第3章-3:数学的な証明 Surmount hurdles
三人と別れた数多は、一人数学教室にいた。
学園の数学室は未来的なデザインが特徴だ。
数学の歴史を示すポートレートが多く飾られ、壁にはインタラクティブなディスプレイが埋め込まれており、触れるだけで三次元の数学モデルを空中に浮かべることができるようになっている。
透明なガラス製の床には感圧センサーが埋め込まれており、生徒たちが立つ位置に応じて数学的パズルやゲームが起動するのだ。
普段は数学研究会の生徒やら数学教師やらが熱心に勉強していたりするが、十九時以降はほぼ誰も使用しないこの教室は、数多のお気に入りの場所だった。
その数学室の一角で、数多は数式に没頭する。彼女の指はデジタルホワイトボードを滑るように動き、という美しい曲線を描く。
しかし、その美しさの裏には、彼女の感情を隠すための複雑なコードが隠されていた。
***
幼い頃、数多は世界が見えない糸で繋がれていることに気付いた。
それは数式という名の糸だった。
彼女の目には、空を流れる雲がの曲線を描き、地面に落ちる雨粒が
の円を形作っていた。遠くの山々は
のグラフのように連なっている。
「世界は数式でできているんだよ」と偉大なる数学者である祖父は言った。
彼女はその言葉を信じ、数学の本を開くたびに、新しい世界が広がっていくのを感じた。
数多の映像記憶は、数学の美しさを一層際立たせるものだった。数式や図形を見るだけで、それらがどのように相互作用し、結びついているのかを瞬時に理解できたのだ。
例えば、フラクタルの繊細なパターンや、幾何学的な図形の対称性を見ることで、数学の概念が直観的に思い浮かぶといった具合に。
小学生の頃、教師が簡単な式を黒板に書き終わる前に答えが浮かび、周囲を驚かせたこともある。
数多の世界は、色と光のカレイドスコープだった。
数学の公式は、彼女にとって星々が織りなす夜空のようなもの。
そして数学の証明は、その中で自分だけの星座を見つけ出すようなものだった。
彼女の心は、解答への道を照らす光に導かれていた。
しかし、その光は同時に、彼女を取り巻く暗闇をも鮮明にした。
映像記憶の能力は、他人の一瞬の表情も見逃さない。
クラスメイトの冷たい視線、教師の失望した顔――自分に対するわずかな嫌悪の表情までもが鮮明に記憶に焼き付き、忘れることができなかった。これらは夜ごとに彼女の夢を悩ませ、夜空の星のように消えることはなかった。
彼女は人との距離を置くことで、心の平穏を保とうとした。
自分を裏切ることのない数学の世界に没頭することで、他人の目から逃れ、自分だけの宇宙を作り上げたのだ。
***
「あなたの数式はいつも美しいわね」
突然、背中に穏やかな声がかけられた。
数多は跳ねるように身体を震わせて、声の主に振り向いた。
「心春……」
「驚かせてごめんなさい。でも――」
心春の鏡のような眼が、真っ直ぐに数多を捉える。
「わたしのこと、避けてるでしょ?」
あまりに唐突で、あまりに的確な心春の言葉は、鋭利なナイフのように数多の心臓を抉った。
数多はその痛みで息が詰まるような感じがして、一瞬言葉を失った。
しかし、動揺を悟られないように、いつもと同じ声色で返す。
「そんなことないよ」
「嘘」
心春は短く言った。その声には薄氷を踏むような緊張が漂っていた。
彼女の眼は数多の反応を探ろうと、一点を見つめる。
その視線に射抜かれた数多は、雷に打たれたように身動きがとれなくなった。
返す言葉を探すが、彼女の心の中は解のない方程式のように、答えを見つけることができない。
静かに息を吸い込んで、数多はついに認めた。
「気付いてたんだ」
「うん」
心春は頷き、その確信に満ちた態度が数多の心をさらに重くした。
心春の感情の色を見る能力は、数多にとって不安の種だった。
百万色の感情を分類するプロジェクトの間も、実のところずっと肝を冷やしていたが、被験体になることは上手く回避してきた。
数多は、自分の色が露わになることを恐れ、心春と距離を置くようになった。
