第6章-1:総合的な挑戦 Bright horizons
頭脳プラチナム学園には、予約さえすれば、生徒が借り切ることのできる研究室がいくつかあった。
研究室の中に入ると、まず目に飛び込んでくるのは壁一面に並んだ本棚である。そこには、様々な分野の専門書がぎっしりと詰め込まれている。
中央には円形の大きな作業台があり、他の教室と同様にデジタルホワイトボードも備え付けられている。
さらには、栄養学の研究や泊まり込みをする学生のために、奥にはキッチン設備まで整っていた。
生徒たちが自由に使えるノートパソコンや、技術の粋を集めた機器も揃っているため大抵の研究には困ることがない――その研究室の一室を、心春、数多、理化、そして芙文はしばらくの間借り切ることにした。
これから始める、感情方程式物語の試作品作成のための作業拠点が欲しかったのだ。
AIによる物語生成は上手くいったが、彼女たちの目標はさらに上。
目指すは、自分の感情を読み取り、感情が数式で表され、科学的な分析を通じて深層の意味が解明され、最後にはその感情に基づいた物語が生成される、というこの仕組みを多くの人々に使ってもらえるデバイスにすること――壮大な挑戦だ。
さっそく研究室に集まり、四人は話し合いを開始する。
「試作品には、感情を読み取る機能が必要ね」
心春は、心理学的な手法をAIに組み込むことを提案する。
「感情方程式物語で一番大事な部分だわ。人の表情や声のトーンから感情を読み取る技術をAIに組み込むわけだけど、これがなかなかの難関よ」
「そうですね。ユーザーの感情を正確に捉えることができれば、物語の生成もより最適化される。感情センサーの精度が鍵を握ります」
理化は言いながら、すでに頭の中には精密な感情センサーの設計図を描き始めていた。
彼女たちが研究してきた多くの感情を読み取るためには、市販の表情認識ソフトウェアそのままは使えない。大幅な改良が必要だった。
「じゃあ、まずは感情センサーのプロトタイプから始めようか。感情エネルギーの式を使って、感情の強度を数値化するシステムをここにも取り入れよう」
数多はデジタルホワイトボードに書かれた数式を指でなぞり、深い思索に耽っていた。
読み取った感情を感情エネルギーの数値に変換することができれば、物語生成AIの中のプロット生成アルゴリズムと連動できるはずだ。
「それで、そのデータを物語生成AIに送れば、ユーザーの感情に合わせた物語が生まれるってわけだねっ!」
芙文の声には、技術と物語が融合することへの喜びが溢れていた。
***
センサーの感度を計算するための数式を模索し、センサーの感度を高めるための材料の選定に頭を悩ませ――彼女たちは感情センサーの設計を作成する。
「よし、これでいける!」
設計が完成すると、四人はそれぞれが一息つきながらも、心は弾んでいた。
作業台の上にこれから実体化するであろう感情センサーの詳細な設計図を広げ、壁にはたくさんの参考資料を貼り付け、今度はその作成作業に取り掛かる。
心春は、声や表情のサンプルを大量に収集し、それぞれに感情の名前を付けていく。無数のサンプルに目を凝らし、感情を示す可能性のある特徴を見つけ出すのだ。
例えば声では音の高さや強さ、表情では目の動きや口角の位置が、感情を伝える重要な手がかりとなる。
「このセンサーも、わたしみたいに感情の色が見えれば楽なのだけれど……急がば回れ、ね。頑張りましょう」
心春は自分を鼓舞しながら、サンプルと睨めっこを続ける。
数多は、心春が名前付けした声と表情のデータを、市販の表情認識ソフトウェアに組み込んでいた。
それらは表情認識AIにとっての貴重な学習材料となり、AIが人間の感情をより敏感に感じ取ることができるよう改良されていく。
「偉いぞ、AI。次に勉強するのは『恋情』だ。分かるかな?」
数多は感情の微妙なニュアンスもAIに教え込み、プログラムのコードを精査してはAIモデルの訓練を進めていく。
理化は、カメラからデータを受け取り、そのデータを数多によって改良された表情認識ソフトウェアに渡すためのインターフェースを編み出していた。
カメラが捉えた画像データを適切に処理し、表情認識ソフトウェアが解析できる形式に変換するロジックを実装していく。
「このカメラ、ちょっと撮影速度が低めですね……他のものでも試してみましょう」
理化はぶつぶつと呟きながら、目は一点の曇りもなく画面に映るコードに集中している。
芙文は、感情センサーの前で変顔を披露していた。眉を吊り上げてみたり、はたまた目尻を下げてみたり、感情のパレットのようにころころと変わる表情は、逐一センサーのカメラによって捉えられ、余すところなくモニタリングされている。
彼女の表情は、表情認識AIが感情を読み取るためのテストデータとなり、リアルタイムにモニターに映し出される。
「感情センサーの反応は良好だよっ。でも、今のは『心春っちの焼いたクッキーを食べたいときの顔』だったんだけど……難しかったかなっ?」
芙文はまたセンサーの前で別の表情を作った。
