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1-2 酒 エロー君視点

 エロー・メナスは目覚めると同時に、枕の下に隠してあった短剣を掴んだ。

 手の中の短剣のずしりとした重さと、柄に巻かれた革の匂いで、今まで目にしていた光景が夢だったと気付く。


「……いい加減にしてほしいな」


 幼いころに目にした地獄のような光景を、今でも悪夢として見る。燃える街並み、逃げ惑う人々、命からがら息を切らせて走り続ける自分。目覚めた今でも息が乱れ、心臓が痛いくらいに拍動している。


「僕はもう……強いんだ」


 自分に言い聞かせて寝具から出ると、黒くて固い酸味の強いパンを少し齧っただけで朝食を終え、身なりを整える。

 今日は、主君でありこのドラゴンクロウ州の州王であるヴァイスクロ侯の下へ出仕する日である。粗相は許されない。染み一つない絹の長袖に、麻の長ズボンを選んである。主君の手前、華美な格好や仰々しい武装は出来ないので、守護の魔法を付与してある指輪とペンダントを着ける。

 姿見を見れば、清潔感漂う生真面目そうな少年がこちらを見ている。


「これなら、大丈夫かな」


 一つ頷くと、自室を出て黒竜城の広い廊下を歩いた。

 ただの兵であれば、黒竜城に併設された兵舎の多人数部屋を使う。だが、エローは違う。主君のそば近くに仕えることを許された、衛士えいしと呼ばれる俊英である。小さいながらも、城内に個室を与えられているのだ。


「黒竜衛士隊エロー・メナス三番士、出仕いたしました。本日、ヴァイスクロ侯への近侍役を務める栄誉を頂戴いたしたく、お伺い申し上げます」


 ヴァイスクロ候の私室前で、当直をしていた衛士に告げ、近侍役の引き継ぎを請う。黒竜城の衛士隊は三人しかいないので、エローが末席である。何をするにも、常に神経を研ぎ澄ませ、腰を低く振る舞う必要がある。


「ご苦労。昨夜の八の鐘から現在まで、異常は認められない。本日の予定に、はない。ヴァイスクロ候は朝の支度を終え、読書をされていらっしゃる。合図があるまで、お声かけは不要とのことだ。では、後は任せる」


 そう言って夜番をしていた一番士が、疲れを感じさせない足取りで去っていく。


「……ふう」


 たったこれだけのやり取りで、エローはわずかに汗をかいた。

 ヴァイスクロ候は、帝国でも最大の領地を持つドラゴンクロウ州の州王だ。その衛士隊の隊長を務める一番士は、文武のわざや人品人柄のすべてが人類最高の域にある。まるで神様に相対したかのような緊張を感じる。


 一番士に代わって、扉前での立ち番をしようとしたところで、おもむろに扉がキイと開いた。


「や、メナス子爵。おはよう、おはよう」


 柔和な顔の男性が、するりと出てきた。ヴァイスクロ候だ。

 まだ50歳前後のはずだが、髪は真っ白で口元の皺も深い。彼を見るたびに、エローは州王の責務の重さを感じ取る。だがヴァイスクロ候は、その双肩にかかる重圧など感じさせない軽い足取りで、執務室へと歩き出す。一歩遅れてエローが歩き出すと、帝国随一の重鎮は、気さくに話しかけてきた。


「メナス子爵は、朝ごはん食べた? 私は最近食欲が無くてさ、でも食べないと怒られるから、ほら」


 そう言って、服の下に隠してあった手つかずのパンを一つ取り出した。


「よければあげるよ。メナス子爵は食べ盛りだから、いくらでも入るでしょ」


 エローは、子爵の身分を持つ。だが領地も無ければ臣下もいない。社交の場に出るわけでもない。エローに爵位を付して呼ぶ者など、ヴァイスクロ候くらいのものだ。


「……有難く頂戴いたします」


 受け取った白パンは、まだ柔らかくてしっとりしていた。

 そんなやり取りをしながら廊下を歩いていると、見知った顔が歩み寄ってくる。黒竜城の執事で、ヴァイスクロ候の腹心の一人だ。だが、エローは腰に佩いた短剣の柄を握る。相手がだれであっても、警戒をする。それをするのが衛士であるし、そうしても許されるのが衛士である。

 執事は、ヴァイスクロ候に一礼すると少し困ったように言った。


「案件名“黒刀”について、報告がございます」

「ん? なんだい?」

「エロー・メナス三番士を呼んでいるようです」

「……行ってくれるかい?」


 こちらを見るヴァイスクロ候の言葉に、一瞬躊躇する。案件名を聞いた時点で、予感はあった。だが、今日は終日、ヴァイスクロ候に近侍する予定だ。気軽に主君を離れられるものではない。


