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5章 笑わない王女 3

 それなら、とブルーデンスはいくぶん背筋をぴしっと伸ばした。


「ひとつ、お教えすることがあります」

「はい」

「あなたはもっと、手に気をつけたほうがよろしいわ」

「手?」


 ヘイゼルは自分の手を見下ろした。

 なんの変哲もない、見慣れた手だ。


「こんな物言いをするのは気が進みませんけれど……労働階級の人間の手というのは、どうしても荒れているものです」

「確かに」


 森でガーヤが床掃除をしているところをヘイゼルは思い出していた。木桶に水をくみ、ブラシを水で濡らし、床に膝をついてごしごしこする。ヘイゼルが手伝おうとしても、ガーヤは頑としてやらせなかったものだ。


 ガーヤはもともと労働階級の人間ではないが、森で暮らしている間ずっと、彼女の手は日焼けしていた。


「ドレスを変えても、手はごまかせません」


 見て、と言ってブルーデンスはテーブルに身を乗り出し、自分の手とヘイゼルの手を並べてみせた。

 そうしてみると明らかに違いがある。

 ヘイゼルと比べて彼女の手は白くしっとりと柔らかで、潤いがあるのだ。女同士なのに思わずさわってみたくなる。


「シミや傷跡がなく、よく手入れされた手というものは、それだけで上流階級であることを示すものなの」

「なるほど……手入れをする余裕があることを暗に示すのね」

「そういうこと。爪もよ。やすりで磨いて整えるの。つやも出ます」


 ずっと昔からこの国は、美しくあること、洗練されていること、豊かであることなどを武器に周辺諸国と渡り合ってきたのだとブルーデンスは説明した。


 ことに王族や貴族はそうで、最高の贅沢をしてきらびやかに過ごすことが国力の証として諸外国への牽制になるのだと。


「見た目のごくごく小さなところで人を判断するなんて、ばかげていると思いますけど……あなたも今後諸外国へ招かれる機会があるのなら、覚えておいて損はないと思ったのでお教えしました」

