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第2章-2:心理学的な接近 Inner contemplation

 穏やかな春の日差しが音楽室のピアノの上に舞い降りる。

 続く音楽の授業では、普段とは異なるユニークな演習が行われた。

 それは、一人がピアノを弾き、もう一人はそれに合わせて歌うというもので、心春と数多がペアになっていた。

 先ほどの授業の組み合わせと言い、本当に運命みたいだと心春は思った。


 心春は、学園一で知られる美しい容姿と、才能溢れるピアノの演奏で注目を集める。

 一方、数多は、クールな外見とは裏腹に、力強いハスキーな歌声で生徒たちの心を掴んでいる。

 二人が一緒にいるだけで、まるで絵画の一場面のようだった。

 二人の周囲には特別な空気感が漂い、周りの生徒たちのみならず教員までもが見惚れていた。


 心春は柔らかなメロディに耳を傾けながら、指先が自然と鍵盤を進んでいくのを感じていた。彼女の心は音楽に乗せられて、遠い過去へと流れていった。


***


 幼い頃の心春は、栗色の髪を大きなリボンで飾り、いつも最高の笑顔を周りに振りまいていた。

 しかし、その笑顔の裏で、彼女は孤独を抱えていた。


 心春は常に完璧を求められる家庭で育った。

 父親の厳しい眼差しと母親の期待に応えるため、彼女は自分の感情を抑え、理想の娘であることを強いられていた。友人たちの前でも、彼女は自分を偽り続けた。


 恵まれた環境と才能を妬まれ、辛辣な嫌味を浴びせられても、笑顔を崩さず、みんなが望む『良い子』を演じる――それが心春の日常だった。


 その完璧な仮面の下で、彼女の心は疲弊していた。彼女の本当の感情は、抑圧され、どこにも行き場を見つけられずにいた。

 その鬱憤は、彼女が唯一飾らずにいられる相手――彼女を評価する立場にあるものの、より安全で中立的な役割だと彼女が判断した――習い事の先生や家庭教師に向けられることになった。