もっとも、心春だけを露骨に避けていたつもりはなかったが。
「わたしのことが怖い?」
心春の問いかけは、数多の心に突き刺さる冷たい風のようだった。
『はい』と言ったら失礼すぎやしないか。しかし『いいえ』と言ったら噓になる。
数多はだんだん気付いていた。
『自分の秘密は、心春には隠せない』。
もともと透視眼を持っているのではないかというほどに洞察が鋭い心春だ。
その上さらに共感覚に目覚めたときたら――。
そもそも感情を題材にする、という発明の方向性を決めるきっかけをつくったのは数多だ。
彼女が積極的に推したわけではないが、結果的にそうなり、そして彼女もその発明の内容に納得していた。
あらゆる事柄において、緻密に計画を立てて行う彼女だが、今回の発明ばかりは考えが浅かった。
彼女が思っていた以上に、感情とはデリケートな題材だったのだ。
それ故に、いまいち発明にも集中できていない。
しかし、彼女とて何も発明を途中で降りたいとは考えていない。
ただ平穏に、何事もなく、完成を迎えたいだけだった。
数多は心春の視線を感じながら、自分の内面が透けて見えるのではないかという不安に駆られた。
心春の眼は、数多の心の奥深くを見通すレントゲンのようで、彼女の前では隠し事が一つもできないような気がした。
自分の感情が色となって心春の前に広がっていくのを想像し、その透明感に息を呑んだ。
心春の能力は魔法の鏡のように、自分でも気付かない本当の感情を映し出してしまう。
「怖いよ」
その言葉は、数多の唇から静かにこぼれ落ちた。
彼女の声は震えていて、まるで心の中の葛藤がそのまま音になったかのようだった。
そして、彼女は心の内を話し始める。
「実はね、僕……自分の感情が分からないんだ。今までずっと数学のことばかり考えて生きてきたから、友だちって呼べる人もいないし、激しい感情なんて一度も出したことがないんだよ」
数多の言葉は数列のように整然と並びながらも、どこか冷たく感じられた。
ぼんやりと遠くを見つめる視線の先には、感情のグラフが描かれているかのようだった。
しかし、そのグラフは複雑で、数多はただひたすらに解を求め続ける。
「もしも、怒りとか憎しみ、恨みっていう負の感情に気付いてしまったら、どうなってしまうんだろうって怖いんだ。いや、それより……本当に怖いのは、恐れているはずのそんな感情すら自分が全く持ち合わせていないんじゃないかってことだ」
そう打ち明ける数多の姿は、いつもとは違っていた。
大人びたミステリアスさは影を潜め、そこにいたのは等身大の女子高生だった。
いつも論理と数学で世界を理解してきた数多にとって、感情は計算できない未知の領域だった。
『無感情っていうのは、本当に存在するのかしら?わたしはないと思うわ』と心春が言ったとき、数多はどきりとした。
これは当たり前に感情がある人の、感情の沈黙が訪れたときの一部分を切り取った言葉だが、自分の場合は常にそうなのではないかと思ったのだ。
感情がない自分は人として何かが欠落しているのではないか。
パズルの最後の一片が、行方不明になったような虚無感に襲われた。
話し終えて恐る恐る心春を見ると、黙って話を聞いていた心春も一瞬の沈黙を経て、数多の目を深く見つめた。
そして、昔を思い出すようにゆっくりと言葉を紡いだ。
「数多、その気持ち、分かるわ。感情って本当に複雑で、時には自分でも理解できないものよね」
数多の告白は、心春の心にも深く響いていた。
心春は、心を溶かすような優しい声で言う。
「確かに、環境や病気のせいで感情が乏しくなることはあるわ。でもね、感情がないってことはないのよ。数多の場合はただ単に、感情を表に出すことに慣れていないだけだと思うわ」
心春は数多の手を取り、ふわりと笑った。
「数多が今、怖いと感じているその感情も、あなたの大切な一部よ。その証拠に――今は暗い藍色だけど、数学の証明をしているときなんかは金木犀みたいな明るいオレンジ色が見えるもの」
「本当に? 僕にも色があるの?」
