18 夜の迎撃戦
暗くなると廃墟のような都市は、簡単に闇に飲み込まれてしまった。
その反面、蝋燭のような微かな瞬きが、生き残りの存在を示している。
中層階の内装すら施されていない部屋。
まさしく作りかけのオフィスビルの一室だ。
ここが指令室の代わりなのか、老師はのんびりとコーヒーを飲んでいる。
これから本当に戦闘が始まるとは思えない。
リラックスしているのは彼女も同じだ。
脚をブラブラさせながら鼻歌を歌っている。
どこで覚えたのか知らないが、ずっと同じフレーズを繰り返している。
そろそろ敵が攻めてくる時間だ。
緊張感を紛らわすために昼間の続きを質問してみる。
「あの……昼間の話。あらゆる世界が同時に存在するって、そんな膨大な情報をどこに、どうやって収納するんですか?」
老師はカップをテーブルに丁寧に置くと、嫌な顔をせずに答えてくれる。
「収納する場所ですか。確かに現在過去未来、ifを含むすべての世界をデータ的なものとして捉えるなら膨大な情報量になるでしょうね。それを三次元で収納するのは不可能のように思えますが、無限の容量あるいは無限のスペースなら可能です」
「いや。無限っていうけど、それでも無理なような……」
「あなたが考える『無限』というものは、本当の無限とは別物です。三次元に存在する我々は無意識に物理的な枠組みで『無限』というものを捉えようとしてしまう」
「なんですか、ソレ。ひょっとして四次元なら膨大なデータ量を幾らでも収納可能ってことですか?」
「四次元の概念に若干、誤解があるようですが、データの概念も違いますね。現在は『有る』か『無い』かの二進法でデータを置き換えていますが、その中間の状態はデジタル的には認識されていません」
「『0』と『1』は分かるけど、中間なんてあるんですか?」
コンピュータ、というかトランジスタの原理は二進法。
量子コンピュータというものはそうでないと聞いたことがあるが、そのことを言っているのだろうか?
老師、曰く。
「素粒子よりも小さな物体。物体の最小単位は、極めて短い時間で存在と消滅を繰り返しています。それは周期が短すぎる故、存在と同時に消滅しているのです」
「同時に?」
「ええ。その最小単位は、この3次元の世界に出現する際に空間を押しのけて重力を生じさせます。そして消滅する際にマイナスの重力を生じさせます。それは、ほぼ同時に発生する現象なので、現代の技術で把握することは困難です」
「素粒子とか重力とか……話が複雑化してないですか? というか物体は消滅と出現のどちらの状態でもあるって? この世の中の物質はすべて幻ってことですか?」
「そうではありません。ほんの一部ですが、消滅と出現のバランスが傾いて安定したものもあります。それが存在するもの、すなわち素粒子となり、原子となって、この世界を構成しています」
「けど、それはほんの一部なんですよね? じゃあ、それ以外は?」
老師はニコニコしながら答える。
「ダークマターといわれるものがそれです」
「ダークマター? 聞いたことはあるけど……」
「広大な宇宙空間を満たす物質。その空間は無ではありません。ですが何でその空間が満たされているか。今のところ、それはダークマターという概念でしか理解しようがないのです」
「うーん。ますます分からない、です」
「話がだいぶ脱線しましたが、アカシックレコードといわれる莫大な情報をどこに収納するかというあなたの最初の疑問。世界を構成する情報は変化の少ない大部分は共用できるように重なり合っていますし、さらにそれらは幾重にも折り畳まれています。それが物理的には無限の……」
駄目だ。
その話をもっと理解するためには、この人に弟子入りして、もっと話を聞かないと……。
その時、老師が机の上のモニターをチラリと見た。
そしてボソっと独り言を口にする。
それは中国語で何か指示を出したのだろうが、マイクはどこにも見当たらない。
それに気付いた老師がモニターに手を翳す。
机の上には3台のモニターが並んでいる。
それらの画像が監視カメラの映像っぽいものに切り替わった。
「え?」
彼女が手を触れずに機器を操るのと同じだ。
左のモニターは、赤外線カメラの画像だろうか?
