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第2章-3:心理学的な接近 Inner contemplation

 学園のカフェテリアは、自然とテクノロジーが調和したオアシスのような場所だ。

 中央には、水の流れる音が心地よい緑豊かな屋内庭園が広がり、その周囲を生徒たちが行き交う。

 壁は生きているかのようなバイオウォールで、空気を浄化し、心地よい香りを放っている。生徒たちがその香りに誘われるように集まり、多国籍なメニューの中から食事を選ぶ。

 食事は、地元の農家から直送された新鮮な食材を使用したファーム・トゥ・テーブルスタイルで提供され、ロボットアームが巧みにサラダを盛り付けていた。


 そんな放課後のカフェテリアは、心春のリサーチの場となっていた。

 発明と言えば、リサーチは必要不可欠だ。

 感情を分類し感情方程式物語のデータベースを充実させるため、彼女は感情を問うインタビューを行うことにしたのだ。

 傍らには、理化と芙文がいる。数多は研究が長引いており、後で合流すると言っていた。


「本当に大丈夫なんですか? あんなに忙しそうなスケジュールを聞いてしまうと、発明にかけている時間なんてないんじゃないかと思うんですが」

 理化が心配そうに尋ねるが、心春は明るく笑い飛ばした。

「大丈夫よ! 仕事や習い事は、しばらくの間リモートでやらせてもらうことになったから。休み時間のうちに片付けておいたわ」

 カウンセリングの仕事や英会話といった習い事はまだしも、リモートでは対応できないことのほうが多いのではないかと思ったが、理化と芙文はあえて気にしないことにした――すると、心春が近くを通りかかった一人の生徒を呼び止める。


「どんなことでもいいの。最近あった楽しかったこと、悲しかったこと、教えてくれないかしら?」

「最近あったこと? うーん、今日、書いた論文が先生に褒められたの。この内容ならネイチャー誌に載せられるって」

 穏やかな声で質問する心春に対して、生徒が答える。


 そしてその横で、理化と芙文が心春の手作りクッキーをぱくつきながら茶々を入れる。

「いきなり感情を質問するのではないんですね」

「いわゆる『オープンエンド』の質問だよっ! 心春っちは『はい』や『いいえ』で答えられない質問をして、自由に話しやすい雰囲気をつくってるんだっ」

「非効率的ではないですか? データベースを埋めるためにたくさんの情報を集めようとしているのに、いちいち回り道な質問をしているのでは日が暮れちゃいますよ」

「むむっ、それは一理あるかもっ! いや、一理どころか、二理、三理、いやいや、理の楽譜に並ぶ音譜の如しっ! しかーし! あたしは理に溺れず、理を乗りこなすサーファーでありたいっ!」

 ここで、二人は心春にリサーチの邪魔だと言われ、各自持参したノートパソコンで自分の作業を進めることを余儀なくされた。


 心春がリサーチを再開する。

「ネイチャーに掲載されるなんてすごいことだわ! そのとき、あなたはどう感じたかしら?」

「もちろん、努力が認められて嬉しかった……かな」

「うん、嬉しかったわよね。よく分かるわ。つまり、今のあなたの感情は、『嬉しい』なのかしら」

「いや、それは……ちょっと違うかもしれない」

「あら? それはどうして?」

「実は……一週間前、ずっと好きだった人にフラれちゃったんだ。全然、立ち直れなくて……」

 心春は目の前の、今にも泣き出しそうな生徒を慰めた。


 彼女の声には、不思議とすべてを曝け出したくなるような、古びた本の間から見つけた幼い日の記憶の片隅をくすぐるような、そんな安心感がある。

 おそらく、直接質問していたならば明らかにならなかった感情を引き出すことができたのだ。


 心春はリサーチのお礼にと、手作りクッキーを生徒にも差し出して言う。

「それは悲しいわね。でも、あなたはだんだん元気になる……」

「ちょ、ちょ、ちょっと待って、心春っちっ! 今、『すごい』って言うところだったのにっ! それって洗脳じゃない?」

 心春の唐突な催眠術師のような口ぶりに、芙文がどてっ、とギャグ漫画よろしく盛大に椅子からずり落ちて言った。


「心理学のテクニックよ。でも、本当に元気になるかもしれないわよ?」

 心春の言葉通り、生徒はみるみるうちに元気を取り戻しているようだった。

 協力を得たのはこちら側だったにも関わらず、生徒は心春に笑顔で感謝の言葉を述べ、去っていった。


 理化もその様子を見ていたが、悪事を見過ごすまいと言った。

「やはり不正行為(チート)使いですか? 確かに、洗脳や催眠には心理学的知識が必要という話を聞いたことがありますが……しかし、それでも、科学的にその効果は未検証です!」

