2 旅
朝、起きて早々に、温泉に入りたいと思った。
なので宿屋の娘に、衛兵の宿舎へ使いに出てもらうことにした。娘が元気に路地を駆けていくのを見送ると、宿屋の前に置かれた椅子に座り、朝食代わりのパンをかじる。
ほどなくしてエロー君がやってきた。
柔弱だが整った顔には、幾分怪訝そうな気配がある。
「どうしたんですか、先生。急ぎの御用ということで」
「うん、ちょっとね。温泉にでも行こうと思ってね」
「どちらへ?」
「そうだね、やっぱりコムスパの町かな。あそこの湯は大陸一だろう。日帰りでは少し寂しい。一泊二日で湯に浸かろう」
「では旅装の準備を」
「いや、いいよ。所詮、一泊だから。着替えさえあれば事足りる」
エロー君が首をかしげる。
「コムスパの町へ行くとなると、二十日から三十日程度は必要でしょう。馬を急がせて、道中の天候にも恵まれたとしても、山道と川もありますから、十五日は必要かと」
「うん、でも今回は温泉が目当てだからね。道中はいいんだよ」
渋るエロー君を馬に跨らせて「目をつぶってごらん」と言い、彼が素直に目をつぶっている間に、コムスパの町へひょいと移動した。
目の前では、火山が白煙を上げている。
そのふもとに、ひなびた温泉街がある。コムスパの町だ。
城壁すらない小さな集落だが、一つ一つの建物が丁寧に作られた宿や酒場などで、良い風情を醸している。
「さ、着いたよ」
私の声を聞いたエロー君は、目を開けると、そのまま真ん丸になるまで見開いた。
「あの、ここは?」
「あれがコムスパの町だよ。うん、温泉のいい香りだ」
「はあ」
しきりに首をかしげるエロー君はそのままに、街へ入った。
街中には、卵のような臭いとか硫黄の臭いとか言われる温泉の臭気が漂っている。私はこの硫化水素の匂いが嫌いではない。
日本に居たときには、草津を訪れたことがある。あそこは良かった。道後や箱根にも行きたかったのだが、生前はついぞ機会に恵まれなかった。
もし戻ることがあれば、是非とも足を運んでみたいところだ。
さてこのコムスパの町と言えば、少し草津にも似ている。空気もそうだし、湯畑のように熱い湯を流して溜めているところを見れたりもする。
それでいて昔から温泉地をやっているので町並みも独特で良い。海こそ無いが、熱海を思い出しもする。たしか最近の帝国の皇帝や州王などもここに別宅をこさえていたはずだ。
そんなだから、泊まる場所はピンからキリまで色々とある。歴史と伝統を売りにした老舗風のところや流行りの蒸し風呂を宣伝する今風のところまで、数も種類も多い。
けれど宿は決めている。
町の入り口から続く石畳の大通りからひとつ入ったところに、貴族の別荘風の建物がある。小さな庭を持つ木造の二階建てだが、一見すると宿には見えない。
「お邪魔するよ」
「あらあら、まあ。おかえりなさいませ、先生。おひさしぶりですね」
玄関に足を踏み入れると、すぐに出迎えが来る。うん、心地よい。
「やあ、女将。一泊頼むよ。湯も食事も外で済ませるので、心配は無用だ」
荷物を置くと、あれこれと世話を焼きたがる女将を振り切って、すぐに町へと出た。
「あの、よかったんですか? 先程の女性は随分名残惜しそうにしていましたけれど」
気を取り直したのか、エロー君がいつもの調子を取り戻している。
「いいんだよ。以前にちょっとしたことで助けてやったことがあったので、恩に感じてくれているのさ。さて、まずは昼飯だ。蕎麦でも手繰ろうか」
「そば?」
「行けばわかるさ」
聞き慣れぬ言葉に首をかしげるエロー君を引っ張って、路地裏を進んだ。鰹節と醤油の匂いに誘われるように、裏通りの小料理屋の暖簾をくぐる。
不愛想な親爺の「……らっしゃい」という声を聞きながら席に着いた。この世界では数少ない、日本食を出す店だ。
「私にはもりを一枚と花巻を。こちらの少年には、ざる一枚に天ぷらうどんでも出してやってくれ」
「“もり”とか“ざる”って何ですか?」
私が適当に注文するとエロー君は無垢な笑顔で尋ねてくる。