「一番士を再び呼び寄せております。近侍の心配はいらないかと存じます」

 執事の言葉が終わらぬうちに、廊下の先に一番士の姿が見えた。


「お呼びとのことで参上いたしました」

 夜番あけに再度呼び出されたにもかかわらず、疲れや不快感は微塵も纏っていない。


「彼に別件をお願いしようと思ってね。続けての役目で悪いけど、今日一日、近侍役を頼むよ」

「畏まりました」

 間髪入れずに頷く一番士に向けて、エローは腰を深く折った。

「大変申し訳ございません」

「主命である、行け」

「はい」


 簡潔なやり取りの最中、甘い香りが鼻をくすぐった。確か一番士は、たっぷりの砂糖で果実を煮込んだジャムを、パンに載せて食べるのが好きだったはずだ。そう、パンに塗るのではなく、載せるほどにたくさん使うのだ。

 きっと夜番あけのごちそうとして、それを一口か二口いったところで、呼び出されたのだろう。申し訳なさに内心で首をすくめるが、一番士は、不快や疲労といった気配を全く見せない。

 そんな一番士の横を通り過ぎ、エローは歩き出した。


 案件名“黒刀”は、ヴァイスクロ候の周囲のごく一部の者しか知らない。その対象を、エローは「先生」と呼んでいる。特に何かを師事しているわけではないが、出会った経緯から自然とそうなった。

 その先生は、街の南端にある宿屋「暁の雌鶏」を定宿としている。


 宿屋の前に着くと、椅子に座った黒い長髪の女性を見つけた。二十歳を少し超えたくらいの外見で、簡素な布の服を身に着けている。


 先生だ。

 エローは、思う。

 美人だ。

 ただし黙ってさえいれば、と。

 しかし話しかけないわけにもいかない。


「どうしたんですか、先生。急ぎの御用ということで」

「うん、ちょっとね。酒を飲みたいと思ってね」

「はあ」


 こんな朝早くから何を言っているんだという内心を押し隠して、何とか返事をすることが出来た。


「酒を飲むには、風呂に入る必要があるだろう?」

「あるんですか?」

「もちろん。風呂に入らずに飲む酒と、入った後に飲む酒のどちらかが美味いか、君は少年(こども)とはいえ、まさか分からないとは言わんだろうね」

「先生の仰ろうとしている意味は、なんとなくですが、分かる気がします」


「そうだろう、そうだろう。そして風呂に入るには一仕事する必要があるだろう」

「あるんですか?」

「もちろん。ひと汗かいた後の風呂と、そうでない風呂。どちらが心地よいかは言うまでもないだろう」

「はあ」


 いよいよ頭が痛くなってきた。


「つまりだ、エロー君。私が酒を飲むためには風呂が必要で、風呂を浴びるには一仕事が必要で、仕事をするには荷物持ちが必要なのだよ」

「つまり、冒険者ギルドの適当な依頼を片付けるため、下男として呼ばれたということでしょうか」


 いくら主命とはいえ、ヴァイスクロ候に近侍する役目を放り出し、一番士に迷惑をかけてまでするのが、酒飲みの道楽に付き合うことなのか。内心が表に出ないよう、ぐっと顔に力を籠める。

 そんなエローの努力など知らない様子で、先生は続ける。


「そう卑下するものではないよ。君とて剣の道を志しているのだろう? こういった経験が、いずれ大成につながるものさ」

「そうでしょうか」

「そういうものさ。そこでだ、エロー君。君、今日は非番か? 未熟とはいえ、君には一介の衛兵としてこの街を守る責務があるだろう? さすがの私も、その重責を放り出せとは言わない。その程度の分別はあるつもりだ」

「使いが来た時に、非番の願いをして出てきました」


 適当な理由を口にする。

 ヴァイスクロ候の密命を知られるわけにはいかない。ヴァイスクロ候は、人材の収集にこの上なく力を入れている。傑物と名高いあの一番士は、ヴァイスクロ候が直々に見出したと聞いたことがある。エロー自身にしてもそうだ。


 そしてこの先生と呼ばれる人物も、ヴァイスクロ候が極めて優先順位を高く置いている人材の一人だ。少なくともエローのような衛士を専属の窓口としながら監視する人物など、大陸全土を探しても片手の指ほどの人数しかいない。