 すると、心春は微笑み、少し挑戦的な口調で言った。

「効果が信じられないなら、次はあなたたちの感情をリサーチしてみましょう」


***


 心春が先ほど同様、柔らかな声で質問する。

「理化ちゃん、あなたの感情を化学反応で表すと?」

 戸惑いながらも理化が答える。

「なんでそんな変化球的な訊き方なんですか……たぶん、 H2+O2→H2O ですかね。要は、反応して何か新しいものが生まれる感じです」

「うふふ、あなたはだんだんと実験の成功率が上がるようになる……」

「実験成功、実験成功……はっ! 心春さん、私の実験はもう十分成功してますから!」

 またもや洗脳しようとする心春に、正気を失いかけた理化が慌てて反論する。


 続いて、芙文に向かって心春が言う。

「芙文ちゃん、あなたの感情を物語で表すと?」

 芙文がキラキラと目を輝かせて答える。

「そうだねえ、まるで、ファンタジー小説のような……ワクワクとドキドキがいっぱいっ!」

「あなたはだんだんと、もっと素敵な物語を書けるようになる……」

「あたしは書ける、あたしは書ける……はっ! 心春っち、それはありがたいけど、洗脳はいらないかなっ。物語は自分で見つけるものだからっ!」

 芙文は笑いながら返した。


***


 二人へのリサーチが終わり――心春の心理学的テクニックとやらは、効果抜群であることが判明した。

「なんだか本当に一瞬自我を忘れそうになりました……危険! これは紛れもなく危険です! 科学に魂を売り渡したこの私が、他の誰かに思考を乗っ取られるわけにはいきません!」

 ゼエゼエとひとしきり肩で息をした後、表情を切り替えて理化は心春に向き直り、眼鏡の鼻当てを指先でクイっと押し上げた。

「と、冗談は置いておいて。人の心を操ろうとするのはどうかと思いますよ。どんな言葉を並べようと、人の思考は人のもの――私の思考も私のものです」


 「魂売ったんかーい」、「冗談なんかーい」、「決めポーズだー」などと、芙文が後ろで逐一コメントを挟んでいたが、理化の言うことは第三者の視点から見れば、抗いようもなく、どうしようもなく正論だった。


 心春は一瞬たじろいだが、すぐに自信を取り戻して自身のアプローチを擁護する。

「うぐっ……。で、でも、ポジティブな感情になるならいいんじゃないかしら? 言葉ってマジックトリックと似ているの。心にほんのちょっとの魔法をかけて、毎日がキラキラしたら素敵だと思わない? 最近は心の健康が重要視されてきて、わたし、いろんな大企業に頼まれてカウンセラーやアドバイザーを務めてるけど、ポジティブになって業績がぐんぐん上がったとか、評判良いんだから」


 心春の眼は純粋で、この洗脳紛いのことを一発ネタでも冗談のつもりでもなんでもなく、大真面目にやっていることは明白だった。彼女は、その行動が、人の幸福と成功に貢献したいという強い願いからきていることを眼で語っていた。

 心春は、ポジティブな感情が人間のパフォーマンスに与える影響に興味を持ち、その効果を実証するために多くの時間を費やしてきた――そして自分の技術が、多くの人の生活を向上させることができると信じており、その信念が彼女の行動を動機付けていたのだ。


