昔の私は誰とでも仲良くなるといったタイプではありませんでした。それは背中を預けあうような戦時中のときも同じです。私はいつも孤立しておりました。薄暗くてじめじめとした小さな古城に、私は好んで住み着いていたのです。それは心身ともに健康的なことではありません」


「ただ私には唯一の友人がおりました。友人と言いますか、故郷でともに育ってきた幼馴染です。彼は私よりも頭ひとつ分くらい背が低いのすが、精悍で屈託のない好青年でした。彼にかかわったことのある誰しもが、彼に好感のようなものを抱きました。彼には分け隔てというものがなく、私のようなものにさえ、春の午後の陽だまりのような笑顔で接してくれました。彼はそんな青年だったのです」


「私たちの所属する部隊ではソ連との戦争を想定して、山林での長期的な訓練というものがありました。それは四国の山奥で行われたのですが、山林と言いましても非常に原始的で野性的な山林です。イミテーションのような地方にある山林とはものが違います。いわばすべてがむきだしの山林です。一度道を誤ると、二度と山から下りることが出来ない様な迷宮がそこにはありました」


「彼はそこで、ある作戦を実行に移そうとしました。作戦と言いましても、ただ軍から逃れ、戦争から逃れるために逃げるという話しでした。彼はそもそも戦争に懐疑的だったのです。御上のためとかお国のためとかそういったことではなく、戦争そのものに懐疑的だったのです。言うなれば彼はまともだったのです。自分の頭で考え、自分の目でものごとを見ることが出来る稀有な若者だったのです。国の都合に振り回され、無理難題を精神論で乗り越えようとする他の多くの人々と彼は明らかに違っていました」


「彼はそのことを私に伝えてくれました。他にも何人かの同志を募り、山林での訓練中に軍の目から逃れるという話しでした。私はそれを聞いたとき最初は驚きを隠せませんでしたが、彼の言わんとしていることも理解が出来ました。皆、忘れ去られた自身の心の片隅には、戦争への純然たる嫌悪感や懐疑的な思想というものがあったのです。それを洗脳に近い愛国心的な思想に、上から塗りつぶされているだけです。私は彼の深い泉の様な目を見ていると、そのことに気が付かないわけにはいかなかったのです」


「それから数日がたち、山林での訓練が行われようとしていました。私たちはいくらか山を登っていき、やがて切り開かれたような広い平原に出ました。野球場くらいの広さがあるその平原を、日の光がまぶしく照らしていたことを今でもはっきりと覚えています。そこで上官から今回の訓練に関する指示があるものと思っていました。大勢の同志たちと同じように、私は重い装備を携えたまま上官の指示を待っていました」


「上官は私たちの前に出てくると何もものを言わず、ただ私たちを見ていました。それは鋭利な刃物のような目つきでした。私は実際にその鋭い刃物がはらわたをえぐり、中身をずるずると引きずりだすところを目にしました。思念というのは、具現化できるようなかたちのあるものなのです。上官は何を言わずとも、その思念によってまず私たちにこれから行われる凄惨な出来事というものを伝えたのです」


「どれくらい時間が経ったのか、私には分かりませんでした。それは額から汗が地面に落ちるまでの一瞬のことのようにも思われましたし、何時間も経っているようにも思われました。ようやく上官が口を開き何事かを伝えているのですが、私にはその言葉を聞き取ることが出来ませんでした。私は文字通り耳を疑いました。それは音声として発されているはずなのですが、私には聞き取ることが出来ないのです。世界の音という概念が、何の前触れもなく私のもとから消え去ってしまったのです。私はひどく動揺しました。ただそれは他の全員を除く私だけに起こった出来事のようでした。その場にいる私以外の全員は上官の言葉を理解し、これから何が起こるのかを理解していました。私にはそのことだけが唯一分かっていました」


「気が付くと幼馴染の彼が前に出ていきました。彼は上官と何度か言葉を交わし、次に彼は同じ部隊の男二人によって、ロープを使って大きな木に後ろ手に括り付けられました」


「上官は男二人のうちの一人に向かって銃剣を使って突き刺すような素振りを見せました。男も上官に倣って銃剣を手に取り、突き刺す練習をします。一息に突き刺し、銃剣をひねり、持ち上げ、心臓を突き刺すような素振りでした」


「練習は何度か繰り返されましたが、やがて上官の指示によって男は幼馴染の前に立ち、銃剣を構えました。またいくらかの時間が流れました。私はやはり、何事をも聞き取ることが出来ませんでした。自分が生唾をのむ音でさえ、まったく聞こえないのです。私は聴力を一時的に失い、ただその場に立ちすくんでいました。あるいは保身のために、脳が一時的に情報をシャットアウトしていたのかも知れません。私は幼馴染の彼とは明らかに違っていたのです。見たくないものを見ず、聞きたくないものには耳をふさいでいたのです」


「鉛のような時間が流れたあとで、上官が何事かを大きな声で叫びました。次の瞬間には男は幼馴染の彼の腹に銃剣を突き刺し、ひねり、持ち上げ、心臓をえぐりました。それは何度も繰り返した練習通りの一連の動作でした。彼の口からは蛇口をひねったように大量の鮮血が溢れだし、地面を真っ赤に染めていました。臓物が溢れだし、ぶよぶよとした肉の塊が飛び出ていきました。彼はひどく苦しみ、彼の深い泉のような目からやがて光が失われていきました」


「その後、何事もなかったかのように山林訓練は滞りなく行われましたが、私には今一つその記憶がありません。ただ、幼馴染の彼がえぐり殺されたことだけは今でもはっきりと覚えています。彼は無知と、恐れと、愛国心によって殺されたのです。そして彼が殺されたのと同じように、そのとき私の中で何かが死んだのです。終わったと言った方が正しいかも知れません。私の中の大切な何かが損なわれ、失われ、死に絶えたのです。私の人生は四国の山奥のあの場所で、一度終わったのです」


「そして私は確信しました。私は二度と救われることがないと。無限のように広い海の真ん中でただ生きながらえ、死ぬときが来るのを待つだけなのです」


「つまり、私には選択肢というものがないのです。ただっ広い海洋のど真ん中では、希望的なものというのは一つもないのです。そこは飢餓のように絶望的で、一切の救いというものがないのです」


「だから私は祈ることにしました。ちょうどこのタクシーのように、四畳半にも満たないボートに乗りながら海洋のど真ん中で、私は神に祈ります。やはりそこに意味性というものはありません。ただ、祈るのです。救われることがないことを分かっていたとしても、神に祈るのです」


 タクシーは徐々に目的地へ向けてよどみなく進み始めていた。雨は相変わらず窓をたたき、僕はまた深く息を吸い込んだ。









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