9 勇者ダニエルの日常
勇者ダニエルの朝は早い。
日が昇るほんの少し前、まだ夜と朝が同居している時間に起きる。
寝起きの体操の代わりに10キロのランニングを大体50分ほどのペースで土曜日と水曜日以外の週5日行う。ランニングをしない日も手を抜くことはなく毎朝同じ時間に起きて普段疎かになりがちな体のメンテナンスを行う。
ランニングを終えたあとは形の練習を目を閉じて剣先に全神経を集中させ30分ほど基本動作を確認する。
20分の休憩の後、練習で痛んだ体をほぐすストレッチを行い、近所の喫茶店でコーヒーと朝食を食べて、勇者の朝が始まる。
コーヒーを手に取り、ゆっくりとその苦味を味わうように飲み込む。砂糖やミルクの類は一切入れずコーヒー本来の味わいを楽しみ戦いの疲れを癒す至福のひと時である。
砂糖やミルクを入れてもまた美味しいがストイックな生活を送っていると余分な物を身体が受け付けなくなる。
朝の新聞が店に届くとダニエルは一番最初に読み始めた。
最初の頃は最後で大丈夫と言って断っていたがいつしか「勇者様が先に読まないと」と言われるようになり渋々一番最初に読むことにした。
勇者ダニエルは気になる情報があれば記事に書いてある事を鵜呑みにせず出来る限り足を運び自分の目で確かめたくなる性格である。
こうして日々の活力を得ていた。つい、先日までは…………
「なぁ、ダニエル。そんな苦っいコーヒー飲んで美味しいのか? 我はこのぐらい甘い方が好きだ」
そう、魔王オグワの監視を国王陛下から要請(名目上)されこうしてトイレと風呂以外魔王オグワと共に生活している。
なぜこんな魔王と同棲生活を送らなければならないのか言いたいことはいっぱいあるが相手は国王だ。はいかイエスしか選択肢が提示されてない。
流石に同じベットに入り込んできた時は無言でオグワを突き落としていた。
「何をする! 痛いでわないか」
勇者ダニエルの至福のひと時にも魔王オグワが入り込んできたわけである。正直言って迷惑だが国王からの依頼となれば断ることは不可能だ。
断ったらたとえ勇者と言えど首が飛ぶかもしれない。
オグワの手元には半分程にまで減った角砂糖が入っている容器と4つ空になったミルクのカップが置かれている。
ここ最近では砂糖とミルクの使い過ぎたと言われ別料金を取られている。それにオグワが素直を従っている事が驚きだ。てっきり『我は魔王だ、ただにしろ』とか言い出すと思っていた。そもそもあの金はどっから出てくるのか気になったが聞いたところで余計なストレスが増えるだけと判断して考えなかったことにした。
ダニエルは身体中から話しかけるなオーラを全開に出しているが魔王オグワはそんな事お構いなしにダニエルに話しかける。
「我は甘いものがいいと思うがな、苦いものを飲んで何が楽しい、人生ぐらい甘くていいじゃないか、なのに何故苦いものを好き好んので飲むのだ?」
コーヒーに角砂糖をさらに追加しながらオグマは1人勝手に喋っているがダニエルがそれに応えることはない。
なぜ魔王が人生観を語っているかはさておき、オグワが言っていることも一理あるのかもしれない。だがやはり人生甘いだけでは飽きてくる。時々酸っぱく苦く辛く、風味の変化や刺激が必要なのかもしれない。
酸味や塩味、苦味、旨味、辛味があるからこそ主役がより引き立てられる。ただ焼いただけでは美味くない。人生も同じような物なのかもしれない。
甘いだけ、辛いだけ、酸っぱいだけ、美味いだけ、塩辛いだけ、しょっぱいだけではどこか物足りない。やはりちょうどいいハーモニーと呼ばれる謎の物質がそこには存在しているのかもしれない。
人生山あり谷あり、これがもし平坦な道で同じ景色がずっと続いているだけであれば人間、すぐに歩を止めてしまうのでないだろうか。
山が聳え、山を登り、山頂から街を見下ろす。
山を降り、街中から遠くの山を眺める。
山が近づき自然の雄大さを感じ。
山を登り自然の音を肌で感じる。
山を降り、麓から山を見上げる。
だからこそ人生は山あり谷ありと古くから言い伝えられるのではないだろうか。
苦しいからこそ甘みを存分に感じられる。
辛いからこそ甘みを存分に感じられる。
「我はこのパンは好きだな、柔らかくて食べやすい、魔王城でもパンは出ていたがあれは硬かった」
パンをちぎり何も付けずに口に放り込み「う〜ん、美味い」と頬に手を当て舌鼓を打っている。
「別に食べれないほどではなかったがあまり好みではないな、だがこのパンは美味しい、バターの風味もしっかりと香って食欲が溢れてくる」
オグワは目を輝かせながらジャムが入っている陶器を取り上げて、いちごジャムを大量にパンに塗ったくった。垂れてくるジャムを舌で舐めた。
「そしてなんと言っても絶品なのはこのジャムだな、魔王領にもいちごはあったがあまり甘くはなかった、このイチゴは甘いな。やはり人間と魔族では姿形は似ていても頭の中は違うようだな人間達はいかに美味しい作れるか躍起になっているからな、我ら魔族は食えればいいと言う奴らが多いからな」
「オグワ、少し静かにしてくれ。ここの朝食のおいしさを語りたい気持ちは十二分に理解できるが俺はこの空気を感じたいんだ」
この朝の静かな空気が好きだと言うダニエルの気持ちをオグワはあまり理解できなかった。
「空気は吸う物だろ、感じる物じゃない」
「正論を聞きたいんじゃないんだよ」
この魔王、何言っても聞く耳を持たないとわかってはいるがこう耳元でぶんぶん飛び回る蚊のように小言を言われては勇者と言えど、ストレスが溜まる。それが日々の習慣を邪魔されているのであれば尚更である。よくここまでダニエルが我慢していると逆に感心する。普通であれば一回で黙れと言ってもおかしくない。それか手が出ている。
「オグワ、少し静かにしてみよう、まずはこの空気を味わえ、そして小鳥のさえずりを聞いてみろ、そして風と会話をするんだ。聞こえるだろ………」
ダニエルは目を閉じて耳を澄まして、まだ人々が動いていない静かな街中の音を肌で感じ、耳で聞き、身体で受け止めているがオグワは止まっていることができないマグロと同じなのか、身体が揺れている。
ダニエルの真似をして目を閉じてみるが飽きたのかすぐに目を開け、勇者の顔を覗き込み無視され、やることが無くなったのか、木の枝に止まる鳥を見つめるが、すぐにまた違う宿り木に飛び去った。
「我にはわからん。人間はこんなことが好きなのか? ただの鳥ではないか?」
「ただの鳥だからいいんだよ、これが幻の神鳥ならすぐに狩ろうとするだろう、でもただの鳥は誰も狩ろうとはしない、ただの鳥だからこそ聞きがいがあるんだよ、オグワもまだまだだな」
魔王オグワの最大の弱点は知っている。こうやって敵対心を少しだけ煽るとオグワはなんでも一番じゃないと気が済まない性格のせいか、すぐになってくるのである。
現に勇者ダニエルに対抗心を燃やし、目を閉じて風の音を聞き始めた。
しかし、いくら耳をすませて聞いてもオグワはにとっては風の音や鳥のさえずりは特段特別な物とは感じられなかったが、こう言うひと時もありだと思い始めていた。