 一つ付け加えるなら、彼女に『洗脳している』という明確な自覚はなかったのであるが。


「あの、だからですね、私が指摘しているのはその方法で――」

 理化がさらに反論を続けようとしたとき、息を切らして走ってきた数多の声が飛び込んできた。

「心春、大変だよ! 心春にカウンセリングを受けたB組の佐藤さんが……!」


***


 事のあらましを説明すると、佐藤という生徒は心春の言葉によって過剰な楽観を植え付けられ、重要な試験で必要な準備を怠ってしまい、結果として失敗してしまったということだった。

 普通の学校であれば赤点の一つや二つ、日常茶飯事かもしれない。

 しかし、ここは頭脳プラチナム学園。

 完璧を求められる場所。

 失敗は許されないのだ。

 当然ながら、生徒はひどく落ち込んでいた。


 心春は、その知らせに心中で激震が走るのを感じた。

 自分の言葉が、他人にどれほどの影響を与えるのか。その重みを今さらながらに知り、深く反省した。


「わたしの言葉が、あなたを苦しめる原因になってしまったなんて……本当にごめんなさい」

 生徒に対し、心春は涙ながらに謝罪する。


 心春は三人と一緒に、教員一人ひとりに頭を下げて事情を説明して回り終え、三人へも改めて謝った。

「みんなも巻き込んでしまって迷惑かけて、ごめんなさい。やっぱり、理化ちゃんの言う通りだったわ。理由はどうあれ、人の心を操ろうなんて、してはいけないことだったのね。わたし、もっと別の方法を考えてみる」

 この一件は、心春が自分のアプローチを見直す契機となった。感情に対して、より慎重に、より倫理的に向き合うことを決めた。


「私は迷惑だなんて全く思っていませんよ。もともと、ポジティブにすること自体は否定していませんし、素晴らしい才能だと思います。気付いてくれてよかった。心春さんの言葉は、洗脳に頼らずとも人を変える力があるんですから」

「あはは、すべてを物語にするのがあたしの役目だけど、洗脳物語にはできないからねっ! なにはともあれ、とにもかくにも、佐藤さんも心春っちも、留年も何もお咎めなく、先生たちは許してくれたし、佐藤さんは元気になったし、良かったじゃんっ! めでたしめでたし、じゃないかなっ?」

「この通り、誰も怒ってなんていないし……『ごめんなさい』よりも『ありがとう』のほうが良いんじゃない? 心理学の女神には笑顔が似合うよ」


 三人の言葉に、心春の胸は熱くなった。

 彼女の視界は少しぼやけていたが、その瞬間の感情は鮮明だった。

「そうね。ありがとう、みんな……って、それってわたしのことだったの?」

 数多の言葉に、心春は照れたように顔を赤くする。そして、ぶつぶつと独り言を漏らした。

「それにしても、軽い暗示のはずがあんなに効くなんて……クッキーにカモミールやラベンダーを練り込んだのが良くなかったのかしら」

 それを聞き、クッキーを口にした理化と芙文――特にそのほとんどを食べていた芙文は青ざめていた。

 カモミールとラベンダー、どちらもリラックス効果で知られ、食用としても安全であることは広く認められている。

 だが、それらの自然の恵みが心春の言葉の魔法と結びついたとき、その効果がさらに増幅されたのだろうか。


***


 翌日の放課後――心春は前日の反省から少し方法を変えて、生徒たちの感情を聞き出していた。

 特別な何かをしたわけではなかった。

 しかし、突然、彼女の目の前で世界が変わった。

 生徒が話すたびに、彼の感情が色となって心春の眼に映るのだ。


「えっ?」

 驚いて瞬きをしてみても、変わらず色が踊って見える。


 『人間は、常に何かしらの色を思い描いているもの』――などと、数多には格好つけて感情を色に例えてみたが、それは単なる比喩表現であり、心春にとって感情が色として見えるわけではなかった。