「わたしが言うんだから、間違いないわ。感情は暗い色も含めて美しいのよ。それが数多の本当の色。隠さないで」
心春は数多の髪を優しく撫でながら、先生のような温かさで彼女を包み込んだ。
「感情は数学の問題とは違って、いつも明確な答えがあるわけじゃない。でも、それが人間らしいところなの。数多の感情が分からないとき、わたしがそばにいて、一緒に解き明かしていきましょう」
心春の温かさに、数多は自分を覆う氷が少しずつ溶けていくのを感じ始めていた。
そのとき、教室の外から物音が聞こえた。
風の仕業か何かと二人が外を覗くと、ドアの外には目に涙を溜めた理化と芙文が立っていた。
「水臭いですよ、そんな悩みがあったなんて……」
「そうだよそうだよっ! 相談してくれればよかったのにっ!」
「聞いてたのか……」
ずっと秘密にしてきた自分の弱さを、一度に三人に知られてしまったのだ。
数多は気まずそうに顔を掻いたが、三人は気にも留めない様子で数多を励ます。
「さっき『友だちって呼べる人もいないし』って言ってたけど、わたしたち、もうとっくに友だちじゃないかしら?」心春はにっこりと言う。
「当然です! 友だちであり、同じ目標を追い求める仲間でもあります」理化もうんうんと頷く。
「友だちなんてレベルじゃないよっ、ここまできたら、もう人生におけるチョコレートみたいなものだよっ!」芙文が明るく元気づけた。
「ふふっ、みんな、ありがとう」
数多は三人の温かい支援に心を打たれ、悩んでいたことの意味を再考する。
夜が深まり、窓の外に広がる空は星々の光で満たされていた。
数多は夜空を見上げ、瞬く無数の星を眺めた。都会の喧騒から離れたこの場所では、星の光が一層明るく感じられる。
星たちは何億年も前から変わらずに輝き続けており、その一つひとつが自分の軌道を持ち、自分の光を放っている。
数多は自分の感情もまた、宇宙の壮大なスケールの中で、ただ存在しているだけで価値があると感じた。
夜空の静寂の中で、数多は自分の内面に目を向ける。
彼女の感情は、遠くの星々のように、小さくても確かに存在していた。それらは静かに彼女の中で輝き、他人には見えないかもしれないが、彼女にとっては無視できないほどに明るかった。
「僕の感情も、この星たちみたいに、ただあるがままでいいんだ……」
数多は星々が紡ぐ物語に耳を傾け、自分の感情を受け入れる勇気を得た。
星々の永遠の輝きに心を寄せながら、彼女は自分の一部として感情を抱きしめることに決めた。
***
翌日の放課後、四人はまた数学教室に集まり、昨日に引き続き、百万の感情を数式で表すという前代未聞の挑戦に取り組んでいる。
窓の外からは夕焼けが教室に柔らかな光を投げかけ、彼女たちの情熱を照らし出していた。
「百万もの感情を数式で表すなんて、星空に名前をつけるようなものだね」
心春はその様子を見ていた。
彼女は知っていた。数多の能力がどれほどのものかを――その深淵を、その可能性を。
そしてその瞬間、頭に浮かんだのだ。
数多の才能を世界に示すための、唯一無二の策略が。
「数多の映像記憶、ひょっとしたら活かせるんじゃないかしら?」
「どういうこと?」
数多は数式を書く手を止め、振り向いた。
「そうだわ! 感情を色に変換したんだから、その感情の色を数式で表せばいいのよ。数多は一度見た色を忘れない。だからこそ、感情の色を正確に捉えられる。記憶の中にある色を、今度は数式に変換するのよ」
心春は興奮してまくし立てた。
数多は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐにその提案に可能性を見出し、顔を明るくした。
「なるほど、それなら……感情のスペクトルを数式で捉えることができるかもしれないな」
彼女はデジタルホワイトボードに
という新しい数式を書き始める。
「これはガウス分布だよ。僕が見た感情の色の強度を、この式で表現できるかもしれない」
数多の説明を聞きながら、理化と芙文も期待に胸を膨らませた。
「数多さんの記憶力なら、感情の微妙な変化まで捉えられますね!」
