5章 笑わない王女 1
「じゃあタタール、お願いね」
「確かに承りました!」
アスランへの手紙を書き終えると、ヘイゼルは小姓のタタールを呼んだ。
彼はなぜだかヘイゼルにものを頼まれるのがうれしくて仕方がないらしく、目をきらきらさせてその場に膝まづく。そんなことしなくていいからと何度言っても、気がすまないらしい。
「命に代えても必ずお届けいたします!」
「そこまで思いつめなくて大丈夫……長旅になるし、気をつけて安全に帰ってきてね」
「ありがたいお言葉!」
少年は手紙をトレイに一度のせてから、さらにハンカチを使ってそれを胸元にしまった。直接触れるのもおそれおおいということらしい。
昨日から一転して快晴になった空をヘイゼルは見上げる。
昨晩の風がすべての雲を払ったように、空は青一色だ。
「よかったわ、晴れて。昨日は風が強かったから、天候次第では出発できないかと思っていたのよ」
「どんな嵐であっても喜んで」
だからそこまで思いつめなくていいの……という言葉をヘイゼルはぐっと飲みこんだ。
「ところでヘイゼル様、僕がいない間、お手紙の取次ぎなどはいかがされますか」
「そこまではちょっと考えてなかったけど……城内には他に女官もいるし、なんとかなるかと」
「先日、バラ園で待ちぼうけをなさっていたじゃないですか。あんなことがまたあっては」
「それはそうなんだけど」
タタールは真摯な瞳で、自分に相談してくれていたらああはさせなかったと熱っぽく言った。自分が取り次いだ手紙だったから、悔しさもひとしおらしい。
「今からでもお調べしますよ、誰があなたを騙したのか」
「いいのよ、もういいの」
「今日のお茶会も少し心配です」
「うーん……」
昨日の夜、ヘイゼルのもとに招待状が一通、届いていた。
差出人はブルーデンス王女で、筆跡はごく丁寧、お詫びしたいことがあるから明日の午後、お茶に招待してもよろしいか、とあった。
お詫びってなんのことだろうとヘイゼルは思ったが、今朝すぐ返事をした。
喜んでご招待に応じます。
すると、まるでヘイゼルの返事を待っていたかのような早さで、では今日は天気がよいので庭でお茶にいたしませんか、お時間の少し前に侍女のシリンを迎えにやらせます、とかえってきたのだ。
それを思い出してヘイゼルは、大丈夫よとタタールに微笑んでみせる。
前回すっぽかされたものと違い、今回のそれはなんというか、本物だという気がヘイゼルはしている。
儀礼や建前としての招待とは少し違う気がするのだ。
「なにかあればドゥンガラもいてくれるし」
ね、とヘイゼルは横にいる彼と目を見かわす。
「では僕も、出発前に仲のいい人間にそれとなく声をかけておきます」
「ありがとう」
「どこまでお役に立てるか自信はないのですが」
それと、とタタールはどこかはにかんで、言うのを少しためらってから切り出した。肩のあたりに緊張が漂っている。
「あのっ、おいやでなければ出発前に、僕、お願いがあるのですが……」
「なあに?」
「その、お手に……」
「て?」
タタールは膝まづいた姿勢のまま、早口で言った。
「お手に口づけさせてください!」
「えっ」
「どうか!」
そんなことを言われたことがなくて、ヘイゼルは変な声を出してしまった。
タタールはというと、うつむいていてもわかるほど真っ赤になっている。
えっどうしよう、とヘイゼルは隣のドゥンガラを見上げたが、彼は彼で見たことのない顔をしている。
もともといかつくて表情がわかりにくい彼だけれど、これだけ毎日顔を合わせていたらわかる。
これは彼なりに、嫌な顔をしているのだった。
奇妙な沈黙があって、はっとヘイゼルは気づいた。
多分この少年は、こんなことを言うのは生まれて初めてなのだろう。おそらく本人も勇気を振り絞っている。
ここはどうするのが一番いいかと言われれば、やはり落ち着いて淑女らしく応じるのがいいに違いない。
「どうぞ」
せいいっぱいそれらしくヘイゼルが答えると、タタールはぱっと顔を明るくした。
少年がかかげるように両手を出してくるので、そこに左手を差し出す。
彼はまるで壊れやすい宝物のようにヘイゼルの手を受け止めると、手の甲に自分の唇をそっと押し当てた。
「──おい」
感動したようにそのまま動かないので、ドゥンガラが低い声を出す。
「あっ失礼しました!」
「いいけどよ、や、よくねえけどよ」
「申し訳ありません、胸が熱くなってしまい、つい」
「わかったからもう行け」
ドゥンガラは珍しく彼にぞんざいな扱いをしている。
タタールが完全にいなくなってから、ドゥンガラは短いため息をついた。
「すまねえな、俺はどうもラプラってやつが苦手で」
「えっ」
さらりと言われたその言葉にヘイゼルはびっくりする。
「なんていうか、俺は何人かのラプラと会ったことがあるが、どいつもこいつもまあ似たような感じで」
「えっ、えっ」
「こう……ひとり誰かを主と決めたら、まわりが見えないってのかなあ。盲目的というか、宗教的というか。自分の頭で考えないっていうか。多分そういうのが俺は苦手なんだよなあ」
なるべく偏見は持たないようにしてるんだが、いかんなあ、と頭をがりがりかく彼に、いえそうじゃなくてとヘイゼルはたたみかけた。
「あの子、ラプラなの? だって髪が白くないじゃない?」
「あれは染めてるんだろう」
「ええーっ」
当たり前のようにそんな細かいところに気がつくドゥンガラに、驚くというか尊敬のヘイゼルである。ヘイゼルも近くで話していたのに、全然気がつかなかった。
「この国は大陸でも特別、異国民への偏見が強い国だ。ましてラプラならなおさらだ。おそらく目立たないように染めてるんだろうが、根本が銀色をしてた」
「そうだったの……」
「しかもさっきのあの」
思い出したのか、ドゥンガラはもう一度嫌な顔をした。
「手の甲に口づけするあれ。あれはラプラが忠誠を誓うときのしぐさだ。アスランもサディークにされてたのを見た」
「そうだっけ」
あれがまたいやで、とドゥンガラは細い目をいっそう細くした。
「だいたいラプラはあの線の細さで、俺の打ち込みを普通に受けるんだぞ。なんかずるいだろ、そんなの」
「うーん」
「そういうのをあっさり血筋とか部族のせいにされたくないもんだよなあ」
なんとも言えなくて、ヘイゼルは苦笑いを返した。
ともかくタタールは使いに出したのだ。
アスランのいるレプティマグナ鉱山までは急いでも丸一日はかかる。その間、否応なしに少年は戻ってこられない。だからいいことにしましょう、今のところは。
そういった内容のことをやんわりと言うと、ドゥンガラは心なしか背中を丸めて隣の部屋に戻っていった。
「少し俺も落ち着くよ……すまんかったな姫さん」
どうやらあんな子どもと言ってもいい相手に、つっけんどんな対応をしたことで自分を責めているらしかった。
(さてと……)
彼の分厚く広い背中を慰めるようにぽんぽんしながら見送ると、ヘイゼルは気持ちを切り替えた。
(これで、ひとまずやることは済んだんだわ)
あとは平穏に、ここでアスランの帰りを待つだけだ。
何事もなければ。