 それが今、彼女の思い描いていた感情の色が、まるで心のパレットから溢れ出る絵の具のように世界を塗り替えていく。


「今、あなたの周りが、青と緑の美しいグラデーションに変わったわ」

「えっ?」

 言われた意味が分からずに生徒が驚き、三人も興味津々で身を乗り出す。

「なになにっ!? それってどういう意味っ?」

「突然、周囲が、たぶん感情に反応して色づいて見えたの。もしかしたら、これが『共感覚』っていうものなのかも」


 『共感覚』――ある感覚に伴って他の感覚も自動的に働く知覚現象。

 心理学や神経科学の研究によって多くの進展があったものの、そのメカニズムは未だ完全には解明されていない。

 心春は目の前に広がる色彩のカーテンを静かに眺めた。彼女の視界を優しく包み込む光が、まるで春の訪れを告げる桜の花びらが風に舞うように、彼女の心にそっと触れる。

 予期せぬ感覚の目覚めであったが、彼女はこの新しい世界を温かく迎え入れた。


「この青と緑は、冷静さと安らぎを表しているみたい。きっと、あなたが前向きな未来を感じている証拠よ」

 心春が言うと、またしてもリサーチに協力してくれている側の生徒が、まるで凄腕の占い師に素晴らしい診断をしてもらったかのように、すがすがしい笑顔で礼を言い席を立った。


「その現象は珍しいですが、科学的にも、脳の仕組みを理解する重要な手掛かりとして研究されています。これを応用すれば、感情の分析をもっと深められるんじゃないでしょうか?」

「感情が色で見えるなんてとっても素敵っ! じゃあじゃあ、心春っちが見た感情の色をあたしたちの発明にどう組み込もう? カラフルな感情たちがぐるぐる混ざり合って、最高の一品を生み出してくれるよっ!」

「感情が視覚化されたんだ。ということは、あとはどうやって感情を集めるか、どうやって感情を引き出すか、だけじゃないか。心春の得意分野だ。実に分かりやすいね」


 共感覚はしばしば信じがたい超常現象、都市伝説の類と見なされがちだ。

 しかし、三人の女子高生たちは本人である心春と同様、この不可解な現象をあっさりと、いとも容易く受け入れた。

 そして、学者としての性が、すぐに彼女たちの興味を『心春の能力を発明に活かす方法』へと向けさせていた。


***


 心春は人間が識別できるとされる、『百万色の感情を分類する』プロジェクトに着手した。

 彼女は感情の微妙なニュアンスを色で捉え、それぞれに独自の名前を与えていく。

 喜びは陽光を浴びた黄色、悲しみは朝霧に包まれた灰色、怒りは夕日に燃える赤といった具合に。

 時にはソーシャルメディアを駆使し、時には街頭で直接アンケートを取ることで、彼女の探求は多くの新発見をもたらした。

 数多、理化、そして芙文も、心春の能力について理解を深めながら、彼女をサポートした。


 現実的に考えて、気が遠くなる工程。

 論理的に考えて、途方もない任務。

 しかし、彼女たちの情熱は常識の枠を超えて、わずか一か月でこれを成し遂げた。


 そしてついに、百万色目の分類に成功した瞬間、教室は静寂に包まれる。

「……お、終わったぁー!」

 と、しかしその静けさも長くは続かず、四人は同時に息を吐き出した。

 まだまだ発明の序章も序章に過ぎないとは言え、すべてが完成したかのような錯覚に陥るほど、彼女たちは達成感と満足感で満たされていた。


「わたしたちの発明は、感情の多様性を祝う一歩ね。心理学者としても、新たな境地に立てた気がするわ」心春は成果を嚙みしめる。

「なんだか、今まで解いてきたどの証明よりも難敵を倒した気分だよ」数多は静かな手応えを込めて言う。

「エウレカ! これは実験では得られない、なんとも言えない充実感がありますね」理化は勝利の笑みを浮かべる。

「心春めく

 色とりどりの

 感情花


 百万色の感情の花――それはまるで、宇宙の絵筆が描いた楽園みたいっ!

 そして、そのすべてを物語にするのがあたしの役目だねっ!」芙文が新しい物語のアイデアを練り始めた。


 こうして、心春は独自の視点を利用し、感情を捉えるための新たなレンズを創り出した。

 色分けされた感情は、人の複雑な心を探る未来への鍵として、彼女たちの発明を新たな高みへと引き上げた。

 心春の成長が、夢を現実に変える魔法となった。

 感情方程式物語は、彼女たちの手によって新しい章を迎えたのだった。

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