白黒で道路のようなものを映している。
おそらく、この都市に入る時に通った唯一の幹線道路だ。
「これって、この町の入口あたりですかね?」
老師はモニターを見ることなく返事をする。
「ええ。町の入口からこちらに向かってくるメインの道路を撮影しています。まもなく彼等がここを通過します」
敵が迫っているというのに、この余裕は何だろう?
しばらくモニターを凝視していると、なにやら箱っぽい物がこちらに向かってくるのが分かった。
「ゲッ! まさか戦車!?」
「いいえ。装甲車ですね。どうやら突入のための車列を守るために先頭を走らせているようです」
そう言われてみれば装甲車のように見えてくる。
マジで奴らは戦争のつもりだ!
と、その時、モニターの画像内で装甲車の右側で爆発が発生し、装甲車が煙の中で転がるさまが写った。
画像には音が無いので何が起こったのか分かりにくい。
もしかしたら地雷が爆発したのかもしれない。
あるいは対戦車砲のような飛び道具を使ったのか?
すると老師は事も無げに言った。
「仕込んでいた地雷です。とりあえず良いタイミングで爆破出来ましたね」
理科の実験の感想みたいな老師の口ぶりに唖然とする。
爆発の煙で装甲車の様子は綺麗に映っていないが、敵に大ダメージが入ったのは確実だ。
しかし、その煙をぶち抜いて車が何台か飛び出してきた!
急に外の様子が慌しくなった。
『バンッ! パパパッ!』という乾いた発砲音があちこちで発生している。
銃撃戦! これは自動小銃の音だろうか?
初めは散発的に、それが断続的に変わってきて、戦闘の激しさが増してくる。
時折、混じる爆発音は手りゅう弾か迫撃砲か?
しばらく様子をみていた老師の表情が曇る。
「あまり状況が芳しくないようです」
「え? 押されてるってこと、ですか?」
「ええ。東側から侵入してきたヘリコプターから降下した部隊。訓練を受けた軍人ですね」
「軍人!? 中国の軍隊?」
「人民解放軍ですね。おそらく買収されたのでしょう」
そこで、彼女が急に話に入ってくる。
「幾ら? それ以上の金額を渡して手を引かせるわけにはいかないのかしら?」
老師が「なるほど」と頷く。
「彼等は日本円にして30億円ほどの報酬を支払ったようです。それを上回る金額を提示すれば撤退させることは可能かもしれません」
「じゃあ、ボタン押そ。倍の金額払えばいいのよね」
彼女の言葉に一瞬、老師が首を傾げる。
「ですがそんな大金……ああ、なるほど。そういうことができるのですか」
彼女はシャツの裾をたくしあげて迫ってくる。
「60億。早く、押して」
「い、いや。ちょっと待て。そんな急に……」
この前、9億だったから、その6倍以上という条件は満たしている。
しかし、それは60万人の命を犠牲にすることと同義だ。
「なにモタモタしてんの? このままだと全滅よ?」
「そうだけど、心の準備が」
「ばかっ! どのみち押さなきゃならないのよ! 押すなら今でしょ」
「くそっ、もぅ! なんなんだ!」
ヤケクソで『60億円』と3回、復唱する。
そして彼女のボタンを押し込む。
成功のチャイムが鳴って、手のひらの残高がプラスされる。
その様子を冷静に見ていた老師にお願いする。
「老師。60億円を払います。なんとかしてください」
老師は「承知しました」と、モニターに触れる。
すると画面が、何やら複雑な文字列を猛烈な勢いで表示し始めた。
同時に老師が独り言で交渉を始める。
通信機器は使っていない状態ではあるが、強い口調の中国語で誰かと話をしている。
しばらくそれが続いて老師が静かになる。
そしてこちらに向かってほほ笑んだ。
「とりあえず、軍は撤退させるそうです。ですが、残りの連中はトコトンやるつもりのようです」
彼女が「それで充分よ」と、頷く。
老師はガラスどころか窓枠すらない箇所から外を眺める。
散発ながら銃声や爆発音は未だ続いている。
「あなた方は、この建物を離れた方が良いでしょう」
老師の言葉を受けて、彼女が弾かれたように走り出す。
「なにやってんの! 行くわよ!」
彼女に手を引かれるまでボンヤリしていた。
なぜなら、目の前の現実が急に別世界の出来事のように感じられて仕方が無かったからだ……。