6章 地図とまち針の夜 3
ジャジャがそばに来たのを見て、オーランガワードの国王であるイアン・ウィービング王はおや、という顔をした。
40代も後半にさしかかり、天然のストロベリーブロンドにも白いものが混ざっているけれど、まだまだその眼光は鋭い。
「そなた、なぜここにいる」
「僕は王家の近衛ですから。不思議でないかと」
「王宮のどこにいようと自由だと言ったはずだが」
たしかに、ここへ到着するなりそう言われた。
そしてジャジャはそれを、ヘイゼルについていてよいと解釈したのだ。
「わしは、そなたが第五王女であったものに会いたいだろうと思って連れてきたのだが」
「お気遣い感謝します」
だがこの王が親切心だけでそんなことをするとはジャジャも思っていない。
そうすることで確実に、自分に有利な何かが生じるからのことだ。
(それも込みで、僕もこの話に乗ったわけだけど)
ジャジャは王の足元に膝をついて、顔を伏せたまま言った。
「御本人のたっての願いで、僕は今、ここにいます」
「なんと?」
「近衛であるからには陛下をお守りするように、とのお言葉でした」
言われてみればその通りなのだった。
王はジャジャのほかにごく数人の近衛しか連れていない。旅を共にしてきた兵士たちは離れたところに部屋を与えられている。有事の際に王を守る人間が少なすぎるのは確かだった。
ジャジャは非礼を承知で顔をあげると、まっすぐ王の顔を見て進言した。
「お願いです。腕の立つ人間をもっとお連れ下さい」
「お前では役不足だと言いたいのか」
「僕程度ではなくて、です」
「……考えておこう」
王は表情を動かさなかったが、一応は、ジャジャの進言を受け入れたようにそう言った。
◇◇◇
ドゥンガラはほどなく、馬二頭を手に入れてきた。
ヘイゼルも動きやすい格好に着替えて馬を見にいく。
時刻は夕暮れ、空は薄闇を帯びて、そろそろ城門が閉まる時刻だった。
かわいい顔をしてる、と馬を見るなりヘイゼルは思う。
一頭は栗毛で、もう一頭は葦毛のぶちだった。
よろしくね、と首に手を当てても馬はおとなしくしている。さすが王宮の馬だけあってどちらもよく手入れされていた。
「城門の兵士とも話はつけてきたからよ、すんなり出られるぜ」
「あなたって本当にすごい」
「いやいや」
「帰ってきたら、どうしてそんなにすごいのか聞かせてね」
「ん?」
ヘイゼルは、自分も当然一緒に行くつもりのドゥンガラに手のひらを差し出した。
「さっきの地図、ちょっと貸してみて」
「おう」
あっさり渡された地図を、ヘイゼルはたたんで胸の内側にしまい込んだ。
ドゥンガラは馬の支度を終えて大きく伸びをしている。
「なんかあれだな! やっと俺の出番がきたって感じだな!」
ストレスをためていたのは彼も同じだったらしい。
ヘイゼルは心の中でごめんなさいを言う。
「長かったなぁ。まあこういうことなら俺は得意分野だから。期待してくれて構わねえよ」
「あのね、ガラ」
「うん?」
「ガラは今回、お留守番よ」
「なんで!」
ドゥンガラは細い目をかっぴらいた。
「俺は最近、留守番って言葉が大嫌いだよ!」
「それは私も同じだけど」
「本気で言ってるのか」
ヘイゼルがうなずくと、ドゥンガラは真顔になる。
夜だぞ。うん。危ないのはわかってるよな。うん。夜なんだぞ。うん。
「一本道だし……それほど長い距離でもないから、無事に帰ってこられると思うの」
「あのなあ……」
「ブルーデンス王女も、連れて帰ってくる」
いやそうじゃなくてだな、とドゥンガラは眉間にしわを寄せた。
「そもそもあんた、そんなに馬の扱いうまくないだろうっ」
「それを言われると、なにも言い返せないわね……」
だけど、とヘイゼルはドゥンガラの両手に自分の手を重ねた。
「ガラには、一緒に来るよりももっと大事なことをお願いしたくて」
「んっ?」
「私が部屋にいないことが、万が一にもばれてはいけないの」
ヘイゼルはつかんだ手にそっと力を入れる。
ガラの太い前腕が、わずかにひるんだのが伝わってくる。