「通人はもりを頼み、無粋者はかけを好む。もりの中でも初心者向けがざるなのさ。うどんはお腹いっぱいになるためのものだから、育ちざかりの君にもってこいだろう。天ぷらは素人向けの代物だね」
エロー君が怪訝な顔になるが、それも仕方ない。蕎麦の扱い方を知らぬのであれば、急にあれこれと教え込んでも及び難い。今日はざるで一つ学んでもらうとしよう。
そうこうしているうちに、もりとざるが届く。
蒸籠に乗った蕎麦を箸で掴むと、するりとほどけて一つまみだけ付いてくる。職人の腕が良い証拠だ。これの下三分の一ほどを汁に浸けて、つるっと手繰る。最初に蕎麦の香りが抜け、歯ごたえを楽しみ、最後には出汁の具合を楽しめる。
「うん、うまい」
エロー君はと見ると、馴染みの無い料理に悪戦苦闘している。だが初めてにしては箸を器用に使っている。しかし最初から薬味を全て投入しているし、出汁にざぶざぶと蕎麦を絡めているのはいただけない。
素人丸出しで、見ているこちらが恥ずかしい。
そうして蒸籠を一枚片づけていると、花巻と天ぷらうどんが運ばれてくる。花巻を見たエロー君が目を丸くしている。
「花巻とは、かけ蕎麦に海苔をこれでもかと乗せたものだ。海苔が実に素晴らしい。これを知らずして美食家を名乗る者がいたら、きっと神罰が下る」
「あれ、先ほどかけは無粋者が好むっておっしゃっていませんでしたか?」
「……花巻だけは特別なんだ。これだけは通人が頼んでも許される」
「はあ」
海苔のふくいくたる香りを堪能しながら花巻に取り掛かると、エロー君が差し出がましくも薬味の皿を差し出してくる。
「これ、先ほど試したら美味しかったです。先生はお使いならないんですか?」
「馬鹿だなあ。花巻にネギやらゴマを乗せたら、香りが台無しじゃないか。にわか者丸出しだよ」
「でも、どちらもとっても美味しかったですよ」
それはそうだ。ネギは採れたての切りたてで瑞々しいし、ゴマは煎りたてのすりたてで香ばしい。
「まあ、でも、そうだね。エロー君がそこまで言うなら仕方ないから使ってみようか」
これは決して矜持を曲げたわけではない。エロー君の心配りを有難く受け取ったに過ぎない。
うん、ネギもゴマも蕎麦に合う。美味い、美味い。
蕎麦と一緒に日本酒もやっつける。昼間から蕎麦で酒を飲む贅沢を知ると、人間はもうおしまいだ。私の如き聖人君子をもってして、何とか真人間として生きていられるだけなのである。
飲み食いが終盤に差し掛かろうというところで、新参の客が来た。この店には珍しい、若者の客だ。
「あの、一番安いのをひとつ」
そう言って席に着いた青年は、女性的な整った顔を持ち、折れそうなほどに華奢な長身だった。長いまつげと潤んだ瞳が特徴的だが、その声は低音で聴く者に安心感を与える。
そんな美貌の青年は、何も乗っていない素うどんを有難そうにすすっている。赤貧の辛さというのは、身に染みて分かっているつもりだ。ここは大人が助け舟を出そう。
親爺を呼んで、かの青年に天ぷらの盛り合わせを出してやった。もちろん全て勘定は私だ。
最初は驚いていた青年だが、親父と二言三言話した後に、こちらへと歩み寄ってきた。
「あの、すみません、ありがとうございます」
少し恥ずかしそうに微笑んでいるが、その顔には感謝の気持ちがありありと浮かんでいる。
「俺、オスカーと言います。大学の研究でこちらに来ているのですが……手持ちが乏しくて……。本当にありがとうございます」
「なるほど、苦学生か。オスカー君は、何を研究しているんだい?」
「竜です」
思わず私とエロー君が顔を見合わせる。
「なんでも州都近くで竜が現れたらしいじゃないですか。俺はもともと帝都で竜研究をしていたんですが、なかなか結果が出なくて……。そこに今回の竜騒動ということで、全財産をかけてここに来ています。もし竜の痕跡でも見つけられたら、大学から研究助成金も出ますし、国の補助金や貴族の支援も得られるかもしれないんです」
「でも、コムスパの町は州都からかなり離れていますよ?」