「今日、また新しい家庭教師が来るんだって」

 心春は自室で、家庭教師を迎える準備をしながら独り言ちた。

「でも、どうせ長くは続かないわ」

 彼女の声には、すでに諦めが滲んでいた。

 彼女の気まぐれと我儘は、これまでの家庭教師たちを次々と退場させてきたのだ。


 しかし、今回の家庭教師は、少し違っていた。


「はじめまして、心春ちゃん。今日からよろしくお願いします」

 そう言って目の前に現れたのは、柔らかい笑顔を湛えた美男子だった。

 淡い水色のスラックスのベルトループを通して巻かれたベルトには、頭脳を模したチャームが輝いている。


「それ、頭脳プラチナム学園の制服でしょ? 高校生が家庭教師だなんて、聞いたことがないわ」

 予想よりも遙かに若い先生の登場に心春は驚いた。


「また、この曲を弾かなきゃいけないの? もっと楽しい曲はないの?」

 ピアノのレッスン中、普段の甘いトーンから一変した、刺々しい口調で心春は言った。

 先生の反応を試すように目を細め、行儀悪く足を組む。彼女の振る舞いは、両親の前で見せる顔からは想像もつかないほど専横だった。


 すると、先生は静かに心春の隣に座った。

 彼の眼は優しく、心春の心に寄り添うように、表情を読み取ろうとした。

「心春ちゃん、君が本当に弾きたい曲は何? 君の心が躍るような曲を一緒に見つけよう」


 先生の言葉は、心春の心に柔らかく響いた。

 彼は心春の我儘をただのわがままとして片付けず、彼女の内に秘めた情熱を引き出そうとしたのだ。


 先生の真摯な眼差しに触れ、心春は少しずつ心の壁を解き放つことができた。

 彼女は深呼吸をし、自分の中にある本当の願いを探り始めた。

「わたし……わたしは、もっと自由に、心から楽しめる曲を弾きたいの」


 先生は微笑みながら心春の手を取り、新しい楽譜を開いた。

「これはどう? 君の心が喜ぶ曲だと思うよ」

 それは、心春がまだ知らない曲だったが、彼女の心にはすぐに火をつけた。

 心春は、先生が選んだ曲の最初の数小節を弾いてみた。

 音楽は心春の心にすっと入り込み、彼女の顔には久しぶりに本物の笑顔が浮かんだ。

「この曲……これなら弾ける! 楽しい!」


 いくら無理難題をぶつけても、先生は心春の我儘にも動じず、時には厳しく、時には優しく導いてくれた。

 彼はいろいろな勉強を教えてくれたが、ピアノのレッスンの時間が心春は一番好きだった。


「心春ちゃん、今日はご機嫌斜めだね?」

 先生は心春の曇った表情に気付き、優しく尋ねた。

「だって、またミクちゃんが、心春ちゃんは何でもできていいね、子どもじゃないみたい、オバサンなんじゃないのって言ってくるんだもの」

 ふくれっ面で言う心春の答えを聞き、先生は思わず吹き出した。

「なんで!? なんで笑うの? 先生も、わたしのことオバサンみたいだって思う?」

 心春は憤慨するとともに不安になった。

 先生の答えを待ちわびるように、彼の顔をちらりと覗く。

「ごめんごめん、君はとても賢くて大人びているからね。でも、小春ちゃんはちゃんと可愛い女の子だよ」

 彼はまだ笑いを堪えながら、大きな手で心春の頭を優しく撫でた。

 そして、自分が笑ったことでますます機嫌を悪くした心春にこう言った。

「そうだ、今日は特別なマジックを見せてあげるよ」


 先生は手を振ると、空中に何もないことを示した。

 そして次の瞬間、彼の手の中から色とりどりの花が現れたのだ。

 まるで、彼の掌が秘密の庭から直接花を摘んできたかのような、魔法のように心春の目に映った。


「すごいわ! どうやったの?」

 心春は驚きと好奇心で目を見開いた。

 先生は微笑みながら、花を心春の手に渡す。

「マジックは、心を軽くするための魔法だよ」


 その日、先生はさらに多くの不思議なマジックトリックを披露した。

 コインが消えたり、カードの予言をしたり、心春の名前が書かれたリボンが天井から降りてきたり。

 そのたびに心春は目を輝かせ、彼の創り出す小さな奇跡に夢中になった。


「これは、僕が今研究している心理学の応用なんだ」

 先生が言った。

「えっ? 先生は、音楽を学んでいるんじゃないの? あんなにピアノが上手なのに」

 心春は驚いて訊いた。

「ふふ、頭脳プラチナム学園の生徒は基本的に多才だからね」


 心春は、先生の訪問を心待ちにするようになった。

 彼が来る日はいつも心春の日常に色を加え、徐々に両親や友人の前でも自分を偽る回数が減っていき、上手く付き合えるようになっていったのだ。


 自分ではどうしようもないくらい、完全に、心春は彼に惹かれていた。

 心春の初恋だった。


 しかし、先生の眼には時折、深い悲しみが浮かんでいた。

