第4章-2:科学的な奇跡 Chase your dreams
学園の実験室は、一般的に想像されるような無機質な空間ではなく、中央の実験エリアは広々としたオープンスペースになっている。
日の光が調光可能な窓ガラスを通り抜け、化学、物理学、生物学、環境科学など、様々なセクションに分かれた実験エリアを照らし出す。そこには最新の実験装置が揃えられ、自動化されたロボットアームが精密な作業を静かにこなしている。
化学実験セクションでは、とりわけ大きなホログラフィックディスプレイが浮かび、立体的に映し出された化学反応のシミュレーションが学生たちの目を釘付けにしている。
十分なスペースを確保して配置された実験台の上にはビーカーやフラスコが並び、薬品の入り混じった香りが知的好奇心を搔き立てる。
心春も合流し、実験室へと移動した四人は次の工程である、数式から導き出された感情のスペクトルを科学的に分析し、人間の深層心理を解明するための計画と設計についての話し合いを始める。
ここではもちろん科学の達人、理化が主役だ。
「心春っちのときは一か月、数多っちのときは三週間だったから……今度は二週間かなっ?」
空中に指を浮かべながら、見えないカレンダーを辿るかのようにして、雲一つない晴れの日のような明るさで芙文が言った。
それを聞いた理化は苦笑いで頭を振る。
「いやいや、RTA競ってるわけじゃないんですから……」
彼女の返答は自嘲気味に、しかし小気味好いウィットが効いていた。
「理化ちゃん、何か良い策はあったりするの?」
心春の問いかけに、理化はまたも頭を振る。
「いえ、それもまだ……」
「そう」心春は思案顔でデータを眺めた。「この数式と数値から人間の深層心理を解明するわけだけど、どこから手をつければいいのかしら?」
「簡単だよ、心春っち。まずは、『喜び』の数値をチョコレートの量で置き換えてみようっ!」
「それはただお腹の空き具合を測るだけじゃないですか!」
嬉しそうにチョコレートを取り出す芙文を遮るように、理化が突っ込みを入れた。
「ここにある数値は『怒り』の赤を表している。でも、このが示すのは色彩強度――言い換えると、怒りのピークがどれだけ急激かってことだよね」
データベースを指さしながら冷静に分析する数多に対し、芙文が冗談を言う。
「つまり、この数式が示すのは、チョコレートを食べた後の罪悪感っ?」
「いえ、それはただの食べすぎです!」
理化が再び即座に突っ込んだ。
「でも、これは面白いかもしれない。感情のピークを捉えられると考えたら、人間の心理をより深く理解できるかもしれないわ」
「そうだね。この考えはさらに応用できるよ。『悲しみ』の青の濃淡がと
で調整できるのだから、それは『悲しみ』の深さを測定できるってことだ」
そこで、腕を組んで考え込んでいた理化が口を開いた。
「うーん、机上の空論より実践の一手ですよ」
いつの間にか白衣を羽織り、手にはゴム手袋を、目には安全ゴーグルを装着して、彼女は宣言した。
「これより、数式から得られたデータを科学的に分析する実験を行います」
***
他の三人も理化の指導のもと、同様の実験着を着用して、それぞれの役割を果たす準備を整えた。
数多は指示薬の数値を測り、記憶の色と照合し、その正確性と品質を確認する。
心春はデータロガーをセットアップし、実験の結果を記録する。
芙文は実験助手として、実験の進行をアシストする。
「理化っち、その試薬、『喜び』の黄色に見えるけど、本当に大丈夫っ?」
「もちろんです。これは『喜び』を表す特別な指示薬。でも、間違って『怒り』の赤に変わったら、それは芙文さんのジョークが面白くなかった証拠ですね」
目を丸くして尋ねる芙文に、理化はにやりと笑いながら答えた。
彼女の目には、好奇心と狂気が混じり合った、そこはかとなく不気味な光が宿っている。
「これで、感情の色彩強度がどのように変化するかを観察します。いきますよ」
実験室の静けさを背景に、理化は慎重に試薬瓶を手に取った。
スタンドに試験管をしっかりと固定し、その透明な筒を覗き込むと、中には無色透明の液体が静かに佇んでいる。
彼女はピペットを使って、一滴、また一滴と指示薬を滴下する。
指示薬が液体に触れるたびに、まるで水彩画の絵の具が水に溶け出すように、液体は徐々に色を変えていく。
そして、変化はただの色の変わり目に留まらず、化学反応が進行するにつれ、試験管の底から小さな気泡が生まれ始めた。最初はゆっくりと上昇するその泡も、次第に勢いを増し、ブクブクという音を立てながら激しく泡立ち始める。
「理化っち、この実験って色が変わるだけじゃなかったの? これじゃあ『興奮』の泡が出てるみたいだねっ!」
