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第5章-2:文学的な冒険 Value yourself

 学園の図書室は、知識と創造力の宝庫として知られている。

 高い天井の大きな窓から自然光が降り注ぎ、温かみのある木製の書棚とモダンなインテリアが調和した空間である。壁一面にはデジタルアーカイブのスクリーンがあり、生徒たちはタッチ操作で世界中の図書や論文にアクセスできるのだ。

 個々の研究や創作活動に没頭するための静かな個人学習ブースも完備されており、集中力を高めるための音響設備も整えられている、学びの聖堂――。


 そんな図書室の個人学習ブースの一つで、芙文は物思いに耽っていた。


 窓外の木々が風に揺れ、図書室の中には紙のページをめくる音が時折響く――そんな穏やかな日常が、芙文には遠い世界の出来事のようだった。

 彼女の目の前に広がるのは、白紙のノートと、動かないペンだけ。

 このペンが、いつも彼女の内なる世界を紙の上に躍動させていた。

 しかし今、そのペンは重く、彼女の手は震え、心に深い傷を残していた。


「あたしの物語は、もう誰にも届かないのかもしれない……」

 芙文はそう呟きながら、自分の作品が世に受け入れられなくなった現実と向き合っていた。

 彼女の心は普段の輝きを失い、不安と疑念が支配していた。

 評論家の冷たい言葉が彼女の創造力を凍てつかせ、自信を奪っていった。


「理化っちに悪いことしちゃったな……」

 芙文は教室の自分の机の上に置かれていた、サプライズボールパンを鞄から取り出して独り言ちる。

 理化が自分のためにプレゼントしてくれたのだとすぐに分かったが、お礼も言わずに教室を出てしまった。


 とにかく今は、一人になりたかった。

 そうして芙文は、三人のことを思い浮かべる。


 例えば心春。彼女の心理学は、人が生活して働く上でも重要な役割を果たしている。

 例えば数多。彼女の数学は、数学に留まらず経済すらも動かしている。

 例えば理化。彼女の科学は、特に医療の分野で次々と新しい技術を生み出している。


 彼女たちの才能は、時を超えても色褪せることはないだろう。

 それに比べて、自分の文学はどうだろうか。

 自分は天才などではなくただの凡才で、三人と並んで一緒にいるのが不釣り合いな気さえしてくる。


 文学は曖昧だ、と芙文は思う。

 今は描いた作品が売れているが、それは流行が去れば、風に散る枯葉のように価値を失ってしまうのではないか、と彼女は恐れていた。

 そうしたら、果たして自分には何が残るのだろうか――自分の存在意義を問い直す芙文の瞳には、不確かな未来が映っていた。


 まるで、空っぽの箱みたい。

 と芙文はノートに書いた。

 その例えは、自分で読んでみてもつまらなかった。芙文はぐちゃぐちゃと文字の上を塗りつぶした。


「うみゅー……」

 と口から言葉にならない声が漏れる。

 頬を机の冷たい木の表面に押し付け、目を閉じた。

「だめだ。なーんも思い浮かばないや。帰ろっ」


***


 翌日の朝――芙文はいつも人よりも早く登校する。

 街はまだ静寂に包まれ、人々の活動が始まる前の、ほんのわずかな時間。

 静かな学園への道を歩く足音は、まるで世界が彼女のために存在しているかのように響く。ガラス張りの壁から差し込む朝日が、廊下の床を金色に染め上げる。

 その光景を独り占めしていると、無限にインスピレーションが湧いてくるからだ。


 教室へ着くと、芙文の机の上に、美しく装丁された本が置かれていた。

 タイトルには『芙文ワールドへの旅』と書かれている。

 彼女はなんだろうと本を手に取り、ページをめくり始めた。


『あなたの物語は私を救いました』

『芙文さんの言葉には、いつも勇気をもらっています』

『あなたの小説は、私の人生を変えてくれました」


 ページごとに、読者からの心温まるメッセージが綴られていた。

 芙文は、感動で胸がいっぱいになり、目の奥が熱くなった。

 彼女は自分の作品が、多くの人の光となっていることを知った。


「おはようございます、芙文さん」

 その声に振り向くと、目を充血させた理化が立っていた。

 横に立つ、心春と数多も同様だ。

「この本、まさか、みんなが……?」


「芙文さん、あなたの文学は私たちの心を彩るんです。数式や実験では表せない、あなたにしかできないことです」

 芙文の問いかけに、理化は芙文の肩を優しく抱き寄せた。

「そうだよ。僕らの数学や科学が、世界を動かすかもしれない。でも、芙文の物語は人の心を動かすんだ」

 数多も頷きながら、力強く言った。

「あなたの作品はこんなにも多くの人の心に響いて、愛されてるんだから」

 心春は芙文の手を握り、柔らかく微笑んだ。

 

