第3章-2:数学的な証明 Surmount hurdles
しかし、いくら気持ちがはやっても、理想は理想、現実は現実だ。
理化に半ば強引に教室に移動させられ、四人は次の工程である、感情を数式で捉えるための計画と設計の話し合いを始めたのだが、さっそくデジタルホワイトボードを前に、数多が頭を悩ませた。
「そうは言ってもなあ……何から始めようか?」
心春は首を捻る。
「心理学でも、感情を数値化しようとする試みはあるわ。例えば、幸福度をスケールで評価するっていう。だけど、これはあくまで近似であり、感情の全体像を完全に表せるものではないのよね」
「数多さんが、感情を数式で表せるかもしれないと思ったのはどういった理由だったんですか?」
「声や表情が数式みたいに整然としていると感じたんだ。だからそれらで判別できる感情も、何かの数式のパターンで表せるはずだと思ったんだけど……」
理化の質問に、数多は自信をなくしたように語尾を濁した。
「なるほど。その感覚は間違っていないと思いますよ」
と、理化は特に根拠のない期待を寄せて数多を元気づけた。
「しかし、すみません。数式の設計に関しては、私たちはレビューかアドバイスくらいしかできることがないので……」
「数多に任せるしかないわねぇ」
「ごめんねーっ。もし思いついたことがあったらちゃんと言うからっ!」
申し訳なげな言葉とは裏腹に、自分の出番ではないからか、先ほどまで喚いていた理化を含め、三人はお気楽そうな様子で数多を応援するのみであった。
だからと言って、彼女たちを薄情だと糾弾することはできない。
これは元よりそれぞれの道のプロフェッショナルが集まっての合同発明だ――担当する専門分野に関しては、基本的に自分自身で対処するしかないのは仕方のないことだった。
「だよなぁ」
数多は大きなため息をつき、思いつくままデジタルホワイトボードに数式を書き始める。
心春が興味深げに尋ねる。
「数多、それってもしかして、感情のジェットコースターを表してるの?」
数多が苦笑いするように答える。
「いやいや、これは感情の波を数学的に表現したんだよ。でも、ちょっと複雑すぎたかな?」
「その方程式の波長で感情を表せるんでしょうか?」
顕微鏡から顔を上げて訊く理化に、数多が説明する。
「うーん、波長と感情を結びつけるには、もう少し工夫が必要だね……」
「まるで、カフェインを過剰摂取したエスプレッソマシンみたいっ! 感情のジェットコースター、面白そうっ!」
芙文がノートにメモを取りながら言った。
数多は再びデジタルホワイトボードに向かい、次の数式を試みる。
「変数が大きくなるにつれて値が無限大に発散するほうが分かりやすいか。だったら……こうしたらどうだろう?」
心春が首を傾げて言う。
「あら? でもこれ、x=∞で分子と分母がともに∞になって、不定形になっちゃうわね。感情が不確定になるなんて、ちょっと不安定すぎるかも?」
「うん、それはちょっと……」
数多は頬をわずかに紅潮させて、消しゴムツールで書いた文字をこすった。
理化が眉を顰めて言う。
「これじゃあ、感情がロジスティック関数になっちゃって、変化がなくないですか? 感情ってもっとダイナミックですよね?」
ロジスティック関数とは、ある点を過ぎると成長が減速し、最終的には一定の値に収束する特徴を持つ関数で、感情を表すのにはやはり向いていなかった。
「そうだねっ、感情はもっと色とりどりだねっ!」
芙文もノートに落書きしながら言った。
数多は感情の微妙な違いを捉えるための策を模索しながら、何度も数式を修正する。完璧な数式を見つけようと奮闘するが、なかなか上手い答えに辿り着けずにいた。
彼女は何度目か分からない数式をデジタルホワイトボードに書き込む。
「これならどうかな? 感情の濃淡を表す……って、あれ? これだと感情が常に正の値になっちゃうか」
「感情が常にポジティブって、それはそれで面白いけど、ちょっと現実離れしてるねっ。まるで、月曜日の朝にダンスパーティーをしてる人みたいっ!」
芙文が笑いながら言った。
「良い数式が思いつかないのは、数多の脳が秘密のアイデア工場で、最高のアイデアを特別な包装紙で包んでいるからよ。リラックスして少し待てば、素敵なプレゼントが届くはずよ!」