 そんな重鎮扱いをされているとも知らず、先生はとぼけた顔で言う。


「じゃあまずは金の無心に行こう」

「はあ。手持ちがないわけではないでしょうし、一仕事もするというのに、なぜですか」

「酒も風呂も必要に駆られてやるものじゃない。ならば贅沢をする義務があるというものだ。だから借金をするのだよ」

「ははあ」


 いよいよ呆れ顔を隠しきれなくなったエローは、先生の荷物を持つと、ふらりと歩き出した彼女の後に従った。剣だけを差した先生が向かったのは、フラウフ・フラッフィー別邸と呼ばれる屋敷だった。


 エローは、腰を抜かした。

 フラウフ・フラッフィー子爵と言えば、書類上は、帝都の近傍に小さな領地を持つ夫人で、現在は本領を離れてヴァイスクロ候の膝元で隠遁生活をする有閑貴族だ。

 だが、もしその恐ろしさを一般に知られていれば、この別邸の周囲は人っ子一人近づかない荒れ地になっていただろう。


 帝国では現在、死霊術と召喚術は、完全に禁忌とされている。破壊魔法は一部が禁止され、精神魔法は大部分が厳重に管理されている。十大悪魔王は、信仰を許されていない。

 にもかかわらずフラウフ・フラッフィーの名は、死霊術の天才として、当代一の召喚術士として、そして敬虔な悪魔崇拝者として、一部で知られている。


 “その界隈”に、「現在、最も警戒すべきおそろしい魔法使いは誰か」と問えば、真っ先に名前が挙がる。「歴史上、最も強大であった魔法使いは誰か」という問いにも、三番目くらいには数えられる。

 そんな人物が討伐もされずにいるのは、一つには帝国中枢と決定的な対立をしていないということもある。だが、最大の理由は、彼女に手を出せば帝国自体が揺らぐ可能性すらあるという点である。


 精鋭のみで編成した軍を十や二十も用意して、それを使い捨ててなお、討伐しきれないかもしれないのだ。

 それ以外にも腰を抜かした理由はあるのだが、大体はそんなところだ。


 だが先生は、子爵夫人の私室に入るなり言った。


「子爵様、金を貸してもらえませんか?」


 エローは再び腰を抜かした。

 だが二人は、気の置けない友人のように気軽に話している。


「何か急な入用でも?」

「ちょっと酒を飲もうと思うのです」

「大きな宴会でもするのかしら? まさか政治に興味が出たとは言わないだろうね」

「いえ、一人で気ままに飲みますが、いい酒を飲みたいと思ったので」

「そうか、それなら仕方ないね」


 こんな具合で金貨の入った革袋を手に入れると、先生は、そそくさと別邸を後にした。


 次は冒険者ギルドの方へ歩き、「報酬はどうでもいい。なるべく汗をかくのがいい。街からは近すぎず遠すぎず、昼過ぎに帰って来れるくらい。今日は天気もいいし、歩いていきたい。それで見繕ってくれ」などと言ってきた。


 「はあ」と適当な返事をしながら、官製の口入屋で山鼠の討伐依頼を受けた。いくらとぼけた阿房あほうの先生であっても、ヴァイスクロ候が重くる人物だ。怪しい依頼や難度の高い案件をあてがうわけにはいかない。

