2章 むかついてますが、なにか 2
ガーヤのストールが効いたのか効かなかったのか、わからない。
だが城についた時点で、ヘイゼルはへとへとだった。
王都に入った時点で馬車に乗り換えはしたものの、ほとんどずっと馬に乗りっぱなしだったのだ。
慣れないことをしたせいで、体中が固まってうまく動かない。立っていても歩いていても、全身がどんよりと重くて、つらかった。
「謁見の間まで少し歩きます。どうぞ」
案内人に、ヘイゼルはにこっと笑って応じる。
笑ってはいるものの、編み上げ靴のままで来て正解だった、と心から思った。
馬車に乗り換えた時点で迷ったのだ。ハイヒールに替えようかどうか。
(そんなもの履いてたら、転ぶ。絶対転ぶ)
そんなことを考えながら歩いていたので、謁見の間に足を踏み入れた時も、あまり前方に注意を払っていなかった。
「王陛下は所要のため、本日のお顔合わせは王女殿下とになります」
「わかりました」
そう返事をして、何の気なしに顔をあげて、そこでようやく気付いたのだ。
(……えっ)
数段高くなっている玉座のところに、年若い王女が立っていること。
そしてそのすぐ横に、アスランがいること。
(なにこれ……?)
陛下とのご対面は、後日また改めてということに……という案内人の口上は、もう半分以上聞こえていなかった。
ここからだと、アスランの表情がはっきりとわかる。
なにか煮え切らないような、もの言いたげな顔つきだった。
だが、ヘイゼルが思ったのは別のことだ。
(どうして、あなたはそこにいるの)
彼は隣の王女に腕を貸している。王女は玉座に座っておらず、静かにたたずんでいた。
(まるであれでは……王女殿下のパートナーみたいに見える……)
不躾なほど凝視していたことにはっと気づいて、ヘイゼルが片膝を軽く折って王族への敬意を表しても、相手は微動だにしなかった。
(──なに、なんなの、どういうこと)
頭の中が混乱して、じわじわ熱を帯びてくる。
戸惑い、不満、怒り、疑問。
一体どれだけの時間が過ぎたのかわからなかったが、その間中ずっと、その黒髪の若い王女は口をひらこうとしなかった。
彼女が口をひらかないから、ヘイゼルも無言でいるしかない。
気まずいとしか言えない沈黙が落ちて、廷臣らしきお仕着せを着た男があわてて場をとりもった。
「そ、それではひとまずお顔合わせは済んだということで……後のことは改めてまた……」
「……わかりました」
そうとしか言えない。
ヘイゼルが会釈してその場を離れようとしたとき、アスランはまだ彼女の横にいた。
(どうして)
強く思った。
険を含んだ表情になっていることに自分で気づいて、急いで背中を向ける。
だが目をそらす直前、ヘイゼルは見てしまった。
直立不動の王女の横で、アスランが王女を気遣っているところを。
(別に、エスコートが上手なことくらい、知ってるわ……)
手を貸してくれるとか、段差を気にしてくれるとか、そういうことばかりではない。
女性が今何をしたいのか、どう思っているのか、アスランは気にしていてくれる。
そしてエスコートというのはその気持ちが一番嬉しいのだと、ヘイゼルはよく知っている。
(だって私もいつも嬉しいもの……)
だけど彼女は、顔色ひとつ変えていなかった。
アスランが細やかに気遣っても、にこりともしなかった。
そんなもの、少しも心に響いていないかのように。
(なによ、アスランはね……私の夫はね、世界一なんだからね……)
涙がにじみそうになるのを我慢して歩いていると、心なしか早足になり、大理石の床に編み上げ靴の冷たい音が響く。
「姫さん」
ドゥンガラがささやいたのでヘイゼルははっと我に返る。
彼はヘイゼルにだけ聞こえるような声で続けた。
「あの王女さんは、足がお悪いそうだ」
「あそう」
自分で思っていたよりも平坦な声が出た。
どうやら自分は相当腹が立っているらしい。
「それで、滞在中、あいつは杖の役目を頼まれてるんだそうだぜ」
「そう、ありがとう教えてくれて」
王女が無言で立っている間、アスランは彼女を気にしていた。
あれは、足がつらくないかどうか気にしていたんだわ──というふうには、思えなかった。
(なによ、ご立派な玉座がすぐ後ろにあるじゃないの。なんで座らないわけ)
大体わざわざアスランの手を借りる意味がわからなかった。
王女なら女官も近衛も山ほどいるだろうに、なぜアスランである必要があるのだろう?
(私の夫なのよ……しかも、彼女、名乗りもしなかったじゃない?)
人の夫の腕を借りておいて、なにかひとことくらいあってしかるべきなんじゃないのかしら?
