17 師、曰《いわ》く
『老師』というからには、勝手に仙人のような風貌を想像していた。
なのに、この人は何なんだ?
この、ちょっとカジュアルな勤め人みたいな中年男性が老師だって?
髪もボサボサではなく、七三に分けられている。
「えっと……」
言葉に詰まっていると、老師が気を利かせる。
「疲れたでしょう。何か飲みますか?」
また日本語だ。
この人、本当に中国人か?
尋ねるより先に「日本人ですよ」と、老師は答える。
まるで、こちらの心の中を読んだみたいだ。
「え? マジで日本人? なんで……」
老師は椅子に腰かけ、足を組みながら答える。
「わざわざ来たのに損した、って顔ですね」
図星だ。
というか、この人も彼女やドラキュラ青年のように、他人の考えていることを読み取る能力があるのか?
それに、彼女が見えているという点で普通じゃない。
「彼女のこと、見えてますよね?」
その質問に老師は不思議そうな顔をみせる。
「ああ、そういうことですか……見える方が稀なんですね」
そこで彼女が口を挟む。
「老師に聞きたいことがあって来たの。いいかしら?」
老師は「どうぞ」と、返事をする。
やはり、彼女の存在が普通に認識されているようだ。
彼女は尋ねる。
「どうやったら時間を巻き戻せるの?」
時間? 時間を巻き戻す?
突然、何を言い出すんだろう?
彼女の突飛な質問に老師が頷く。
「なるほど。時間ですか……」
老師は少し考える素振りを見せてこちらに顔を向けた。
「時間というものは存在しない。先にそれを言っておきます」
「え? なんだそれ……」
意外な答えに驚きながら彼女の横顔を見る。
だが、彼女は神妙な面持ちで続きを待っている。
老師は言葉を選びながら続ける。
「あなたはアニメーションを見ますか?」
「いきなり何を? まあ、見るけど」
戸惑いながら答えると老師は頷く。
「よろしい。では、アニメの仕組みの原型。パラパラ漫画はご存じですか?」
「教科書の隅っこに書いて遊ぶやつ、ですよね?」
「そう。少しずつ変化していく絵を描いて、それを連続でめくることで動いているように見せるテクニックです」
それは分かる。
アニメの場合は、それがセル画になるのだが、それほど難しい原理ではない。
老師は言う。
「それと同じで、この世は既に構築されています。すべて同時に存在するのです」
「ええっと……」
老師は説明を続ける。
「アカシックレコードという言葉を使う人も居ますけど、それはある意味、正しいといえます」
彼女が「過去も未来もない、ということ?」と、疑問を口にする。
老師は答える。
「その通りです。我々が三次元として認識する、この瞬間の世界は、過去も未来も前後左右も関係なく、様々なパターン、あらゆる可能性を含んで既に存在するものなのです」
「いや、ちょっと何言ってるか分からない」
それが素直な感想だ。
そこで老師が「例えば」と、例を示す。
「あなたが、そこにある空のコップを手に取って宙に放り、キャッチするとしましょう。コップが舞って落ちてくる。それを両手でキャッチするまでの動きを表すセル画は既に用意されていると仮定しましょう」
想像してみる。
少しずつ位置を変えるコップ。
それをキャッチするまでの自分の動きのコマ送り。
老師は言う。
「取り損ねる場合、高く放り過ぎた場合、投げない選択というのもありうるでしょう。しかし、可能性のあるパターンのすべては既に網羅されていて、そのセル画は同時に存在しているのです」
そこでセル画が何列にも並べられているところを想像した。
「枝分かれするみたいに、色んな結果に繋がるセル画が並んでいるっていうイメージ?」
「その認識で合っています。そして、あなたは、そのルートの中のひとつを選んで観測していくことになります」
「観測……」
「そう。どれか一つのルートを観測していく。それが時間であり、現実になる。つまり、時間というものは、あなたがセル画を順に観測していく速度なんです。順に観測することで、初めて時間という概念が生まれるわけです」
「観測しなければ……時間は発生しない。存在しないのと同じ?」
分かるようで分からない。
老師が言う時間の概念は、直ぐに理解できるものではないが……。
そこで彼女が口を開く。
「観測者は一定のスピードでしか観測できない? それも一定の方向にしか進めないの?」
老師は頷く。
「そうです。たいていの場合は、無数に枝分かれする世界を一定の範囲内で選択して観測していくことになります」
彼女は軽くため息をつく。
「観測者は意識。普通の人間が観測できるものは選択肢の中の、いちルートに過ぎない」
なんだろう? 彼女は老師の話が理解できているっぽい。
置いて行かれた感が半端ない。
老師は続ける。
「たまに観測が一定でない個体もあります。それは精神疾患とか幻想ともいわれるし、単に夢の中でイレギュラーな観測を行うこともあります」
観測。観測者? その概念がどうしてもピンと来ない。
彼女は、はっきりと言う。
「知りたいのは過去に向かう方法。つまり観測する方向を逆にしたいの。それをこの人に教えてくださる?」
その依頼に老師が首を傾げる。
「うーん。観測のやり方を変えるには……相当な訓練が必要となりますね」
「お願い。時間が無いの」
「いや、しかし、意識を切り離すのですら難易度が……」
「死んでしまった方が手っ取り早い?」
さらっと恐ろしいことを口にした彼女。
ひょっとして彼女は、時間を遡るために老師を訪ねたというのか?
時間を逆行するなんて……いや、それは無理だろう。
幾ら彼女が異世界の存在だからといって、そんな……。
と、その時、彼女と老師が同時に反応した。
「来たわね。思ってたよりも早く」
老師が彼女の言葉を受けて反応する。
「武器を調達していますね……なんとヘリコプターまで。これは武装ヘリですか」
「何でも現地調達ってわけね。なりふり構ってられないみたいね」
「あなた方を追ってきた方々は戦争を起こすつもりなのですか? おそらくは、そのボタンのせいなのでしょうが」
それも知られている。
というか事前情報もなく、なぜ会話が成立しているのか謎過ぎる。
やっぱり、老師は彼女と同レベルの能力、いや、それ以上のモノをもっている可能性が有る。
彼女は電子機器を介さずにデジタル情報をキャッチする能力を有している。
おそらく、バチカンの追手が迫っているのは確かなのだろう。
彼女が老師にリクエストする。
「迎撃をお願いできるかしら?」
「それでしたら準備はできております。有料にはなってしまいますが、よろしいですか?」
「幾らでも払うわ! とりあえず前金で」
「承知しました。至急、町中の戦力を集めます」
「4時間後ぐらいかしら。攻めてくるのは暗くなってからね」
「そのようですね。出来る限りの対応をしましょう」
何気に迎撃する気、満々じゃねえか。
彼女は気を引き締めろと肘で突いてきた。
「あっちは全力で来る気よ。何が何でもあなたを片付けにきてる」
「そっか。だとしたら中国まで逃げてきたのは悪手だったんじゃないか?」
「そうね。確かに、日本じゃこうはいかないものね。武器を搔き集めて、周りのことを気にせずに全力で攻撃できる」
「だろ? やっぱ、こんなとこ来るべきじゃなかったのでは?」
「何言ってんの。向こうがやりたい放題なら、こっちも条件は同じよ」
「は? 何言ってんだ?」
「つまり、手加減なしでやり返せるってことよ」
なんなんだ? ひょっとして好戦的になっている?
もしかしたら、これもボタンを押し続けてきた弊害なのかもしれない。
彼女は、特殊能力を身に着けるだけでなく、性格も攻撃的になりつつある。
夜になったら、ここは戦場になる。
それだけは確定していた……。