「ありがとう……でも手に気をつけるって、どうやって?」

「こまめにクリームを塗るんです」

「……はい」


 当たり前でしょうという口調で言われて、ヘイゼルは心なしか小さくなった。

 たしかに砦で暮らしてからというもの、あまりそういうことには気をつけていなかったかもしれない。


「ドレスや宝石類は、財力さえあればすぐにでも手に入れられます。ですが肌の美しさというものは日々の積み重ねでしか手に入れられないもの。あとそれから」


 ひとつ教えると言いながら、ブルーデンスは勢いがついたのか次々と話し続けた。

 日常を過ごすにはなにも困らないけれど、王族や貴族たちと付き合うならば確実に見られるであろう、そんな部分を、いくつもいくつも。


「……どうして笑ってるの」

「えっ私笑ってたかしら?」


 ヘイゼルは笑顔のままで聞き返した。

 ブルーデンスはけげんそうに首をかしげる。


「……楽しいの?」

「楽しいわよ、もちろん!」

「変わってるって言われるでしょう」

「言われるわ!」

「……あとで、手に使う専用のクリームをお分けするわね」

「嬉しい!」


 ヘイゼルは胸の前で両手を握った。


 ツツピー、ツツピー。どこか遠くで小鳥が鳴いている。

 小鳥が美しい声で鳴きかわすのを聞きながら、ここに来てよかったとヘイゼルは思った。


◇◇◇


 あんまり話したので、ポットのお湯が切れた。

 ブルーデンスは侍女に合図して新しいのを持ってこさせてから、少し改まって言った。


「まだ内々の話なのですが」

「ええ」

「舞踏会がひらかれます。十日後に」


 きょとんとしたヘイゼルに、もちろんあなたも出席するのよとブルーデンスは念を押す。


「招待状は今日にでも届くと思われます。……それで、言いにくいのですが、その時のドレスは、前回とは違うものを着たほうがいいと思って」

「別の?」

「お父様とのすれ違いがあったでしょう。あなたのせいではないとはいえ、あのドレスにはあの時の印象がついてしまっている」

「なるほど……」


 ついさっき、ブルーデンスに教わったヘイゼルはもうドレスと夜会にまつわる暗黙のルールを了解している。


 たとえば、同じドレスを何度も続けて着るのは招待してくれた相手への非礼となること。夜会の主催者が別の人間ならその限りではないこと。招かれた立場なら、当然ドレスは借りてもよいこと。もしどうしても同じドレスを着る場合は髪や宝石を別のものにすればよいことなどを。


「ドレスは、たとえばどなたに借りるの?」

「年頃が同じで身分も近い人が貸すのが普通ですから、この場合はわたくしということに」

「借りてもいいの?」

「もちろんですわ」

「光栄です」


 ふたりは幾分芝居がかった口調で言いあった。

 あぁよかった、とヘイゼルはお茶のカップを両手で挟んで口に運ぶ。

 その瞬間、ブルーデンスの指摘が飛ぶ。


「カップは両手で持たないと先ほど申し上げました!」

「あっ」

「赤ちゃんですか」

「はぁい」


 叱られたのになんだかうれしい。なぜだろう。

 ヘイゼルは習った通り、指先で優雅にカップのハンドルを持ち直すと、いたずらっぽくエメラルドの瞳をきらめかせた。


「ねぇねぇ、私も気がついたことをひとつ言っていい?」

「どうぞ」

「あなたは今日、一度も口ごもっていないわ」


 あっ……。とかすかな驚きの声が彼女の口からもれる。自分でも気がついていなかったらしい。

 ブルーデンスが沈黙したので、ヘイゼルは言い直した。


「ごめんなさい、言わないほうがよかった? いやだった?」

「いえ……自分でもなぜなのかしらと思ったのです。もう何年も会話が不自由だったのに」

「何年も?」

「ええ」


 その言葉を聞き、ヘイゼルはちょっと考えた。


「あのう、いつからですか?」

「……11歳の時です」


 聞いてもいいのかしら、と前置きしてからヘイゼルはさらに訪ねた。


「いったい何があったの?」

「知識など必要ない、見苦しいと言われました」

「誰に」

「父にです」


 ブルーデンスは当時のことを思い出したのか、唇を噛んでうつむいた。


「お話してみて」


 無理にとは言わないけど、と案じ顔で言うヘイゼルに促されて、ブルーデンスはぽつりぽつりと話し出した。


 それまではなにをしても、誰からも聡明な王女様だとほめられていたこと。年のわりには難しい本も読めていて、王女としての勉強をするのも好きだったこと。


「社交も好きで……本当は出られない年齢でしたけど、夜会などにもちょっとだけ顔を出させてもらって、皆様にご挨拶したりもしていて。そしてそれを、母も家庭教師も喜んでくれていて」


 ヘイゼルはうなずきながら聞いている。


「ち、ち、ちち……父も、褒めるまではいかなくとも、嬉しそうにしてくれていて」


 想像してみる。

 将来は美人になることが約束された顔立ちの、はつらつとした無邪気な少女。お行儀がよく、聡明で、大人の中に混ざることを許されていた少女のことを。

 そんな娘が自慢でないはずがない。


「でも……11歳の時、突然言われたんです。頭の良さをひけらかしている、見苦しい、って」


 それ以来、父が自分を見る顔つきが変わったのだとブルーデンスは言った。


 控えめにしていたら、陰気。

 明るくふるまったら、わきまえがない。

 怒らせないように気をつけていたら、人の顔色を見て小賢しいと。


「なんですかそれ」


 ヘイゼルはあきれた。11歳の娘に言う言葉ではない。

 それ以前に、それは単なる言いがかりではないか。だってどんな美徳だって、悪く言おうとしたら言えてしまうのだから。

 彼女が完璧にふるまったとしても、悪く言う人は言う。たとえば『隙がなくてかわいげがない』といったように。


「それはひどいと思うわ」

「兄にはもっと言われました」


 まるで他人事のように淡々と、ブルーデンスはかつて自分にかけられた言葉を繰り返した。


 女が勉強などしてなにになる? 大国の王女など政略結婚の道具でしかない。お前はしょせん価値のある子どもを産む道具だ。お前を誉めている人間は、王女に媚を売りたくて言っているだけだ。真に受けて恥ずかしいやつだ。