「新しい挑戦には挫折がつきものですよ、彼のアインシュタインも言っています。でも、なんだか正解に近付いてきている……私の科学者としての勘が、そう言っています!」
「そして、そのすべてを物語にするのがあたしの役目だねっ! 数多っちの数式冒険記、これはヒットするかもっ!」
頭を抱える数多に三人は励ましの言葉をかけたが、
「ごめん、みんな。今日は良い案が浮かばないみたいだ。ここの設計は僕の個人課題のようなものだし、家で真剣に考えてくるよ。また日を改めよう」
と、一時間ほど経ち、結局、感情を数式で表すための糸口は何も掴めないまま、その日はお開きとなってしまった。
傍目から見れば、彼女はすでに十分頭を悩ませたのだから、一度考えるのをやめて時間を置いてから再度考え直す、というのは至極真っ当に思えるが――百万色の感情を分類するプロジェクトの最中、連日二十二時頃まで彼女たちは学園に居残っていたのだ。
それを考えると、今の時計が指し示している十九時という時間での諦めは随分と早いように感じられる。
しかし、専門家がそう言って帰ってしまったのでは、彼女たちもこれ以上続けようがなかった。
***
「なんか数多っち、最近付き合い悪いねーっ?」
数多が出ていった後の教室で、芙文が所在なさげにこぼす。
「ここのところ、一人で先に帰ることも多かったよねっ。何かあったのかなっ?」
と、数多を非難するような意図はなく、単純に気になるというようなニュアンスで芙文は軽く言った。
「最近もここのところも何も、私たちが集まるようになったのはたった一か月程前からの話じゃないですか。そういえば、それ以前の数多さんは授業以外でご友人と居る姿もあまり見ませんでしたし、もともと一人の時間が好きなのかもしれませんよ。それなのに無理やり芙文さんが連れまわして……プレッシャーをかけてしまったかもですね」
理化が数多をフォローして言う。
口では芙文のせいにしているが、彼女なりに、数多の力になれないことを心苦しく思っているのかもしれない。
「なんでっ! なんであたしピンポイントっ!? 今日連れてきたのは理化っちなのにっ!?」
芙文が両手を広げて、リアクション大きく反論する。
「男かもしれないじゃんっ! 忙しいと言ったら『知的美女、大学教授と密会にて恋の方程式を解く』みたいなラブストーリーをまず想像するのが普通じゃんっ! 華の女子高生ならっ!」
「教授とのラブストーリーは普通とは言いません。数多さんは大人っぽくてどことなくミステリアスなので年上の彼氏がいてもおかしくないですけど。でも、同性の私から見ても格好いい、いかにも同性ウケしそうな感じなので年下の女生徒との秘密の関係も捨てがたいです……ってそうじゃなくて! 仮に恋愛事情だとしたら、それこそ詮索するのは野暮ってもんですよ」
理化と芙文が話す通り、数多は端正で中性的な容貌と短いながらもお洒落を意識した髪型、そして高校生らしからぬ落ち着きを兼ね備えており、そこにスポーツ万能という要素も加わり、女子生徒たちから賞賛の眼差しを集めていた。告白されることもしばしばで、その噂は学園内を駆け巡っている。
しかし、その人気は心春のように、自然と人が周りに集まってくるタイプのものとは異なっている。
数多の人気は、遠巻きにずっと眺めていたい、そんな種類のものだ。
例えるなら、日差しと月明かりのような対極。
自ら誰かに話しかけに行こうともせず、故に孤独が似合っている。
彼女から放たれるどこか人を寄せ付けないオーラが、その距離感を生んでいるのだろう。
「もしや理化っち、数多っちのこと狙ってるのっ!? ダメだよそれは、バンド内恋愛がバンドを解散へ導く話はあまりにも有名なリフレインだよっ! あたしたちはバンドじゃないけどっ。まるで、砂糖を入れたガソリンタンクみたいになっちゃうよっ!」
「狙ってません! そもそも華の女子高生の前に、私たちは頭脳プラチナム学園の生徒なのですから、抱えている研究も山ほどあるでしょう。そりゃあ、この発明だけに時間を使えないですよ」
理化が芙文の頬を引っ張りながら言う。
「そう言う芙文さんだって、締切は大丈夫なんですか?」
「あうっ、それは言わない約束だよっ!」
そんな二人のやりとりを聞き流しながら、心春は数多の出て行ったドアを見つめていた。