 山鼠ならば、害は多いが手間は少ない。


 果たして先生は、郊外の森に着くなり、せっせと鼠狩りを始めた。

 正確には、林の下草刈りだ。鼠を探しているつもりだろうが、藪を嫌がって浅いところばかりウロウロしている。あれでは鼠にたどり着けないだろうな。

 そんな気持ちでぼんやりと見ていると、急にざわりと鳥肌が立った。


 耳を澄まし、目を配るが、森に異変は感じられない。これは、まずい。


 エローは知っている。

 人間の知覚できる範囲に異常はないのに、魂から震えるような恐怖に襲われる。それは人間が到底抗うことのできない領域からの侵食が始まった証拠だ。


 例えば、魔界から悪魔が現れるとき。例えば、悪魔王の目に留まってしまったとき。例えば、死霊術の攻撃を受けてしまったとき。

 大体が、そんな時だ。これを肌で感じて、それでも生き残っているものなど、数えるほどしかいないだろう。


 見れば、離れた場所で冒険者の一団が騒いでいる。異変を感じたが、その正体がわからずに戸惑っているのだろう。


「なんだい、エロー君。随分賑やかじゃないか」

「若い冒険者たちが何やら。ちょっと様子を見てきます」


 エローは覚悟を決めた。

 五割以上の確率で、僕は今日死ぬだろう。

 だけど逃げるわけにもいかない。主君の指示に命を懸けるのが、衛士だ。先生を見捨ててこの場を去るなんてできるわけがない。


 そうして足を向けた先で、森が爆ぜた。

 大木が空を舞い、大量の土砂が巻き上げられている。続いて姿を見せたのは巨大な怪物だった。体が羽毛のようなものに覆われ、獣のような逞しい脚をもっている。

 その顔は、物語などに描かれる竜に似ている。


「まさか、竜? 嘘だ……」


 この世界に竜は存在しない。

 正確に言うなら、人に害を加えるような邪竜と呼ばれる者どもは、千年前の人竜戦争で全て滅ぼされたか魔界に封じられたかの、どちらかのはずだ。

 そして魔界とこの世界の間には、五聖神の主神である創世の竜神コウリュウが、不破の壁を築いている。


 にもかかわらず竜が現れたということは、はるか昔に死んだ竜を蘇生させるほど強力な死霊術を使ったか、神の壁を越えて魔界から召喚する術を使ったか、はたまた竜神コウリュウの加護が失われたのか。


 いずれにしろ、目の前には竜がいる。

 抗えるはずがない。竜退治など、物語の中だけだ。現実には小鬼ゴブリンを相手にしても死傷するし、大鬼オーガを相手にすれば街が滅びることもある。

 突然現れた竜など、どうしようもない。


 だがエローは剣を抜いた。

 十年前、エローは災厄に襲われた。街を焼かれ、家族を失った。その時は、ただ逃げることしかできなかった。それが悔しくて悲しくて、その日から剣を振り続け、魔法を習得した。


 たとえ死んだとしても、今戦わずして、どうする。

 周りには、魔物退治の冒険者が多くいる。街も近い。逃げるという選択肢は、ない。ここで戦って、せめて手傷でも追わせねば。


 自らを強化する魔法をかけ、剣を握りしめて駆けだそうとしたエローの目の前で、竜の首がコロンと落ちた。


「ん?」


 よく見れば先生が、のそりと剣を振るっていた。特段気負っている様子はない。だが竜は一閃で命を刈り取られていた。

 エローとて、いっぱしの戦士である。常人であれば抗い得ない大鬼オーガであっても、二、三太刀で倒すことが出来る。


 いや、それほどの実力者であるから、分かる。

 先生の一撃は、物理的には城壁を両断するほどの威力があるし、魔法的には少なく見ても七つ以上の呪術的な力がこもっている。


 あれは人間業じゃない。

 エローが同じ威力を得ようとすれば、自分があと千人は必要だ。


「は、はは……」


 常識外れの一撃に、思わず乾いた笑いが漏れる。

 だがその元凶は、土煙を隠れ蓑にもと居た場所へと走り去っていった。そしてそのまま、竜退治の手柄を誇るでもなく「まずいぞ、エロー君。今の騒ぎで鼠が逃散してしまったかも知れない」と下草刈りに汗を流している。


 その後は忙しかった。

 その場にいた冒険者らに協力を仰ぎ、黒竜城へ報告しつつ、冒険者ギルドへも連絡を入れ、竜の死骸の片付けの指揮も執った。


 幸いにも、死んだ竜は、その肉体の大半が魔力へと変わり大気中に霧散していった。わずかに残った竜麟や竜骨、竜牙などを街に運ばせた。


 そうして黒竜城からきた衛兵隊に後を引き継いだ時には、もう街に戻る時間だった。

 帰り道では、新米冒険者が思わぬ経験に顔をほころばせていたり、命の危機を自覚して顔を青ざめさせていたりと、人それぞれだった。


 先生はと見ると、鼠が獲れずに落ち込んでいるようだった。丸まった背中が煤けて見える。

 この人、正気だろうか。


 そんな本音を心にしまい込んだエローは、街へ戻ると、先生と別れた。ヴァイスクロ候に報告をする必要があるし、冒険者ギルドにも行かなくてはならない。

 「後で、風呂で合流しよう。たまには背中を流しあっても良いだろう」などと寝言をいう先生は、その辺に放り出した。


 案の定、黒竜城は蜂の巣を突ついた大騒ぎになっていた。

 一番士が衛兵隊を複数編成し、他に竜がいないかと街の周囲の探索を命じている。

 執事は、学者連中を総ざらい呼び寄せ、竜の故事や文献を調べさせている。

 そんな中でヴァイスクロ候は、エローの姿を見ると、まずはその無事を喜んでくれた。


「とりあえず、大ごとにならなくてよかった……と言っておこうかな」


 エローの報告を聞いたヴァイスクロ候は、微笑みながらも皺を一層深くした。疲れた時の癖だ。疲労を隠すために、わざと深く笑って見せているのだ。

 帝都への報告、竜が出現した原因の分析、再出現への備え……エローが考えるだけでも、問題は一瞬で山のように積みあがる。


 帝都に報告したところで、真摯に取り合ってもらえるわけではない。

 ヴァイスクロ候が、竜を使って反乱を起こそうとしたのだろうと難癖をつけられるかもしれない。死霊術士や召喚術士が竜を呼び寄せたのに違いないのだから、それを許したヴァイスクロ候の責任も追及すべきだという者もいるかもしれない。