「なんてこと、ひどい」

「でも事実、政略結婚の道具ではあります」

「だからって、その年の子どもに言うことではないわ」


 それに、事実がひとつまみ含まれているからといって、他もすべて事実だとは限らない。


「それから、うまく話せなくなって……」

「お兄さまとは、年はおいくつ違うんです?」

「3つです」


 ヘイゼルは少し考えてから言った。


「現在のカルマ殿下は、お父様のお気に入りのようですけど、それは以前からだったのですか?」

「いいえ。むしろ兄は妾腹であるということで、あまり父は興味を寄せていなくて」

「お気に入りになったのは、いつごろから?」

「ちょうどわたくしが見苦しいと言われたのと同じ……」


 自分で語りながら、ブルーデンスは何事かに気づいたらしい。

 怖いほど真剣な顔つきになって語尾を弱めた。


「その辺に、なにかがあるんじゃありません?」

「兄は翌年、第一王位継承者として公式に認められました」

「そうなるための布石を打った。自分が王位継承者になるために邪魔な相手をあの手この手で攻撃した。私にはそう見えますけど」

「──そんな、まさか……でも」


 と口では言いつつも、ブルーデンスの表情はみるみる色を変えていく。


「では言い方を変えましょう。もしあなたなら、聡明な王女のことを見苦しくて小賢しいと思いますか」

「いいえ」

「もしもあなたと同じ目に遭っている人がいたとしたら、あなたならなんて声をかけます?」

「あなたは悪くない、と……」


 他人のこととして置き換えてみたら、一瞬で理解できた。


 正当な王妃から生まれたその国の第一王女。足が悪いけれど聡明で、明るくて、人懐こい。そんな王女が責められる部分などどこにも見当たらない。


 考えられるとしたら原因はひとつだけだ。


「賢すぎて……脅威だと思われた……?」

「だと思いますけど」


 ブルーデンスは、頭の中に漂っていた暗くて重たいものが、晴れていくのを感じていた。

 ずっと自分を責めていた。どこをどう直せばいいのかわからなかった。

 でも、そう考えるとすべてがつながる。


 ある日突然、父の傍に侍ることを許されるようになった兄。そこからあっという間に自分は疎まれるようになって、なにをしても否定され、黙殺された自分。


 友人など作らなくてよいと言われたのはなぜ?

 やさしかった母と隔てられて、なかなか会えなくなったのは?


(そしてわたくしは言葉が出ないようになって……笑えなくなって……)


 自分は、誰にも助けてもらえないよう、意図的に隔てられていたのだった。


「もう一度聞きますね、ブルーデンス殿下」


 ヘイゼルの声がやけにはっきり聞こえる。


「あなたと同じ立場の人がもうひとりいたら、あなたはなんて声をかけるんですか」

「あなたは、悪くない」

「もう一度」

「悪くない……」


 悪意を持って狭くて暗いところに追い込まれていたのだ。そのことに今、やっと気づいた。


「ヘイゼル王女」

「はい」

「わたくし」

「──おそれながら、王女殿下」


 ブルーデンスがなにか言いかけたその時だ。


 離れて見ていた侍女のひとりがそっと音もなくやってきて、彼女に声をかけた。

 ブルーデンスははっとして振り向く。


「そろそろお召し替えを」


 話に夢中になっていて、ふたりとも気がつかないでいた。

 もうすでに太陽は傾きだして、夕暮れが近づいてきていた。

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