……とそんなことを考えながら歩いていると、またしてもドゥンガラが横合いからフォローを入れてくる。
「今は落ち着け、姫さん」
「わかってる」
「あいつもやりたくてやってるわけじゃないから」
「そうですか」
「ほんとだぜ……?」
ドゥンガラが嘘を言っているとは思わなかったが、それを聞いても少しも気持ちは楽にならない。
なんなのよばか、なんなのよばかっ。
割り当てられた部屋に入るまで、ヘイゼルはずっと心の中で繰り返していた。
ほんとに、なんなのよばか。
◇◇◇
アスランとようやく話ができたのは、夕方の遅い時間だった。
「──ふうん、そう」
部屋にやってくると、アスランはひと通り説明してくれた。
王女殿下の名はブルーデンスということ。年はヘイゼルよりもひとつ下で、足が悪いこと。ロンバルド王に鉱山立ち入りの条件を出され、そのうちのひとつがブルーデンスの杖がわりになることだったということなどを。
「もちろん、俺がここに滞在してる間だけってことで」
「そうなの」
だがヘイゼルの声は固い。
「あのね、一気にあれこれ話してごめん。でもあまり時間がなくて」
「どういうこと?」
「ヘイゼルに嫌な思いをさせてることも、わかってる。でもすぐ王女のところに戻らないといけなくて」
「だから、どういうこと?」
眉間にしわが寄っているのが自分でわかり、ヘイゼルは、ああ、と思った。
こんな顔をしたいわけじゃないのに。
久しぶりに会ったらまずはハグして、会いたかったって言いたいのに。
「とても言いづらいんだけど……王女殿下は今着替えをなさってて」
「なるほどね、だからあなたは時間があいて、私に会いに来られてるってこと」
「まあそうなんだけど……」
杖だから、着替えが終わるころにはまた戻らないと、とアスランは申し訳なさそうに付け加える。
その表情を一瞬だけ見て、ヘイゼルはつんと横を向いた。
謝ってほしいわけじゃない。
彼が悪いわけじゃないのも、最初からなんとなくわかっていた。事情もわかった。
(……でも)
それを全部聞いたからといって、一瞬でぱっと気持ちが切り替わるかというと、そうではないのだった。
一度冷たいところに落ち着いてしまった気持ちを動かすには、多分、同じくらいの時間と手間が必要なのだった。
(──もっとダダこねたい)
正直にあけすけに言ってしまえば、そういうことだった。
(もうちょっとあやしてほしい、やさしくしてほしい、心配いらないって言ってほしい)
元々アスランはそうした女性の心の機微に敏感なほうだし、手間を惜しむタイプではないこともわかっている。
でも、だからというべきか、次にアスランが言った言葉にヘイゼルはかちんときてしまったのだった。
「だから、戻る前にヘイゼルを抱っこしたくて」
「なによそれっ」
「いいから来て」
「よくないっ」
両腕を広げられて、今度は顔だけじゃなく体全体で横を向く。
後から思えば、アスランも少し疲れて、焦っていたのかもしれない。
だがそういうことは全部、後になってからわかることで、今はただつんとしてこの状況に抵抗したかった。
「ヘイゼルってば」
「だって、隙間時間で会いに来てもらってるってことでしょう」
アスランが困ったように沈黙する。
こんな喧嘩をしている時間がないことも頭のどこかでわかってはいる。アスランが時間がないというからには、本当にないのだ。だが止められない。
「そんなのいやっ」
「完全にむくれてるねえ」
「むくれてませんっ」
ドゥンガラがもしこの場にいたら、大きな体で割って入り、なんとかふたりの間を取り持とうとしたに違いなかった。
そして第三者がそこにいることで、ヘイゼルも感情をいくらかおさえて冷静になることができたはずだった。
だがあいにく、彼は気を利かせてこの場にいなかった。
アスランが再び両腕を広げて、ヘイゼルを抱きしめようとする。
「おいで、ヘイゼル」
その手の動きに、かすかに急ぎたがる気配を感じて、ヘイゼルはとっさに言ってしまった。
「いやっ」
「いやなの?」
傷ついたような顔をされて、そのことにチクリと胸が痛む。
と同時に、なんだか腑に落ちなくもある。
(──なによ、傷ついてるのはこっちなんだから……)
そのくせ、拒んでしまった罪悪感もちくちくとあって、ヘイゼルはそれを打ち消すように続けた。
「だってそんな、時間がないから急いでなにかする、みたいなのはいや」
「……そうだよな」
アスランの腕がひっこめられる。
「わかった」
えっ、とヘイゼルは思った。
わかったってなに。
急に胸がドキドキしはじめる。
さっきまでこれ以上ないほど心がひんやりしていたのに、今度はもっと違う方向に落ち着かない。
アスランの腕が思っていたよりあっけなくひっこめられたことにも、動揺した。
(怒ってたのは私……よね? そうよね?)
それなのに今、こんなはずじゃなかった、なにか間違えた、そんな気がしてならない。
「あの……」
このまま終わりにしてはよくない。
そんな予感に突き動かされて、ヘイゼルが勇気を出して口をひらこうとしたのと、アスランが無言で踵を返したのが同時だった。
──おやすみ。
最後にそう言ったような、言われなかったような。
背中を向けてアスランは歩いていく。
そしてその背中にヘイゼルは声をかけることができないまま、彼は立ち去り、その扉は重々しく閉まってしまった。
ヘイゼルはというと広い部屋にひとり残され、呆然としている。