そして最後に四人は、表情認識ソフトウェアで識別された感情を数値化し、物語生成AIに渡すためのインターフェースを開発する。このプログラムが、これから生まれる物語の命運を左右するのだ。
***
こうして自分の感情を読み取り、感情が数式で表され、科学的な分析を通じて深層の意味が解明され、最後にはその感情に基づいた物語が生成される――その一連の流れを実現する、感情方程式物語の仕組みが完成した。
彼女たちの発明は、ついに残すところ、それらの仕組みを一つのデバイスにまとめ上げるのみとなった。
「すごいよねっ、あたしたちの発明がいよいよ完成を迎えようとしてるなんてっ!」
芙文は夢でも見ているかのように、恍惚とした表情を浮かべた。
「数か月間続けてきた発明が終わるかと思うと、なんだか寂しい気持ちもあるけどね」
一方、数多は発明の旅の幕引きを惜しむように言った。
「うふふ、喜ぶのも寂しがるのもまだ早いわよ。最後まで完成したら、みんなで思いっきりお祝いしましょ!」
心春は二人の肩を抱いて笑った。
「約三か月お世話になったこの研究室にもお礼を言わなくちゃですし、ここでパーティーというのもいいかもしれませんね!」
理化はしみじみと研究室を見渡した。
彼女たちが研究室を借り始めたのは、まだ九月のことだった。
しかし、時は流れ、もう十一月も終わりに近づいていた。
キャンパスを彩る外の木々も、赤や黄、橙色に染まった葉を落とし始め、冷たい風が吹くたびに落ち葉が舞い上がり、地面にカラフルな絨毯を敷き詰めている。
***
四人は額を集め、発明における最後の工程である、『感情方程式物語のデバイス作り』についての創作会議を始めた。
「デバイスはコンパクトな手のひらサイズがいいわね。持ち運びやすくて、どこでも使えるように」
「同意見です。でも、機能性だけじゃなくて、見た目も大事ですよ。感情がテーマなので、ハート形のデザインはどうでしょう?」
「ハート形は可愛いけど、男性ユーザーも考えると、もう少しジェンダーレスなデザインのほうがいいかもしれないね」
「うんうん、感情は性別の境界も、年齢の枠も、国境の壁も越えて共通だもんっ。デザインもぶっ飛んだものにしようっ!」
「ぶっ飛んだものって言うとまた別の意味になりますよ?」
全員に好かれるのは無理だと言われるように、誰もが好むデザインを考えるのもまた至難の業であるが――四人は自分の内なる声に従って、デザインを練り上げる。
スケッチブックに手描きで、あるいはグラフィックソフトを使って。
四人が思い思いに描いたデザイン案が、作業台の上に散らばっていた。
心春の案は、シンプルで洗練された楕円形に絆を暗示する手を繋ぐシルエット。
数多の案は、数学的な美しさを追求したかったであろう多面体にフラクタルアート。
理化の案は、DNA構造を模した捻じれた形に科学的な精密さを感じさせる幾何学模様。
芙文の案は、本を開いたような形の上に物語の世界を表現したファンタジックな装飾が施されていた。
「なんかこれ、絵心大会になってないか?」
数多は頭の中のイメージをデザイン案に上手く落とし込めなかったというように、首を捻った。
「表現したいことはなんとなく分かるわよ。数多の美的センス、なかなかだわ」
心春は数多の意外な弱点を発見し、可笑しそうに言った。
数多が不服そうに口を尖らせる。
「静止した絵の中に数学的な動きを見つけるのは、難しいんだよ」
「でも、みんなの案、ちょっと個性が出過ぎてるかもしれないわね」
彼女たちの案はどれも個性的で、万人受けとは程遠いような印象だ。
とは言え、この四人の発明を表現するには、あっさり過ぎるのも相応しくないように感じた。
ユーザーを惹きつける魅力と、自分たちの個性を反映させる独自性の間の、絶妙なバランスを見つけるのは難しかった。
「やっぱり、ユーザーの目を気にしすぎて無難なデザインにするより、誰かに深く愛されるデザインにするほうが、私たち『らしい』気がしませんか? 外観がどうであれ、中身は間違いなく最高なんですから!」
中身で勝負だ、という理化の提案に同意して、四人はそれぞれの個性を尊重し、各案の長所を一つにまとめることにした。
心春のシンプルさ、理化の精密さ、数多の美しさ、芙文の物語性。
それぞれの要素を融合させることで、新しいデザイン案が徐々に形になっていく。
「この楕円形のベースに、凹多面体の平面を組み合わせることでグリップ感を高めて、ディスプレイを囲う縁は幾何学模様をアクセントにして……全体にファンタジックな装飾で物語の世界を感じさせるディテールっ! これこそ、あたしたちの発明にぴったりだよっ! まるで、カレーにチョコレートを入れたみたいっ!」
芙文がにっこりと微笑んだ。
彼女の言う通り、デザイン案は意外な組み合わせが絶妙なハーモニーを醸し出し、感情方程式物語の世界観を体現するものへと進化した。
四人はこのデザイン案に合意し、それが感情方程式物語の顔となることが決定された。
それは、まるでデバイス自体が一つの物語を語っているかのような、彼女たちらしさが前面に出たデザインだった。