なんかやな予感がするんだが、とその顔に書いてあった。
「あなたにしか頼めないのよ、ガラ」
◇◇◇
「あらヘイゼル様、おやすみですか?」
まだ早い時間だというのに、既に明かりが落ちていることに気づいて侍女が控えめに声をかける。
「……ええ」
「もう今日は休まれますか」
「ええ」
ですか、と侍女はひと通り部屋を見回って、減っているものを足していく。
枕もとのランプは消えていたが、油が残り少ないことに気づいて継ぎ足す。
ヘイゼルのベッドはこんもりと盛り上がって、顔は見えない。
「なにか御用がありますか?」
「な……ないワっ」
「では、失礼いたします」
侍女が出て行ったのを確認して、ドゥンガラはがばっとベッドから飛び起きた。
「ああ緊張した、ああ緊張したあ……あああ緊張したあっ!!」
その額には汗がだらだら流れている。
「俺は……絶対にもう二度と裏声なんて使わねえぞ」
かつてこんなにも緊張したことはなかったと、彼はのちに語った。
◇◇◇
城門を出てしまうと、あたりはすぐに暗くなった。
左右にあるのは広々とした畑ばかりだ。歩いている人はなし、明かりもなし。
ヘイゼルは胃のあたりがきゅっとこわばるのを感じて、馬の手綱を強く握りしめた。
ブルーデンスが閉じ込められているドラモントまでは一本道で、迷う心配がないのが幸いだったが、知らない道を、暗くなってから女ひとりで進むというのがすでに普通のことではない。
ヘイゼルは前だけ見てひたすら馬を走らせた。
そうしなければ、後ろからやってくる恐怖に追いつかれてしまいそうだったから。追いつかれてしまったら、進めなくなりそうだったから。
(怖い……)
明かりひとつない暗闇である。どこまでも果てしのない闇だ。
しばらくすると目は闇に慣れたけれど、だからといって恐怖心にも慣れるわけではなかった。
(私、本当にちゃんとできるかしら……)
もし失敗したら、なにもしなかったよりもさらに悪い結果になることは目に見えている。
(……いいえ)
ヘイゼルは馬の上で小さく頭を横に振った。弱気な考えを振るい落とすように。
(私が行かなくては、彼女はひとりきりじゃないの)
自分にはアスランがいてくれる。ドゥンガラも。
だがブルーデンスがつらい時そばで守ってくれる人は、誰もいない。
(そして今の彼女の気持ちが……私にはわかる)
ヘイゼルはかつて、母国の王宮で拷問部屋に入れられたことがある。さらには、北の塔に軟禁されたことも。あの時どんなに不安で心細かったか、ヘイゼルは今もはっきり覚えている。
(──同じ思いはさせない)
思い出せば、ブルーデンスの第一印象は決して良いものではなかった。それがなぜか、今ならわかる。
(嫉妬だった……)
最初、ブルーデンスとアスランが並んでいるのを見たとき、どうしてあんなに腹が立ったのか。
あれは嫉妬だったのだ。
ブルーデンスはあまりにも、自分と真逆に見えたから。
王女とはこうあるべきだと、見せつけられた気がしたのだ。
(王宮で育っていないことに……私って、思いのほか、引け目を感じていたんだわ)
だけど、今ならわかる。
コンプレックスがない人間などいない。
誰だって、いくつもの人生を同時に歩むことなどできないのだから。自分が生きてきた人生のぶんしか知らないのは当たり前だ。
(でも、引け目を感じる必要なんてなかったんだわ)
補ったり教えたり、または教わったりすればいいだけの話なのだった。
いつだったか、ドゥンガラも言っていた。
私はなにも知らないとしょんぼりするヘイゼルに、知らないことは恥ではない、これから知っていけばいいのだと。
(もし私が、王女として何不自由なく育っていたら……こんなことは多分できていない)
だからそれでよかったのだ。
この勇気は、きっと、森で育てられたから出せるものなのだ。
(引け目がない人間なんていないわ……)
知らないことは、教えてもらえばいい。
その時もしも自分からも与えられるものがあって、相手がそれを喜んでくれたら、教えあう関係は一歩進んで友情になるかもしれないのだから。