 芙文は湧き上がる感謝の気持ちが、まるで温かな光のように身体中を包み込んでいくのを感じた。

 最初は胸のあたりでぽっと灯ったその光は、次第に広がり、肩から腕へ、そして指先へと流れていった。

 彼女の顔には自然と微笑みが浮かび、目尻には優しい涙が滲んだ。

 教室の窓から差し込む朝の光が、ぽろぽろと流れる彼女の涙をキラキラと輝かせた。


 三人は、書き込みが評論家の自作自演だったと伝えた。

 心春の提案で、彼女たちは芙文のために、SNSや文学サイトを通じて、芙文の作品に感銘を受けた読者からのメッセージを集め、それらのメッセージを一冊の本にまとめたのだという。

 彼女たちは全員、過去に自身の著作を世に送り出している。その経験と強力なコネクションを駆使して、そして出版社を経営している海透財閥の力も借りながら、通常ならば数か月を要する製本作業を、一夜のうちに完成させたのだ。


「ありがとう、みんな……。あたしの物語が誰かの心に届いているなら、嬉しいよ。あたしは、あたしの言葉で、世界に色を加えたいんだ……」

 芙文は、自分の文学が、心理学や数学、科学とは異なる形で、世界に影響を与えていることを理解する。

「感情の波を数式に乗せて、その背後にある物語を綴る。それがあたしの使命……」

 感謝の気持ちを胸いっぱいに吸い込むと、彼女の目にはいつもの輝きが戻っていた。

「この発明が世界を変えるなら、あたしの物語が、世界を感じる方法を変えるんだっ」


 そんな芙文の様子を穏やかに見守る数多が言う。

「で、そいつのこと、どうする? 芙文が望むなら、きつーいお灸を据えるのも、僕は手伝うけど」

「いいよいいよ、そこまで怒ってないしっ。そんなことしなくて、いいかなっ」

 芙文は慌てて顔の前で手を振り、数多の提案を断った。


「そう言うと思ったよ。あらかじめ、佐藤さんにも声をかけておいた。じゃあ、被害届と告訴状かな」

 生徒は、数多に頼まれると、嬉々として連絡先を交換していた。

 数多は彼女と連絡をとろうとスマートフォンを取り出したが、

「それも、いいかなっ」

 と、これにも芙文は断った。三人は「えっ」と声を漏らす。

「でも、芙文さん。これは犯罪ですよ? きっちり制裁を加えたほうがいいんじゃ……」


 しかし、芙文の言葉はこれで終わらなかったのだ。

「謝ってもらえれば、それでいいかなっ」

 芙文はにこにこして言った。


「え……?」

 芙文の言葉に、三人はまたも驚かされた。

「やっぱり反省はしてもらわないとねっ。話せばきっと分かってくれるよっ」

 芙文の笑顔には、相手を信じる純粋な気持ちが込められていた。


 しかし、あんな(こす)い真似をする評論家が、そう簡単に謝るとは思えない。

 SNSで連絡をとろうとしたところで、無視されるのは目に見えている。

 謝罪を求めるということは要するに、彼に直接会いに行くということを意味していた。


 心春は眉を顰め、心配そうに口を開く。

「危険じゃないかしら? 若い女の子だけで乗り込むなんて」

 彼女は友人たちの安全を何よりも大切に思っていた。

 そんな心春に、芙文は白い歯を見せて笑いかける。

「話し合いで解決できると思うんだっ。それに、理解してもらうには、顔を合わせて話さないと」

 彼女は拝むように両手を合わせて続けた。

「でも、一人じゃ怖いから……お願い! みんなも付いてきてくれないかなっ?」


 芙文が危険を冒してでも直接話をしに行きたいと考えたのは、友人たちに信を置いているから、という理由ももちろんあるだろうが――彼女は、ただ謝罪を求めるだけでなく、自分の誇りと信念を示すために行動したいと思ったのだ。