黙って実験の経過を見守っていた芙文だったが、この反応を見るなり大笑いした。
理化は、滴下した指示薬を確かめるようにして試薬瓶を覗き込みながら答える。
「お、おかしいですね……。これは計算外でした。科学は予期せぬ発見の連続だからこそ面白いんですけど……」
「この泡、感情の強度が高まっている証拠かもしれない。で計算した強度が高いと、こんな反応が起こるのかな」
数多は泡を見て、普段とほとんど変わらないと言えば変わらないが、神妙な顔つきだ。
「それとも、ただ炭酸飲料をこぼしただけかもしれないわよ」
明らかにおかしいこの反応に対しても真面目に分析しようとする数多を見て、心春はくすくすと笑いながら軽口を叩きつつ、データを確認していた。
一言で言うと、実験は失敗だった。
その後も理化は諦めずに様々な指示薬を用いたが、何度試しても期待した結果は得られない。
初めは好奇心に満ちていた実験、彼女たちに笑いをもたらしていた実験だったが、こうも失敗が続くと様子を変えてくる。笑顔は影を潜め、実験室の空気はだんだんと重くなり、四人の表情も真剣さを増した。
理化は冷静さを保ちながらも、次第に眉間には集中の痕が深くなってきた。
しかし反応はいつもと同じで、期待に応えてくれることはなかった。
そのたびに、彼女の口元はきつく結ばれ、試薬瓶を操作する手の動きも荒くなってくる。
「根を詰めすぎても良くないし、一旦休憩しましょうか? そうしたらきっと良い結果が出るわ」
「感情を科学的に分析するのは難しいね。でもその努力、すごくエレガントだよ!」
いつもと違う理化の様子に勘づいた心春と数多が励ましの声をかけた。
「そして、そのすべてを物語にするのがあたしの役目だねっ! 理化っちの実験失敗記、これはこれで面白いっ!」
芙文も励ますつもりで軽い冗談を言った。
しかし、理化にとってはその言葉が彼女の努力とプライドを無視したものに聞こえた。
彼女は芙文の言葉が心に深く突き刺さるのを感じ、試験瓶を手にしたまま凍りついた。
「……芙文さん、先ほどからうるさいですよ。失敗記? 面白い?」
理化は肩を怒らせ、不快感を露わにして芙文に詰め寄る。
実験室の空気は一瞬にして緊張で張り詰めた。他の実験セクションにはまだ生徒もいたのだが、四人の周りだけが切り取られ、世界から切り離されたかのようだった。
「えっ、あたし!? ごめんなさい。ただ、少し気を軽くしようと思って……」
芙文は理化の怒りに戸惑うが、理化は聞く耳を持たない。
「私の研究は遊びじゃないんです! 完璧な結果を出すために、日夜努力しているんです。水を差さないで!」
理化は叫ぶと同時に実験台を叩いた。
「ちょ、ちょっと理化、落ち着けって――」
その大きな音に我に返った数多は、理化の暴走を止めようと二人の間に入った。
心春も仲裁しようとしたが、理化は自分の感情を抑えることができなかった。
そして怒りが爆発したのか、弾かれたように、彼女は実験室を飛び出していった。
嵐が過ぎ去った後の、訪れる一瞬の静寂。時計の秒針の音がやけに大きく聞こえる。
「何かまずいこと言っちゃったかな?」
重苦しい空気が支配する実験室で、目を伏せた芙文が不安げに小さく呟いた。
さすがに、いつもの元気はない。後悔と心配が混ざり合った声だった。
「うーん、理化ちゃんは完璧主義なところがあるから……失敗を指摘されると、ストレスを感じる人もいるわね」
心春は慎重に言葉を選びながら答えた。
「理化を追いかけようよ!」
数多が言ったが、
「ううん、あたしが行く!」
と、その提案を断り、芙文が断言した。
彼女は、自分が引き起こした誤解を解決する責任を感じていることが伝わってくる、強い目をしていた。
芙文は深呼吸を一つし、決心したように実験室の扉に駆けていく。その姿は廊下の闇へと溶け込み、消えていった。
理化に続いて芙文のことも目送するしかなかったが、数多はやはり辛抱ならないといった様子で白衣を脱ぎ捨てて言う。
「やっぱり芙文一人じゃ心配だよ。僕らも後を追おう」
「ダーク・スレート・ブルー」
芙文の後を追いかけようとする数多の手を、こう言って心春が引き留めた。
「え?」
「『怒り』の赤じゃなく、ダーク・スレート・ブルーだったわ。これは確か、『内省』や『やるせなさ』だったかしら」
心春は、この場面に凡そそぐわない、春の日差しのように温かな笑顔で言った。
「芙文ちゃんに任せましょう。きっと大丈夫よ」
数多は心春の眼を見つめていたが、やがてその意味を理解したように、進もうとしていた足を止めた。
肩の力が抜け、深い息を吐き出すと、数多の表情は柔らかくなり、緊張が解けていくのが見て取れた。
「うふふ。理化ちゃんの色彩強度、すっごく高いのね」
そして、そう可笑しそうに笑う憎めない心春の頭を小突いた。