エロー君の疑問ももっともだ。素人には、検討違いの場所を探しているように見えるだろう。
だが私としてはオスカー君の判断を支持する。この街の近くには、随分と元気のよい竜の気配がある。
「俺もそう思ったのですが、人が足を踏み入れられる地域で、竜がいる可能性が最も高いのはこのコムスパの町の周辺かなと」
「なるほど、慧眼だ。それにしてもオスカー君は、竜の研究者だったのか。竜とは確かに面白いものだものね」
「ええ、そうなんですよ」
オスカー君の浮かない顔が、一変した。喜色満面に語りだす。
「あれほどに物理的魔法的に秀でているにもかかわらず、高度な社会性を持ち、複雑な文明を築いていた種族を、俺は知りません。人類が隆盛する遥か昔から、緻密な建造物を作り上げ、平和に他の種族を支配し、文化的で暴力的な生活を営んでいたんです。例えば……」
私とオスカー君は、しばらく竜談義に花を咲かせたのだが、エロー君の白い眼がいたたまれなかったのでここでは割愛する。しかしまあ、それなりに楽しい時間だったのは間違いない。
「それでオスカー君は、竜を求めてこの辺りを探し回っているという事なんだね」
「ええ。ですが、毎日あちこちを歩きまわっても一向に手掛かりを得られなくて……。そろそろ心が折れそうですよ」
うつむくオスカー君の濡れた瞳を見ると、むくむくと立ち上がってくる感情がある。ここは大人が一肌脱いであげるとしよう。
「どれ、私も力を貸そうじゃないか。大学というものには少しばかりしか縁を持ってこなかったが、これでも学問には通じていると自認している」
エロー君が半目でこちらを見ているが、気にしない。きっと私の学歴を疑っているのだろう。だが学歴なんて関係ない。私はオスカー君と一緒に山に入り、気持ちばかりの低木が生える一帯を歩くとこにした。
さてオスカー君の調査方法とは、自らの足で歩き回り、様々な痕跡を頼りに周囲の生態系を予測していくというものだった。動植物の生態やそれらの魔法的性質に精通していなければ難しい手法だが、彼は良く勉強している。
「そんなことないですよ。探知系の魔法に長けた魔法使いなら、そもそも歩き回らなくてすみますしね」
「それはそうだ。オスカー君はそうしないのかい?」
「俺だって探知系の魔法は修めてますが、人並みなんです。コムスパの町には、探知魔法で竜を探している研究者もいます。同じ方法じゃあ、負けちまいます。それに、俺は、何が何でもこの目で竜を見たいんです」
オスカー君の切なる表情は、実に良い。心の栄養になる。などと少し邪な欲がもたげていたところに、ピンとくるものがあった。竜の気配がこちらに近づいてくる。
「オスカー君、君は心掛けが良いんじゃないかい?」
「え? なんです?」
そんな他愛もない会話をしていると、間もなく竜が飛来した。
全身が竜鱗に覆われている。四肢の他に大きな翼を持ち、長い尻尾と鋭い牙を見せながら飛翔している。
主たる要素が竜であるという、混じり物たっぷりの主竜種とは違う。あれは真竜種だ。
真なる竜を名乗る一族の幼子は、我々の上空に来るとおもむろに口を開いた。
「何だ。我らと同じ気配を感じてきてみれば、何とつまらぬことだ。人ではないか」
若いくせに大仰な言葉遣いだ。それに小さな体で懸命に怒鳴っている。実に真竜種らしい。さて、何と返事をしようかと一寸思案していると、隣でエロー君とオスカー君が倒れた。
そう言えば竜の声にはちょっとした魔力が乗っているはずだ。並の人間では、まともに聞いていられないだろう。失念していた。
「やあ、幼い竜の子よ。あんまり大仰に叫ぶと嫌われるよ。さ、お家へお帰り」
そう言って優しく撫でてやった。本当に優しく撫でただけなのだ。決して、そんなつもりはなかったのだ。だが気が付いた時には、血を流して瀕死になった竜が、火山に向けて飛び去って行くところだった。
おかしい。
「さて、二人とも。一度町に戻ろうか」
決して誤魔化すわけではないが、二人を抱えて町に戻ることにした。