 心春は、その悲しみの理由を知りたいと思いながらも、彼がそれを話すタイミングを待っていた。


 ある日、突然の報せが心春を襲った。

 先生がこの世を去ったという。

 自殺だったという。

 彼には病気の恋人がいて、彼女の後を追ったのだと母親から聞かされた。

 心春は耳を疑った。いつも穏やかで優しかった先生が、そこまで思い詰めていたとは信じられなかった。


「先生、彼女がいたのね……」

 心春の声は、誰にも聞こえない囁きとなり、部屋の空気に溶け込んだ。

 先生が帰らぬ人となるまで、そのことさえも知らなかった。

 自分はたくさん彼に支えられたが、自分は彼の癒しとなれなかったことを深く悔やんでいた。


「もっと先生の心の傷に気付いてあげられていたら……」

 彼女の指が鍵盤を滑るように動き始め、悲しみと後悔の旋律が部屋に響き渡った。

 その演奏は、彼への静かな追悼となり、彼の記憶を讃える儀式となった。


 心春はしばらくふさぎ込んでいたが、やがて決意を固めた。

 心理学を学ぶことで、他者の心の傷に寄り添い、支える力を身につけることを。


***


「うん、いい感じね」

 ピアノの伴奏が終わり、二人のセッションが一段落すると同時に、心春は心の奥にしまいこんだ記憶の扉をそっと閉じた。

 二人の演奏が終わると他の生徒たちもその魅力から解放され、再び自分たちの練習へと意識を戻していた。


「もう一回合わせてみる?」

 と聞く心春に対し、

「いや、ちょっと休憩」

 と数多は断り、やや唐突に、そしてどこか他人事のように心春に尋ねた。

「なぁ心春――実際のところ、人間の感情っていうものはどれくらいあるんだい?」


「あら? ポーカーフェイスで、数学にしか興味ありません、って顔してる数多ちゃんが心理学に興味を持つなんて」

 心春は楽譜から眼を上げて数多を見つめ、からかうように言った。

「違うって。その呼び名は止めないか? 僕はどこからどう見てもちゃん付けされるような柄じゃないよ」

 数多は抗議した。

 僕も理化に言われて本名(フルネーム)呼びを()めたんだぞ、と付け加える。


「ええ? 可愛いのに。歌声だって綺麗だし」

 心春が悪戯っぽく笑った。

「歌は関係ないだろ」

「うふふ。じゃあ、数多。もし良ければ、この前わたしが出した本、プレゼントしましょうか? 学問としての魅力に取り憑かれること間違いなしよ」

「だから心理学に興味があるわけじゃないって、遠慮しとくよ。感情は感情方程式物語の入口になる、(カーネル)部分だ。数式で表す僕としても、正確に理解しておかないといけないだろ? というかその本、いつも持ち歩いてるのか?」

 数多は心春がぐいぐいと押し付けてくる『心理の海図 行動の背後にある心理学』を片手で押し返しながら、心春の布教をいなした。

 天才心理学者らしからぬ話の聞かなさである――今は仕事の時間ではないと言ったらそれまでだが。

 いや、きっと彼女は分かっていて言っているのだろう。


「なあんだー、残念」

 大して残念そうでもない表情で心春は答えた。

「そうねぇ。いくつかの論があるけれど、一般的には喜び、悲しみ、怒り、驚き、恐怖、嫌悪の六つ、ないしは八つの基本感情があると言われているわ」

「へぇ。予想以上に少ないんだね」

「ええ。詳しく説明すると、もっと増えるんだけれどね。だけどね、わたしは基本感情ももっと細分化して――色とりどりのパレットで塗り分けられると思ってるの。特に、わたしたちが普段過ごしている時間のほとんどは、基本感情のどの色にも染まらないでしょう? 言ってしまえば、無色透明の無感情。でも、無感情っていうのは、本当に存在するのかしら? ……わたしは『ない』と思うわ。人間は、常に何かしらの色を思い描いているもの」


「ふーん……」

 心春が無感情、と言ったところで彼女に顔を覗き込まれたような気がして、数多は視線を逸らした。

「もし仮にそれが感情のキャンバスに映らなくても、感情方程式物語を創るなら、どんな微細な色合いでも感情の一筆に変えなくちゃね」

 ふわりと巻かれた艶やかな長い髪。鏡のように透き通った瞳。どんな女優と並んでも引けを取らない整った顔立ちも相俟って、心理学の話をする心春の顔は輝いていた。

 少なくとも、数多からはそう見えた。


「心春、『心理学の女神』って知ってる?」

「なあに、それ?」

 メディアへの露出も多い心春には、当たり前であるかの如く、決して少なくない数のファンがいた。

 『心理学の女神』は一部のファンがつけた彼女のあだ名なのだが、他人を見抜くのが得意な女神は、自分の情報には疎いらしい。

 自分の容姿を鼻にかけないところも、彼女の魅力の一つかもしれない。

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