 彼女の意志を言葉の空白に感じ取り、他の三人も無言のうちに同意を示した。


 こうして四人は、その日の放課後、評論家に突撃することになったのだ。


***


 彼女たちは学園を出て、電車に乗り込んだ。

 電車の揺れに身を任せながら、芙文は窓の外を見つめていた。

 高層ビルが立ち並び、そのガラスの壁面が冷たく光を反射している。

 ビルの間を縫うように走る車の列は、まるで無数の思考が交錯するかのように錯綜している。流れる風景は、彼女の心の中を映し出す鏡のようで、次々と変わっていった。


「そういえば、みんなで学園外に出かけるの初めてだねっ」

 芙文は明るく言った。

 しかし、彼女の顔は緊張の色に染まっていた。額に薄っすらと汗が滲み、表情は硬直している。


 無意識に握りしめられていた芙文の拳を、理化がそっと握る。

「大丈夫です、私たちがついてますから」

 心春と数多もそれに続いて力強く言う。

「一緒に頑張りましょう」

「絶対に負けないよ」

 芙文は友人たちの心強さに少しだけ心が軽くなったが、それでも緊張は消えなかった。

 彼女の手はまだ微かに震えていた。


 電車が目的地に近づくにつれ、芙文の心臓はますます早く鼓動を打ち始める。

 人の波に押し出されるようにして駅のホームを降りると、四人はオフィスビルへと向かって歩き出した。

 足音がコンクリートの上で響き、周囲の喧騒が次第に遠のいていく。

 芙文は友人たちの顔を見渡し、彼女たちの表情からも同じような緊張感を感じ取った。

 ついてきてくれてありがとう、と心の中で呟く。


「ここがそのオフィスね」

 心春が年季の入った看板に視線を向けながら言った。

 看板の色褪せた文字は、かつての栄光を思わせるように、静かに佇んでいる。


 芙文は深呼吸をして心を落ち着けると、意を決してインターフォンを鳴らした。


 中から低い声が響き、ドアがゆっくりと開いた。

 ドアの隙間から見える部屋の奥には、本棚と書斎机があり、そして古いタイプライターの横に原稿が積み重なっている。

 それを隠すように、ぬっと評論家が表れた。


 彼の顔には驚きの色が浮かび、彼女たちを鋭く見据える。

「何の用だ?」

 警戒心と苛立ちの滲んだ声で、評論家は冷たく言い放った。

「あなたに話があるんです」

 芙文は毅然とした態度で言った。

「私の作品について、あなたが書いた批評についてです」


 評論家は一瞬戸惑ったが、すぐに冷笑を浮かべる。

「ああ、あれか。君の作品はただのゴミだ。何を言っても無駄だ」

 芙文の心は怒りで燃え上がった。彼女の胸の中で抑え込んでいた感情が一気に噴き出し、初めて自分の感情を抑えきれなくなった。


 彼女は手が震えるのを感じながらも、一歩も引かずに評論家を見つめ返す。

「あなたがそう思うのは勝手です。でも、私の作品には私の全てが詰まっているんです。それをただのゴミだと言われて、黙っていられるわけがありません」

 評論家は冷笑を浮かべたまま、言葉を続ける。

「君のような若造が何を言おうと、文学の世界では何の価値もない。君の作品なんて、誰も読まないし、誰も評価しない」

 評論家の口から吐き出された言葉に、芙文の心はさらに深く傷ついた。

 彼女の尊厳が踏みにじられた瞬間だった。

 三人もその言葉に怒りを感じ、芙文を支えるために一歩前に出る。


「それに、君の友人たちも同じだ。若い才能なんて、所詮は未熟で無価値だ。海透心春に、算旭数多に、科埜理化――だったか。君たちも同じだ」

 評論家は舐めまわすように三人を順番に見て言った。


「おい、お前――」

 怒り心頭に達した数多が評論家に殴りかかろうとした瞬間だった。

 彼女よりも早く何かが動いた。

 大きな音を立てて、その手が評論家の頬を打った。


 芙文が平手打ちを食らわせたのだ。

「ふざけんじゃねぇよ!」

 芙文が怒鳴った。

 彼女の中で何かが切れた。

 友人たちのことも否定され、ついに怒りが爆発したのだった。


 評論家は驚きと痛みで顔を押さえた。

 彼は芙文の剣幕に圧倒され、言葉を失ってしまった。

 いつも天真爛漫な友人の初めて見せる激昂に、三人も同様にぎょっとした様子でその場に立ち尽くしていたが、同時に彼女の存在感に見とれていた。


「あなたがどう思おうと、私たちは諦めません。私たちの作品には価値があると信じています。そして、私を支えてくれる友人たちがいる限り、私はあなたの言葉に屈するつもりはありません」

 まだ熱が残っている掌をきつく握りしめ、芙文は静かに、しかし力強く言った。


「お前ら、こんなことをして、どうなるか分かってるんだろうな――」

 評論家が今にも泣きだしそうな、裏返った声で言った。

 彼の顔は青ざめ、冷や汗が噴き出している。


「こちらには証拠がすべて揃っています。さて、これを警察に提出したら、どうなるんでしょうかねぇ?」

 理化は悪魔のように不気味に笑って言った。

 鋭い目からは、確固たる威圧感が放たれている。


「あら、あなた、わたしの名前を知っているなら、海透財閥のことも当然知っているわよね? 何かよからぬことを考えているなら、潰されるのはあなたよ?」

 心春は微笑んで言った。

 しかし、その微笑みは冷たく、眼はまるで氷のように冷酷だった。


 評論家は口を(つぐ)んで、それ以上何も言うことができなかった。

 恐怖に震えている彼が、途端に滑稽に見えてくる。

「まるで、捕食者に狙われた小動物みたい」

 芙文はくすっと笑った。


 そして、四人はオフィスを後にした。

 評論家の顔を思い出し、大笑いしながら帰ったのだった。

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