町の入口では「大手柄だ」と叫びながら旅立つ一団とすれ違った。オスカー君と似た背格好の男もいたので訊いてみたら、なんとオスカー君の好敵手と言える研究者らしい。
「きっと、先ほどの竜の気配を魔法的に探知して記録したんでしょう。その記録があれば、帝都の学者連中は腰を抜かすほどに驚くでしょうね。ああ……それに引き換え、俺は……」
オスカー君は随分と意気消沈している。
そんな彼をエロー君と二人で気遣いながら宿に連れて行くと、すぐに女将が出てきて「こういう時は熱いものが一番ですよ」とほうじ茶を淹れてくれた。こういう細やかな気遣いをしてくれる宿は良い。次もここに泊まることにしよう。
「さてエロー君。私は少し外すけれど、オスカー君のことを頼んだよ」
「はあ」
元気のないときには、元気になる物があればよい。彼に何かを贈るなら、竜にまつわる物が良かろう。ということで、先ほどの竜が逃げ込んだ火山にひょいと移動した。
噴煙を上げる火口に立ち、赤々とたぎる溶岩を見つめると、その先の異界に竜が隠れているのが分かる。ざぶりと飛び込んで溶岩をかき分けて進み、異界の門をするりと抜けて竜の寝床にたどり着く。
詳しいやり取りは諸事情により省くのだが、ここで私は実に平和と平穏と慈愛の内に竜の鱗を数枚手に入れることが出来た。全くの正義と真実の行いしかなかったことは断言しておこう。
宿に戻ったときには、まだほうじ茶に湯気が残っていた。
寂しそうに茶を啜るオスカー君に竜鱗を渡すと、それはもう喜んでくれた。ついでに彼の研究内容に価値があることを称した一筆を贈ってやった。私の手持ちの印鑑の中で、一番権威付けできそうなものを選んで適当に押印しておいたので、それなりの箔付けになれば良いのだが。
「先生、何ですか、あの落書きは」
エロー君の毒舌が相変わらず厳しい。
その後に路銀が尽きたのか、オスカー君は帝都へ帰ることとなったので、街の外まで見送ると、待望の温泉に浸かることにした。
「さて、エロー君。せっかくだし背なかでも流してやろう」
「先生、まずは温泉でその頭を治した方が良いのではないですか?」
大人しく一人で湯に入った。旅先で孤独を知るというのはひとつの喜びだそうだが、どうもこれは違うような気がする。
不思議だ。
先生のうんちくは、変人である先生個人の感想と偏見です。
うどんも天ぷらも素晴らしいと思います。濃いめの出汁にざぶりと潜らせた蕎麦が好きです。
登場人物メモ
○オスカー
大学の准教授。超の上に超がつくエリート研究者。女性的な整った顔立ち。華奢で長身、長いまつげと潤んだ瞳が特徴的。しかし声は低音で聴く者に安心感を与える。
竜オタク。竜が馬車の上に乗っている絵画を見て、よく分からないくらいに興奮したのがきっかけ。竜のことになると早口になる。竜の話に付き合ってくれる先生のことが好きになる。
生まれと研究テーマが悪いので、学会で出世できない。
○温泉宿の女将
かつては帝都で栄えた貴族の娘。権力争いの末、一族郎党が殺されそうになったところを先生に救われる。三十人からの賊を斬って捨てた後に遠く離れたコムスパまで連れてきて、住処と生活費を与えてくれた先生に、心の底から感謝し尊敬し崇拝している。
先生的には建物も全部あげたつもり。けれど女将的には、先生の家の留守を預かっているつもり。
だから先生が来るたびに「おかえりなさい」と言い、宿を発つときには「行ってらっしゃいませ」と言う。
先生は宿屋営業をしていると思っているが、女将は先生以外を招き入れていない。絶対に予約の取れない高級旅館として七不思議的に知られている。
○蕎麦屋の親父
どうしても日本食が食べたくなった先生が仕込んだ。料理修行の手間も、出店の費用も、ほとんど先生が面倒を見たので頭が上がらない。だから先生のくだらないうんちくも聞き流してくれる。他の人がやったら追い出して塩を撒いているところ。
鰹節と日本酒と醤油以外は簡単に手に入るので、意外と苦労は少ない。先生は親父と呼ぶが、まだ二十歳。