6.剥離していく世界
『転生』でもなく『転移』でもなく、異世界に移行中?
その概念は自分にはなかった。
何らかのきっかけで意識または魂が、現実とは異なる世界に移ってしまう現象。
それが、お約束だ。
なので、現在進行形で自分が異世界に足を踏み入れているという自覚は無かった。
ドラキュラの青年が補足する。
「君達の世界が平面だとすると、君が観測する現実は、その平面上の一本道だ。勿論、節目はあるから、その道は幾重にも枝分かれしていく」
そこで、白い紙の上で血管がどんどん枝分かれしていくイメージが浮かんだ。
平面上で無数に枝を広げていく道筋……。
すると青年は頷く。
「そのイメージで合っている」
え? この人、イメージとか映像も読み取るのか?
そう思った瞬間、それも察したように彼は言う。
「それぐらい造作ない。だから汚いものを見せるなよ」
「あ、はい……汚い物……」
「やめろ。酷く気分が悪くなる。で、話が逸れたが、君達の世界がその平面だとすると、君の辿っている道は、平面を離れて上に向かって枝分かれしている最中なのだ」
それも先ほどの続きとしてイメージしてみた。
無数に枝分かれしながら広がる道のうち、1本が平面を離れて3次元方向に進む。
そしてその1本から先の枝分かれは、別な平面の上に広がっていく。
まるで重なった二枚の紙を分離するように、紙と紙が剥離しようとしている。
青年が満足そうに頷く。
「その認識で良い。上出来だ」
「それはどうも……」
異世界は初めから別なところにあるもので、そこに意識だか魂が移転するという概念。
それが当たり前だと思っていただけに、ドラキュラ青年の説明する概念は新鮮だった。
彼は言う。
「君の現在地は、少しずつ元の世界から剥離している。そういう意味で、君は既に異世界に足を踏み入れているということになる。自覚はないかもしれんがな」
まったくだ。
もしかしたら、裸ベルトの彼女を拾った瞬間から、今の世界は旧世界から分離し始めてしまったのかもしれない。
青年は高級ワインを注ぎ終えた給仕のように言う。
「それでは、異世界ライフをお楽しみください」
そう言い残して、ドラキュラの青年はいつものように消え去った。
色が薄くなり背景と同化するというアレだ。
この世界を楽しめだって?
これって楽しいのか?
ふと、ベッドに目をやると、眠る彼女の横で林が寛いでいる。
あ……林のこと忘れてた。
多分、裸ベルトの彼女と同様にドラキュラ青年のことも、林には見えていないと思う。
「なぁ、林。さっきの話、どう思う?」
それを聞いてスマホを見ていた林が不思議そうな顔をする。
「え? 何の話?」
「異世界に飛ぶんじゃなくて、現実から剥がれていくものが異世界って説」
林は首を傾げる。
「なんだそれ? そんな話してたっけ?」
「いや。ならいいんだ。考え事してただけだから」
やっぱり、林には見えていないし、自分の言ったことに対する違和感もないみたいだ。
林がスマホの画面を見せながら言う。
「そんなことよりよ。インドで列車の脱線だってよ。280人ぐらい死んだってさ!」
「え? そりゃ大変な事故だな」
わりとどうでもいいニュースだ。
林はスマホを操作して何かを検索する。
そして、屋根まで人が溢れている列車の画像を見せてきた。
「だって、普段からこれだぜ? 確かに大事故になっちまうよなぁ」
車両からはみ出す人達をぶら下げた列車の画像。
もし、それが引っ繰り返ったら大変なことになるのは容易に想像できた。
彼女のベルトのボタンを押して得た金は、まるまる100万円残っているはずだ。
しかし、何となく、その使い道を考える気が無くなってしまった……。
* * *
夕飯の後で、突然、臨時の家族会議になってしまった。
3人家族で会議というのもなんだが、親父から大事な話があるという。
しょんぼりしている父親に、明らかにキレている母親。
まあ、時々ある構図だ。
だが、今日はなんだか空気が重い。
無言の時間がいつもより長いように感じる。
そこで母親が吐き捨てる。
「あんたの口から説明しなさいよ」
びくっとした父親が、一瞬、母親の様子を伺う。
そしてこちらに顔を向けて、一呼吸置いて話を切り出す。
「すまん……学校を辞めてもらうことになるかもしれん」
「は? どういうこと?」と、思わず上ずった声が出た。
父親は俯きながら淡々と説明する。
「強制ロスカットを喰らった。FXだ。来週の火曜までに2400万を証券会社に払わないとならない」
親父、何やってんだ⁉
FXってなんだよ……。
唖然としていると親父がテーブルに頭を擦り付けた。
「すまん! この家は売ることになる。それで、お前にも働いて欲しいんだ」
母親がそこでバンと机を叩く。
「あんたの借金でしょ! ひとりで返しなさいよ!」
「そ、そんな……だって家族だろ? こういう時は助け合って……」
「冗談じゃないわよ!」
そう言い残して母は涙を流しながら席を立った。
『親の離婚』という言葉が過った。
だとすると、この生活が終わる?
「マジかよ……」
頭を抱えるしかなかった。
当たり前だと思っていた日常。
それがこんなに脆いものだなんて……。
父親は、よろよろと立ち上がると力なく言った。
「どちらについていくかは自分で決めてくれ」
「……やっぱ、離婚するの?」
「たぶんな。ここにも住めなくなる。ホントに済まんな……」
ひとり食堂に残されて、しばらく考えを巡らせた。
色んな不安が過る。
新たな生活……まったく予測ができない。
正直、怖い。怖くてたまらない。
「くそっ!」
それは悪手なのは分かっていた。
しかし、この環境を変える勇気は無かった。
2階に駆け上がり、部屋に入る。
ここで金を出してしまうと同じことを繰り返すんじゃないか?
それは火を見るより明らかだ。
でも、お金なら……出せる!
「2400万か……桁が違うな」
ベッドの上で、Tシャツ1枚の彼女が、こちらを見上げる。
「ごめん。また金が必要になった」
きょとんとした彼女の表情が一瞬、曇ったように見えた。
アンドロイドのような、幼子のような彼女が、そんな表情を見せるのは意外だった。
だが、言葉は伝わっているはずだ。
「ボタン、借りるよ。2400万……必要なんだ」
すると彼女は、ぽつりと言った。
「……だいじょうぶ?」
「え……」
嘘だろ? 彼女が喋った?