 ドラゴンクロウ州王ともなると、事実を伝えるだけで、政争に発展する。


 そして、なぜ竜が出現したのかを突き止めるだけで、莫大な費用と手間がかかるはずだ。

 千年前に姿を消した竜を調べるとなれば、必ず歴史学者や神学者、高名な魔法使いの力が必要になる。そういった者たちへの仕事の依頼料は、削ることができない大事な費えだ。そしてこういうとき、学者連中につきものの学説の対立や派閥の争いで、しばしば調査は混迷を極める。

 このかじ取りだけでも、かなりの手腕が要求される。


 のみならず、竜が再出現した時に備えて戦力を捻出するとなると、さらに頭の痛い問題だ。新たに徴募するのか。常備軍からくのか。予算はどうする。どこに駐留させ、どう運用するのか。

 ヴァイスクロ候の頭の中では、エローよりさらに二手先、三手先まで見えているだろうから、その心労は計り知れない。


「ふう……」


 それを思うと、エローは思わずため息が出る。

 そして、ふと思いつく。


「ヴァイスクロ候、実は“黒刀”の案件についてなのですが……実はこの後、風呂や夕食に誘われておりまして……」


 あのとぼけた根無し草は、振る舞いこそ道化の様だが、悔しいことに刀を振る事だけは群を抜いている。今日のようなことがあったときにはヴァイスクロ候の助けになるかもしれない。

 その思いからの言葉だったのだが、ヴァイスクロ候は何とも微妙な顔をした。


「ああ、そうかい。それじゃあ行ってくれると助かるかもしれないが……食事はともかく、風呂は……君の意思に任せるから……まあ、そういうことで」


 珍しく歯切れの悪いヴァイスクロ候に、エローは少し首をかしげる。まさか年の近い男女が本当に一緒に風呂に入るわけがない。


 ともかく、ヴァイスクロ候から「少ないけど、使ってね」と幾ばくかの硬貨を渡され、先生の待っている風呂屋に向かった。途中、冒険者ギルドで鼠退治の清算もしたが、子どものお駄賃にもならない稼ぎだった。


 あらためて先生という人を考える。

 一生懸命に汗をかいても、子どもの駄賃すら稼げない。一方で山のような巨竜をさらりと斬って捨てる。


「わけが分からないよ」

 エローが先生に対して持つ、忌憚のない感想だった。


 そんな訳の分からない先生は、やっぱり食事やお酒に関しても訳の分からないこだわりを発揮した。

 結果、フラウフ・フラッフィー子爵に無心した金を使い尽くし、エローに借金をして何とか勘定を済ませた。


 本当に、面倒で気苦労の多い一日だった。けれども、なんとなく楽しい気持ちで先生と別れた。

 鼻歌と共に家に帰ると、すぐに寝具に潜った。何とも言えず心地よい。


「今日は久しぶりに、よく眠れそうだな」


 何となくそんな気がした。

 その晩は、夢も見ずに、ぐっすりと眠った。

登場人物メモ


○フラウフ・フラッフィー

見た目は40歳くらいの女性。実際は200歳くらいのエルフ種。召喚術と死霊術の達人で、錬金術や精神魔法にも精通している。召喚術の応用で魔界に足を運び、錬金術の素材を収集して帰ってきたりするツワモノ。


○ヴァイスクロ候

帝国の侯爵。ドラゴンクロウ州の州王。皇帝の領土に次ぐ広さの州を治めている。たぶん52~53歳くらい。10年前の内戦で妻子を失っており、現在独身。公務が忙しすぎるけど、半分以上は自分で仕事を作っている。優秀だから「あ、アレやらないとまずい。あ、コレもやっておかなきゃ」と気づいちゃう。手が足りないから人材をドンドン集めているけど、まだ足りない。本人は弱い。宿屋の娘にも勝てないくらいのクソザコ腕力。


○一番士

ヴァイスクロ候に忠誠を誓っている。自分に厳しく、他人に厳しく、ヴァイスクロ候に甘い。たぶん人類最強クラスの強さ。エロー君が500人くらいいれば勝てるかも。でもちゃんと人間。名前はまだない。


○執事

執事。

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