「他の誰にも真似できない、これぞ天賦の才だねっ! まるで、辞書を飲み込んだパロットみたいっ!」
数多が考え出したガウス分布の方程式は、色の強度や分布をモデル化するために重要な役割を果たすものだった。
例えば、ある感情が特定の色に関連しているとき、その色の強度が人によってどのように変動するかをガウス分布を用いて表現する。これにより、感情の色の『平均的な』強度と、その周囲での変動を捉えることが可能になるのだ。
しかし、百万色という膨大な数をどう数式で表現するかは、依然として解決すべき大問題だ。
この問題に対する解決策を見つけるためには、さらなる工夫を凝らす必要があった。
「もし、感情の色を基本的な色彩に分解して、それぞれの色を基本方程式で表現できたら……」
数多は考えを巡らせる。
「そうか! 僕らは、感情の色をRGBモデルで表現することができる。それぞれの色を赤、緑、青の三原色で分解し、それぞれの強度を数式で表せば、百万色の再現も可能だ!」
――ここでR(x),G(x),B(x)はガウス分布から得られるそれぞれ赤、緑、青の色彩強度を表すパラメータであり、xは感情の強度を表す変数。また、の部分は、感情の強度が低いときに色の強度が急激に減少しないようにするためのものである。
数多は、経済学で成長モデルを表すのによく使用する式からこれを連想したのだ。
「この方程式を組み合わせれば、どんな感情の色も表現できる。そして、これらの色を組み合わせることで、百万色の感情を創り出すことができるんだ」
***
ガウス分布の方程式とRGBモデルによる色の表現との組み合わせは、感情の色をよりリアルに、そして数学的に表現するための基盤となった。
他の三人も数多のアイデアに感動した。彼女たちは数多の計画を支え、『感情の色を実際に式に当てはめて数値化する』という、まさに心理学と数学の融合とも言える壮大なプロジェクトに取り組むことになった。
これはデータの検証と、後に控えている、深層心理を解明するための重要なステップだ。
数多は映像記憶をフル活用し、感情の色を数値で表す挑戦に没頭する。
彼女の記憶の中にある無数の色が次々と数値に変換されていく様子は、まるで夢幻の光景のようだった。
三人はその様子に心を奪われながら、データベースに色と数値の対応を入力していく。
感情のスペクトルを科学的に分析し、人間の深層心理を解明するための土台が着々と築かれていった。
感情という人間の本質的な要素を、数学という普遍的な言語で表現しようとするこの試みは、彼女たちがこれまでに経験したことのない創造的な証明となった。
そして、三週間後――数多は、まるで時間が止まったかのように感じた。
心臓の鼓動だけが、遠くで鳴り響く大太鼓のように、ゆっくりと、しかし確かに彼女の意識を支配していた。
彼女の目の前に広がるモニターは、感情の色を数値化したデータで溢れていた。それぞれの色が示す感情の強度が精密に計算され、さらにはそれがグラフィカルに表現するソフトウェアに入力されている、データの数々。
静止した世界の中で、努力の結晶たちが息を呑むほどに躍動していた。
「データがこんなに美しいなんて、思ってもみなかったわ」心春は汗を拭いながら微笑む。
「こんなにもたくさんの感情の色が、数学の言葉で表現できるなんて夢みたいだ……」数多は放心状態から抜け出せないまま呟く。
「エウレカ! このデータたちは、一緒に乗り越えた困難を表しているようです!」理化は感慨深く言う。
「数多なる
記憶の色彩
式に宿る
記憶で紡がれる方程式――それはまるで、虹の糸で織られたタペストリーみたいっ!
そして、そのすべてを物語にするのがあたしの役目だねっ!」芙文がペンを走らせ、物語の一節を書き留めた。
こうして、数多は自分の特性を利用し、感情の色を数式で表す独自の方法を開発した。
数値化された感情の色は、感情を表現する新しい方法として、彼女たちの発明をさらに前進させた。
数多の勇気が、発明へと続く道を照らす光となった。
感情方程式物語は、彼女たちの手によって新しい章を迎えたのだった。